この地の物語は聖なる歴史として、世界中の人間に知られています。
ゴータマ・シッダールタこと釈迦がカピラヴァストゥで生まれるからです。
しかし、その聖なる歴史に氷の国の名はありません。
ヴァーリィバルフの名も、カティディシュの名もありません。
何かが、本来あるべき歴史を違うものに変えていたのです。
そんなことはつゆとも知らず、また部下も連れずにヴァーリィバルフはカティディシュに向かっていました。
前回は偵察という名目でしたが、今回は何も理由はありません。
あえて言えば何か妙な胸騒ぎがヴァーリィバルフを突き動かしていました。
「おい、そこのバケモン。止まれ!」
「…………」
カティディシュの入り口まであと僅かのところで見た目からして野盗であろう男たちに呼び止められました。
武器を持った男が5人に、犬まで連れています。
穏やかな用事ではないことは明らかでした。
「覚えてるぜ、お前。パティに大金払っていた奴だ」
「どこぞの貴族様か知らんが、俺らにも恵んでくれ」
(……パティ…………)
あの花売りのシュードラの名前に違いありません。
そして同時にこの野盗たちこそが胸騒ぎの正体だと気が付きました。
主人の命令を受けて、凶暴な犬たちがこちらに向かってきました。
「畜生ども……何に牙を向けている」
ヴァーリィバルフがひとにらみしただけで犬たちの動きは止まってしまいました。
それは歴史上限られた者のみが持っていたとされる神通力でした。
祝福されて生まれた聖人たちは時に人だけでなく動物をも従える能力を持っていました。
もっとも、ヴァーリバルフのそれは聖人たちの持つ愛や徳の高さによるものではなく、天災として死の本能に訴えかけるものでしたが。
「おい、なんだ!? やめろ、やめろって!!」
犬たちが殺意を持って主人に噛みつきました。
そのうちの一匹が喉笛を食いちぎると同時に、ヴァーリバルフは別の野盗の心臓を素手で抜き取り己の口に放り込みました。
「非常に不快な味だ。やはり喰らうならば鍛え上げられた戦士の肉に限る」
いつの間にやら空中に浮かんでいた氷の剣が野盗たちの身体を次々と切り裂いていきます。
そのうちの一人が落とした袋は、先日パティに渡した金に違いありませんでした。
僅かな時間で死肉散らばり血に染まった地の上で、先ほどまで生きていた野盗の肉片を蹴飛ばして、ヴァーリバルフはパティに出会った場所に向かいました。
「…………!」
道端で倒れているその少年はパティに違いありませんでした。
それにしても、周りのシュードラたちも見ているだけで助けもしないとは、心の底まで奴隷になりきっている連中だとヴァーリバルフは蔑みました。
「パティ……しっかりしろ」
頬に剣の柄でしたたかに殴られた痕があり酷く腫れています。
凍り付いた手でパティの頬に触れるとやがてパティは意識を取り戻しました。
「…………。女王様……? ……ごめんなさい、お金取られちゃった」
「金なら取り戻した。……立てるか」
パティの杖はすぐに見つかりましたが、かわいそうに、半分に折られていました。
目の見えない子供の杖を折り、馬乗りになって殴りつけ金を奪ったのだと想像すると――――もっと細切れにしてやればよかったと思いました。
仕方なくパティの手を握り立たせます。
(……! あたたかい……)
誰かの手を握ったのは、初めてのことでした。
「女王様、あいつらと戦ってケガしたの?」
「あんな野盗ごときが私を傷付けられるものか」
「嘘だよ、息に血のにおいが混ざっている。斬られたんですか? 矢が刺さった?」
「!」
山羊の兜の下、ヴァーリバルフの口からは今もまだ野盗の心臓を喰らった血が滴っています。
目が見えない分、他の感覚が優れているのでしょう。
人を食ったからだと言い捨てることは――――どうしてか出来ませんでした。
「僕の家に薬あるから……来てください」
「…………」
否定しないでいるうちに話は進んでしまいました。
ここでパティを道端に放り捨ててもよかったのですが、それでは何のためにここに来たのか分かりません。
パティの手を引きながら彼の住むという家へと向かいます。
(パーリヤたちか……)
向かった先は不可触民(パーリヤ)と呼ばれるカーストの外で穢れを背負う者たちが身を寄せ合って暮らす村でした。
パーリヤの人々はこちらを見て恐れるかのように隠れています。
不思議なのは、ヴァーリィバルフの姿を見てそうしているのではなく、パティを見て避けているように見えることでした。
「ここまでくれば、大丈夫。僕の家もわかります」
ついたのはパーリヤたちの村のはずれでした。奥にはパティが育てているであろう花畑が見えます。
パティが向かったボロ家からから濃い死の気配がします。
(あれは……私と同じ災厄……)
あの気配は全ての命を奪うあらゆる災厄の一つ、疫災の影でした。
どうやら疫災も雪災の自分と同じくこのあたりの地を狙っているようです。
(いや……もういないか)
疫災の影はコーサラ国に伸びており、もう向かった後でした。
ヴァーリィバルフが何かせずともコーサラ国は滅ぶ運命にあるのかもしれません。
(親が疫病にかかり主人に捨てられたか)
シュードラがパーリヤの村に暮らしていることが不思議でしたが、ようやく理由がわかりました。
パティが避けられるのも無理はありません。もしも疫病にかかってしまえば、王族ですらなすすべなく死ぬのですから。
きっとその親を看病するために、幼く目も見えないのにパティは花を売っているのでしょう。
よく見ると畑の花々の中に大麻の花が見えます。
薬ではありませんが、苦しみを和らげるために使うこともあるものです。
「…………」
どれだけ金があっても、苦しみを和らげても、近々死ぬことは免れませんが。
新しい杖を手にしてパティが家から出てきました。
「女王様、ありがとうございます。これ……」
「これは?」
使うことのない傷薬と一緒に渡されたのは植物の種でした。
「それ、雪の中でも咲く花です。僕はうまく咲かせられたことないけど……女王様の国なら花が咲くかも」
「…………。やってみよう」
ヴァーリィバルフにとって生命とは、奪うもの。
天災としての在り方が壊れ始めた瞬間でした。
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ワンダリンデは退屈していました。
カピラヴァストゥを落とすために、兵を適切な位置に移動させ配置させている途中ということは理解していますが、ここしばらくは全く戦に参加していません。
六本ある剣を研ぎ続ける毎日は、生まれながらの戦士であるワンダリンデにとっては耐えがたい苦痛でした。
「女王ォ――――、女王サマよ――――次の戦はいつかね――――?」
氷の城のどこかにいるはずのヴァーリィバルフを探してワンダリンデが歩いていると、突然巨大な手で腰を掴まれました。
「…………」
「てめぇ、ゲルド! でかい石像かと思ったぜ」
全身に鎧を身に着けた巨人が、廊下の暗がりで静かに座っていました。
ゲルドはいつも女王のそばにいるので、逆に言えばこのすぐ近くに女王はいるはずです。
ゲルドが座っている廊下の先の庭に女王がいました。
「なにしてんだありゃぁ……? いてぇ! 離せよお前!」
ヴァーリィバルフの元に駆け寄ろうとしたら更に力強くゲルドに制止されました。
ワンダリンデの目には、世界最強の生物であるはずのヴァーリィバルフが、花壇の前で土をいじくっているようにしか見えなかったのです。
「どうしちまったんだ、うちの女王サマは」
「…………」
「気にならんの?」
「…………」
「相変わらず何も喋らねえんだな。まぁ、何してようがあの人が強ければそれでいいけどよぉ……――――!」
ヴァーリィバルフがいつの間にかすぐそばに立っていました。
「何か御用で?」
「…………。花は…………」
「え?」
「いや、いい。貴様らに聞くのが間違いだった」
花という言葉は、大災害の化身であるヴァーリィバルフとまったく正反対の場所にあるものであるため、ワンダリンデが己の耳を疑っている間に女王はまた一人でどこかへ行ってしまいました。
「…………」
「なぁ……。最近、雪があまり降らないな」
「…………」
ゲルドは静かに頷きました。
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パティの花畑では相変わらず見事に花々が咲き誇っていました。
ヴァーリィバルフが氷の国で植えたいくつもの花の種は、芽を出すことすらもなかったのに。
「それはきっと、それがただの土だからです」
「どういうことだ」
どうしても花が芽を出さないことをパティに伝えると、当然のことのようにパティは話し始めました。
それはもうほとんど戦士しかいない雪の一族からは決して得られない知識でした。
「ほかに花が咲かなくて、動物もいないならその土には命がない。次の命を育てられない」
「ならどうすればいい」
「これ……撒いてみてください」
パティから渡された袋の中には細かく砕かれた貝殻が入っていました。
もともと命だったものを撒けば土は次の命を育みます。
その袋を受け取る代わりに、またヴァーリィバルフは大量の金が入った袋を渡そうとします。
「必要ないです、みんなが捨てたゴミから作ったものだから……」
「…………」
受け取ってほしい、その金で腹いっぱい食事をしてほしいと思いましたが、また誰かに盗まれるかもしれません。
パティには財産を守る力すらもありません。
ゴミを再利用しているというよりも、使えるものが他のシュードラやパーリヤですらも捨てるようなゴミしかないのです。
ならば連れて行ってしまえばいい――――出来るわけがない。
相反する二つの思いに苛まれたその時、ヴァーリィバルフは濃厚な死の気配を感じました。
「…………!」
パティの家から立ち上る黒い影。疫災が人間を憑り殺した時に出てくる呪いと穢れの証です。
「……!? お母さん!!」
何かしら死の気配に気が付いたのか、家に向かうパティを追いかけました。
はたして、初めて見たパティの母は、予想通り疫災に憑りつかれた者の痩せた顔をしており、全てを忘れたかのような表情で眠るように亡くなっていました。
「お母さん! お母さん!!」
「…………!」
ヴァーリィバルフの運命を見通す千里眼はパティの母の死因を即座に見抜きました。
この疫病は主に腹と頭を破壊し死に至らしめます。
しかし、パティの母の死の影は喉元から上がっていました。大麻依存症による呼吸器の障害です。
どんな薬でも摂取しすぎれば毒になる、そんなことはパティも分かっていたはずです。
苦しむ母の懇願を断れなかったのでしょう。母の死因も知らず、パティは母の遺体に縋り付いて泣いています。
(なぜ悲しむ? たかが親を失ったくらいで――――)
生まれた日に生みの親は死に、拾い育ててくれた雪の王と先代の雪の女王も物心が着く前に凍死してしまいました。
(…………私は)
3歳で即位しましたが、その頃にはもう普通の人間の大人と同じくらいの体格をしていました。
そこから20年、ひたすらに他国から何もかもを奪い続け、雪の一族は減っていき、代わりに血に飢えた戦士が集まりました。
(親の顔すらも知らない――――)
貴い血族であるからこそ、支配者となりましたが、誰の目から見てもヴァーリィバルフが化物なのは間違いありませんでした。
誰からも畏れ敬われていますが、誰からも愛されたことありません。
シュードラですら知っている当たり前の愛というものを全く知らなかったのです。
ヴァーリィバルフはその先を考える前に、パティの顔を掴み光のない目に触れていました。
「――――!? あっ、ああっ!?」
「……母の顔を見てやれ」
パティの目が、見えるようになっていました。
せめてこの子供が己の身を守れるように。愛する存在を見ることができるように。
天から授かった神通力を、誰かのために使ったのは初めてのことでした。
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病気になどなりようもないヴァーリィバルフは、パティが止めるのも聞かず彼の母を抱え畑のそばに埋めてあげました。
誰かを埋葬するというのも初めての経験でした。
「花は、いいにおいがするから育てていました。でも……こんなにきれいなものだったんですね」
空、太陽、花、大地。パティが初めて見るこの美しい世界は、母を失った絶望をいくらか紛らわせてくれているようでした。
「花の育て方を教えてくれたの、お母さんだったんだ……。ここに植えれば、また新しい命になるから。たくさん花が咲くから」
「……そうか。そうなるといいな」
「いつか、庭にたくさん花が咲いたちゃんとした家に暮らしたいな」
(…………)
ささやかな夢ですが、パティがシュードラである限り、つまり生きている限りは不可能でしょう。
パティだってそんなことは分かっているはずです。
ならば一緒に来いと言いたいことにも、言えない理由にも、ヴァーリィバルフはもう気が付いていました。
女王だから、災害だから、そんな理由ではなく――――ただ、恥ずかしかったのです。
一緒に城で暮らしたいと少しでも考えていることを、その本人に知られると想像するだけで頬が熱くなりました。
初めての人間らしい感情は、どうしてか身体中に灼けるような痛みをもたらしました。
まるで凍り付いた心臓に宿った熱がヴァーリィバルフの身体を溶かそうとしているかのよう。
そんな痛みが思い出させましたが、とてもお腹が減っています。
前にカティディシュで野盗の心臓を口にして以来、人間を食べていません。
自分はいつからか――――パティと出会ってからおかしくなっている。
ようやくヴァーリィバルフは自覚しました。
「女王様、その頭はなんですか?」
「山羊の頭だ」
「どうしてそんな恐ろし気なものをかぶっているのですか?」
「私の顔はもっと恐ろしいからだ。……見たいか?」
怪物の素顔を晒し、パティがヴァーリィバルフを恐れ逃げだしたのなら、おかしくなってしまった自分も元に戻れると感じ、その言葉を口にしていました。
止まらない好奇心をその光る目に浮かべ、パティは大きく頷きました。
「さぁ、よく見ろ」
その髪と肌は雪のように真っ白でした。
目と唇は血のように赤く、鋭い牙が外気に触れており、角まで生えています。
殺戮を繰り返すうちに刻まれた黒い戦紋は呪いのように顔から始まり身体中を蝕んでいます。
純白の戦乙女とでも言えば聞こえはいいですが、その時代の成人男子の倍近い身長も相まって紛うことなき化け物でした。
あるいは場所や時代が違えば神のような美しさと崇められたかもしれません。
ですが、この時代のこの地では隠さなければならないほどの異形だと、ヴァーリィバルフは知っていました。
「爪が長いだろう。牙が鋭いだろう。人を引き裂き喰らうからだ。私の好物は戦士の肉だ!」
いっそ醜い部分をさらけ出すかのように、隠していたことも全て明かしました。
さあ、恐れ慄き逃げまどえ。たかが一人死んだからなんだと言うのだ。
この地も、大陸もいずれ全て滅びるのだから――――パティの答えはヴァーリィバルフが全く予想していないものでした。
「花かんむり……」
「――――!」
山羊の頭蓋骨の中に隠していたのは、花かんむりでした。
パティと初めて出会った日に買った花を飾るわけにもいかず、かといって捨てることもできませんでした。
どうすることもできずヴァーリィバルフは寝室で一人、花を編み兜の下で頭に戴いていたのです。
ヴァーリィバルフの発する冷気で凍り付いた花かんむりは、雪の女王の絶対性を表すティアラのように輝いていました。
「きれい……!」
女王は完全に壊れてしまいました。
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お腹が空いていました。
とても空いていました。
人間を食べなければ、この飢えも乾きも満たされません。
もう数か月もまともな食事をしていません。
「…………」
玉座に座り、山羊の頭で顔を隠しながらヴァーリィバルフは苦しんでいました。
人間が食いたい、だけどもう食べたくない。
パティに血なまぐさいと思われたくなかったのです。
視界の端でゲルドが動きました。
「女王、空腹ならば私をお食べください」
「いらぬ」
「ゲルド……お前、女だったのか!?」
付き合いが長いはずのワンダリンデが驚いています。
ヴァーリィバルフもゲルドの声を聞くのは実に10年ぶりでした。
遥か西の地から旅をしてきた彼女を拾った日以来のことです。
「……それが何か問題か」
「待て待て。待て。そりゃどうでもいい。女王様、俺を食ってくれ。きっとこいつより食いでがあるぜ」
「いらぬと言った」
「いいや、どうしても食ってもらうぜ!」
己の腕のうちの一本を他の五本で掴んだワンダリンデは覚悟を決めた表情の後に、悲鳴とも雄たけびともつかない声をあげながら腕を引きちぎってしまいました。
「いってぇ……。……もう……元には戻らねぇ。さぁ、食べてくれ。一本と言わず、何本でも。お望みなら身体ごと」
「…………!」
椅子から立ったヴァーリィバルフはワンダリンデの腕を受け取りました。
ようやく女王が食事をするのだと、苦痛の中で安堵した表情のワンダリンデの肩を掴み、千切れた腕を元の場所に押し付けました。
「なにィ――――!?」
元よりもやや短くなっていましたが、ヴァーリィバルフが手を離すとワンダリンデの腕は何事もなかったかのように六本ついていました。
「私はもう人間を食わぬ。食いたくない。……貴様らの忠義、しかと見た」
久々の人間の血のにおい、肉の香り。
その場にとどまればヴァーリィバルフは頭がおかしくなってしまいそうだったので、玉座の間から足早に立ち去りました。
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止まない苦しみ、止まない疼き、乾かない飢え。
ほんの少しだけ、覚えている生まれる前のこと。
神、あるいはこの世界そのものが、生命に与える苦難として災害を作ったのです。
気のままに、思うままに、破壊し、命を奪う。それだけがヴァーリィバルフの存在意義でした。
(ならば私はなぜ生まれた?)
戦争は限りない喜びのひとつで、略奪や殺戮は本能から来る欲求を満たしました。
災害なのだから当たり前です。
ですが生まれてしまったことで、命を得てしまったことで他の命と繋がりができてしまいました。
家臣がいて、治める国があります。
こんな訳の分からない地のシュードラとも――――目の前のパティがまた会いに来てくれたと笑っています。
なぜ、生まれてしまったのか。
「私は……生まれるべきではなかった……」
いつの間にか口から出ていた言葉をパティに聞かれてしまいました。
「女王様……花がたくさん咲きました。お母さんの命が巡って咲いたんです」
「…………」
パティの指さす先で、花々はより一層鮮やかに咲いています。
こんな陽のほとんど差さない国で。
あんなものを育てても腹は満たされないのに。
「どんな命も巡るから意味がある。だから、この世界に生きる全ての命はきっと生まれるべきだったんです」
「私は、私は……」
空腹の限界はもう目の前でした。
生きていいとパティは言っています。
でももう人間を食べたくありません。
それがこんなにも苦しみを生むならば、生まれたくなどなかった。
「でも……でも、僕はなんで生まれたんだろうって思うんだ……。この前、おいしそうな食べ物が売っていて、女王様が花を買ってくれたから、そのお金で買おうとしたんだ。だけど、シュードラには売らないって、殴られた……」
「…………」
牙の隙間から粘ついた唾液が垂れました。
女王よ天災であれ、と頭に響いています。
「どうして僕はシュードラなんだろう……なんでみんな同じように生まれて死ぬのに身分なんてあるんだろう。女王様、どうかそんなことを言わないで。王族の方ですらそう思うなんてイヤだ」
なぜ身分制度などあるのか。みんな平等に自分の食べ物なのに。
パティを、王族を、全ての人間を呪う生まれながらの差を壊す方法ならば、実は最初から知っていました。
滅ぼすこと。
天災としての使命を全うし全てを殺し喰らうこと!!
抑えられない衝動。
次の瞬間、ヴァーリィバルフは肉食獣のような素早さでパティを押し倒し、長い爪でその服を切り裂いていました。
「…………」
パティの澄んだ目が、捕食を心から受け入れていました。
どんな獲物も、生きたまま食われる時はその目に恐怖が浮かぶものです。
その瞬間がヴァーリィバルフは好きで好きでたまりませんでした。
それなのに、パティはまるで望んでいるかのように痩せた体に牙を受け入れようとしています。
「何を……何をしている……。なんだその目は……」
本来あるべき恐怖は今、理性を失っていたヴァーリィバルフを蝕んでいました。
「女王様、お腹空いているんですか?」
「私は……」
弁明のしようがありません。理性が消えるほどに空腹で、今だってなんとか立たせたパティがおいしそうに見えて仕方がないのです。
「僕もいつか死ぬのかな。怪我をして? 病気になって? いつかみんな死んじゃう……」
「そうだ、全ての命は死の呪縛を背負っている」
「……目が見えるようになって、いろんな綺麗なものを見たけど……僕はきっと女王さまより綺麗なものは見つけられない」
(…………)
あれが王の血族なのか、なんと醜い異形だ――――4歳のころ、その言葉を城の影で口にした家臣を食い、山の守り神であった山羊を殺し、その頭を被りました。
その者だけでなく、誰もがそう思っていることを知っていました。鏡に映る己の姿は、あまりにも普通の人間からかけ離れていたからです。しかし、パティは。
「僕、女王様が人を食べるって言った時に思ったんだ。だったら、世界一綺麗な女王様に食べられたいって。女王様、お腹が空いたら、僕を食べてね」
「パティ!」
ヴァーリィバルフはパティの小さな体を壊れる程に強く抱きしめていました。
その頭に噛みつけばきっと涙がこぼれるほどに腹は満たされていたでしょう。
それよりも、そんなことよりも、ずっとずっとこうしたかったのです。
小さな頭に頬をすり、息を大きく吸い込むと太陽のにおいが優しくかおりました。
「きっとね、約束だよ。僕の女王様……」
パティが細い腕をヴァーリィバルフの腰に回して優しく抱き返してきます。
相も変わらず耐えがたくお腹は空いてました。
ですがその抱擁はそれ以上に、人間の形に生まれてしまったヴァーリィバルフに欠けていたものを満たしました。
本物の冷血ヴァーリィバルフ女王の血が冷たく、全く流れていないのは心臓が動いていなかったからです。
死者であるから刺しても斬っても死なない。この世の理を歪めた生物でした。この日までは。
高鳴る鼓動は熱く烈しくヴァーリィバルフの身体を終わることなく震わせていました。
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ジャーメインの知らない歴史が動きました。
コーサラ国とマガダ国が突然大規模な戦闘を始めたのです。
戦場は谷間の地、カティディシュ。
ジャーメインの知る限り、カティディシュなんて地名は存在しないはずでした。
氷の国なんてものも知りません。
確かにその地方には屈強な山岳民族が暮らしていましたが、それは2500年後の世界で、最強と恐れられるグルカ兵の先祖たちでした。
雪の一族なんてものは存在していなかったはずなのです。
ヴァーリィバルフの生誕が全てを狂わせてしまったことは、間違いありあせんでした。
(何が起きている! 何が起きている!?)
氷の国も戦争に参加する準備をしています。
兵たちは武器を持ち、ヴァーリィバルフは獣心操縦で鳥を操り各拠点に伝令を飛ばしていました。
いかに強力な兵士たちとはいえ、二つの大国を一度に相手にするにはあまりにも数が少なすぎます。
氷の国の勝敗は最初から見えていました。
「恐れながら女王……! 手出ししてはなりません」
「黙れ。ここは氷の国。貴様は雪の一族ではない」
「違う! 女王、あなたは!!」
ヴァーリィバルフがカティディシュに住むシュードラに入れ込んでいることは知っていました。
完全に女王として生きていたのなら、シュードラと関りを持つことすらなかったでしょう。
完全に災害として在ったのなら、出会う全てを殺していたでしょう。
どちらでもあるという半端な状態がこの運命に導いたのです。
今、ヴァーリィバルフはそのシュードラの少年を救うために動こうとしている。
ジャーメインはその先の結末を恐れていました。
「女王よ、いけない……それだけは……それだけは!! 天災は、全てに無慈悲で、平等でなくてはならない! あまねく命に死をもたらす、だからこそ、尊く貴き存在なのです!」
女王に対する明確な不敬な言葉に反応したワンダリンデがジャーメインを押さえつけました。
「奴隷にも王にも平等って言ったのはおめぇじゃねえか……それがどういうことか分かってんのか?」
ワンダリンデが耳元でささやき、ゲルドがヴァーリィバルフに光の剣を差し出しました。
あろうことか、ジャーメインが持ち込んだ武器が自身に向けられています。
「失いますぞ! 何もかもを!!」
「何もかもに平等ってぇのはだな、つまり」
「「天災は誰にも従わない」」
家臣二人が同じ言葉を口にし、ヴァーリィバルフが剣を振るいました。
「……また逢いましょう、必ず」
ジャーメインの身体は一瞬のうちに塵となりました。
確実に死んだはずなのに、普通ならば見えるはずの死の影がヴァーリィバルフの目には映りませんでした。
結局この男はなんだったのか、それはもうヴァーリィバルフにとってはどうでもよいことでした。
「ワンダリンデ、ゲルド。貴様らが兵を率いよ。私は一人で行く」
「この女喋んないからそんなこと出来ますかねぇ」
「…………」
「……貴様らはもともと外から来た者共だ。この戦争が終わったら国を持て。城にある金も何もかも、好きなものを好きなだけ持っていくがよい」
殺戮の使命ではなく、自分の秘めた願いのためだけに兵を動かそうとしているのです。
勝っても負けても、もう自分に女王の資格も天災の天命もないことは分かっていました。
せめてよく仕えてくれた二人の異形の戦士に、何かしらの形で報いたかったのです。
「私は剣、戦い以外は不要です」
「お前、喋れねぇって言ったそばから……。まぁ、俺も国なんかいりません。ただ戦いたいだけなんですよ。あんたの下にいたから戦争に身を置けたんだ。1人じゃただのチンピラなんでね」
「…………。好きにするがよい」
ヴァーリィバルフの千里眼が二人の忠臣の運命を見通します。
纏わりつくような死の影は次に刈り取る命を決めたかのように二人を暗く飲み込んでいます。
きっとそれは二人も分かっているのでしょう。この二人だけでなく、命尽きるまで戦い続けることが望みの兵士たちは死に向かって勇ましく行進していきます。
自分には過ぎた家臣たちだった――――彩り豊かになってしまった感情を抱え、ヴァーリィバルフは窓から外に飛び出しました。
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ヴァーリィバルフはただ一人、カティディシュに向かって風よりも速く駆けていきます。
すでにあちらこちらで戦塵と火があがっており、カティディシュの民たちも巻き込まれて略奪・殺戮されていました。
パティのいる村に近い谷間に差し掛かった時、ヴァーリィバルフの足元に火矢が刺さりました。
「信じられねえ……馬より速く走る人間がいるとは」
「噂通りの化け物だな、ヴァーリィバルフ」
谷の上に、ヴァーリィバルフを囲むように兵士たちがいました。
弓兵、槍兵、象兵、数えきれないほどの戦力。
不可解なことに、マガダ国とコーサラ国、両方の国の兵士たちがそこにはいたのです。
「マガダ国の勇士ギバだ。お前には死んでもらう」
「待て。俺はコーサラ国兵士長シュダ。パセナーディ王があんたを迎えたいらしいんだが」
「断る。私は誰の下にもつかぬ」
コーサラ国のパセナーディ王の遣いは何度もしつこく氷の国に来ていたので覚えています。
どうしても、こんな場であってもヴァーリィバルフの力が欲しかったのでしょう。
「それを聞いて安心したぜ。この目で見てわかったよ。あんたみたいなのが来たらコーサラ国は終わりだ」
「…………。ビンビサーラ王はお前の持っている神剣アパラージタをお望みだ。錆びず、朽ちず、永遠の剣……。持ってんだろ。悪いが貰っていく」
「神剣の意味を知れ。人間ごときには扱えぬ」
ヴァーリィバルフは山羊の左角を引き抜きました。
右の角は変わらず山羊のものですが、左の角のみセコイアの木で造られた剣の柄だったのです。
ただの柄に煌めく氷の刃が伸びていきます。
アパラージタはなぜ永遠の剣なのか。そんなものは元々無いからです。
「化け物め……。放て!!」
シュダの号令とともに、火矢が空を覆い尽くしました。
その量はそれだけでカティディシュを焼き尽くしかねないほどです。
何を犠牲にしてでも、ヴァーリィバルフを討つという意志が表れていました。
「我が名はヴァーリィバルフ」
かつてヴァーリィバルフがまだ本物の天災だったころ。
大雪はこの星を覆いつくし、人間など虫けらに思えるほどに巨大な竜たちを凍りつかせ滅ぼしました。ひとつの時代を終わらせたのです。
「貴様らを滅ぼす者だ」
その力をアパラージタに込め地面に叩きつけると、全ての矢は吹き飛ばされ火は消えてしまいました。
それだけではありません。今の今まで晴れ渡っていた空は分厚い雲に覆われ、目の前も見えないほどの大粒の暴風雪がその地を襲いました。
「うわああぁあ! 体が! 体が!!」
「動かない!!」
極限の低温が兵士たちの身体を凍らせ、象を絶命させていきます。
無理に動こうとした兵の皮膚は裂け、飛び散った血が雪原を血に染めました。
後の仏教における八寒地獄の一つ、紅蓮地獄を呼び出したのです。
「身体に火を付けろ! 絶対に退くな!! この女は! 世界の敵だ!!」
弓も槍も火もヴァーリィバルフには効果がありませんが、己の身体に火を付ければ凍り付くことは免れます。
凍死ではなく焼死を選んでいるだけなのですが、兵士たちは身体を燃やしながらこちらに向かってきます。
1万を超える兵たちの怒号と行進は地響きとなってヴァーリィバルフに向かいました。
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1万という数は尋常ではなく、戦いが終わる頃にはヴァーリィバルフの身体中に矢と剣が突き刺さり、頑丈な白熊の毛皮もズタズタに切り裂かれていました。
最後の兵士、ギバが振った剣は山羊の兜を砕きましたが、ヴァーリィバルフの命には届きませんでした。
「ラークシャシー……」
燃えながら凍るという世にも珍しい死に方をしたギバは、ヴァーリィバルフの顔を見て最後に何かを呟きました。
「はぁっ……はぁっ……」
倒れそうなほどに消耗していますが、元々ヴァーリィバルフは不死身です。消耗の理由は刀傷矢傷ではありませんでした。
死屍累々、目の前に無数にある死体に食らいつきたくてしょうがないのです。
「パティ……」
ハリネズミのように身体に刺さった矢を引き抜こうとしたら鋭い痛みがはしりました。
口から垂れたのは空腹の唾液ではなく、逆流してきた血でした。
「血だと……私に……なぜ……? なぜ、雪が止まぬ……」
胸に触れるとまるで生きている人間であるかのように早鐘を打ち身体中に血液を循環させています。
空に手をかざしても雪が止みません。まるで支配下にあったはずの天が自由になってしまったかのようです。
これまでも怒りで大雪になったことはありましたが戦いが終われば自然と止んでいたのに。
「うっ、うう……熱い……」
砕けた兜を取り、毛皮を脱ぎ捨てます。
それでもまだ足りないほどの熱がヴァーリィバルフを蝕んでいました。
まるで熱源が身体の内側にあるかのようです。
「パティ、パティ、私はもう人間を食べない……」
身体中の異常を無視して歩き出すと矢傷から血が流れ出て来ました。
まだあちこちから剣戟の鋭い音が聞こえてきます。
ヴァーリィバルフを殺すために手を組んだとはいえ、元々二国は敵同士。
十重二十重に相手を出し抜く作戦を練りあっていたのでしょう。
その結果、演技だったはずが本当に戦争になってしまったのです。
歩いていくとやがて、見覚えのある顔が地面に転がっていました。
「ワンダリンデ……ゲルド……。満足か……」
拾い上げたのはワンダリンデの頭でした。すぐそばに六本の腕と首を切り落とされた身体が倒れています。
ワンダリンデの顔は死してなお満ち足りた笑顔でした。
ゲルドの死体にはサボテンのように剣が突き刺さっており、頭を兜ごと斧で割られ死んでいました。
長い間で数度しか見たことのないゲルドの顔をヴァーリィバルフは美しいと思っていましたが、結局最期まで一言も過去を語ることなく逝ってしまいました。
見渡す限りの死体の中に雪の一族の兵士たちの倒れむくろが混ざっています。
死に場所を求めて戦い続けた者たちはとうとうたどり着けたのです。
ワンダリンデの頭を身体の上にそっと置くと、死の雪が弔うかのように全てを覆い隠してしまいました。
「パティ、私はもう女王ではない……」
そうしたらパティは自分のことをなんと呼ぶのでしょうか。
ああ、そういえばパティに己の名を名乗ったことがありません。
パティの可愛らしい口でこの忌むべき名を、呼んでもらえたのなら。
ヴァーリィバルフの身体を呪っていた戦紋が少しずつ、しかし確実に掠れて消えていきます。
家臣たちの死体を越えて、進んでいきます。
「パティ、一緒に暮らそう。花に囲まれた家を持とう」
願いは雪を溶かし、ヴァーリィバルフの身体が血と共に徐々に水滴流れ小さくなっていきます。
僅かな時間で、普通の人間の女性と同じ程度の背の高さになってしまいました。
「こいつ……ヴァーリィバルフだ……。なぜここにいる?」
「死にかけてるぞ……」
パティのいる村の入り口で、またしても剣を持った男たちと鉢合わせました。
以前と違うのは、彼らがコーサラ国の兵士であること。その手に村の住人たちの首をいくつも持っていることでした。
この兵士共はパティの村から出てきた――――爆発的な怒りに任せてアパラージタを振るうと、兵たちは状況を理解する前に胴体が泣き別れになり死んでしまいました。
そして最後の仕事が終わったかのように、アパラージタは砕けて二度と元に戻りませんでした。
「パティ、一緒に暮らそう……私はもう天災でもない、何者でもない……。太陽の照らす国で一緒に花を育てよう……」
空腹なら、これからもずっと我慢してみせます。
一度もしたことはありませんが、料理だってするつもりです。
きっとずっと空腹だったパティにお腹いっぱいになるまで食べてもらいたいのです。
これまでが幸せじゃなかったとしても、これから幸せになればいい。
やがて、守られるかのように雪が降っていない花畑が見えてきました。
矢が腹に刺さり倒れているパティの姿も。
「パティ!!」
赤い花の上で横たわっていると思ったら、パティの血で染まった花でした。
「……女王様…………」
かろうじて意識はありますが、あまりにも血を流しすぎています。
今すぐにでも治療しなければなりませんが、それでも助かるかは分かりません。
パティの身体に突き刺さった大矢を掴みます。
「うっ……」
「痛いか、我慢しろ。すぐに治してやる……」
手早く矢を抜き取り手をかざしますが何も起きません。
代わりに異常が起きていました。万物を切り裂くほどに長く鋭かった爪が短くなっているのです。
人食いの証である牙もなくなってしまっていました。
「なぜだ……なぜ治らぬ、なぜ!」
「女王様もひどいお怪我を……」
「気にするな、私は死なぬ」
何もかもが失われても、それでもまだ化物なのか。おびただしい数の矢と剣が身体に刺さっているのにヴァーリィバルフはまだ生きていました。
それと対照的に、たった一つの矢傷からパティの命が流れ出ていきます。
「女王様……おなかすいた……?」
「空いていない、空いてなどいない! 馬鹿なことを言うな!!」
何かを掴むように空にかざされたパティの手を思わず掴むと、まるで氷のような冷たさでした。
「雪……初めて見た……きれい……」
「ああ……綺麗だな……。パティ、もっと綺麗なものを見たいだろう? 一緒に見に行こう。だから……」
振り払えない死の影がどこともなくやってきて、ヴァーリィバルフの手を握るパティの手に絡みつき、腹の傷へと入っていきました。
「……さむい…………」
死の影はそのままパティの魂を抱き、空へと連れて行ってしまいました。
ヴァーリィバルフが最後の力で守っていた花畑に雪が降り積もっていきます。
「ああ! ああ!! 冷たい……!!」
温かかった手が、ヴァーリィバルフに心を吹き込んでくれた身体が冷たくなっています。
生まれて初めての涙が、熱い涙がヴァーリィバルフの赤い目からこぼれました。
死んでしまいました。生まれてしまった天災が唯一愛した人間が、他でもない自分のせいで。
「…………。私も……お前が……何のために生まれてきたのか分からない……」
溶岩が氷の上を流れるように、涙がヴァーリィバルフの皮膚を灼いて溶かしていきます。
パティが綺麗と言ってくれたヴァーリィバルフの顔が取り返しのつかないほどに爛れていきますが、今さらそんなことは気にも留めませんでした。
「だが私は……」
凍り付いた花かんむりを眠るパティの頭にのせてあげます。
もしも次に生まれることがあるのなら、幸せになるように。
生まれてきてよかったと思えるように。王や貴族でなかったとしても、誇りを持って生きられるように。
死者に与える、雪の女王の最初で最後の祝福。
「お前に逢うために、私は生まれてきた」
溶けゆくヴァーリィバルフが最後に懐から取り出したのは、雪のように真っ白な花でした。
パティから貰った種は芽を出して、とうとう花を咲かせたのです。
見てほしかった、喜んでほしかった。
名前を、呼んでほしかった。
命の涙はヴァーリィバルフの身体を溶かしていき、掲げていた白い花がパティの身体の上に落ちました。
止まない雪はカティディシュの地を完全に滅ぼし、ただ一つの命も残しませんでした。
天災であった雪の女王が望んだ風景にやっと、たどり着いたのに。
生まれて初めて流した涙は、100万年の氷をも溶かすほどに熱く、熱く、雪の女王の身体を溶かしてしまい、跡形もなく消えてなくなってしまいました。
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マガダ国とコーサラ国の戦争から数十年。
氷の国も雪の一族も完全になくなってしまい、もう雪の女王の名を知る者はいませんでした。
かつてカティディシュだった地を象に乗った王が通っていきます。
その後ろには数えきれないほどの兵士が続いていました。
パセナーディ王の子であり、現在のコーサラ国の王であるルリ王です。ルリ王の母はシュードラでした。
かつてパセナーディ王がカピラヴァストゥのシャカ族に妃となる女を要求しました。
その際に差し出されたのはクシャトリヤに扮したシュードラでしたが、そんなことはつゆ知らずパセナーディ王はそのシュードラの女との間に子をもうけました。
やがて成長した王の子に、心無いカピラヴァストゥの貴族が明かしてしまったのです。お前の母は奴隷であると。
そのことを知ったルリ王は激怒してカピラヴァストゥに侵攻し、シャカ族を長い間奴隷にしていましたがある日全てを赦し解放しました。
「王よ、なぜここだけこんなにも花が咲いているのですか?」
かつてシャカ族の解放を説得した聖人がルリ王に尋ねました。
「数十年前まで、ここには小さな国があったと聞く。今は誰も住んでいないはずだが……」
短く答えて、ルリ王は行進を再開しました。カピラヴァストゥへ向けて。
弾圧され続けていたシャカ族の怒りもまた深く、何度もシャカ族の戦士による争いと略奪が起きていました。
どちらにも原因があることはルリ王も分かっていました。
ですが大国の王として、もうシャカ族の殲滅以外の選択肢はありませんでした。
「余は征くぞ、カピラヴァストゥへ。シャカ族は滅びの道を選んだ」
「…………」
聖人はシャカ族の解放を説得したばかりでなく、これまで三度も聖人の故郷・カピラヴァストゥへの侵攻を止めていました。
しかしこれ以上止めれば、王として、民を治めるものとして示しがつかずコーサラ国は荒れ、結局それ以上の死人が出てしまうでしょう。
「もう止めるなよ、ブッダ。どうしようもならないこともあるのだ」
王の行進を、兵たちの進軍をブッダは静かに見送りました。
花に囲まれて祈るブッダは死者を弔う姿と重なりました。
(ああ、そうか。死者のために咲いているのか……)
この地で咲くはずのない白い花は、カティディシュがあった地を覆い尽くさんばかりに咲いています。
雪のように白い花々は、死をなぐさめるかのように輝いていました。
そして、あるべき歴史の通り、シャカ族は滅亡し、ブッダは沙羅双樹の元で涅槃に入り、世界は何事もなかったかのように続いていくのでした。
人として生まれてしまった天災の魂すらも輪廻に受け入れて。
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君がため 咲く白花は 雪形見
第二章 おわり