「あ……あ……」
魁夢は以前の恐怖の記憶がやにわに浮かんでしまい、ただ震えながら床に伏せたまま身を潜めることしか出来なかった。廊下の壁は草木が生い茂っており、まるで揶揄うように不気味に蠢いている。しかし幸い白いリノリウムのような床、彼の病的に白い肌とシーツで、この落胆的な状況に上手く同化しているようだ。奴等、屍の赤い瞳は一瞬こちらを見たが、先程から聞こえている機械音に気を取られたようだ。ゆっくり廊下の奥の階段へ向かっていった。
魁夢は安堵の息を漏らせども、この胸の内に広がるのは、定まらない環境に置かれている恐怖と混乱。なぜこのような場所にいるのか理解が出来なかった。
ふと、魁夢は屍の動きに釘付けになる。その歩き方は、まるで筋肉が拘縮しているかのようだ。まるで長時間拘束され、血流が阻害されていた深部静脈血栓症の人間が、無理に体を動かそうとする時のようなぎこちない動きだった。
彼はその光景に一瞬思いをめぐらせる。自身は感染していること。肉塊が左手から出たと思えば、その手で屍を葬っていたこと。その手で、大切な1人を、守れなかったこと。左手があった部分に触れてみる。
触れると最初に出会った喪服の女のことを思い出す。彼女もやつらと同じ色の目をしていたような気がする。あの生気が無いようで、意思のある赤く冷たい瞳、死人のような白い肌、あの異形の手。僕はあの瞬間から狂い始めたのだろう。あいつのせいだ、と思ってしまうのは安直か?
あの鉤爪の女も気になる。あの鋭い鉤爪、そしてそこから噴射されたもので一気に空まで飛んでいった。人が寄り付かなそうな場所に、しかも女性が何者で、何故あのようなところに?
診療所のユリカ、イジ、その子供達のことが彼の脳裏に浮かぶ。彼女らは元気にしているだろうか?生きているだろうか?僕は、ユリカを、みんなを、何も、守れなかった。悲しみで体が震える。さりとて此処に長居しても徒に時間を喰ってしまう。まだ諦めたくない。きっとみんな生きている。そう思った。そう願うしかなかった。
知らぬ間に目から零れていたそれを拭い、震える手で崩壊した崖の付近にあった石を幾つか拾い上げ、部屋の一室に隠れた。狙いを定めながら息を整え、元寝ていた部屋に石を投げてみた。わざと響かせた音が廊下にこだまする。しかし、けたたましい音の方が遥かに大きく、全く反応がなかった。
彼は体を地に這わせ、暗闇と怪物の跋扈する廊下をゆっくりと向かって行った。どこからともなく聞こえる機械音と、屍の動く気配を不気味に感じながら。
とりあえず壁伝いに這って進んでいるが、鼓動が、屍の耳に入っていないかの不安でより早っていく。陽の光が、階段の場所へ向かうにつれ徐々に暗くなっていく。
この不安の鼓動は、現実であることを促すように大きく早く動いた。数体の屍の叫び声が聞こえる。屍たちの赤い瞳がこちらを一瞥するが、機械音に気を取られたのか、ゆっくりと廊下の奥へ向かおうとしている。魁夢は息を潜め、動かないように身を縮めた。だが、その瞬間、恐ろしい感触が足元に伝わった。指先が屍の硬く冷たい足に触れてしまったのだ。
屍はピタリと動きを止め、その赤い瞳が一気に魁夢に向けられた。血の気が引くような感覚が背筋を駆け巡り、脈が一層速くなるのを感じた。恐る恐る見上げてみる。屍の瞳はこちらをしっかりと認識しており
、それでいて明らかな敵意が宿っているのがわかった。
「どっどどどどうしようどうしようどうしよう…!」
恐怖と逃げなければならない焦りに駆られ、魁夢は拾っていた壁の石を全て掴み、咄嗟に廊下の反対側に向かって投げつけた。乾いた音が廊下に響き、屍が一瞬そちらに視線を向けたのを見て、魁夢は全力で駆け出した、1回転倒したが。少し痛かったが。
しかし、屍もすぐに彼の動きに気づき、低く大きい怒号のような声を上げながらその場を離れて彼を追い始めた。彼の心臓は早鐘のように脈打ち、血液が体中を駆け巡るのを感じる。
階段にたどり着いたが、上り切った先で崩落していることに気づく。後ろからは獣にも似た叫び声が、屍の気配が迫っている。魁夢は突発的に、衝動的に手すりに捕まり、右手一本の力で上階へと這い上がった。
やっとのことで上階にたどり着いた時、冷や汗と鼻出血がとめどなく流れ、恐怖と騒然で手が震えが止まらなかった。彼は右手で手すりに捕まりくずれた上階へ難なく登ったのだ。
驚いてはいられないと、整わぬ呼吸を落ち着かせながら辺りを見回す。そこは窓という窓が木材や布で遮られており、そこからちらちらと、焼けるような陽の光が差し込むラウンジのような場所だった。機械の音が大きく響く中、崩壊した廊下が十字に広がっている。
「いっ…!つう……」
どうやら足元にはガラス破片が散らばっていたようだ。カラカラと音を立てながら魁夢の上げた足からこぼれ落ちる。足から出た血液は、まるで花のように緋色が生々しく床を彩る。踏んだり蹴ったりである。少しよろめきつつも、下に落ちている欠片を避けながら進んでみる。今にも崩れそうな廃墟だが、上階は草木が無く、手入れがされているようで綺麗そのものだった。
ひとつの部屋の扉の隙間からぼんやりと灯りが不気味に揺れている。恐る恐る近づき、扉をゆっくり開けようとした。その時だった。
「んへへ、ちょっと まってね」
と、少女のような声が聞こえたと思うと、背後から膝を某のようなもので叩かれ、崩れ落ちたところで頚部に刃物を突きつけられていた。困惑と恐怖で足がすくむ。刃物を目のみで追ってみる。切っ先から刃元まで残光が反射し、まるで鮮血が流れているかのようだった。
「おどしじゃないよ。きみ かんたんに こわせちゃう。ドアをあけて」
魁夢は震えながらゆっくりと立ち上がり、言われるがままにドアを開けた瞬間、また後ろの少女に背中を足で蹴り飛ばされた。
「お、やっとここまで来たか。昨日は手こずらせやがって」
魁夢はこの人を知っていた。癖毛で、茶色の髪を後ろに結わえた、パイロットゴーグルを首にかけ、胸元に晒を巻いた女性が、こちらを見ながら何かの部品を、火花がチラかせながら回転するノコギリで切っていた。口には煙草が、まだ煙を出している最中だった。「昨日」とは一体何なのだろう、と思う間もなく、
「うん!おねえちゃん、こいつ なんだか とっても おもしろーい うごき してたよー!」
背後を振り向くと、目が包帯で覆われた少女が、仕込み杖を危なっかしく振り回しながら嬉しそうに声をあげる。先程の刃物は、湾曲した木の枝を使った仕込杖のようだった。背中にはもう2本、杖を背負っている。恐らくあれも仕込杖なのだろう。
魁夢は、作業をやめて椅子に胡座をかいている女性に向き直ってみる。彼はその姿に見覚えがあった。
「結果は悪くなかったが及第点だ。今まで下でやって貰ったのは、お前を試すテストに過ぎない」
「え…?あ……」
魁夢はその場の状況に困惑しながらボールがしぼむようにへたり込んだ。おねえちゃん、と言われていた彼女はこちらに歩いてきた。見覚えのある影だと思っていた。運命というのは残酷なもので、結果とついてまわるものだと知らしめられた。そんなはずは無いと思いつつも、魁夢の読みは遺憾ながら当たってしまった。彼女は金属製のブーツから重い音を出しながら、背中にある生物的な「それ」をゆらゆらと揺らしながら魁夢の目の前まで来た。彼女はしゃがみ、魁夢をまじまじと見つめた後、立ち上がり微笑を浮かべ手を伸ばした。
「さあ、お前から色々聞きたいことがある。ついてこいよ、もっとも拒否権は無いけどな」
彼女は、ユリカと見た、あの時の鉤爪の女性だったのだ。
「イオは長い夢をみている」についてどう思われますか?
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