羅雪本生譚
この世界を分かつ大きな宗教すらも生まれる前のことです。
その男は世界を旅し、ようやくこの地にたどり着きました。
太陽の昇る国に堂々と座す、神の住まう御山に。
「ようやく会えたな。預言者とやら」
その女はまるで男が来ることを知っていたかのように、男を澄んだ瞳で見つめていました。
彼女を預言者とするのならば、彼女が住んでいる山小屋はその名に比べてとても小さな物でした。
麓にある村の住人から聞いた奇跡の数々。死に向かうものの病を治し、天候を知り、普通の人間よりもずっと長く生き、民を導いたというその女。
それでも男は知っていました。彼女は預言者などではなく、まだこの世界に存在しないはずの『科学』を知った人物だということを。
時に人々の中に飛びぬけた頭脳を持つ人間が生まれることも男は知っていました。
そういった人間が人類の歴史を進歩させる。預言者の正体は、この時代の人間には理解できない理まで手にした女なのだろうと思っていました。
しかしそれでもまだ矛盾は残っています。
「……中へお入りください」
なぜこの女は、この日この時に自分が来ることを知って待っていたのか。
そこだけが解せない。それではまるで本当に預言者ではないか――――男は案内されるがままに山小屋に入りました。
「これは……。こんなことはあってはならない……!」
山小屋に入った男を迎えた数多の人影――――暗闇に慣れた男の目に入ってきたのは、無数の木彫り仏像でした。
こんなことはあってはならないのです。なぜなら、この時はまだ。
釈迦はこの世界に生まれていないのですから!
「お待ちしていました。願いの林檎を口にせし、時の旅人よ」
「……初めて見た。私と『同じ』生き物は」
長い長い時の旅の中で、1000年生きた人間や、1万年も地に根を張った大樹ならば見たことがあります。
しかし、この矛盾はたった一つの答えしかありえない。
この女は男と同じく、未来から過去へ、あるいは過去から未来へ、永劫の時の檻の中に閉じ込められているのです。
まだ存在しない釈迦仏の像を彫り続けるその女の正体は――――
「八百比丘尼。伝説ではなかったのか」
人魚の肉を食べて不老長寿を手に入れた尼の伝説は、数千年先の世界で日本各地に残っています。
それなのにその存在を誰も証明できなかった答えはいたってシンプルでした。
尼という存在が無い時代から生きていたから。それだけでした。
「……無限の退屈を晴らしたいのでしょう。知りたいのでしょう、その方法を」
「そうだ。すべて差し出せ。お前がこれまで辿ってきた生の中で得た宝を」
なぜ未来や自分の願いまで知っているのか。そこはもうどうでもいいことでした。
自分と同じ生物であるなら、彼女は学者であり医者であり哲学者。自分と同等か、それ以上か。この世の全てを識る存在に近しい。
これまでもあらゆる時代、あらゆる世界でこの退屈を殺す方法を探していました。
どこかで互いにすれ違い自分のことを知っていたのかもしれない。
自分と同じく無限の命を持つ存在からそれを聞き出すのはむしろ退屈を加速させてしまう。
そんなものは満足した後でいい、男はそう考えており、きっと八百比丘尼はそれも見抜いているのでしょう。
「三十年と、二百二十日後に。西の大陸で大雪が降り、一つの国が滅びます」
「天災の話を聞きに来たのではない」
「いいえ、あなたが聞きたいのはこの話であるはず。なぜなら、その国でたった一人生き残った赤子は、数ある天災の一つ、雪の化身だからです」
科学を極めた不死の男がそれでも手にできなかったもの。
地震、雷、津波、隕石、嵐、雪――――災害。
金にも宝石にも、女にも男にも最早興味はないその男にとって、最も欲しいものでした。
「西の大陸……インド……ははは……偶然か? 尼のお前がなぜその地を示す?」
男が取り出し八百比丘尼の首に突き付けたのは、この時代には――――いいえ、3000年先の未来にもまだ存在しない光の剣でした。
鉄でも抵抗なく切り裂くその剣に、人間が触れれば痛みを感じる間もなく死にます。
自分と同じ生き物には死など脅しにもならない、それは分かっていても男は怒りを抑えられませんでした。
なぜならば、八百比丘尼が示したその時のその地では、まさしく釈迦が生まれることになっているからです。
その地へ行けという言葉が、自分に対して何を意味しているか分からないはずがないのに。
「未来を知っているのだろう。なぜ私の願いを叶える。私の行いは、お前から見て罪ではないのか」
「罰します」
神の遣いのようなその言葉は、原罪を背負った男の魂に深く食い込みます。
「どうやって? 死すらも私には罰にならないというのに」
「あなたは失敗します。それこそがあなたへの罰」
「ありえない。どのような過程でも、向かっている限りは失敗ではない。いつかはたどり着く。この世のありとあらゆる生き物にとって、その『いつか』が遠すぎるだけ。私はたどり着く。無限の時間があり、何より私は誰よりも執念深いから。なぜなら私は――――」
「 」
男の言葉を先に口にした八百比丘尼の答えは、これまで男が旅をしてきた永い時の中で、最も男を驚愕させました。
「手に入れてみなさい」
「ありえない。ありえない! 何者だ。私の正体を知るものは世界のどこにも存在しない!」
世界は広く、自分と同じく願いの林檎を口にした者や無限に近い命を持つ存在がいてもおかしくはないと思っていました。
それでも、それでも男の正体を知る者だけはいてはならないのです。
なぜならそれは世界の始まりまで遡るから。
まだ人間が地上に生まれる前、地獄という概念すら出来る前に生まれた生き物がその男でした。
最初の不老不死は絶対に自分のはずなのです。
「あなたは負けます」
「……何に? 命の輪廻を知っている。善悪のはかなさを知っている。だから何を奪うのも、壊すのも戸惑いはない。死も負けとならないのに、何に負けるのだ」
「 」
男は失望しました。
ひょっとすれば、自分よりも格上――――それこそ神にすらもほど近いはずの不死の存在が、そんな陳腐な答えを口にするとは想像すらもしていなかったからです。
この先もずっと、世界が終わるまで所詮人間の偶像にすがり続ければいい。
男はそう吐き捨て西の大陸へと旅立ちました。
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その夜、王は耐えきれないほどの寒さに目を覚ましました。
異様なまでに静かな夜、口から出る白い息だけが動く部屋。
王は着れるだけ着物を着込み部屋から出ました。
「なんだこの寒さは……衛兵! 衛兵! ……誰かいないのか!!」
いくら深夜とはいえ、交替で番をする兵士は起きているはずなのに、王の呼びかけに誰も答えません。
窓から外を覗くと雪が降っています。雪が降っているのを見るのは生まれて初めてでした。
何か、何かとても嫌な予感がします。
消えかけのろうそくを手に取り、心もとない火で暖を取りながら玉座の間へ向かいます。
「……何者だ」
凍り付いた玉座の隣に誰かが立っています。
王国一の戦士よりも背が高いその人物は、ヒマラヤの守り神と崇められた山羊の頭蓋骨を被り、北の大地の暴君と恐れられた白い熊の毛皮を羽織り、悪魔そのものの見た目をしていました。
「ごきげんよう、王よ」
背筋が凍るような女の声。
その者の名を、王は知っていました。
「貴様は……雪の女王か……!?」
国々の王族を震え上がらせていたその女の名は、雪の女王・ヴァーリィバルフ。
八百比丘尼が預言した雪の化身、堕ちた災厄。
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始まりは、大雪でした。
広大な砂漠にあった砂の国はある夜、歴史上最悪の大雪に襲われ一晩にして全滅しました。
全てを飲み込む雪をかき分けてやってきたのは、砂の国と数百年の親交がある氷の国の人々でした。
誰一人として生き残っていない中で、せめて王族だけでも弔うために氷の国の使者たちは砂の王宮に向かいました。
当然、王も王妃も絶命していました。
王妃は雪の一族が砂の国に嫁がせた貴族でもありました。
使者たちが氷の国に連れ帰ろうと王妃の体に触れたとき、気が付きました。
王妃が身籠っていたこと。まだ胎の中の赤子は生きていることに。
そして砂漠の王族の子は生まれ、氷の国の後継者として育てられました。
一族全ての命を吸い付くし生まれたその赤子は、運命を見通す千里眼と神通力を持った羅雪。
その赤い瞳の奥には、灰のように雪が降りそそぐ絶滅の未来だけが映っていました。
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氷の国の王と王妃が凍死し、まだ幼いヴァーリィバルフが即位したのが20年前。
それからというもの、氷の国には温厚だった雪の民はいなくなり、残ったのは血に飢えた戦士ばかり。
友好的だった国に攻め入り氷の国は次々と近隣国を滅ぼしていました。
そう、恐ろしいのは、領土を広げているわけではないということ。
文字通り、氷の国が攻め入った国は凍り付き滅びていたのです。
「私の……民はどうした……」
雪の女王が自分の王座を凍らせている。
それはもう問うまでもなく、この国が落ちたことを意味していました。
「そうか、臣民が一人もいないのならば、貴様はもう王ではないのだったな」
玉座の間の暗がりをよく見ると、氷の国の戦士たちが凶暴な笑みを闇にたたえながらこちらを見ています。
六本腕の怪人ワンダリンデ、通常の戦士の4倍の体を持つ巨人ゲルド。
数こそ少ないですが、一人一人が一騎当千の力を持つ強靭な戦士たちでした。
「頭を垂れろ。膝をつけ。せめて一息にその首、落としてやろう」
自分の国が負けたことはもう分かっています。
ここで許しを請い生き延びたところで、民もいない自分は王でもなんでもない、ただの老人です。
せめて最後まで王らしく、誇らしく――――首を差し出した瞬間でした。
「王――――ッ!!」
燃え盛る炎が叫びながら飛び込んで来た、というのも見間違いではありませんでした。
「兵長か!!」
国一番の戦士が、あろうことかその身に火を付けて燃え盛る剣をヴァーリィバルフの背に突き立てたのです。
心臓を確実に貫いた刃、しかしそれでも止まない悪寒。
なぜ、氷の国の戦士たちは、全て見えていたはずなのに止めもせず笑っていたのか。
身体を燃やしてまで王を救おうとした兵長とまるで真逆ではありませんか。
「…………。焼け死ぬのは苦しかろう」
ヴァーリィバルフが己の胸を貫いている剣を掴んだ瞬間、兵長の身体を包んでいた炎は消えてしまいました。
雪の化身ならば火に弱いだろう、とそんな儚い空想を一蹴する怪物。まさに天災そのもの。
「そこで凍え死ぬがよい」
「お、王……お逃げください……」
氷の彫像になってしまった兵長の最後の言葉もむなしく、王の手足は地についたまま既に凍っています。
ことも無げに引き抜かれた剣には一滴も血がついていません。
凍り付いた兵長に向き合ったヴァーリバルフは山羊の頭蓋骨で出来た兜を外し、牙の生えた口を開きました。
「ひっ……!」
世にも恐ろしい、人が人を食らう音が暗い玉座の間に響きます。
兵長の身体を半分ほど食らったヴァーリバルフの赤い瞳が王を冷たく射貫き――――
王の首は、交易に用いられる三又路に惨たらしく晒されました。
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神々の山嶺、ヒマラヤ山脈。
そこに住まう少数の山岳民族が一つになって出来たのが氷の国でした。
数は少なくとも、山々で足腰を鍛えた彼らは世界最強と言える力を持っていました。
周辺国の脅威でありながら氷の国が攻め落とされなかったのは、山々が自然の要塞として立ちはだかるから。
もはや友好国もない氷の国に客人は訪れないだろう、と思われていました。
その日、ある男がやってくるまでは。
ある国で最強と謳われた戦士がワンダリンデに引きずられてきました。
六本の腕で拘束され、口を布で塞がれた戦士はなすすべもなく、女王の前に頭を垂れました。
「…………」
巨人ゲルドが一息で戦士の首を刎ね、噴き出した血が戦士の前に置かれていた器に満たされていきます。
ブドウのワインと血とが混ざりあい赤黒く禍々しい色になりました。
ヴァーリィバルフは並々と注がれた血のワインを一口で飲み干していきます。
「我が女王……此度の謁見、光栄至極でございます」
セコイアの王座の前で平伏している男は、そんな血の冒涜を見ても全く恐れている様子がありませんでした。
ヒマラヤの山をいくつか超えてきたその男は、ヴァーリィバルフも見たことがない着物・履物を身に着けていました。
「面を上げよ。名を名乗れ」
「ジャーメインと申します」
「何用か。我が名を知らぬわけではあるまい」
一言でも言葉を過てば、その瞬間にお前は死ぬ。
そう告げているかのように、ジャーメインは氷で出来た剣に囲まれていました。
それだけではありません。雪の女王の懐刀であるワンダリンデとゲルドがジャーメインを一息で殺せる距離にいました。
「武器を……武器をお持ちしました。氷の国の全兵士分です。お望みならば、それ以上も。いくらでも、お持ちいたします」
ジャーメインが差し出した剣を、ワンダリンデが代わりに受け取りました。
光り輝くその剣に向かって氷の剣を向かわせますが、触れた瞬間に蒸発してしまいました。
ヴァーリィバルフの慧眼は、その剣が今の技術で生み出せるものではないということを見抜きました。
別の言い方をすればジャーメインの持ってきた武器は全て後の世でオーパーツと呼ばれるものだったのです。
また、彼が氷の国の兵力を知っている理由も謎でした。
「望みはなんだ。申してみよ」
「これはこれは……恐れ多い……バイシャ(※)が王族に献上品をお持ちすることに見返りなど……」
(※……ヒンドゥー教における身分の一つ。主にバラモン(司祭)、クシャトリヤ(王族)、バイシャ(商人)、シュードラ(奴隷)の4つに分類される)
「我が前に人間も畜生もすべて平等である。天災を前に身分を持ち出すこと、有り得べからざる不遜と知れ」
身分としては王族のヴァーリィバルフは、しかし自分が雪の化身だと知っており、命尽きるまでこの世の全ての命を奪い続けることが天命だと信じていました。
そして同時にヴァーリィバルフは目の前の噓つきの男が、バイシャなどではないことも見抜いていました。
「それでは恐れながら……カピラヴァストゥを滅ぼしてほしいのです」
「カピラヴァストゥだぁ? あそこにゃ偏屈なバラモンとシャカ族とかいう陰気なクシャトリヤしかいねぇぞ」
ヴァーリィバルフの代わりに答えたワンダリンデは、六本腕の異形ゆえにカピラヴァストゥを追われた戦士でした。
地理的にも遠く、兵力も少なく、魅力的な宝も生産物もない。
略奪を目的とした場合、攻め入る理由の少ない小国でした。
「まさしく、そのシャカ族を徹底的に殺し尽くしてほしいのです」
ヴァーリィバルフの紅い瞳がジャーメインの魂までも暴いていきます。
恨みではありません。かといって適当な嘘でもありません。
ジャーメインに感じるのは、あるいは自分と近いどこまでもどす黒い悪意でした。
ただ生きて死ぬだけの人間にはあり得ない永い目的意識と、損得を超えた悪。
「貴様も、人間ではないな」
氷の剣がジャーメインの喉元に突き付けられます。
特に理由なくここで殺し、武器だけを奪い取ってもよいのです。
そして不思議なことに、ジャーメイン自身もそれでもいいと考えていることが表情に浮かんでいました。
目的意識と矛盾する命への執着の無さ。
人間ではない。もしかすれば、この世の他の生き物のようにただの命を持つ存在ですらないのかもしれません。
「とんでもございません。女王様と比すれば……わたくしは、小さく、卑しい存在でございます」
謙遜しながらも、ジャーメインは自分が人間ではないことを否定しませんでした。
「ならば小さく卑しい存在よ。しかし、人間ではない存在よ。命を持った天災を前にして、何を思う。さらけ出せ」
「…………。天災は、幾度となくわたくしの全てを奪ってきました。しかし……王も奴隷も、動物も植物も、全て平等に破壊するその力は神々しく、美しい。『奪わなければ、奪われる』この世界の頂点。ああ、小さく卑しいわたくしもそこに近づきたい! だから、わたくしは、命尽きるまで奪い続けるのです」
己の命すらも捨てようとしていたのに、それはまるでこの世の全てを手にしようとしているかのような口ぶりでした。
「よかろう。次はカピラヴァストゥを滅ぼす」
雪の女王は、魂に食い込んだ毒牙にだけは最後まで気が付かず、謁見の時間を終えました。
その先で、天災としての力を失うことになるとも知らずに。
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雪の女王がその地の覇者となるためには、二つの大国との戦いは避けて通れない道でした。
コーサラ国とマガダ国。いずれも音に聞こえた強大な国であり、領土を巡って長く衝突しあっている国でもありました。
かつてどちらの国も氷の国に使者を送ってきたことから、この二国が氷の国の戦力を欲していることは知っています。
使者は全員ヴァーリィバルフに食べられてしまいましたが、未だに勢力図は塗り替わっていません。
この二つの大国を超えた先の地に、カピラヴァストゥがあります。
コーサラ国の吸収圧力に耐えながら、なんとかマガダ国と交流を続けているという、吹けば飛びそうな国です。
しかし一方で陸路での交易の要となる国でもあり、二国にとっては重要な国でもありました。
カピラヴァストゥを落とし、補給路を断ち、氷の国と挟み撃ちにすればコーサラ国もマガダ国も攻略が見えてきます。
(しかし、如何にして進軍するか?)
二つの国を避けて進む道はあまりにも大回りで、しかも砂漠を通らなければなりません。
いかに氷の国の戦士たちが屈強でも、その後に国攻めを行う体力は残っていないでしょう。
その間の地を通っていくしかない。ヴァーリィバルフはその日、侵攻の一手目として一人で偵察に来ていました。
谷間の地、カティディシュ。
コーサラ国とマガダ国が本格的に戦争を始めるのならばここが戦場になるだろうと言われている地です。
少数のクシャトリヤとシュードラしか住んでおらず、日中でも僅かにしか日が差さない暗い土地でした。
全体として陰気な空気がそういった者たちを呼ぶのか、怪しげな祈祷師や盗賊かぶれも多く、ヴァーリィバルフがその異質な姿で歩いていても呼び止める者は――――
「お花いりませんか?」
「…………?」
ヴァーリィバルフの人生で一度も聞いたことがなかった類の言葉であったため、それが自分に対しての言葉だと理解するのに時間がかかりました。
そこにいたのは自分の半分くらいの年齢であろうシュードラの少年でした。
痩せた身体にボロ衣を纏い、おまけに目が見えていないのか粗末な木の杖を手にしながら、こちらに花を差し出しています。
「花だと……?」
名も知らぬ桃色の花を思わず手に取りますが、みるみるうちに凍っていきました。
元々氷の国には花は咲きません。植物は短い草と硬い木しかありませんでした。
よく育てられているようですが、売るにしても一番売るべきではない相手です。
「もしよかったら……――――!」
少年が言葉を言い終える前に、優しく風が吹き、何かに気が付いたのか少年は地に頭を付けて平伏していました。
「クシャトリヤの方だと気が付きませんでした。ごめんなさい」
「よい。全ての命は我が前に平等である」
バラモンではない、クシャトリヤでもない、シュードラの主でもない。貴様らの全てを奪う者だ――――そう宣言して氷の剣で目の前の奴隷を真っ二つにしてしまえば!
三千世界を巡る旅に出ずとも済んだのに。
「もしかして、王族の方ですか」
言葉から勘違いしてしまったようですが、それはそれで間違っていませんでした。
砂の王の子であり、氷の国の女王。本来であればシュードラなど言葉を交わすことも許されない王の中の王です。
「私は氷の国の女王だ」
「氷の国……?」
大陸中に轟く悪名ではありましたが、ヴァーリィバルフが直接手にかけるのは王族と強き戦士であり、その他は大雪を降らせて全滅させてしまいます。
各国の王族たちはその名を知っていても、流石にこんな半分見捨てられた地のシュードラにまでは届いていなかったようです。
「花を買おう。手を出せ」
「こんなにもらえないです!」
ヴァーリィバルフが渡したお金は下手をすれば彼の家族ごと買えてしまうほどの大金でした。
「私には必要のないものだ」
氷の国では、それどころか、ヴァーリィバルフのそばでは一時間も経たずに凍り付いてしまうたくさんの花が入ったかごを手にします。
「氷の国って……どんな花が咲くところですか?」
「私の国に花は咲かない。いつも雪が降っているから」
「次、もしも来てくれるなら……雪の中でも咲く花を見つけておきます」
「…………」
そんなものあるものか。別に要らない。
後になればそんな言葉も浮かんできましたがなぜかその時は少年の言葉を否定することができず、それは無言の再会の約束となりました。
雪の女王ヴァーリィバルフは己が天から堕ちた意味も知らず、ただただ暴虐の限りを尽くしていました。
凍り付いた花を見つめる雪の女王の目は赤く、その日生まれて初めて疑問に思いました。
なぜ天災たる自分がこの世界に生まれたのだろう、と。