眠る君に花かんむりを   作:K-Knot

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僕が雪を嫌うわけ

 199X年 春

 〇〇県▲▲市 ◎◎小学校

 

「ねぇねぇ、なまえ! なんていうの?」

 まだ小学1年生の未亜菜はそれでも将来美人になることが確定しているのが誰が見ても分かった。

 両親からの愛情をいっぱいに受けて輝く優しそうな瞳、健康的な白い肌は既に高価な陶器のようでありながら、やわらかそうなほっぺたには健康的な赤みが浮かんでいる。

 癖のないやや茶色い髪は肩まで届くおさげ髪で、きっと今朝も母親が結ってくれたのだろう。左右の均整に一寸の狂いもない顔かたちも、鈴を転がすような幼い声も。

 声をかけていた対象とは真逆だった。

 

「××……」

 幼き自分が名乗った声は小さすぎて悪魔になった××の耳には届かなかった。

 ストレスでかきむしった痕が手首や首元を蝕み、長い間切ってもらっていないぼさぼさの髪が父の暴力に怯えて眠れず出来上がった隈を隠す。

 頬は赤い、と言っても未亜菜のそれとは違い、昨晩酒に酔った父親に殴られたからだということを今でも覚えている。

 

(かわいい名前)

 未亜菜は自分の名前にそんな感想を抱いたらしい。

 たしか、自分には似合わない名前だと思ったことはあるような気がする。

 だが肝心のその名前が思い出せない。

 

(この子ちびた消しゴムつかってるなぁ)

 100均の筆箱には、公民館の『ご自由にどうぞ』コーナーから持ち帰った文房具が入っている。××の悲しい筆箱を見て、未亜奈はそんな感想を抱いていた。

 最初の出会いで彼女が××に抱いた感情は他でもない、哀れみだった。多くの子供の中で数少ない、まともな両親から愛情をたくさんに受けた子供だけが持てる他者を思いやる心。××に死ぬまで決定的に欠けていたもの。

 

「これ、あげるね」

 

「えっ……おっ……かあさんに怒られないの……」

 一年生が始まったばかりでまだほとんど新品の消しゴムが××の手の上に乗せられた。

 消しゴムの側面には丁寧な字で『瑠璃川 未亜菜』と名前が書かれており、そんな小物の端々からですら両親からの愛情を感じる。

 

「失くしちゃったっていえばいーよ」

 

「…………」

 悪びれもなく見せた笑顔は太陽のようで、既に半分ほど闇に取り込まれている少年には眩しすぎて何も言えなかった。

 

『ありがとうぐらい言え!』

 脇から見ててイライラする程に引っ込み思案の小学生に怒りげんこつする。

 幼い××はようやくぼそぼそと何かを呟いたが、既に新しい友達とお喋りをしている未亜菜の耳にはまるで届いていなかった。

 

『子供を殴るな!』

 

『俺だろうが』

 慌てて諫めたアニマの反応は正常な人間としては正しいのだろうが、この子供も自分も正常ではない。

 幼稚園にも行かなかった自分にとって初めて会話した異性であり、これ以上ないほどに完璧な一目惚れだった。目が合った瞬間に100好きになり、ほんの少し会話しただけで6歳にして常に曇りのように暗かった人生に太陽が差し込んだ。

 言ってしまえばただの中古の消しゴムを貰っただけで1億好きになっていた。それこそ、彼女の苗字が瑠璃川でなくなってもずっとその消しゴムを大切に持っておくくらいには。

 まだ自分の名前もまともに書けない未発達な子供だった自分の感情が、腐りきって悪魔になった大人へと流れ込んでくる。好き、好き、好き好き好き。幼いが故に爆発的な感情の奔流に、過去の自分のものだというのに取り込まれてしまいそうになる。

 

『こんな小さい頃から? 死ぬまで?』

 

『別に変なことじゃない。この世界のどこかで今日もガキが簡単に一目惚れしてる。俺はそれがちょっと長かっただけ』

 すでにそんなことは忘れてしまったかのように周囲の子どもに自己紹介をする未亜菜と対照的に、日陰者の××が安い消しゴムを宝物のように握りしめて机に突っ伏してしまった。

 親に虐待され全てに怯えて生きる子供と、裕福な家庭で両親から愛されて育った可愛らしい少女。叶うはずのない恋。 

 そんな残酷な現実など知るはずもなく、幼児特有の未発達な語彙力による好きの濁流に押し流されるように、時間を巻き進める。

 このまま全ての時間を見てもいいが、間違いなくもうそんな時間は残されていないから。

 

********************************************

 

 その夜は大雪だった。

 鈍色の空から降る雪に染められて、この時の記憶までも灰色になっている。

 まだ6歳の××が玄関から外へと放り出された。

 

「……いて」

 当たり所が悪ければ死んでいたかもしれない勢いだったが、かすり傷で済んだ。

 こちらに手を伸ばしている母が父に髪を引っ張られている。純粋悪という意味では、××の知る中で最もその称号が似合う男、須能天獄。

 この男に名前を呼ばれた記憶は、ない。暴力も全く加減などされていなかった。

 その姿は烈によく似ているが、要所要所のパーツは××と同じ形をしており血の繋がりに吐き気がする。

 

「待って、お願い、外は雪が降っているから今度にして!」

 母の叫び声も虚しく、父の暴虐は全く止まらない。

 今にして思えば父が我が子を見るその目は、興味のない命に目を向ける××のそれともよく似ている。

 一度屋内に引っ込んだ父が再び出てきた。その手に持っていたのはバケツいっぱいの水。

 咄嗟に××は一緒に放り出された本をかばった。図書館から借りてきてまだ読んでいないのだ。

 これから一晩中に外にいなければならないことは確定している。せめて本くらいは――――痛いほどに冷たい水が××の背中にかけられた。

 

「死にゃあいいんだよ。勝手に生みやがって」

 己の子供に投げかけられる中でも最悪な部類な言葉を吐いた父は扉を乱暴に閉じ、もう開くことはなかった。

 口から漏れる呼吸が凝結して白い煙となり空へと昇っていく。腹を空かせた××は行く当てもなくとぼとぼと夜の街を歩き始めた。

 

『おい、死ぬぞ……』

 

『そうだな。ここで死んでれば良かったな』

 アニマが幼い××を引き留めようとするが、全く行動を変えられない。

 感情の無い目で自販機の下を漁って小銭を探す××の身体は急激に冷えていく。

 血が凍る体質と関係があるのかは分からないが、××は小さい頃から寒さを全く感じない体質だった。

 実際は感じていないだけで、身体はしっかり死へと向かっていたのかもしれない。

 顔色がどんどんと青白くなっていき、唇は死人のように紫色になっていく。

 

『本当に死ぬぞ!』

 せめて雪の傘代わりになっているアニマが叫ぶ。 

 なんでもいいから何かしろと。張本人が問題ないと言っているのに。

 

『死なないって言っているのに……』

 そう言いつつも、雪の悪魔と化した白い腕をかざし、冷気から守る力を発する。

 アニマの言う通り、今にも死にそうだった××の青白い顔がただ白くなっていき、白い息は上がらなくなった。

 それと同時に肌についていた水が徐々に凍っていくが雪のせいで××は気が付く様子がない。

 

(…………! まさか……)

 寒さを感じない体質だったのではなく、悪魔となった自分が守っていたのではないか。

 死後の己の行動含めて世界の運命とするならば、それが正解のような気がする。

 子供の心は己の精神を守るのに必死で、この時の記憶をなるべく無感情に封印していたが、バケツの水をぶっかけられたときは流石に寒かったような記憶もある。

 相変わらず空腹だが、凍えて鈍くなった身体は元に戻ったのか、手にしていた本を読みながら××は行く当てもなく歩いていく。

 道行く大人はその異常な様子に気が付いてはいるが、面倒ごとは避けたいのか濡れた薄着の子供に声をかけることはなかった。

 

「…………」

 手にしている英和辞典を下手なコンピューターよりもずっと早く読み込み記憶している。

 暇つぶしにさえなれば別に借りる本などなんでもよかった。たまたまここで他言語の本を手に取ってしまったことが後々の大事件に繋がるのだから人生は分からない。

 他の知識を身に着けていたらそれはそれで別の大災害を起こしていたような気もするが。

 

『何をしているんだ、これは』

 

『見れば分かるだろ。ゴミ漁ってるんだよ』

 育ち盛りの子供にとって夕飯抜きで外を歩き回るのは厳しかった。

 明日が燃えるごみの日だったため、電信柱のそばには生ごみが捨てられていた。

 駅前に行って万引きするか、住宅街でゴミを漁るかの二択だったが、食料にありつける確率を冷静に判断して住宅街に来たのだ。

 本来ならまだ善悪の判断もつかない子供のくせに、度し難い現実を受け入れて出来る範囲で処理している。

 こういうところは小さい頃からだったという事実に嫌になる。

 

「えっ……××くん……?」

 運よく見つけられた消費期限切れの食パンを電信柱のそばでかじっていると誰かが声をかけてきた。

 

「……!?」

 ゴミ袋を持った未亜菜が立っていた。知らなかった、ここが彼女の家のすぐそばだったことを。

 ××と対照的に厚着にマフラーと手袋をしているのは、雪が降っているのを見て外に出たくなった未亜菜がゴミ捨てに行くと親にせがんだからだろう。

 意味不明なモノを見るような目をしているその視線から逃げるように顔を隠して頭を抱える。

 こちらがどう思っていようと、関わってはいけない存在だと思っていたから、自分から話しかけたことはない。

 ただ学校で少しだけ見ていただけだ。それなのにこんな仕打ちはあんまりじゃないか。

 気持ち悪がられる。学校で言いふらされる。父に殴られ外に投げられたときは怒りも悲しみもなかったのに、涙がこぼれそうだった。

 

「こっち来て!」

 

「え?」

 予想だにしていなかった反応に、瑠璃川家の庭に連れていかれるまで全く思考が回らなかった。

 ここで待ってて、と言われるがままに待たされ空っぽの犬小屋を眺める。隣にある花壇には雪が降っているのに白い花が咲いていた。

 

「入ってきて!」

 雨戸が開かれ、未亜菜が小さな声で呼びかけてきた。

 

「…………」

 ああ、自分の部屋があるんだ。いいな。

 犬は雪が降っているから家の中に入れてもらったのかな。うらやましいな。

 

「早く!」

 

「! うん……」

 あまりにも急すぎる現実に、逃避気味になっていた思考が引き戻され、半ば無理やり部屋の中に引っ張り込まれた。

 内装に目が行く前にふかふかのタオルが頭からかぶせられる。

 

「なにをしていたの? そんなかっこうで、びしょびしょで……」

 

「お父さんに追い出された」

 未亜菜が優しく濡れた身体を拭いてくれる。タオルも部屋もいい匂いで、地獄から天国に迷い込んでしまったような気分だった。

 

「何かわるいことしたの? あやまれば入れてもらえるでしょ?」

 たったそれだけで自分と未亜菜でどれだけ家庭環境が違うか分かる。

 いつも追い出される、悪いことをしていなくても殴られる。

 そう淡々と説明すると見る見るうちに未亜菜の顔色が変わっていき、××の腹が大きく鳴った。

 さっき咄嗟に食パンを捨ててしまったが失敗だったかもしれない。せっかく運よく見つけられた食料だったのに。

 

「おなか空いているの? ごはん食べていないの?」

 

「うん」

 

「待ってて!」

 タオルを××に押し付けて未亜菜は部屋を飛び出していってしまった。

 身体を一通り拭き終わり、壁に背を付けて座り込む。随分といい家に暮らしている。

 5LDKはあるであろう一軒家に庭付き犬付き。野良犬みたいに残飯を漁っていた自分との差が酷すぎる。

 やはり関わるべきではなかった、と幼心に思っていると未亜菜が戻ってきた。

 

「ほら、たべて。これしかなかったけど……」

 

「…………」

 持ってきたのはコーンスープと菓子パンだった。

 家族の誰かが買ってリビングに置いていたものを持ってきたのだろう。

 本当は行儀よく口にしたかったが、空腹が抑えきれず菓子パンを一気に口に入れコーンスープで流し込む。 

 別に高価なものと言う訳でもないし、母だってこれくらい買ってくれる。それなのに何故か泣いてしまいそうだった。

 

「またおうち追い出されたらくればいいよ」

 

「ど……」

 ××には信じられなかった。小さいながらも既に天才の片鱗は覚醒しており、世の中全て等価交換で成り立っていることを知っている。

 それを壊して奪っていく父のような人間を悪ということも。それとは真逆の無償の優しさ。

 お金なんか1円もなく差し出せるものも何もない。何も得られるものなどないはずなのに何故。

 

「どうして僕に優しくしてくれるの?」

 

「それは……」

 純粋無垢な未亜菜の目は魂まで、遥か昔の前世までも見えそうな程に澄んでいる。

 善良な両親に育てられた子ならば『人にやさしく』と教わったとか、そういう答えが返ってくるのだろうと思っていた。

 そうではなかったから、全く予想もしていなかった答えだったから今でも覚えている。

 

「あなたがやさしくしてくれたから」

 

『……? 何を言っているんだ? この子は……』

 

『俺にも分からない』

 小さい時は分からなかったし、大きくなっても分からなかった。

 小学校に入学して、冬になるこの日まで未亜菜に優しくしたことなど一度もなかった。話しかけたことすらもほとんどないのに。

 

「あれ……なに言ってんだろ……?」

 

「ありがとう……」

 言っている本人すらも意味が分かっていない。

 それなのに、何故か小さな××は理屈を超えてその言葉に納得していた。

 

「なにその本?」

 

「図書館で借りた」

 ××が抱えていた英和辞典をなんとなく開いた未亜菜は、2秒で見て分かるくらいに引いていた。 

 日本語で書いてはあるものの、普通の子供が選んで読むような本ではないことは確かだ。××が選んだ理由は単純で、とにかく分厚くて暇つぶしができそうだったから。それだけだ。

 

「えいご、ならいに行っているの?」

 

「行ってない。なにもやることがないから読んでいる」

 

「へー。すごい。頭いいんだねぇ」

 

「…………」

 

「あっ!! はじめてわらった」

 笑顔など久しぶりの事だった。少なくとも、学校で笑った記憶はない。

 いつ帰ってくるとも分からない父に怯え鈍い絶望に支配されていた××に笑う余裕などなかったのだ。

 

『…………』

 幼い自分の笑顔は、大人になった自分から見ると少々気持ち悪く感じるが、アニマにとってはそうでもなかったようだ。

 見た目が完全に化物のため表情などは分からないが、少年の笑顔を見てアニマの纏う雰囲気が和んでいる。

 

『今日行った場所を変えてしまえばいいんじゃないか?』

 名案だと口にしながら思った。

 行き先を住宅街ではなく駅前にでも無理やり変更させてしまえば、この家に入ることも一生モノの恩を心に抱くこともない。

 ただの気色の悪い片思いで終わったはずで、『殺してでも』などという極端な手段を選ぶことはなくなるかもしれない。

 そうだ、ならば入学式の日に無視させてしまえばいい。思い出の全てが消えてしまうのは悲しいが、ただの恋に終わるのならば悪の道に行くことはなくなる。

 

『過去の悪事を正そうとしているのに、善意をなかったことにしようとするのか?』

 

『…………そうだな』

 アニマの言っていることは実にシンプルで、××は一言の反論も出来なかった。

 悪いことをして地獄に堕ち、その行いをなんとか変えようとしているのに、天国へも行ける善を消してしまっては本末転倒だ。 

 もしかすれば、もっと酷い刑罰が科されるかもしれない。

 

 自分が更に酷い目に遭うのならば別に構わない。

 だが、別世界の人間と話す未亜菜は悪魔の目からも楽しそうに見え、この出来事を無かったことにする気はなくなってしまった。

 

 結局この日から3年間、父が帰ってきて追い出されるたびに××は未亜菜の部屋に行った。

 いつ彼女の両親が気が付いてもおかしくなかったのに、世界は小さな子供の二人だけの秘密を優しく守ってくれた。

 

 

**************************************************

 

 

 小学5年生になり、二人は10歳になった。

 その日は家庭科の授業で肉じゃがを作ることになっていた。

 近所の3つ上の子から貰ったお古のエプロンをして、にんじんを刻む××の手には既に多少なりとも世界に対する憎しみのようなものがこもっている。

 半年前に父親が蒸発したのだ。今となればナハ―スに消されたことを知っているが、この時の××にとっては違った。とうとう母を捨てたのだと信じていた。

 遅くまで働いて女手一つで自分を育てる母の為に料理を少しずつ覚えていった年齢だったが、その表情はたかが肉じゃがを作っているとは思えないほどに険しい表情をしている。

 

「えっ、すっごい! 意外な特技!」

 同じ班で糸こんにゃくを取り出していた未亜菜が無遠慮なまでに踏み込んできた。

 少年の内側で僅かずつ萌芽しかけていた憎しみの気配が薄れていく。

 

「……家で、料理しているから……」

 

(すごいなぁ。器用でいいなぁ)

 小学生男子が料理をするなんてキモイと思われていないだろうか。

 その時はそんな心配をしていたが、どうやら未亜菜は本当に心から評価してくれていたらしい。

 これほど時が経って答えを知ることが出来るなんて思わなかった。惜しむらくは、既に自分は死んで悪魔となってしまっていることか。

 

「めがね曇っちゃった」

 現代っ子らしくとでも言うべきか、この頃から未亜菜は急激に目が悪くなり小さなまん丸眼鏡をかけて学校に来るようになっていた。

 鍋の湯気でもう一度眼鏡をくもらせて遊んでいる無邪気な姿に少年××は何故か照れながらチラ見していた。

 

『かわいい子供じゃないか』

 

『俺は気持ち悪い』

 アニマは少年期の自分を見てそんな感想を口にしたが、概して未熟な子供の頃の自分など引っぱたいてしまいくらいに気持ちが悪いものだ。

 

「ほら、せっかく作ったんだから味見して」

 

「!!」

 まだ完成してないだろうに、未亜菜は菜箸をじゃがいもに行儀悪く刺してそのまま××の口の中に放り込んできた。

 顔を近づけてきた未亜菜は、料理の感想を聞いてくるものだと思ったが。

 

「どうして最近うちに来ないの?」

 その耳打ちは当然の疑問かもしれない。

 腹を空かせて何度も助けを求めに来ていた同級生が、いつの間にか来なくなり料理を覚えていたのだから。

 

「お父さんは?」

 

「帰ってこなくなった」

 

「そっか……。でも、たまにはまたうちに来てね」

 

「…………。うん」

 この時期心は安定していたため、父が消されたことは自分にとってはいいことだったが、母にとってはどうだったかは分からない。

 家に来るたびに父が金を持ってきていたことは事実だったし、男女間の関係など本人同士にしか分からないのだから。

 それでも未亜菜の言葉は嬉しかった。あるいは男子よりも先に成熟する女子が覚えた社交辞令だったのかもしれない。

 だが、真に受けた××はそれからも時折未亜菜の家に立ち寄り続けてしまい、未亜菜は何故かいつだってそれを受け入れてくれた。

 

 

********************************************

 

 14歳の冬、中学三年生。

 そろそろ娘がよその家の男子をこっそり部屋にあげているなんて家族が知ったら激怒する年頃だ。

 ××はそんなに食事量が多い方でもなく運動もしていなかったのが、身体は父に似てどんどんと大きくなった。遺伝というのは恐ろしいものだ。

 小学生の頃は自分よりも大きかった未亜菜は、隣に座ると心の奥底から『守らなければ』という思いが湧き上がってくるくらいには小さく感じた。

 初めて上がった時は大きく見えたこの部屋も、大きくなれば普通の6畳の部屋だ。窓の外から瑠璃川家の飼い犬が平和な顔で楽しそうな飼い主を眺めている。

 

「見せて見せて!」

 

「はい」

 学年全体で受けさせられた模試の結果を未亜菜に渡す。

 何かを学ぶことに苦労したことはないが、その才能を示すように全ての教科が志望者中1位だった。

 一緒の高校を受けると言ったとき、未亜菜は喜んでいたが、彼女の為だけではなく母の希望でもあった。

 お手本のような貧困家庭であったため、中学を出たら働くと言ったが母は××に他の何をおいても勉強をするように言った。

 息子の才能に気が付いた母は朝も夜もなく働き、××の未来のために金を作ろうとしている。

 

「他の子は知らないんだ、××くんがめっちゃ頭いいってこと。私だけが知っている秘密」

 

「…………」

 どうして自分の事でもないのにこんなに喜べるのだろうか。なぜ誇らしげなのだろうか。

 他人のことなどどうでもよく、友人も皆無に等しい××はその感性を羨ましく思っていた。

 

「ね、もっとモテてもいいのにね。将来きっとすごい人になるのに」

 ほんのりはにかんだ頬を体育座りした膝に乗せ、足の指を開いたり閉じたりしながらそんなことを言う。

 だが××はたとえ死んだ後でも未亜菜の方が世界で一番すごい人だと思っていた。

 人を信じる心、助ける優しさ、照らす善性。そういうものを全く持っていない人間だっているのに。

 今更ながらに残念に思う。悪魔になり、彼女の心の声を聞いても全く同じ言葉を発している。

 本当に心からすごい人になると信じてくれていたのだ。

 

「未亜菜は将来何になりたいの?」

 頭が良くて可愛くて善良な性格をしていて、家だって裕福だ。

 同じ気持ちを返しているだけなのだが、未亜菜ならなんにだってなれると思った。

 だから、何を言われても『絶対になれるよ』と返すつもりだった。

 

「私……私の夢は……。幸せな大人になること」

 

「……? ……え?」

 普通、というよりもあまりにもささやかな夢。

 何もせずともこのまま普通に大人になれば叶う夢ではないか。

 

「おかしい?」

 

「いや……」

 

「別に××くん見てそう思ったわけでもないんだけど……小さい頃からよく思うの。幸せって、それだけで難しいって」

 

(…………)

 母は美人だと思うし、裕福な家庭の生まれだったらしいが今はこうなってしまった。

 父は金はたんまりあったはずだが行方不明になってしまった。

 思うに、世の中のいう普通の幸せとは想像よりもずっと難しいものなのではないだろうか。

 突然いいことが起きることはないが、不運は確率を越えて連続して起きる。

 

「だから、幸せになりたい」

 明るい女子生徒ならみんな緩くしている制服の紐リボンを未亜菜は無意識に締めなおした。

 先進国の人間も、平均台の上を落ちないようにバランスを取りながら歩いている。一度落ちてしまえばその先は底の無い暗い沼の中だ。

 誰だってそのことを知っているから、毎日国民の三大義務をこなしている。

 理想的な家庭に見える未亜菜の両親だって働いていて、昼間はずっと家にいない。

 未亜菜はそのガラス張りの幸福の尊さを知った上で言っているのだろう。

 

「なら……俺の夢は――――」

 三者面談の日を思い出す。

 ほくろの大きい担任のおばさんが早口で『学校始まって以来の天才』だと口角泡を飛ばしながらまくし立てていた。

 母はとても嬉しそうだった。東大も京大も行ける、海外の大学も夢ではない。現実的なようで遠い夢の話を、ギフテッドを授かった母は何度も頭を縦に振っていた。

 今ですら朝も晩もパートで働いているのに、それを大学まで続ける気か。最近体調が良くなさそうなのに、死んでしまうよ。

 そう口にする前に、担任がビー玉のような目でこちらを見て将来の夢を聞いてきた。

 よっぽど現実が見えている××はその時、将来の夢を言うことが出来なかった。

 

「君を幸せにすること」

 その言葉を口にする瞬間は、いつだって冷静だった脳が空っぽだった。

 

「あは、あはは!」

 ××の言葉に一瞬遅れて顔を真っ赤にした未亜菜が××の肩をばしばしと叩いてくる。

 そこはかとなく心くすぐったいこの瞬間は何よりも幸せだった。

 

「なんで笑うの?」

 

「だって、だってさ! それ、プロポーズみたい!」

 

「!」

 ××の白い顔が一気に赤くなる。空っぽだったがゆえに、その言葉が持つ意味を深く考えてなどいなかった。

 まだ14歳なのに何を言っているのか。そもそもそんなことを願っていいのか。考えれば考える程に恥ずかしくなってくる。

 

「私も、受かるように頑張るね」

 

「うん。……がんばって」

 立ち上がった未亜菜が照れ隠しのようにテキストと参考書を手早くカバンに詰め込んでいく。

 これから未亜菜は塾に行く時間、××ももう帰る時間だ。夜のパートに出る前に母に食事を作ってあげなければ。

 

 庭に出た未亜菜が塾に行く前に花壇の花に水をやり、犬を撫でている。

 たとえば、ここでワガママを言ってもう少し一緒にいようと言えば、未亜菜はきっと受け入れて塾をサボり一緒にいてくれただろう。

 いつだってそう言ってみたかったが、この日ほどそう思った日はない。

 もう少し、帰るのが遅れていれば母も死ぬことはなかったのに。

 

********************************************

 

 父はただ暴力的なだけでなく非常に狡猾な人間だった。

 弱者を縛り付け搾り取る方法を熟知しており、その知識は妾である××の母にも存分に活かされていた。

 ある夜、父が金を持ってこなかった。珍しく殊勝に謝り『ここで生活費を借りてきてほしい。後で建て替えるから』と母に頼んでいた。

 何故その時自分は話を聞いていて少しでも疑問に思わなかったのか。8歳の時だったが、既に父がどういう人間だったかを理解していたのに。

 そこは仁英会系列の闇金だった。父が行方不明になるまでは、特に何もなかったのだが。

 

「朽名さーん! 朽名さーん!! いるんでしょー!? 出てきて下さーい!!」

 ××はその男の名前をその時点では知らなかったため、心の中で『三下』と呼んでいた。

 借金回収に割り当てられたいかにも下っ端風のヤクザで、大きな声で近所中に朽名家が闇金から金を借りていることを知らせている。

 

「お金返さないのはドロボーですよおぉお! おばさん専門風俗も紹介しますかぁあ!!」

 隣の家の扉前に置いてあった牛乳瓶入れを蹴飛ばし更に大声で叫ぶ三下は、誰もいない家の扉を叩くことに夢中になりすぎて後ろから近づいてくる××に気が付いていなかった。

 持ち上げた自転車を力任せに三下の頭に叩きつける。

 

「がっ!?」

 何が起きているかも分かっていない三下に馬乗りになる。

 兄程ではないにせよ、既に××の体格は小太りのヤクザよりもずっと優れており、三下は××を押しのけることも出来なかった。

 

「お母さんは! 頑張っている! テメェらゴミどもの! 金を返すために!」

 人を殴るのは初めての経験だったが、恐れも戸惑いもなかった。

 本能で一番ダメージが出る殴り方が頭に流れ込んできて、脳から命令を受けた腕が淡々と実行する。

 数発の鉄槌を受けて三下の顔が平らになっていく。

 

「や、やめ……」

 

「臭ぇ口開いてんじゃねえ!!」

 転がっていた牛乳瓶を三下の口に突っ込んで黙らせる。

 それだけでは済まないことは瞬時に分かったのか、振り上げられた腕を見て三下が首を振った。

 

「はごぉあ!? ごぇえッ」

 砕けた牛乳瓶が三下の口の中をズタズタにし制服に返り血がついてしまった。

 ますます怒りが湧き上がり、三下が気を失ってもなお拳を振り下ろし続け――――

 

「おう、そこまでにしとけや? ボクぅ……」

 半殺しにした男が三下ならば、××の拳を止めた男の印象は『格上』だった。

 フロント企業に飛ばされた下っ端などではなく、人に指揮する立場の本物の暴力団員。

 ぞろぞろと7人もいる部下が××を取り囲んでいた。

 

 

************************************

 

 いつだってそう、空を見上げて星を見た記憶はない。

 のしかかるような鈍色の雲ばかりが悪夢と共に思い出される。

 路地裏で大の字も倒れた××は破れた雲から月の光が漏れるのを見ていた。

 

「う~ッ! ぐぅうう!!」

 喋れない程に口を破壊された三下が怒りに任せて唸りながら、ボロボロの××を踏みつけた。

 身体中の骨が軋んでいるし、右目が腫れて見えない。反撃する気力もない。

 まだまだこれからもっと酷い怪我を負わされるのだろう。そう覚悟を決めた瞬間、上司であろう男が三下を殴り飛ばした。

 

「何やってんだコラ!? 中坊に喧嘩負けてよォ、分かってんのか!?」

 一日に二度もボコボコにされるとは、情けのない男だが、××の時とは違いその制裁を三下は泣きながら受け入れていた。

 悲しき縦社会は、降りかかる暴力から身を守ることも許さない。

 ひとしきり教育を終えた男は倒れて動けない××のそばにしゃがみこんだ。

 

「なかなかやるなボク。アレに比べてだいぶ使えそうだ」 

 男が××の胸の上に置いたのは名刺だった。

 蛇踏組――――その名が見えて怒りで頭が一瞬真っ白になる。

 父が若頭をしていた組だ。いなくなってもなお自分たちを縛り付けるのか。

 

「母親を守りたいんだろう? 立派なもんだ。卒業したら連絡してきな」

 

「死ね……」

 

「…………。貧乏人がプライドを持っていても辛いだけだぞ」

 破り捨てようとした名刺を取り上げた男は無理やり制服の胸ポケットに入れてきた。

 抵抗しようにも体中が痛くて動けない。

 

「おい、行くぞ。いつまで寝てんだ!」

 

「はひ、ひぃ~!」

 三下と部下を連れて男が去って行く。

 怒りに任せて暴力を振るっていただけなのに、何が何やら分からないが今日の借金回収は終わったようだ。

 たかがこれくらいの現実も跳ねのけられない自分の弱さに怒りが湧き、流れ出る血が徐々に凍り付いていった。

 この時は気が付いていなかったが、既に異常体質の片鱗は出ていたようで――――

 

『……! おい、この血……この子じゃなくてお前の怒りに反応していないか?』

 倒れている××を観察していたアニマがこちらを見ながらそう言ってくる。

 確かに、冷静に考えて怒ると血が凍るなんて体質の一言で片づけられていいものではない。

 怒りながら血を流している時なんて冷静ではいられないから考える余裕もなかったが。

 

『そんな……。いや……』

 振り返ってみれば血が凍った時はいつも悪魔になった自分がそばで見ていて、生前の××の怒りとシンクロしていた。

 悪魔と化した白い腕を爪で少しだけ切り裂くが血は流れない。完全に凍り付いているからだ。

 考えていると、中学生の××が痛んだ身体を引きずりながら動き出した。

 

『どこに行くんだ。病院か?』

 

『ヤクザの車のナンバーを覚えようと思ったんだ』

 

『なんのために?』

 

『まだ決めてなかった。でも後で何かの役に立つかもと考えた』

 だがそうはならなかった。血を凍らせながら重い足取りでヤクザを追った××が目にしたのは。

 

「社会のゴミが道の真ん中歩いてんじゃねえぞォ!? コラァアッ!!」

 冬だというのに上半身は裸で、銀行強盗のような目出し帽を被った筋骨隆々の男が、何人もいたヤクザをなぎ倒していた。

 ××を勧誘した男が、ギロチンに首を差し出すように開きっぱなしの車のドアに頭を入れさせられ――――

 

「死ぃねぇッ!!」

 恐らく本当に死んだと思う。少なくともこの日からその男を街で見ることはなかった。

 力任せに閉じられたドアに挟まれた男の頭から血なのかも分からない赤黒い液体が巻き散らかされ、喧嘩から処刑に変わった瞬間を見ていた通行人が逃げていく。

 

『烈……!』

 男の上半身に刻まれたタトゥーは見覚えのある兄のものだった。

 殺人未遂と強盗で高校を退学し少年院に入っていたはずだが、出てきてすぐにこんなことをしていたとは。

 当然この時はまだ、互いに兄弟に出会ったことなど知らず、××は茫然とし、烈は道端で出会った不運な暴力団員を虐殺していく。

 

「ごめんなさいって言ってみろ……! 言えよ……ぉおおおオ!!」

 既に動けなかった男の上体を無理やり起こした烈が口に両手を突っ込み無理やりに開かせていく。

 

「あがッ、ォ、ォォオッ!?」

 バキン、と音が響きまず男の顎が外れた。

 それでも烈は力を緩めずに口を上下に開いていく。

 丸太のように太い腕に血管が浮かび上がり筋肉が金属のように固まっていく。

 まるで大工仕事をしているかのような大げさな力の入れ方。烈のような大男の全力に人間の身体が耐えられるはずもない。

 

「がははっ! ははッ! ははは!! 死ねぇええ!!」

 きっとこの世で最も不快な音の一つであろう、人間が千切れる音。

 今度は文字通り男の顎は外れ、喉が付いた男の顎をドブに捨てた烈がボロボロの××に視線を向けた。

 

「な~に見てんだガキコラ!? お前もやりたいのか!?」

 

「…………」

 

 ザ――――……ザザーーーー

 02号ぉこちら緑丘ァ ザザ――――現場に到着ゥ

 

 耳に届いたのは警察の無線の音。

 当たり前といえば当たり前、通報された警察がパトカーに乗って激怒しながらすっ飛んできたのだ。

 

「そこのラリ公ォ! なにしてんだ!」

 

「おおィ! 動くなァ!!」

 パトカーのハイビームに照らされた烈が、血濡れた身体を晒し、既に動かなくなっていた男の身体を持ち上げた。

 冷静になって今見るとその動きは自転車を持ち上げた時の自分とそっくりだ。

 

「捕まえてみろォ!!」

 投げられた男の身体がパトカーのフロントガラスにぶち当たり、パトカーはそのまま電信柱に激突した。

 その隙を突いて烈は走り出し、角に止めてあったバイクに跨る。

 ゴリゴリに改造された族車には『敬天愛国』と烈に最も似合わない言葉が書いてあった。

 

「待てェ! 止まれ!!」

 

「お前どこの中坊だ? コラぁ!」

 飛び出した警察官が烈を追うが間に合うはずもなく、代わりに被害はこちらに飛んできた。

 凄惨な暴行の現場に居合わせたボロボロの中学生。疑うなという方が無理な話だ。

 結局××は警察署に連行され、パートで働きに出ていた母が迎えに来るまで警察に恫喝半分の取り調べを受けることになってしまった。

 

 

*******************************

 

 それから5日が経って、どこから漏れたのか××が警察に連行された話が学校で広がっていた。

 ヤクザと喧嘩して殺したとなどと色々とごちゃ混ぜになった内容だが、だったら今日普通に登校などしていないだろう。

 否定しようにもこんなボロボロの姿で違うんですと言っても説得力がないし、元々友達もいないからどうでもよかった。

 

「体育終わってすぐ制服。暑くないの?」

 日直だったため黒板を綺麗にしていると、いつの間にか体操着の未亜奈が隣に立っていた。

 一つ前の体育で持久走をしたからかほんのり汗のにおいが漂ってくる。体育の時間40分ずっと眺めていた白い太ももが目の前にある。それだけでもう頭がおかしくなってしまいそうだった。

 外していた眼鏡をかけるなんでもない所作ですらも魅力的だなんて、全人類見習ってほしい。

 

「俺見学してた」

 2月とはいえ、晴天の中で走り回った直後だからか教室の生徒たちはほとんど体操着のままか、ジャージを着ているくらいだった。

 一応体育教師は大怪我していることもその理由も知っていたため見学を許可してくれたが、ただ走っているだけの同級生を眺めているのは退屈極まりなかった。

 黒板の清掃を半分手伝ってくれた未亜奈がチョークで汚れた指先で、学ランの胸ポケットににっこり笑顔のマークを描いた。

 

「いつもムスッとしてるからさ」

 

「…………」

 

「そのケガって、どうしたの?」

 

「ああ、大丈夫」

 

「大丈夫じゃなくてどうしたのかって聞いたんだけど」

 

「う……」

 

「ダメだよ、変なことして台無しにしちゃ」

 完膚なきまでの正論に対して、出来がいいはずの頭はなんの反論も許してくれなかった。

 衝動的な暴力の結果だが、あんな下っ端もいいとこのヤクザを殴ったせいで将来が断たれてしまってはとても釣り合いが取れない。

 

「じゃね」

 肩をポンと叩いた未亜菜が席に戻っていく。

 クラスの明るい男子が××の制服の落書きを見て笑った。

 

「おいおいなんだそりゃ」

 確かに誰かを憎んだり怒ったりしているよりはずっとこちらの方が得な生き方だろう。

 滅多に愛想笑いをしない××はにきっ、と気持ち悪い笑い方をしていた。

 

 

********************************************

 

 

 多少理不尽なことがあったとしてもへらへら愛想笑いをして受け流していれば、長い目で見れば得なのだ。 

 コンビニでバイトにキレるハゲ親父に立ち向かうよりもバイト先を変えてしまえばいい。

 電車でマナーの悪いヤンキーに注意したっていいことなんかない。

 暴力や怒りは損をする国なのだ。そうは分かっていても。

 

「おいおい……なんだありゃ……」

 いつも通りの帰り道を歩いている途中だった。

 同じ中学の女子生徒達がチンピラにかなりしつこく絡まれている。治安の悪いこの街のいつもの光景。

 絡まれている生徒の中に未亜菜がいて、絡んでいるチンピラが先日ボコボコにした三下だったことを除けば。

 

「だかぁら、そのクロネコは俺に声かけてきたって言ってんだろ!」

 

「ちょっと、やめて! ください! 何言っているの!?」

 未亜菜に掴みかかって、意味不明な言葉をがなり立てる三下の目は焦点が合っておらず、かなり危険な雰囲気だ。

 暴力がこの世から無くならない理由。それは暴力が必ず先手を取るから。対抗するためにはこちらも暴力を持つしかない。

 だから警察は銃を所持し国は軍を持つ。

 

「やめろ! 何やってんだ!!」

 肩を掴んで止めた三下がこちらを見る。

 赤い目の周りは紫色に変色しており、雪が降りそうな程に寒いのに脂汗をダラダラと流している。

 口の端から垂れた唾液は粘ついて糸をひいているのに本人は気にも留めていない。

 

「……く、ちなぁあああ!!」

 

「!!」

 こちらに気が付くや否や、三下が取り出したのは短刀だった。

 当たっていればまず死んでいたであろう喉への突きをなんとか腕を掴んで止める。

 

「お前……!?」

 短刀を持っている手の小指が無く、包帯が巻かれている。

 その理由を考える前に、ずりずりと押し込まれた腕の袖が捲れていく。

 出てきたのは生々しい注射痕の残る肌だった。

 

「××くん……」

 他の女子生徒を庇うように立っていた未亜菜が声をかけてくる。 

 三下の視線が未亜菜へと向けられて短刀を押し込んでくる力が緩んでいく。

 

「行け! 早く逃げろ!」

 やめて。

 そう呟く未亜菜が友人達に腕を引っ張られて遠くなっていく。

 そうだ、それでいい。頭のおかしい奴は頭のおかしい奴に任せてしまえ。

 君には未来があるんだから――――この場の倫理は消えた。この場の道徳は消えた。所詮下等な人間はこの場を暴力でしか解決できない。

 誰よりも天から才能を授かった少年が未来を捨てて拳を振り下ろした。

 

 

********************************************

 

 

 あの後あのヤクザたちに何があったのかは知らない。

 何人死んで、何人無事だったのかも分からない。

 だが、三下は小指を詰めさせられた上に追い出されてしまったらしい。

 いくら暴力団が人手不足とはいえ、中学生に喧嘩に負けて金の回収もまともに出来ないポンコツなどいらないだろう。

 そして三下はよりによって、仁英会がさばいている薬物に手を出してしまったのだ。

 

「はよ乗れやァ! ポン中がァ!」

 どっちが暴力団なのかと言いたくなるくらい荒々しい警察が三下をパトカーに押し込もうとする。 

 通報を受けてすっ飛んできて、連日ご苦労なことだが、そもそもこういうことが起こらないようにパトロールを強化してほしい。

 切られて血が流れている部分を押さえながら、警察官に囲まれている三下を見ていると目が合ってしまった。

 

「朽名ァ! テメぇ、俺は! 俺はァ!」

 

「知らねぇよ。消えろ」

 

「テメェぇ! 俺はなぁ!」

 警官に囲まれているというのに勢いだけでこちらに突撃しようとして来た。

 たった5分前に完全に喧嘩で負けたことも忘れてしまったのだろうか。

 

「君! やめなさい!」

 珍しく中学生相手にも丁寧な対応をしてくれた警官が諫めてくる。

 怒鳴り散らす三下の姿が警官に囲まれて見えなくなり――――

 

「おれわぁ」

 打って変わりあまりにも気の抜けた声。

 周囲の人間全ての思考が一瞬止まり、銃声が2発響いた。

 

「うっ……!」 

 目の前にいた警官が倒れる。三下の手にはチェーンの千切れた拳銃が握られていた。

 警察が犯罪者に銃を奪われるという、一番起きてはならないことが起きた。

 責める前に咄嗟に伏せてこちらに向けられた銃口から逃れる。

 明らかに殺す気だった。警察とはいえ普通の人間であり、銃を戸惑いなく向けてくる人間に対しての恐怖心が勝り三下の逃走を許してしまった。

 

「止まれェ! なにしてるか分かってんのか!!」

 

「来んじゃねえ!!」

 恐らくは人生で一番必死に走っている三下が逃げながら弾丸を発射し、その姿は街の彼方へと小さくなっていく。

 結局逃げ出した三下は捕まることなく、その日のうちに全国的に指名手配された。

 今思えば、例え未来の全てを犠牲にしてでもこの男をここで殺しておくべきだったかもしれない。

 三下は二カ月しても捕まらず、半ば行方不明という扱いになっていた。

 

******************************************

 

 例年よりもずっと早い桜の開花は厳しい冬の寒さの裏返しでもあるように感じた。

 来週には高校受験の合格発表があるが受かっていることは分かっている。

 それよりも、ここ最近顔色の悪い母のことが心配だった。

 

「お母さん、病院に行こう。今日は仕事休んで」

 

「××……」

 仕事前に食事をするはずが喉を通らず、麦茶で流し込もうとしたら吐きだしてしまった。

 徐々に徐々に、だが確実に悪くなる体調。息子に心配かけまいと隠していたのも、入試が終わり緊張の糸が切れてしまったのだろう。

 

「絶対受かっているから。立てる? 保険証持って……行こう」

 

「ごめんね……ご飯残しちゃって……」

 

「元気になったら、また好きなもの作ってあげるから」

 成長による気のせいではなく、本当に小さくなってしまった母の手を引き玄関へと向かう。

 悪魔となった××はその大きな手で爪が食い込むほどに過去の行いを止めようとしていた。

 

『手伝ってくれ! 止めなきゃいけないんだ!』

 

『なぜだ。本当に体調が悪そうだぞ……お前の母親』

 

『ここで止めなきゃ死ぬからだ! 止めろ!!』

 これまで出会ってから一番の剣幕に、アニマもそれ以上は何も聞かずに手を貸した。

 人生の岐路の一つが今日だ。ここで止めることが出来たのならば、まだ自分は踏みとどまることが出来ただろう。

 だが、二匹の大柄な悪魔が全力で身体を掴んでいるのに、少年は顔色一つ変えずに母の手を取り玄関の扉を開いた。

 なぜ動かせないのか。理由は知っている。母の死は、自分のせいだからだ。

 

『くそ! 先回りするぞ!』

 

『どこへ?』

 

『いいから!』

 家を飛び出しすぐ近くの交差点へと向かう。

 どこにあったかまでは知らない。近くには見えない。

 空へと浮かび上がり探していると、家から出てきた自分の姿が見え、その直後に探していた対象を見つけた。

 

『あいつ……! あの時の!』

 

『俺が止まらないなら、あいつをなんとかする』

 白い車の運転席で突っ伏して眠っているその男は、指名手配犯となってしまった三下だった。

 一向に捕まえられない警察を無能だと思ったが、2カ月も捕まらなかったのでとっくに山の中かどこかで死体になっているものだとこの時は思っていた。

 あるいはナハ―スに捕まり生かされていたのかもしれないが、最悪のタイミングで戻ってきたのだ。

 

『そうか……これから……』

 何が起きるかを知っている××はボンネットに乗り腕を振り上げる。

 このままフロントガラスをぶち破り三下の喉を切り裂くつもりだった。

 

『待て、やめろ!』

 

『なぜ止める!!』

 

『現世で人を殺せばどうなるか、俺は知っているんだ。消えてなくなるぞ、跡形もなく!』

 

『……!』

 人を殺し悪を為したからこそ地獄に堕ちてしまったのに、そこから更に人を殺せばどうなるのか。

 実際に目の前で見たわけではないが、アニマの言葉が嘘だとは思えない。

 ほんの一瞬戸惑っているその間に、三下は悪魔達の騒ぎを聞いたかのように起きてしまった。

 

『待て!』

 一度手を付けた覚醒剤はもうやめることが出来なかったのか、薬物中毒者特有の変色した目の先には朽名親子が歩いている。

 母の手を引いている××は猛スピードで信号無視しようとしている車に気が付いておらず、母だけが異変に気が付いた。

 

『止まれぇえ!!』

 回る針が終わりを告げる瞬間。

 飛び出した悪魔の身体を車は透過していき、母は××の身体を突き飛ばしていた。

 

 満開の桜がやけに目が付く。あの時もそうだった。

 母に突然押されたかと思えば、物凄い力で空中に放り出され地面に叩きつけられていた。

 枝垂れる桜の向こうのグレープフルーツのような月がやたらと大きく、視界の中で揺れる。

 最後に見えたのは、小さい身体が破裂したかのように血を流している母の姿だった。

 

 

 

********************************************

 

 

 はした金の賄賂を受け取り好き放題悪を拡大させ、無辜の民に犠牲が出ても小悪党一人捕まえられない。 

 思えばその時にはもう、世にのさばる悪だけでなく権力に胡坐をかく警察への怒りも臓腑に染み込んでいた。

 目の周りに出来た隈は、直す気も無い不眠症のせいだけではなく怒りや憎しみに取りつかれてしまったから。

 合格発表の日に聞いたのは、合格の報せではなく母が植物人間になってしまったこと、そしてガンに蝕まれていたことだった。

 手術する体力がない、そもそもあちこちに転移し過ぎて助からない。

 身体中の骨がイカれた状態でそんなことを聞かされ、悲しむ間もなく母は亡くなってしまった。

 

「卒業証書。朽名××。……あなたは本校において普通課程を卒業したことを証する。平成1×年3月20日」

 夜の公園、松葉杖、満開の桜。何日も眠れずぼやついた視界の中で、未亜菜がたった今読み上げた卒業証書を渡してくれた。

 母の葬式に続き一昨日退院したばかりで、卒業式も出ることが出来なかった。家で遺品整理をしていると未亜菜に連れ出されたのだ。怪我をしているのにごめん、と言いながら。

 片手で受け取った卒業証書の文字がにじんで躍っているかのようだ。

 

「あともうひとつ」

 

「……?」

 

「表彰状。朽名××。あなたは、3年間にわたり勉学に励み、極めて優秀な成績を修め他の生徒の模範となりました。よってここにこれを賞します。……はい、どうぞ」

 確かに受けるテストは満点以外取ったことがなかったが、そんな賞は聞いたことがない。

 受け取ったクリーム色の賞状用紙はよく見ると何かがおかしい――――そこに書いてあるのは未亜菜の字だった。 

 彼女が小さい頃から書道を習わされていたことを思い出す。書道に華道、部活は日本舞踊と自分とは随分縁遠い存在になってしまったと思っていたのに。

 そう思うとただの紙だとしても嬉しく、お礼を口にしようと思ったが涙を流す未亜菜の姿に言葉が消えてしまった。

 

「ごめんね、ごめんね……これくらいしか出来なくて」

 

「あれは未亜菜のせいじゃない」

 母と××を跳ね飛ばした三下はそのままの勢いで電信柱に突っ込んだ。シートベルトをしていなかったため道路に放り出されてトラックに轢かれて即死した。

 一年に一度あるかないかの大事故になってしまったため、全国的に大きく報道され、その男の顔も名も晒されて未亜菜も知ることとなった。

 あの日自分に絡んできた男が犯人だったことに。××にとっては、暴力団員ではなく無職住所不定とされていたことの方が腹立たしかったが。

 

「これからどうなるの……?」

 

「おじさんが……こっちに引っ越してきて、一緒に暮らすって」

 母は元々それなりに裕福な生まれだったらしいが、何の理由があってか家を飛び出した母は家族と20年以上会っていなかった。

 そんな話を葬式で初めて会った母の兄から聞かされた。

 

「そっか……。優しそうな人だったから、私も少し安心した」

 立派な身なりをした伯父は大企業の管理職という肩書を感じさせない優し気な人で、それは伯母も同様だった。

 既に40を過ぎているが子供もいない。君さえよければ一緒に暮らそうと言ってくれた。

 葬式に参列していた未亜菜も同様の印象は抱いたようだ。

 

「ああ、だから……」

 大丈夫だと、強がりを言おうと思った。心配をかけてごめんね、と。

 死期を悟っていた母の書いた遺言書の内容を知っている。家族に迷惑をかけてしまったことへの謝罪と、一人息子に宿った限りない才能を示す診断書。

 それまでも自分が才を持っていることには気が付いていたが、数値化されたものを見たのは初めてだった。

 

「だから……。不安だ……」

 15年間生きてきて存在も知らなかった人間と一緒に暮らすことになるなんて。

 しかもその相手はただの親切心や優しさからそうしようとしている訳ではない。

 姉の子とはいえ、そのためだけに引っ越しまで普通するだろうか。例えば自分が何の才能もない普通の子供だったらそんなことをしただろうか。

 施設にぶち込まれることになった方がまだ心に波風立たず、世の中への恨み一辺倒で済んだかもしれないのに。

 

「死んじゃったりしたらイヤだよ。これからなのに。これからなんだから……」

 自分と正反対の善の魂が胸に飛び込んできて泣きじゃくる。しかしそこにせめてもの幸福すらも感じれない程に心は荒れ果てている。

 合格して卒業証書を母に渡していると思っていた。ようやく少しずつでも恩を返していけるのだと。

 桜色の暗転幕が降りる。この瞬間を、この日々を死ぬまで忘れるものかと思った。

 

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