本当の最悪とはなにか。それは何もないことではない。
母を失い怒りが宿ったことのように、未亜菜を失い暴走してしまったことのように。
元々あった幸福が消えてなくなることだ。
永遠に戻れないことへの悲しみは、そうなってしまったことへの憎悪となり何もかもを焼き尽くす。
不安に思っていた××の心中とは裏腹に、高校時代は本当に幸せな日々だった。
相変わらず不愛想ですっかり人相も悪くなってしまったため、友達と呼べる友達もいなかったが、暴力や貧乏とは無縁で腹を空かせることもなかった。
何よりも、温かい家族がいた。
「空くん、今日はいい天気だから散歩に行こうか」
ベビーベッドの中で退屈そうに天井を眺めていた赤子を抱く。半年前に生まれたいとこの空は、伯父夫婦が40を過ぎてからの子だった。
この子が生まれれば自分は不必要なのではないか。そういう暗い不安が無かったと言えば嘘になる。
だが伯父夫婦は空が生まれた後も何も変わらなかった。二人とも××が天才であることは知っているが、それに対して何も言ってこない。
母は勉強しなさいと言ってきたがそれすらもなく、好きなことを好きなようにさせてくれる。
「おばさん。空くんと散歩に行ってくる」
ただし、高校を出たら働くと言った時だけは怒られた。
日本は学歴社会だから大学は出た方がいいという真っ当な理由に加えて、変な気を使うなと。
それ以上のことは何も言われなかった。
「あら、ほんと? じゃあ星見堂のどら焼き買ってきてもらっていい?」
日曜日の昼下がり、洗濯物を畳む伯母は2年前と何も変わらずのほほんとしている。
リビングのノートパソコンでぼんやりと野球を見ていた伯父が口を開いた。
「ようかんも……って多いかなぁ」
「大丈夫。……これじゃ多いよ」
多いというのはお使いの量ではなく伯父が出したお金の話だ。
どら焼きとようかんを買ってくるだけでやや3000円は出し過ぎだ。
「ん……? ま、××が好きなもの買ったらいいんじゃない?」
少し硬くなっているかかとをぼりぼりと掻きながらそんなことを言う伯父は、どこまでも普通の休日のサラリーマンだ。
優しすぎるわけでもない。自分の子と区別をするわけでもない。特別な自分に対して何も特別ではない。それが大きかったのだろう。
自分がこんな人間だったことに自分で驚いたが、××は空に特別な愛情を抱いていた。
遅くになってからの子だ。この子が成人する頃には伯父も定年を迎える年になっている。
その時に支えたい。自分のような不自由や悪夢とは無縁でいてほしい。
高校二年生の時点で既に××は日本一頭のいい高校生だったが、それは強制されたわけでもなく、ただ恩を返したかったからだ。
マンションを出た××が抱っこ紐に繋がれた空に笑いかけ、空も幼い笑顔を返す。
近所の和菓子屋、星見堂を出た××の手には手提げ袋とアイスがあった。空の大ファンの星見堂のおばちゃんがアイスをおまけしてくれたのだ。
××の顔に宿っていた悪はこの二年でかなり薄れ、今にも消えてしまいそうだ。
何もかもがうっすらと光り輝くこの平和は悪魔となった××にとっては眩しすぎる光景だった。
「おっとっと、空くんはまだだめだよ」
××が食べているアイスが気になるのか、伸ばしてきた空の手を握る。
代わりにかぼちゃ粉末の赤ちゃん用おかしを口に入れると、その瞬間までの興味も忘れて喜んでいた。
「……いい天気だね。ほら、あれが空くんだよ」
空の視線が付いてくるお菓子を天に掲げる。
透き通った空の目に映る青色はどこまでも広がる未来の大きさを示しているような気がした。
『おい』
『……! なんだ』
何をするでもなく、生前の××のそばに佇み空を眺めているとアニマが肩を叩いてきた。
アニマの指から伸びる枝の先には何もない。だが、確かに何か邪気のようなものを感じる。
そんな馬鹿な。この日は何もなかったはずなのに。
『これ、お前の兄だろう?』
『……烈』
曲がり角にしゃがみこんでいたその大男は、見間違えようもない腹違いの兄だった。
変装のつもりなのか、帽子を目深にかぶっているが不審者度が倍増している。
そんな下手なことをするのならまずその暴力的なタトゥーを隠すところから始めたらどうなのか。
生きている時は気が付かなかったが、空を連れてこんなのに出くわした日には荷物全て捨てて全力で逃げていた。
そんなことを考えていると、烈が帽子を外した。
『鬼の目にも涙か』
ハンカチも持っていないのか、世界への深い恨みと怒りが刻まれた顔を帽子で拭っている。
その姿はまさしく鬼の目にも涙。烈の言葉は嘘ではなかった。
確かに、弟を悪の道に引き込もうとして途中で辞めていたのだ。
立ち上がった烈はそのまま道を引き返していく。腹いせに自販機のゴミ箱を思い切り蹴とばしていたが。
『悲しきモンスターだな……烈……』
『羨ましかったんだろうな』
『…………。ああ』
だが本物の悪夢は何も持たないことではない。
手に入れてから失うことだ。次の記憶に行きたくない。文字通り必死だったのに、母の死は変えられなかった。
次も止められなかったら、もう自分が悪へと向かうことは確定してしまう。
二度と戻れない思い出に引きこもるのは全てが終わってからにしよう。最後の悪夢へ、二人は飛んだ。
この後に待ち受ける運命も知らず、××と空は本当の兄弟のように笑い合っていた。
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ひとことで言ってしまえば、その日は変な日だった。
高校三年生の冬、もう受験も終わりあとは合格発表を待つだけの日々。
登校も自由だったのだが、珍しく伯父に割と強制的に学校に行かされた。
もう高校に行ける日も少ないのだから行っておいた方がよい、と。
ある程度納得のいく理由だったので、登校している生徒も少ないであろう高校へと向かった。
「で、なんで来たの?」
「おじさんが……今のうちに友達に会っておけって」
中庭のベンチで温かい缶コーヒーを飲みながら話す相手は未亜菜だ。こんな雑談を出来る相手はそもそも彼女くらいしかいない。
こんな時期に好んで登校するのは、友達と試験の自己採点をしに来る生徒か、友達と話しに来る生徒か。
いずれにせよ、友達が多く明るい生徒の行動であり、まさしく未亜菜はその分類に当てはまる人間だった。
なのでその真逆のタイプである××が登校してきたことが不思議だったのだろう。
「へー。じゃあ友達と話してきなよ」
「友達、未亜菜くらいしかいない」
「友達ぃ~?」
ローファーで地面を強めにこする未亜菜は××の回答にやや不満げだった。
歩いてる途中だったら背中を軽く蹴とばされていたかもしれない。
昔はそんなコミュニケーションは彼女との間には無かったが、彼女が変わったわけではないことを知っている。
自分が、自分の纏う雰囲気がそういうことも許すようなものに変わったのだろう。だって、嫌な気はしない。
「なんか、こう、将来どうするみたいな話とかしてこいって」
「どうするの?」
「…………。検事になろうと思う」
たった一言で話のトーンが一気に変わってしまった。未亜菜は明後日の方向を向いているが、聞いていないのではなく表情を見せたくないのだろう。
その道を選んだ理由を想像しているのだろうが、きっとそれは全部合っている。今更説明する気もない。
しばらく黙っていると、先ほどまでと同様の表情でこちらを向き口を開いた。
「ね、この後何もないならどこか遊びに行こうか」
「……! 教室に友達待っているんじゃないの?」
「いいよいいよ。メールしとくから。学校、来てよかったね」
「うん」
短い答えに表れているように、高校生活を送る中で××と未亜菜は互いへの好意をあまり隠さなくなった。
伯父から不自由のないお小遣いも貰え、何もかもに余裕が出来る中で、二人で遊びに行くことも何度もあった。
未だに手の一つも繋げていないという、今時の高校生からしたらよちよち歩きもいいところの進展具合だ。
だが、15歳までずっと嵐の中にいた××にとってはこの速度が丁度良く、未亜菜もそれを感じ取っているのか無理に急がせるようなことも焦らせるようなこともしてこなかった。
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温かいデパートの中で適当に買い食いをして、買うとも決めていないアクセサリーを似合う似合わないと言い合う。
それだけと言えばただそれだけの時間がむずがゆいくらいに心地よい。中身があるようでない未亜菜の話は風鈴の音のようで、そんな中ふと小さな手袋が目に入った。
子供服の専門店で、高校生が立ち寄るような店ではない。だがその手袋が気になったのは空に付けていた手袋がこの頃小さくなったことを気にしていたからだ。
××は寒さを感じないが、空は違う。あの子は自分のような異質な存在ではない。
「……空くん、大きくなった?」
「うん。一歳になった。どんどん大きくなっていくから……」
何をしているのか、何を考えているかを見抜いた未亜菜は××の家庭環境を完全に把握している。
伯父夫婦との家族になっていく最初の一年、一番心配してくれたのが未亜菜で毎週のように話をあれこれ聞き出してきた。
おかげで空がいつ生まれたかも、××がどれだけ可愛がっているかも全て知っている。
「今度家に行っちゃダメかな」
「え、うちに!? なんて言って!?」
「それは……××くんが自分で考えてよ。今まで私の家に何度も入れたんだから、いいじゃん」
そう言われるとこれがもう全く強く出れない最強のカードだ。
伯母は専業主婦なためずっと空と一緒に家にいるが、何と言って家に連れていけばいいのだろう。
友達だなんて。そう考えて、ようやく先ほど未亜菜が不満げだった理由が分かった。
「だってさ、ちょっとおかしくない? 私、ほんっとに一カ月に一回は空くんのこと聞いているのに、写真の一枚も見せてくれないなんて」
「ご……ごめん」
「受験が終わった後もさ、東京から帰ってきて何がどうだったとかもぜんぜん言わなかったじゃん」
「だってそりゃ、受かってるか分からんし」
「またまた……そんな顔して言う言葉じゃないよ」
同級生も5人しか受けていない日本で一番難しい大学だが、これで落ちていたらそれはもう3科目ほど名前を書き忘れていたくらいしか考えられない。
何問か自信がないものがあった程度だったので自己採点すらもしていない。
「初めて離れ離れになっちゃうね」
妄想でもなんてもなく、未亜菜と自分の間には何かしらの縁があると思っている。
そうでもなければ小学校一年生から高校三年生まで全部同じクラスということはあり得ない。
だがその縁も、流石に進路が違えば遠くなってしまうだろう。それは××にとってあまりにも受け入れがたい現実だった。
「…………」
お互いの進路が確定したら、今更気恥ずかしいがちゃんと付き合いを申し込もう。
伯父と伯母にも胸を張って紹介しよう。空くんにも会ってほしい。そう考えた時だった。
「ねぇ、あれ!」
「……!? おじさん……?」
伯父、伯母、それに空。家族そろってデパートに来ている姿を見て思わず未亜菜の手を引き隠れる。
今日は平日なのに何故だろう。有給をとるにしても、そういう時は××に伝えていたので不思議だ。
「あれ、空くん?」
「うん」
「そっか。なんでだろ。××くんに似ているね」
「……うん。俺もそう思う」
家電量販店に入った3人をどちらともなく追う。
伯父が少し不自然に自分を学校に行かせたのは、この家族3人で過ごすためだったのだろうか。
暮らし始めたばかりならそういう暗い想像も頭の中によぎったかもしれないが、伯父がそんな人間ではないことは良く知っている。
伯父が見ているのはノートパソコンだった。これなんかいいんじゃないか、と伯母と話し合っている。
「……。……! あれ、××くんの合格祝いを選んでいるんだ!」
「あ……!?」
未亜菜の方が先に気が付いたのは、そういう家庭の子だからだろう。
今までの人生でそんなものは無かったから発想そのものが××の中には無かった。
予備校などは特に行っていなかったが、勉強をしていて調べたいことが出た時は伯父に頼んでパソコンを借りることが何度もあった。
そのたびに、欲しいなら買うよと言ってくれたが遠慮して断り続けていた。本当は欲しいことは隠せていないかったのに。
「すごいね、みんなもう受かってるって思ってるんだ」
「これ……見ない方がいいよね」
「……そうだね。別の階でデートしよっか」
「!」
勢いに任せて腕を組まれ、一瞬脳が完全にショートした。
許容量を超えて幸福が溢れ、何も考えられなくなってしまったのだ。
暴力団に囲まれてフクロにされていた三年前は、こんな日が来るとは想像もしていなかった。
もうそろそろ過去を引きずるのはやめよう。前を向いて、言いたいことを言うようにしよう。
家族に、未亜菜に。ありがとう、大好きだと。
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デパートの屋上駐車場に停まっているその車は一見なんの変哲もない自家用車だった。
4人乗りで走行距離もそこそこの、高くも安くもない白い車。おかしいところなど何もない。
その車だけならば。
おかしいのは、全く同じ車種、同じ色の車が真隣に停まっていることだった。
ご丁寧にナンバープレートも1つ数字がずれているだけのその車は、持ち主でも分からない程に隣の朽名家の車とそっくりだった。
人間の悪意に敏感な者ならば、あるいは人ならざる者ならば感じ取ることが出来る。
邪悪の麝香。
『ナハ―スか!? ふざけるな!! なんだこれは!!』
完全に姿も形も悪魔になった××が車に近づこうとするも、透明な壁に阻まれて近づけない。
それはアニマも同様で、その手で透明な壁に触れて困惑している。
『まるで……世界の理が近づくなと言っているかのような……』
それは××も感じていた。あの車はナハ―スの仕業でも、この壁は違う。
この雰囲気は、判田の持っていた天叢雲剣と同様の、神聖なるもののそれだ。
ならば何故世界の理とやらが何の罪もない人間の命が消し飛ぶことを是としているのか。
考えている時間も無かった。
『そこをどけ!』
手を天にかざすと××の周辺で降っている雪が強くなり、アニマが気が付く前にその手に氷の剣が握られていた。
悪魔になった自分が持つ最大限の力の塊がこの剣だと、××は魂で理解していた。
何が何やら分からないが、もう理屈で理解できるところなど何段も飛んでしまっている。
剣を大きく振りかぶり、見えない壁へと向かい――――
『!?』
巨大な何かがぶつかり××は突き飛ばされていた。
霊体の自分を触れられる存在が介入してきたのだ。
『ウ――――』
それは、巨大な白い狼だった。体高だけで3mはあるその獣の目は血に飢えているかのように赤く、口元からは巨大な牙が覗いている。
大地をしかと踏みしめる四本の脚と身体には、憎悪の羽衣のように黒い炎が巻き付いていた。
地獄の番犬。そう表現されるべきものが、壁を守るかのように××の前に立ちはだかっている。
『ウォオオオオオオオオオオ!!』
大地をも揺るがすような強烈な遠吠えに呼応し地面から噴火のように黒い炎が飛び出てくる。
現世と別次元の霊なる世界はあっという間に黒い炎と雪で埋め尽くされた。
恐らくこの狼も悪魔なのだろう。罪を消すことが出来ず、理の奴隷になった哀れな悪の魂。
『邪魔をするなら、殺してやる!』
氷の剣は炎をも切り裂き白狼へと向かう。
剣の一閃を飛び上がって避けた狼の口から、黒い炎があふれ出していた。
『!!』
××の身体を覆う熊のような白い毛皮は思ったよりもずっと頑丈で、大噴火さながらの黒炎を全て防いでいた。
焔を裂き、爪の伸びた手を狼の喉笛へ突き出す。凄まじい反射神経で攻撃を避けた狼は炎の巻き付いた尻尾で強かに××の頭を殴った。
『……!? お前……』
山羊の頭蓋骨の上からでもなお意識を揺さぶられるような一撃。
暴力の塊から繰り出される容赦のないその攻撃は、ある人物を思い出させた。
『烈……!?』
『……弟だからな。気付くかァ……』
凶暴な獣の口から兄の声が漏れ、全身が総毛立つ。
地獄に堕ちているのは間違いないと思っていた。罪を後悔することも、罰を受け入れることはないであろうということも。
だが、もう人型ですらないではないか。
『なぜ邪魔をする!? 知っているはずだ!!』
『知っているとも。お前がここで、犯人を殺す気なのもなァ。例え消滅することになっても!!』
何故知っているのか――――判田と同じだ。破戒の申し子だったくせに、今や世界の理の使い走りになってしまった。
それが止めに来たということは。ならば家族を全て失うことは定められたことだったというのか。
『ふざけるな!!』
『俺はもともと地獄を受け入れていた。お前よりもずっと悪魔やってんだ! かかってこい!!』
烈が空中に吐いた炎が渦となり、××に向かってくる。
ああ、そうだった。考えてみれば、悪人ではあったが仕事は真面目にやっている男だった。
加減もないというのならば、こちらも遠慮などしない。
『ぬぅあぁ!!』
地面に叩きつけた氷の剣が砕け散り、氷雪嵐を呼び、瞬く間に拳大の雹が降り注ぐ大竜巻になった。
再び顕現した氷の剣を持ち、雹を避け続ける烈に振るう。
『はは! はっはっは!! こりゃスゲェ!!』
既に生物の反射神経では、目に映すことさえ叶わない速度の剣を避けた烈が、大人も丸呑みできそうな巨大な口を開く。
兄に首の肉を食い千切られた忌まわしい記憶――――差し出した腕に黒く燃え盛る牙が突き刺さる。
痛みを感じたのも一瞬。あの日のように、烈の口が凍り付いていく。
飛び退った烈が炎を吐き氷を溶かしていく。
『……おい、お前! どこの誰か知らんが、こいつを救いたいなら味方しろ!』
あろうことか烈は、傍観していたアニマに声をかけた。
言うに事を欠いて、一番馬鹿なことを言いだした。そう思ったのに。
『…………』
『なぜ……』
アニマは烈の側に立っていた。出会った時以来、ほとんど使ってこなかった悪魔の力を解放し、蔓を伸ばし地面に根を張っている。
『もう知っているはずだ。死の運命は変えられない。変えられるのは己の運命のみ。それより先は、死者の俺たちには過ぎた領分なんだ』
『足掻けば足掻くほどよく燃える』
アニマの、烈の、彼らの言葉の通り。地獄に堕ちてから結局何も変えられず順調に悪魔に成り果てていった。
母はもちろん、何も知らない人間の死の運命でさえも変えることは出来なかった。
『お前、お前ら……』
地面から飛び出した蔓に身体を縛られながら呪詛を吐く。
味方だと思っていたのに。この極悪人どもめ。
視界の向こうでカタギではない人間が数人駐車場に入ってくる。
伯西会幹部を狙った仁英会内過激派の犯行。ただ、悪い偶然が重なってしまい対象を間違え一般人が犠牲になってしまった。
わざとらしいほどに用意された言い訳に従って、朽名家の車に振動感知式の爆弾が仕掛けられる。
『うぉおおおああぁあああ!!』
蔓を引きちぎり、剣を痛いほど握りしめ突撃する。
二匹の悪魔が守る壁の向こうで、何も知らない朽名家が屋上駐車場に上がってきた。
****************************************
火災警報器と悲鳴の音が、遥か遠くに飛んでいた意識を僅かに呼び戻す。前後する曖昧な記憶。
別の階で食べ歩きをしていたら結局、家族に見つかってしまったんだ。何かを察した伯父と伯母は嬉しそうで、未亜菜は照れていた。
あえて『この子は?』と聞いてきた伯母に、答えたい言葉で答えられなかった。幸福に満たされた心からはそんな勇気も出てこなかった。
伯母が抱いている空を未亜菜がずっと楽しそうに構っているので、駐車場へ向かう彼らになんとなくついていったんだ。
こっちは自転車で来ているから、帰るなら一階の駐輪場に向かわなくちゃいけないのに。
大好きな人たちがみんないて、嬉しかったんだ。
車に乗り込んだ空くんに手を振って、伯母さんがドアを閉じて、それで、それで――――
「!!」
灰色の空から大粒の雪が降る。それは孤独へと戻る××を慰めるかのように、虚しく肌の上に着地した。
視界の端で炎がちらつき、雪が次々と溶けていく。
「ああああ!? 空くん!? 空くん!!」
砕け散ったガラスの向こう、車内で業火に焼かれる人影に手を伸ばす。
「ああ、ああ……おばさん、ごめんなさい……」
空の身体を持ち上げると、我が子を抱いていた伯母の腕が取れてしまった。
死体に謝るほどに混乱する脳は、焼け焦げていく腕の痛みを全く処理できていなかった。
「空くん? 起きて……ほら、雪が降ってるよ……」
炭が弾けるような音が腕の中から聞こえる。肉が焼ける異臭がする。
日に日に重くなっていた身体がやけに軽い。
どこまでも広がっていく未来に輝いていた瞳があった場所にはぽっかりと穴が空いている。
「××くん! 手を離して!」
遅れて意識を取り戻した未亜菜は、己の額から流れる血を拭う前にこちらの心配をする。
なら、ならまずは空の心配をしてほしい。こんなに大怪我をしているんだ。
「未亜菜、救急車を呼んでくれ! 早く!!」
「手を離して!!」
悪夢から守るように未亜菜が無理やり××を抱き寄せる。
その衝撃で腕から落ちた空は、地面に当たってぼろりと身体の一部が崩れた。
「いやだぁああああ!! 空くん! 空くん!! あああぁああああ!!」
顔中の穴という穴から血が流れ出るような激痛、額から奔った亀裂が目を割いて顔中に響き渡るような衝撃。
愛と幸福に満たされ、悪意も濯がれ優しい顔つきになりかけていた××の顔に再び凶暴な悪が宿っていく。
狂おしいほどの憎悪が滲んでいき、コップ一杯の水に墨汁を垂らしたかのように殺意が広がる。焦げ付いて煙の上がる拳を握りしめて血が滴る。
本物の悪夢は何も持たないことではない。手に入れてから失うこと。
こうして、悪意に捻じ曲げられた定めが流れるままに、××はこの星で最大の悪として覚醒してしまった。
********************************************
霊なる者がどうして現世を変えられようか。
抵抗の虚しさ、運命の残酷さ。そう、足掻けば足掻くほどによく燃える。
『烈……?』
刀身を伝って灼熱の血が垂れる。
最後まで自分を通すことは無かった二人に向けて振るった剣を、何故か烈は避けることもせずその身体に受け入れたのだ。
ケダモノに成り果てた兄の身体を氷の剣が貫き、視界の向こうで生前の自分が弟の死を前に発狂している。
『業』の文字が頭で踊る。
『ここまでが……俺の仕事』
『何を言っている……?』
『弟を助けない兄がどこにいる』
透明な壁の向こうの光景と烈の言葉が重なり意識が激しく遠のきかける。
怒りとも悲しみとも判別できないぐちゃぐちゃの感情。
氷の剣に何かが、烈の魂とでも言うべきものが吸収されていく。
『あんた、悪かったな。助かったが……最期くらい兄弟二人きりにさせてくれや』
『……分かった』
××の身体を拘束していた蔓が解かれ、アニマが地面に沈んでいく。地獄へと帰っていく。
残されたのは悪魔の兄弟という、本当に悪夢のような状況だ。
『お前なら、きっと運命を変えられる……』
『おい、烈……お前どうなるんだ……?』
横たわった烈の腹に刺さる剣を抜こうとするが、何故か抜けず今も烈から何かを吸い取り続けている。
大狼となっていた烈の身体がひび割れ、亀裂から光が漏れてくる。
『忘れるな、俺ら兄弟をナメたあの野郎のことを……絶対に、生まれ変わっても忘れるな! 必ずケリを付けろ。この光景全部目に焼き付けろ』
誰もが怒り悲しみ涙を流すこの場所は、悪夢悪夢と言いながら全てが現実。
たった一人の男の悪意により作り出された偽りの運命。
『分からせてやれ。俺らをこんなにしたこの世界に、一発喰らわせてやれ』
『!!』
剣が抜けたその瞬間、烈の身体は炎に包まれた。
罪の浄化などという生易しいものではない。用済みの悪魔を跡形もなく滅却する地獄の劫火。
『まぁ、こうなる運命だったが……悪くねえ気分だ』
『おい、待てよ! どこへ行くんだ!!』
『じゃあな……お前の中で見てるからな』
最後の一瞬、強烈な光を放った烈の身体は砂にしか思えないような灰になっていた。
この日、××は弟を殺されただけでなく、兄を殺してもいたのだ。
遅れて届く現世の警察のサイレンが響き渡る。地獄までも、その罪を追うように。
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どれだけ賢くても、自分の正体は分からない。
立て続けに降り注ぐ悪意と不運の理由も分からない。
だが、そういう人生なのだということはもう十分すぎるほどに理解出来た。
愛した人間は死ぬ。大切なものは全て壊れる。
ならば。
ならば。
俺の人生を滅茶苦茶にしたやつを全員見つけ出して報いを受けさせてやる。
「私を幸せにしてくれるって言ったじゃん!!」
卒業証書の入った筒が潰れてしまうほどに強く握りしめ、悲鳴にも似た声で未亜菜が叫ぶ。
そうしたかった。笑顔で卒業式を迎え、家族に改めて彼女を紹介したかった。
空っぽの家、大量の郵便物がはみ出したドア、孤独な桜街道。
一人ぼっちになった××を運命は祝福していた。
「俺と一緒にいたら君は不幸になる」
死者となり、己の人生を振り返ってもやはりこの言葉は全く間違っていなかった。
未亜菜が付いてきてくれても、仮に他に大切な人を見つけることが出来ても、××に定められた凶暴な運命は必ず全員破滅させ殺していただろう。
「…………。この花を私だと思って育てて……」
未亜菜が渡してきたのは瑠璃川家の庭に咲いていた白い花の種だった。
こんなものを持ってきているということは、未亜菜も別れを告げられることを予期していたのだろう。
包帯の下の腕は全く治っておらず、種を受け取った拳を握りしめると火傷からどす黒い体液が滴り落ちた。
才能は成功を呼び寄せ運命は破滅を呼び寄せる。狂った歯車はもう戻らない。
「は……花の育て方……分かるの……?」
なんとか取り付く島を探す未亜菜を見る××の目は、再び発症した不眠症のせいで充血し赤く染まっている。
染みついた隈は刻み込まれた怒りと恨みを四六時中表に出し、最早愛しい人に向ける優しい目すらも出来なくなってしまっていた。
『分からないって言え!!』
もう手遅れだと分かっていても、悪魔が将来の最悪の犯罪者の耳元で叫ぶ。
これほどまでに絡み合った糸を引き千切っても、最後は誰も幸せにならなかった。
××が口を開こうとする。記憶にある言葉をそのまま口にしようとする。
駄目だった、自分一人の力では結局何も変えられない。
誰かに助けを求めたいが、アニマは敵対した後もう二度と姿を現すことはなかった。
「君なら幸せになれる。俺なんかいなくても」
『行くな! 止まれ!!』
校門へと歩き出した××を必死に止めようとするが、熊と子供くらいの体格差があるはずなのに全く止まらない。それほどまでに18歳の自分がした決心は固かった。
『巻き込んだなら最後まで責任を取れ!』
そして××は大学で法を学ぶうちに気が付くのだ。
法は誰も守れないと。後から裁きを下すだけなのだと。闇に隠れる真に賢しい悪を引きずり出すことは出来ないのだと。
積み上げては壊され、また積み上げては壊される。そして悪を追ううちに××はまさしく最悪の災厄に成り果ててしまった。
『違う……違うんだ。未亜菜は幸せになりたいんじゃない』
いつそのことに気が付いたのか、自分でも分からない。少なくとも、何もかも取り返しが付かなくなってからであることは確かだ。
嘘をついていた訳ではない。だが、幸せになりたいなんてこの世界に生まれてきた全ての命が願うこと。
未亜菜がそれをあえて××の前で口にした理由。
『お前と一緒にいたかったんだ』
そう言えばずっと一緒にいてくれると思ったからだった。
一体どうしてそこまで自分に。何度も考えたが分からなかった。最早理屈で組み立てられる理由などないのかもしれない。
このまま一緒にいれば必ず悪意が未亜菜に手を伸ばし破滅をもたらすだろう。
それを知ってもなお、それでも構わないと彼女は願っている。根っこの部分を何も分かっていない少年の肩に手を置き、もう一度願う。
止まれ。行くな。
「…………」
やっと少年はその歩みを止めた。その顔には既に後悔が浮かんでいる。
ここまでしてようやく歩くのを止められただけ。
振り向かせなければ。走らせなければ。言わせなければ。
それでも一緒にいてほしいと――――
「雪くん!!」
その声を聞いた瞬間、その名を聞いた瞬間、『雪』を抱きしめる未亜菜を見た瞬間。
全てがひっくり返った。
これまで犯した罪、晴らした恨み、撒き散らした悪の全てが。
悪魔の証であった外殻が砕け散り、雪は己の名も人の姿も取り戻していた。
「行かないで! どうして行っちゃうの! 私をおいてどこへ行くの!? どこへも行かないで!!」
記憶にない言葉を一つ聞くたびに、霊体となった雪の身体が光に包まれていく。
「一緒に……ずっと一緒にいようよ、雪くん……」
その名を誰よりも、未亜菜に呼ばれたかった。
「……うん……未亜菜と一緒にいたい……」
固い決断もすぐに捨ててしまう愚かな若さ、生きていた頃の雪に決定的に欠けていたもの。
怒り悲しみ喜びが混ざり合い、身体をも溶かしてしまうような熱い涙を流した雪が未亜菜を抱きしめていた。
『何が……起きた……』
世界が光に包まれ徐々に何も見えなくなっていく。
違う歴史が次々と作られ、そこから先を見る権利が消えていく。
こんなことが起こるはずがない。どれだけ願っても他人の運命は変えられない。
僅かに己の行動を変えられるのみだったはずだ。
『アニマ……?』
視界の端、先ほどまで未亜菜がいた場所から、さらさらと光の欠片が黄泉の風に飛ばされるのを見て、無意識にその名前を口にしていた。
己の名も忘れた男が名乗ったアニマという仮の名前。魂の存在が名乗る名として妥当だったためそれ以上何も考えなかった。
(名前……!)
地獄に堕ちて誰もが忘れる己の名。あの悪魔が名乗る前に、確かに雪は未亜菜の名を口にしていた。
アニマなんて至極単純なアナグラムで出来た名前だ。彼女はその瞬間に己の名を取り戻していたのだ。
雪が未亜菜に名を呼んでほしかったように、未亜菜も雪に自分の名を呼んでほしかったのだ。
『未亜菜!!』
別の運命へと歩き出した若き自分を置いて、消えゆく世界で走り出す。
光る欠片が浮かび、砕け散って灰となり空へと流れていく。その中には見覚えのある枝や蔓があった。アニマの身体を包んでいた外殻だ。
そして、花壇に横たわる光る人影を見つけた。
『…………』
次の世界へと向かい始めた魂には、もう口も目も耳もない。
この魂が何者だったかを判別出来る要素は何もない。
しかし二人は同じ瞬間に気が付き、その魂は顔を上げた。
きっと手だったであろう部分を握ったつもりが、雪の手も最早形を成していなかった。
それでも構わず輪廻に戻りゆく魂のそばにしゃがみ込む。
『いつも……いつもいつも……』
飢えていた幼き日々も。友の1人もいなかった日々も。怒りと混乱に苛まれ世界を呪った日々も。
地獄に堕ちてからも。
『ありがとう……大好きだ……俺は……、俺は必ず――――』
勝手に悪の道を行った大馬鹿野郎の男をそれでも想い続けてくれた。
地獄に堕ちて、美しかった容姿も崩れていき、醜い悪魔へと変身した。それでも孤独な地獄で雪を待ち続けた。
全てはこの時のために。なぜそこまでして――――ああ、ようやく分かった気がする。
『何度生まれ変わっても君に逢いに行く』
きっといつかどこかの遠い世界で、未亜菜が未亜菜になるよりもずっと前に、そう誓ったのだろう。こうやって。
雪が次の雪になる前に。きっと絶対、全てを忘れてしまっているだろう。だが、魂に刻み込まれたその言葉が導きとなり、きっとまた向かう先で巡り合える。
記憶も愛も全て洗い流されていく魂が、最後に手を握り返してくれた気がした。
そして、永劫回帰のほんの一部が終わりを迎えた。
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世界は己の尾を食らう蛇。
姿を変え、形を変え、何度も巡る。
雪の女王の魂に、救いのあらんことを。
世に災いのあらんことを。
第一章 おわり
第二章は近いうちに投稿します。
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