眠る君に花かんむりを   作:K-Knot

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暴力による救済

 Dear Snow

 

 このことを伝えないのは君への義を欠くと思い、メールしている。

 君の献身のおかげで我が国の経済は安定し、近頃は内戦やテロもすっかりなくなった。経済の安定は国の安定だと話した君は間違っていなかった。

 だが未だに多くの兄弟たちが我らの元に戻りたがっている。まだまだ沢山の兄弟たちが欧米諸国が決めた国境の向こう側にいる。

 これは未曽有の亡命として受け止められるだろう。隣国との武力衝突、欧米諸国からの介入は避けられないだろう。

 そのための準備は君とナハ―スのおかげで整った。今までグジェールは内戦で傷ついたが、これから受ける傷は我らに成長の機会を与えてくれるはずだ。

 いつか兄弟たちと一つになれたとき、またグジェールに来てくれ。君に送るメールはこれが最後かもしれないが、元気でいてくれ。天才よ

 

 

 

 

 

 ××にとって、いい意味で大きな誤算だったのが、グジェールの民の義理堅さだった。

 マイナーな宗教を信仰する彼らだが、その教理の中には10の恩には11の感謝を示せとある。

 悪意があったとしても彼らに莫大な利益をもたらし、その目的のために大きな貢献をしたことは間違いなかったため、メールを通して交流は続いていた。

 交渉していたのは自分なのに、烈がうるさかったせいで彼らは自分もひっくるめてSnow(須能)と呼んだが。

 

 とうとう戦争にまで火を付けてしまった。

 グジェールが攻め込んだ隣国は石油の原産国であったため先進各国に衝撃を与えた。

 欧米に開かれた資本主義の海洋国家へ仕掛けられた戦争に対し、アメリカおよび中露が介入し瞬く間に複雑なイデオロギー闘争となった。

 それと同時期に××は八十八銀行の役員と反社会勢力の繋がり、インサイダー取引、マネーロンダリングの証拠の全てを匿名で馬喰に送った。

 もちろんそれだけで済ます気もなく、馬喰が半グレを操り殺人さえも隠ぺいしていた証拠も財務省と繋がりの深い国会議員に送った。 

 もうどうでもよかった。未亜菜の死は最低限残っていた良心すらも消し去り、××は完全に悪と混沌の化身となっていた。

 表も裏も、秩序と呼べるものを全て破壊し奪い去っていく。仁英会・伯西会・マル暴・CIA等々、秩序を守る側だった者達が、隠す気をなくした悪意に同時に気が付いた。

 ある国をテロリストの巣にして戦争の原因を作り、大量の武器と覚醒剤を流し日本国を堕落させた男の存在に。

 

 数か月もしないで国際手配されるだろう。 

 その前に暴力団に捕まって殺されるか、警察に捕まり死刑となるか。

 もう本当にどうでもよかった。

 

 

********************************************

 

 

 日本には6000を超える無人島がある。

 それは地理の教科書上の話であり、実際には不法に人間が暮らしている島、闇の住人たちが拠点としている島も多数あると言われている。

 この島もその一つだった。表向きはリゾート開発を主とするペーパーカンパニーに買い取らせたこの島には数百億円分の違法薬物、兵器、そして死体が眠っている。

 やろうと思えばここにあるものだけで小国をひっくり返すことすらも出来る。

 

「ボスゥ、次はどうするんです?(笑)」

 

「……さぁな。今考えている」

 希死念慮に支配されて痺れる脳が映し出すのは、この巨大倉庫の扉を蹴破り特殊部隊がなだれ込んで自分を射殺する光景だった。

 怒り狂った暗殺者でもいい。死神でもいい。最早自分でも自分を止めることは出来なくなってしまっている。

 

「……なんか焦げ臭いですね」

 

「火事か? なぜ……?」

 倉庫の外で火事でも起きているのだろうか。火の元などないのに。

 今にも雪が降ってきそうな程の寒さと矛盾するような臭いだった。

 

「……なんだ?」

 説明を求められれば何となく、としか言えない。

 とにかく、なんとなく扉の方を見た。そして1秒後には何かが来るという確信に変わった。

 ××が恐れていたものが、あるいは最も望んでいたものが。

 

「烈君ですか? 何をしているんです?」

 ドアノブがゆっくりと回るが当然鍵がかかっている。扉の向こうの人間があくまで落ち着いていることを示すように、もう2度ほど回ったあとだった。

 

「!!」

 鍵が内蔵されている部分を突然貫いたのは、どう見ても人の指だった。

 破壊された鍵が××の足元まで転がってきて、扉は錆びついた金属音を立てながら開いた。

 

「あと二人……」

 入ってきたのはフードを被った大男だった。

 頭を屈めながら入ってきたことから推定するに、判田より一回りは大きい210cm以上、体重も恐らく120kgはある。

 フードを取ったその男の顔つきは想像よりも遥かに若く、まだ17,8くらいのように見える。

 だが身体の大きな少年がやってきた、という言葉で済ませられるものではないと本能で感じる。

 山で熊にぱったりと出会ってしまった人間が思考停止して動きが止まるという話も今なら理解が出来る。

 確実な死が意志を持って目の前にやってきた時、人間は動けなくなり走馬灯を――――

 

「烈……!? 何をしている!?」

 見えたのは扉の向こうで転がっている烈だった。額にライフルで撃たれたかのような穴が空いており、この距離から見ても死んでいるのが分かる。

 だが銃声など聞こえなかった。争う声も音も全く聞こえなかった。下手な格闘家が5人いても勝てるような暴力の塊が無音で死んだのだ。

 そこまで考えてようやく、少年の指先から血が滴っていることに気が付いた。

 あまりにも馬鹿げているが、鉄製の扉を貫いたあの指で、烈を一撃で殺したのだ。

 

「あかん、即詰みですわ(笑)」

 

「は?」

 

「あたしと烈君が飛車と角なら、あの子は……殺戮の天使。あの子がここに歩いてくるまでの時間があたしたちの余命です」

 

「何を言ってやがる」

 まだこちらを見ているだけの少年は、余裕たっぷりにハンカチで指先の血を拭っている。

 今なら――――と懐に手を伸ばす。

 

「撃ってみろ」

 

「!?」

 これでもそれなりの人数を殺してきた裏社会の人間だ。

 気取られるような殺気も漏れていなかったはずなのに、少年はこれからの××の行動を言い当ててやってみろと言った。

 

「ボス。彼は『詩群 理(リオ)』です」

 

「ウタムレ……リオ……あのガキか……」

 数年前に埼玉の片田舎で大量殺人事件が起きた。

 未成年による犯行だったため加害者の名を含めて警察は詳細を明らかにしていないが、恐らく日本国民のほとんどがその犯人の名前を知っている。

 

 日本武道界の麒麟児、馬喰廻斗による求道会館トーナメントの連覇で嶺狼流の名は世界中に轟いた。

 日本最強の武はここにあり、と。そして彼が最強の中学生から最強の高校生になった時に、同門の嶺狼流から出てきたのが詩群リオだった。

 規格外の体格と圧倒的な武で日本最強の中学生の座に上り詰め、いよいよもって嶺狼流の名を知らない者は日本にいなくなった時、事件は起きた。

 

 嶺狼流、そしてその年求道会館トーナメントを荒らしまわった慈胡流の壊滅だった。

 慈胡流の師範・弟子および馬喰廻斗ならびに嶺狼流当主の子供が全員『素手』で殺されたのだ。

 嶺狼流の当主も重体の状態で発見され、事件の中心人物だった詩群リオは15歳にして行方不明となっていた。

 

 当然、未成年であるため詩群リオの名は隠され少年Rとして報道されたが、元々が有名人だった上に古流武術同士の殺し合いという現代とは思えない事件は人々の好奇の目に晒された。

 暴力団が匿っている、政府が引き取り特殊部隊員として活動している、暗殺者となった等々、根も葉もない噂が流れ彼の名が風化することはなかった。

 

 日本一有名な少年犯罪者、そして恐らくほぼ確実に裏も表も含めて日本一強い男が××の前に立っている。

 嶺狼流は暴れ牛を素手で殺し、岩を砕き、人を貫く。そんな半ば夢物語の設定のような話だったが、目の前で鉄の扉を貫かれたのならば信じるしかない。

 

「判田」

 

「無理ですねぇ(涙) あたしは所詮倫理観の欠けた怪人。あの子は真っ当な暗殺術を修めた超人。怪人がスーパーマンに勝てるわきゃないんで」

 

「だからなんだ。殺せるのは弱い相手だけなのか」

 

「いやいやいや……あれに勝てる人間がこの星にいるかどうかすら」

 

「チッ」

 舌打ちと共に普通の人間ならば反応できない滑らかさで取り出した拳銃は、しかし発射されることはなかった。

 リオの蹴った鉄片が××の手に当たったのである。

 

「ボス、暗殺術って言ったでしょ。彼はただの人殺しじゃないの。仕事で殺しを引き受けるんですわ」

 

「あ……?」

 痛みで痺れる手を押さえながら判田の言葉の真意を考える。

 

「つまり。あなたの殺しを依頼した人がいるってことですねぇ(笑)」

 カツン、と場に不釣り合いな革靴の音が聞こえた。

 慌ててもおらず、かといってのんびりもしていない。既に人死にが起きている場所をリラックスして観賞しながら歩いているような音。 

 焦げ臭さは気のせいではなくなり、火が弾ける音までも耳に届き、その男は入ってきた。

 

「誰だ」

 ××と同年代くらいのスーツを着た長身の男だった。

 てっきり馬喰のような国家権力や暴力の塊でも登場するものかと思ったのに。

 ただ、その男の醸し出す空気だけは尋常の人物のそれではなかった。

 破壊と混沌を望み楽しむ者、そういった意味で××と似た種類の人間。

 蛇のような目で獲物をひとしきり眺め、男は笑った。

 

「こりゃ凄いのが来ましたねぇ(焦)」

 

「誰だ、あいつは」

 

「あれは……。『仁英会を作った男』です」

 

「バカなことを言うな!」

 今は国内外に根を張る超巨大暴力団だが、そのルーツは幕末まで遡る。

 過激攘夷派として人を斬りまくった侠客を抱え、戦後は闇市を取り仕切ることでのし上がったある意味で由緒正しい暴力団。

 その開祖が生きているはずがないし、ましてや30歳にもなっていないような若造であるはずがない。

 

「本当の事だ。仁英会は私が作った」

 落ち着いていて、それでいて魂に舌を這わすような声。

 その声を聞いてようやく男の正体が分かった。

 

「ナハ―ス……貴様……!?」

 

「これは驚いた。耳がいいんだな」

 確かに流暢な日本語を話していたが、ディギロング語やフランス語もネイティブのように話していたため、日本人だったとは想像もしていなかった。

 前から得体の知れない男だった。仁英会を作ったという言葉の信憑性はともかくとして、言ってしまえば中古の武器をあれだけ仁英会に横流しに出来た理由が今更分かった。

 この男が武器をグジェールからただ買っていたというだけの話だったのだ。だがそれでも矛盾点は数えきれないほどある。

 なぜ仁英会のシノギを潰すことになる覚醒剤の流通を止めなかったのか、そもそもなぜ損しかしないはずの抗争を止めなかったのか。

 だがそんな論理的思考をぶっ飛ばして、××はこの悪意の必然に一つに回答を得ていた。

 

「親父を消したのはお前か?」

 

「おや、あんなのでも父親はやはり必要だったか?」

 どくん、と心臓が跳ねる。ナハ―スとは何年か共に過ごしたが、家族の話など一度もしたことがないのに『話が通じている』。

 

「お母さんを殺したのはお前か!?」

 

「あれは君の自業自得だろう」

 ナハ―スの言葉そのものを否定するつもりはない。だが仮にこの男が仁英会の頂点だったとしても、三次団体の若頭の妾の死因など知るはずもない。その子供の存在など耳にすら入らないはずなのだ。

 これまでの人生全てが裏社会に滅茶苦茶にされ続け、振り回されてきた。

 ××の人生を常に最悪のタイミングで突き落とし続けた悪意の根源は。 

 家族を奪ったのは。弟を殺したのは。

 

「君も私が作った」

 

「空くんを返せ!!」

 もう答えを聞くつもりはなかった。理由は分からない。知るつもりもない。

 生まれてから今日に至るまで××を苦しめ続けてきた悪意の正体に銃を向け――――ほんの一瞬考える。

 ここは本土から離れた孤島。場所が分かったところで船が無ければ来れない。

 つまりこの場所に来ることをナハ―スは事前に知っていたのだ。それは誰かから伝えられたということ。

 誰が。

 

「お見事」

 正解だった、判田に銃を向けたのは。

 ただ、怒りのあまり遅れたその一瞬はあまりにも致命的だった。

 

「う、おぁあああ!?」

 血しぶきと共に銃が地面に落ちる。まばたき一つ前まで銃を握っていた右手は今や手首の皮一枚で繋がってる状態となっていた。

 引き金を引くよりも速く判田が振るったナイフが××の手を斬ったのだと認識する前に、判田はかろうじて繋がっていた右手を引きちぎった。

 

「文字通り、手を切るってヤツですね(笑)」

 

「貴様……最初から!!」

 

「…………ボス。あなたにはあたしの過去を話したことがありませんでしたね」

 がしゃがしゃと音を立てるリュックを降ろして開いた判田が、中に手を入れた。

 出てくる、出てくる、包丁ノコギリ千枚通しノミ鋲ヤスリ鉈クギ――――数々の拷問器具。

 それらを押しのけて判田が取り出したのは、一本の刀だった。

 

「……!?」

 今更刃物の一つや二つで縮こまるはずもないのに、その刀を見て何故か本能的に後ずさる。

 危ない、怖い、ではなく『あれはマズい』と感じるのだ。

 

「あたしはとある剣術家の一人息子、跡継ぎでした。おそらくは、歴代最も才に恵まれ、最も愚直だった。こんな時代に役立つとも分からない人斬りの技術を一心に磨き続ける程に」

 見る見るうちに燃え広がっていく炎の中で判田が抜いた刀は、まるで水が滴っているかのように美しかった。

 リオは炎に囲まれながらもこちらを注意深く監視し、ナハ―スは笑みをたたえながら始まろうとしている処刑を見守っている。

 

「実家にあったこの刀を、この妖刀を手にした日、愚直な剣術家の跡継ぎは死にました。そう、刀に人生を乗っ取られてしまったのです。鬼を切れ、鬼を切れと囁くこの刀の名は鬼切丸。またの名を髭切」

 馬鹿なことを言うな、と手を斬られていなければ、あるいはそれを目の前で見せられていなければ言っていただろう。

 鬼切丸といえば京都の北野天満宮に奉納されている重要文化財ではないか。本物であるはずがないと強がりでも言えることが出来なかったのは、輝く刀身が罪を曝け出すかのように××を睨んでいるからだ。

 切断面から噴き出し続けていた血が止まり凍り付いた。

 

「うふふ……血が凍っていますねぇ、やはりあなたは人間じゃないですねえぇぇ(笑) 鬼切丸、ようやくですよぉ」

 判田が手のひらの上にただ乗せたその刀は、物理法則が正しく働いていれば地面に落ちていたはずだった。

 だがそうはならず、何かの力が働いて判田の手の上でバランスを取りその切っ先を××に向けている。

 

「ようやくあなたを切り刻める」

 騎乗した鎧武者たちが戦塵巻き上げぶつかりあっている。終わらない争いの中で命を散らし合っている。

 こちらを標的と定めた一体の武者が荒れ馬の腹を蹴り向かってくる。

 

「っ!?」

 妖刀の魅せる幻夢に連れていかれそうになりながらもなんとか判田の一振り目を左腕で防ぐことが――――出来ていなかった。

 まるで豆腐のように腕を切断し切っ先が胸を切り裂いていく。肋骨を切断した鬼切丸は肺を大きく傷付け、まるで絵物語のように口から血が飛び出た。

 

「『燕返し』」

 ナハ―スの声により、死を前にして人生で最も高速回転している脳が記憶を検索し答えを出す。

 燕返し、それは一振り目ではなく返しが本命――――気付いた時にはもう遅く、返す刀が××の腹を深くえぐり腸が引きずり出された。 

 零れ落ちる臓物を止めようにも既に両の手はない。返り血を浴びて真っ赤になっているはずの判田は何故か血の一滴もついておらず、全ての血は鬼切丸に吸われていた。

 燃え上がる炎が倉庫内の数百億円分の禁制品を灰にしていく。奪い去られていく。

 

(奪われる! 全てが、俺が築き上げた全てが!!)

 もう捧げる相手もいないのに、と大量出血により思考が鈍っていく頭が囁いた。

 妄信的な愛、爆発した悪意は最期に己の身すらも喰らう。次の一閃は××の首を半分ほど切っていた。

 頸動脈から噴出する血しぶきに視界が染まる。一部崩れた壁の向こうで雪を降らす空と――――世界最悪の犯罪者の死を見守る2匹の悪魔が見えた、気がした。

 

「未亜菜……」

 凍り付く血の湖のほとり、屍の山のもと、見捨てられた悪夢の、身動きもならずに、しぼりだす、最後の鈍い喘ぎのように。

 死ぬことは怖くない。痛みももうない。ただ、想うことすらも出来なくなるのが怖い。

 もう、死ぬ。泣こうが喚こうが倒れようが死ぬ。それを知って××は、いっそ両腕を広げて最後の一振りを受け入れることにした。

 ずっ、という重たい感触が肩から心臓を通過し背骨を真っ二つにして身体を通り抜けた。

 世界最悪の犯罪者の身体は完全に二つに切り分けられ、ようやく処刑は終わった。

 

「あなたは悪の華だ」

 死体となった××から噴き出る血が凍っていき、判田の言葉通り最期に真っ赤な氷の花を咲かせた。

 

「あと一人」

 リオの言葉に判田が振り向く。

 分かりやすい死刑宣告だが、そのことが分かっていたかのように判田は笑った。

 

「なるほど、用済みって訳ですか。あなたに20年も仕えてきたのに(涙)」

 

「ご苦労だった。彼の後を追うといい」

 ××に限らず、烈も判田も元々助からない状態だった。

 好き放題やらかし裏社会からは到底命ひとつでは足りない恨みを買っている。 

 ここで生き延びたところで、その先がないことは明らかだった。

 

「リオくん、久しぶりだねぇ。いやぁ、大きくなったもんだ」

 

「おっさん……」

 

「おじさんは悲しいよ。かつては天皇の御楯とまで言われた流派が今やヤクザの用心棒とは!」

 

「…………」

 

「君に会ったら聞きたいことがあったんだ。例えば……廻斗くんはどんな風に死んだのか、とか」

 血みどろの処刑を見ていても眉をぴくりとも動かさなかったリオの額に青筋が浮かび上がる。

 ここで死ぬことを悟った判田がリオを怒らせようとしていることは明白だった。

 

「ボスは死んだ。あの悪は永遠になった。きっと地獄で立派な悪魔になっているだろうさ。リオくん! 君もせめて美しいまま死んでくれ」

 

「裏切って五分でまた裏切るのか。俺も善人じゃないが……反吐が出る」

 鬼切丸を鞘に納めた判田がリオに近づいていく。

 摺り足で移動する居合い抜きの構えだが、その移動速度は普通に走る速度よりもなお速い。

 対するリオが取ったのは空手の構えの一つ、前羽の構えだった。空手で日本一となった男ではあるが、刀を持った相手にする構えではない。

 文字通りの空手の相手に向かう鬼切丸に、リオの手が触れた瞬間だった。

 

「うっ!?」

 回転する鬼切丸が垂直に打ちあげられ天井に突き刺さる。 

 刀を手で弾いたなどという低レベルな防御ではなく、何故か攻撃した側の判田の腕がねじ曲がっていた。

 手首は曲がり、肘関節は砕け、肩の骨が外れてしまっている。

 

「廻斗はあんたのことを捕まえたがっていた。遺志を継ぐ訳じゃないが……せめて俺があんたを殺してやる」

 

「か……廻斗くんの技……盗んだのか……――――!」

 脂汗を流しながらも言葉を紡ぐ判田が次の一手を探っている最中、突如として判田の首から血が噴き出た。

 

「つッ、啄烏か!!」

 判田の言葉通り、嶺狼流は極めて長い歴史を持つ殺人拳だ。当然、平和な日本で行われる武道大会では使えなかった技がある。

 嶺狼流・啄烏(ついばみからす)もその技の一つ。指一本で逆立ち腕立て伏せを行えるほどに鍛え抜かれた指先で飢えたカラスの如く相手の肉を啄む技だ。

 リオが指先に摘まんでいたのは人間の肉、判田の首の肉の一部である。

 頸動脈が埋まっている部分の皮膚と肉を防御と同時に引きちぎっていたのだ。

 無事だった方の腕で判田が出血箇所を押さえるが焼け石に水にすらなっていない。

 右腕は破壊され、左腕は出血を押さえている。次の攻撃は防御が出来ない。

 だがリオがその拳を判田の心臓に打ち込もうとしたその時、天井に刺さっていた鬼切丸が抜け落ちた。

 

「あ――――」 

 その刃が向かった先は判田の首。

 鬼切丸は持ち主が己の死に気が付く前にその首を切り落としていた。

 かくして、世界を混乱させた最悪の犯罪者集団は一夜にして全滅した。

 

『なんだこれは』

 倉庫の壁の隙間から己の死に様を見ていた××は、同じ日に判田も死んでいたことに驚いた。

 利益を全く得ていない判田に何か裏があることに気が付いていた。だから地獄に堕ちた時も、自分を殺したのは判田ではないかとは考えていた。

 だが、事実は更にその上を行き、××は日本最強の男に追い詰められ、部下も含む何もかもをナハ―スに全てを食われていたのだ。

 

『何者なんだ、あの男は』

 恐らくは普通に生きていた人間であろうアニマにとって、ナハ―スの存在は不可解で仕方がないらしいが、それは××にとっても同じだった。

 死の記憶を見てようやくこの男こそが悪の道を歩むことになった原因だと分かったが、その理由が分からない。

 まだ小さい子供だった××を何度も不幸に叩き落し悪に引きずり込み、最終的に部下にするのならまだ分かる。

 しかし、はっきり言ってこの男は××の行動によって不利益しか被っていないのだ。

 考えている間に、倉庫のあらゆるものに火の手が回り始めた。この放火にしてもそうだ。

 最後に全部奪うのならばまだ理解できるが、数百億円の価値があるものを何故燃やしてしまうのか。

 ××の死により周囲の空間が色を失っていく。生きてきた期間が終わってしまったため、もうこれ以上を見る権利はないのだろうが、せめてもう少しだけ知りたかった。

 

「妖刀か。そんなもの本当にあるんだ」

 鬼を殺し主の血を啜った刀は歓喜するかのように血だまりの中で震え、まるで娼婦が尻を振るようにその柄をリオに差し出した。

 次の呪いの受け手を求め、次の鬼を見つけるために。

 

「持っていったらどうだい? 掛け値なし、本物の妖刀だ」

 

「俺は空手家だからいらない。さっさと行くぞ。雪が強くなってきた」

 

「ああ、先に帰ってくれていい」

 

「……? あんたどうやって帰るんだ」

 

「彼らの船を使う。もう少しここに用がある」

 

「……そうか」

 リオが倉庫を出てすぐに火の手は島のほとんどを包み込んだ。

 更に××の視界が薄れていく。最早ほとんどそこにある物は輪郭しか見えない。

 知りたいのはここからなのだ。ナハ―スの用とはなんなのか、何故何十年も自分を狙ってきたのか。

 ひび割れた倉庫の壁をすり抜けて内側に入る。

 

『なぜ逃げない……この男……』

 ××の死体のそばに座って動かないナハ―スの顔は、年齢的には若く見えるが、どこか疲れ果てた老人のようにも見える。

 既に炎は倉庫を完全に包み、入り口は倒壊して最早出ることも出来なくなり、ナハ―スの身体に火が付いた。

 

「一体、いつになったらお逢い出来るのですか……」

 焦げる己の肌のことも無視し、燃え尽きようとしている××の死体へ向けて、ナハ―スは悲嘆に暮れたような唸り声をあげた。

 全てが、全てが消えてゆく。××が積み上げた悪の証も、兄も裏切り者も。

 地獄へと強制的に戻される。視界が完全に真っ白になる。その瞬間、ナハ―スはいつかの日と同じようにこちらを、悪魔と化して終わりを眺めていた××を見た。

 

「ああ……ずっとそこにいらっしゃったのですね……」

 倉庫そのものが倒壊し、ナハ―スが壁の下敷きになる。

 しかし、最後の言葉は確かに××の耳に届いていた。

 

 我が女王――――と。

 

 

********************************************

 

 

 

 赤い空に黒い雲がかかり鈍色の雪が降る。

 そばを流れていた血の川には氷が張り流れが止まってしまっている。

 ××を迎えた地獄はまるで、この場所こそがお前の居場所なのだと言わんばかりに××にとって居心地のよい場所に変貌していた。

 

「…………」

 

「誰だこいつは!?」

 自分たちが帰ってくるのを待っていたのか、そこにあった人影を見てアニマが飛び退る。

 アニマも自分もかなり変貌してしまったが、『これ』も相当だ。

 歴史ある武家に飾ってある戦国時代の鎧がそのまま歩いているかのような見た目で、中身は空洞だ。

 一体どういう仕組みで立って動いているのか考えるだに頭痛がしてくる。

 

「あはっ。やっぱりボスですよね(笑)」

 洞窟の中で鍾乳石に何度も反射して響いたかのような声。

 何も入っていないように見えて中には何か不気味なモノが入っているらしい。

 見た目が変わったとしても生前と変わっていない裏切り者は、次の瞬間には無数の氷の剣に囲まれていた。

 

「判田! よく俺の前にツラ出せたな!!」

 氷の剣が次々と悪魔になった判田の足元に刺さり一寸の身動きを取れなくした。

 ××の感情に呼応し雪が強くなってくる。生前も怒ると血が凍るという異様な体質があったが、いよいよ悪魔になってその力は完全に開放された。

 

「ボス……嘘はよくないなぁ(笑) あんたは『自分を殺した男なのだから怒らなければ』と思っているだけで、本当は怒っていない。違いますか?」

 

「貴様……」

 裏切り者の分際で嘘は良くないなどとよくも口に出来たものだが、実際判田の言う通り確かに××は怒ってなどいない。

 

「あなたは終わりたかった。あたしが終わらせてあげたんですよ。そうでしょう!」

 叫びと共に氷の檻と化していた無数の剣が砕け散った。

 よく見ると、ではなく悪魔化した魂の目で判田を見ると、その背に普通では見えない何かを背負っていることが分かった。

 また変なモノを持ち歩いている――――と感想が浮かんでくるが、奇妙なのは生前背負っていた妖刀と違い、今回のそれは言ってしまえば神聖な感じすらもする。

 ここは地獄で悪魔が集まっているというのに、神聖だなんて。

 

「もういいからどっか行けよ。消えろ」

 

「そんなぁ。遠くで雪が見えたからわざわざここまで歩いてきたのに(涙)」

 

「?」

 空を見上げると今も呆れるほどに雪が降っているが、遠くの空を見ると雪は降っていない。

 そもそも雲すらもかかっていない。地獄の天候も支配していると考えると自分は悪魔でも結構上位な存在になったらしい。 

 当然のようにも思う。地獄は広いが果たして自分以上の悪がいるかどうか。

 

「そもそも誰ですか、この人。あたしの知らない人ですよねぇ(嫉)」

 

「俺も知らん。俺たちより先に地獄に来た男らしい。なんか色々教えてくれはしたが……」

 

「へぇ、へへ……ははは……先に来た男ねぇ……。何人殺したんです? 誰を殺したんです?」

 

「3人だ。家族と子供を殺した」

 

「あらら。子殺しは確かに地獄行ですねぇ。でも不思議ですねぇ」

 

「なにが?」

 

「地獄の箸の話ご存じないですか?」

 地獄と極楽で出る食事は実は同様に豪華な物が出るという有名な説話だ。

 確かに食事は同じなのだが、どちらの世界も箸が異常なまでに長いのにその箸で食事をしなければならない。 

 極楽にいる善人は互いに食べさせ合うため何の問題もないが、地獄に堕ちるような悪人は自分のことしか考えないため、その長い箸ではうまく食事が出来ず常に飢えているという。

 実際はそもそも腹が減らないのだが、判田の言いたいことは『他人にお節介を焼くような人間が悪人のはずがない』ということだろう。

 

「…………。お前も早く自分の過去を直しに行ったらどうだ」

 アニマの今の言葉からも地獄にいることが間違いであることがよく表れている。

 だが、殺したのが家族で、しかも子供まで殺しているとなれば地獄の住人となるのも致し方なしだ。

 3人とは妻と子供二人だろうか。仕事が上手くいかず無理心中でもしたのかもしれない。 

 

「うふふ……地獄で善人に会えるとは(喜) いいですねぇ、せっかくなんであたしの知ったこと教えてあげますよ」

 

「いらねえから消え失せろ」

 

「いいんですかぁ? 知りたいんじゃないですか? 例えば……『あの人』はなんだったのか、とか」

 

「ナハ―ス……」

 強がって追い払おうとしたものの、幼少期から××を不幸に叩きこんできた原因が分かった今、ナハ―スの正体を知らなければ過去と戦うことは難しいだろう。

 思考の間を肯定ととらえたのか、判田はその場に腰を降ろし話し始めた。

 

「いいですか。地獄も悪魔も妖刀もあったんだ。だから、あり得ないとか言わないでくださいね」

 

「…………」

 

「あの人はおそらく、『不老不死』です」

 

「馬鹿な――――」

 前もって戒められたばかりの言葉を言いかけて口をつぐむ。

 20年もあなたに仕えたのに、と判田はナハ―スに言っていた。あの場で口にしていた言葉は真実のはずだ。 

 しかしナハ―スはどう多めに見積もっても30も行っていない年齢に見えた。

 

「烈君がどうしてあなたの存在を知ったか……あたしがあの人の指示で烈君の部下になり、あなたの存在を教えたんですよ。まぁ、教えたその時は連れてこなかったんですけどね(笑)」

 

「じゃあ過去に戻ってお前を殺せばいいのか?」

 

「そう上手くいくと思ってるんですか(笑)」

 最初に烈が諦めたのは、その時の××が伯父夫婦に大切にされ、新しく弟が出来て心底幸せだったからだ。

 それを知ってナハ―スは××の家族を消したのだろう。過去に遡り判田を一人殺したところで手を変え品を変えナハ―スは××を悪の道に引き込もうとするだろう。

 

「一つ種明かしをしておきましょうか。伯西会の二人を拷問してバラバラにして、抗争が激化しましたね。でもそれだけで、あちらさんの仕業だと断定しますかね?」

 

「そうか……お前が元々仁英会お抱えの殺し屋だったから……」

 

「そういうことですねぇ。日本にはね、あんなにきれいに人体をスパッと斬れる人間っていないの。だから見る人が見ればわかるんですよね(笑)」

 万を超える裏社会の軍勢同士の争いは何故、自分たちの思い通りに動いたか。

 判田がそもそも仁英会から来た暗殺者だったから。元々計画されていた戦争ということになる。

 

「そしてもう一つ。伯西会を作ったのもあの人ですよ」

 

「意味が分からねえ。何の得もないじゃないか」

 ならば日本の裏社会は全てナハ―スに掌握されていたことになる。

 その均衡を崩す得も、××を引き込む理由も分からない。

 

「得ねぇ……うふふ(笑)」

 籠手の指先を器用に動かし、判田が地獄の砂に描いたのは将棋の盤面だった。

 王から始まり金銀飛車角と、戦いが始まる前の状態だ。そういえば判田は生前も要所要所で将棋に物事を例えていた。

 知るつもりもなかったが、実はそんな趣味があったのかもしれない。

 

「将棋は分かりますか?」

 

「少ししか知らない」

 

「もったいない! 頭がいいんだから、そっちの道もあったかもしれないのに! あなたもそう思うでしょう!」

 

「…………。少なくとも、その道の方がずっとマシだったな」

 地獄に堕ちてもなおごく一般的な感性を持つアニマに問いかけたのはわざとだろう。 

 相変わらずよく回る口で人を怒らせようとする。実際はもう口どころか実体がないのだが。

 

「なぜ二人の王は争うか分かりますか? 歩を進めなければ永遠に平和なのに」

 

「…………? そういうゲームだからだろう。動かなきゃつまらん」 

 

「そうだ、その視点がきっと『不老不死』の視点だ!」

 

(…………!)

 仮にナハ―スが本当に不老不死で、仁英会も伯西会も支配下に置いていたのならば、金も酒も女も全てが自由に手に入る。

 そんな状態になってしまえば、ゲームならば完全にクリアだが不老不死ゆえに終わらない。いつかは飽きが来る平和と自由。

 

「争うから物語は生まれる。美濃囲い、穴熊、四間飛車、矢倉……天才たちが争い合いしのぎ合うからこそ美しい形が生まれる」

 きっとナハ―スはとっくに積み上げることに興味を無くしているのだ。だからグジェールにいて戦争を起こそうとしていたし、抗争を激化させようとする××にむしろ協力的だったのだろう。

 だがそれでも分からないことがある。

 

「なぜあいつはそこまで俺に執着した?」

 

「さぁ、そこは本当にわかりません……」

 人格破綻者のくせに綺麗に描いた盤面をぐしゃぐしゃと踏みつぶした判田は立ち上がった。 

 既に体格は自分の方が遥かに判田よりも大きいが何故か近寄りたくない。やはり判田の背から嫌な気配が漂っている。

 

「分かった、もう行けよ。お前の場合、あの妖刀を手にしなきゃいいんだから簡単だろう?」

 

「ほう、やり直せと?」

 

「たったそれだけで人生全て狂ったんだろう。後悔はないのか?」

 兜の下の虚の空間、本来なら顔のあるべき部分が歪んだ気がした。

 あたかもヴィランの笑みのように。

 

「ないですねぇ。あたしは、確かに悪党です。刀に振り回され、訳の分からない生き物に拾われ、何十人と殺し、あなたに出会い、最後は殺された。素晴らしい人生じゃないですか! 後悔など微塵もありません(笑)」

 

「狂人め」

 

「過去を変えるってのはそんなに簡単なことですか?」

 

「あぁ?」

 

「生まれながらの悪でなければ誰にでもきっと『あの日』はある。だが、それならこんなに猶予の時間は必要ないはずだ」

 確かに××も生まれながらの悪ではなかった。悪に至るきっかけがいくつかあったが、その日は全て思い出せる。

 見に行こうと思えば簡単だが、それを変えるのは果たして簡単なことなのだろうか。

 

「きっと過去を変えるにはエネルギーが、それだけの想いが必要なんです。でもあたしは後悔していない。変えようとしても変えられない。変える気もない」

 

「…………そうかよ。よかったな、地獄に堕ちて」

 

「またあなたに逢えましたから(笑)」

 

「ならお前はその姿になるまでずっと適当にぶらぶらしていたのか?」

 心底判田の事を気持ち悪がっているとアニマが質問を投げかけた。

 どうでもいいと思う反面、その答えが判田の背中から漂う不気味な雰囲気の正体を教えてくれる気がする。

 

「そうですねぇ、ぶらぶらと他の悪魔を探したり話したりしてました。そして気が付いたんですよ、ここには紀元前の悪党もいれば、1000年後の未来の悪人もいると」

 

「……? 何……?」

 

「あなたが覗き込んでいたあれはあなたの記憶ではない。現実です。死者でありながら現実を変える力を持たされているんですよ、あなたは今。いや……あなたたちですかぁ?(笑)」

 思い返してみればなぜ父を見つけられたのか不思議だった。20年近く前に亡くなった悪党なのに。

 刑が執行されている最中だったのかと納得したが、そうではなくどうやらここは過去も現在も未来も重なった時空らしい。

 案外父にとっては刑が確定してすぐに自分が来たのかもしれない。

 

「そうなると会ってみたくないですか?」

 

「誰に」

 

「過去の! 歴史の教科書に載ってるような大大大悪党にですよ!」

 

「会いたくねえよ」

 

「そりゃあなたも歴史上類を見ない悪党ですからね、同族嫌悪ってヤツですよね(笑)」

 まるで自分は悪党ではないような言い方だ。今ここで自分に殺されてもおかしくない立場であることを忘れていないだろうか。

 しかし、地獄でも死んでしまったら次はどこへ行くのだろうか。

 

「まぁ、でも探しても会えなかったんですけどね」

 

「地獄がどれだけ広いか俺にも分からん。どこかにはいるだろう」

 

「だからそれを聞いて回っていたんですよ。誰も知らない。いないんですよ。ヒトラーが! 毛沢東が! ポルポトが! おかしくないですか?」 

 興奮のあまり鎧をがしゃがしゃと鳴らしながらこちらに近づく判田から距離を取りながら考える。

 たった、という表現もおかしいがたった3人殺したアニマが地獄に堕ちて歴史に残る大虐殺の原因がいないのは確かにおかしい。

 

「でも、その理由もやっと分かりました」

 判田が背負っていた透明な何かを手に取りこちらに向けた。

 やはり何も見えないのに、悪魔と決して交われない神聖な気配を感じる。

 アニマも樹木の表面を軋ませながら後ずさっている。

 

「なんだこれは。刀か?」

 

「これは『天叢雲剣』です」

 

「神剣だぞ! 馬鹿を言うな!」

 三種の神器の一つ天叢雲剣は皇位と共に歴代天皇に伝えられる国宝であり、2000年以上続いた王権の象徴でもある。

 それをこんな殺人鬼が持っているはずがない。持っていていいはずがない。

 だが、山羊の頭蓋骨の下の肌ですらも感じるこの不可触の神聖は、自分を殺した鬼切丸よりも遥かに悪なる者の『消滅』を示している。

 

「美しいでしょう。こんなものを一時でも持てるなら地獄に来たかいもあったというものです」

 

「なぜ……そんなものを持っている」

 

「悪魔に成り果てたあたしに言い渡された仕事……。秦で始皇帝に献上品に水銀を混ぜること、出雲国で八岐大蛇にこの剣を飲ませること」

 

「…………!?」

 どちらも子供ですらも知っている歴史的に有名な出来事だ。

 言い渡されたとは誰からなのだろう。閻魔大王、はたまた神か。

 なぜ歴史上の出来事を判田が裏から支えるのか。

 

「聡いあなたならわかるんじゃないですか。この世界の正体ってやつが」

 過去を変えられなければ悪魔に成り果て、仕事を強制される。

 そしてそれは教科書通りの歴史を影から創ること。

 

「そうか……ここは……。地獄は、世界を在るべき姿に戻すための場所。運命を壊す者を幽閉する場所か」

 元々世界の考え方には二つあった。時間と空間の連続性、バタフライエフェクトのように、過去の行いが未来に大きな影響を与えるとする考え方。

 あるいは過去の行いがどうあれ未来は決まった形に収束するという運命論。

 きっとどちらも正解なのだ。過去の行動や出来事が現在未来に大きく影響を与え、どの道人は死に至る。

 その一方で神の定めたシナリオも存在し、そこから大きく外れて地獄に堕ちた者は自らの手で歴史を修正する機会を与えられる。

 拒んだ者は悪魔となり、生者たちの世界の裏から歴史を導く運命の執行者となる。永遠の日陰者、二度と表舞台に立てない黒子として存在し続けるのだ。

 

(何者かが歴史を荒らしている?)

 水銀を飲んで始皇帝が死んだことも八岐大蛇との戦いも歴史のはずだ。

 八岐大蛇伝説が事実かどうかはさておき、実際にあったこととされているはずなのに、判田はその歴史の修復を命じられている。

 

(まさかな……)

 この世界のシステムに縛られない何者かが歴史を荒らしているから――――ナハ―スの顔が思い浮かんだ。

 明らかに普通の生き物ではなかった男。何かが違えば別の意味で歴史に名を残していたであろう××を、執拗に悪の道に引きずり込んだ男。

 不老不死が嘘でないのならば、神が唯一全ての生物に与えた平等である『死』を拒んでいる大罪人であり、神の敵だ。

 果たして判田の目論見通り、死してなお思考を高速回転させる××を見て判田は静かに笑った。

 

「だから、あなたはやり直せるってことですよ」

 天叢雲剣を背負い直した判田の声からは、出会った時からずっと孕んでいた狂気が消えていた。

 まるで親戚のおじさんが悪いことをした甥っ子を諭すような声だ。

 

「お前……」

 虐殺者達がここにいないのは世界はそうなる定めだったから。彼らには反省の余地も後悔の時間もない。

 彼らに負けず劣らずの悪人の自分は地獄に堕ちて過去を振り返る時間を与えられている。

 

 誰だって幸せになりたい。

 悪に堕ちずに幸せになれる道があったのなら、そちらに進みたい。

 判田はその道に行くのが正しいのだと伝えに来たのだ。

 ××を殺した張本人なのに。狂人は最後まで狂人だった。

 

「判田……お前、もう自分の名前もどうでもいいのか」

 

「ふふ……あたしの本名は『判田喜一』じゃありません。本名は、もう忘れてしまいました(笑)」

 ああ、そうだろうな、となんとなく思った。世の中嘘つきほど饒舌だ。

 生きている間にあれだけよく話していたのに名前すらも嘘だったわけだ。

 

「さぁ、仕事の時間だ。あたしのことなんて忘れてしまいなさい。なに、あたしが覚えています。永遠に、永遠に――――」

 天叢雲剣を背負った判田改め名前を失った男が空へと飛んでいく。

 向かう先は過去も過去、日本最初期の神話の時代。

 このまま永遠に奴は悪魔として歴史の調整を執行し続けるのだろう。

 

「それで、お前はどうするんだ?」

 アニマの問いかけに答えず凍り付いた血の川を見る。

 そういえば、未亜菜の死を知った時も確かに川が凍り付き、川底には氷の花が咲いていたと報道されていた。

 自分なりに必死に生きてきた人生も、実のところ悪魔となった××が引っ搔き回して出来た物語だったのだ。

 それを変えるとなれば、きっと尋常ではない意志の力が必要になる。自分一人で出来るのだろうか。

 その死後の藻掻きありきの人生だったのではないか。

 

「あれだけの才能があって、結局何も成せずに死んで、それでいいのか」

 

「……俺はいい」

 

「……。そうか」

 

「だけど、あの子には生きててほしかった」

 死後もその想いだけで足掻き続けるというのならば、まさしく地獄だ。

 数億人に1人の才能を持っても足りなかったのに、これ以上何が出来るというのか。

 

「俺がここで知ったことを教えてやる」

 

「……?」

 

「確かにこの世界に飯はないし長い箸もない。だがあの話は的を射ている」

 

「ここは自分勝手なヤツばっかだって?」

 

「違う。過去は一人の力だけでは変わらないということだ。一人の意志だけでは足りず、どれだけ願っても届かない」

 記憶がフラッシュバックする。地獄に堕ちたばかりの時、何故アニマが自分に声をかけたのが不思議だったし、何故この時まで一緒にいるのかも不思議でならなかった。

 だがやっと理由が分かった。この樹木の悪魔は一人で足掻き続けてどうにもならなかった果ての姿。

 そのことにようやく気付き、アニマは協力者を探し始めたのだ。

 地獄に堕ちたばかりで右も左も分からないという都合のいい男は、運が悪いことに世界最悪の犯罪者だったわけだが。

 

「俺が力を貸してやる。その代わり……」

 

「俺がお前に力を貸す」

 自分の後悔を取り戻すためだけにもがく魂はいつまでもたどり着けない。悪の魂が悪のままだからだ。  

 あの説話のように、互いに助け合う相手がいて初めて善なる魂への一歩を踏み出す。

 よく出来たこの世界、結局自分では亀裂を入れることすらも出来なかった。

 

 雪の降る地獄を去り二人で××の過去へと飛ぶ。

 アニマの過去に興味なんかないのが本当のところだが、ここまでの付き合いだ。

 凍り付くほどに冷たい手でよければ貸してやろう。彼が愛する者を殺さずに済むように。

 何よりも、アニマが人間の頃どんな姿だったか知らないが、こんな良い奴が家族を殺す運命を辿って欲しくなかった。

 

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