「起きろよカイム、朝の稽古の時間だぞー」
扉越しに優しくノックする音が聞こえる。
「あ! はい! 今行きます!」
目が覚めた魁夢に、ユリカの声が扉越しに聞こえた。窓から見える藍が青になりかけ、市場の方から呼び売りの声が聞こえる。
「今日は厳しいぞー? 耐えられるかな?」
「はは、耐えてみせますとも」
「それじゃあ私は先に行ってるから、早く来いよー」
ユリカの足音が遠くなっていく。今日も稽古が始まる。
魁夢はクローゼットに手をかけた。両手で開けるつもりだった。だが、左手だけが、把手をすり抜ける。
「ああ、そういえばそうだった……」
独りごちる。二ヶ月経っても慣れない。これから何度もこうなるのだろう。無いはずの手が、あるつもりで動いてしまうことに。忘れたい、忌まわしい記憶を想起しながら、ユリカが新しく用意してくれた左袖の結んである服を右手で引き出した。
②
魁夢はひとけのない共同墓地、そのベンチの上で目が覚めた。
「ここは……」
頭が重い。薄ぼんやりとした意識を夕暮れの冷たい風が魁夢の目を覚まさせた。
「ぼっ僕の名前は、永 魁夢。僕の、名前は、永 魁夢……永 魁夢……」
震える声で自身の名前を口に出し続け、忘れていないことに安堵した。自身が焦りやすいということも変わっていないようだ。
魁夢は頭の整理のために、これまで起こったこと、考えを巡らす。
記憶の改編。
彼女、ヨスガは麻酔を使って自身を眠らせた。何故ねむらせたのだろう。移送しやすいから?
自身をここに送るなら、無理矢理にでも拘束するとか、もっと効率的な方法があったはず。眠らせてでも見せたくない移動手段なのだろうか。
彼女は「記憶を一部改編する」と言っていた。あそこは機材や薬物が紛れもなく病院にしかないものだった。あそこが病院で、ヨスガが記憶を改編させたと仮定して、記憶をつかさどるのは「海馬」であって「言語野」では無い。それに自身が喋っているのは紛れもない日本語だ。彼女は、言い間違えたのか。それとも……
「もしかして此処って……」
そう言いかけた時だった。墓地の奥で枝を踏む音がしたのだ。ビクリとした魁夢は周りを見渡し近くにあった死体を埋めるために使うものであろう長柄のシャベルを手に取り、音のする方に構えた。
そろそろ日が沈みそうな墓地で、夕日に照らされた人らしきものが見えた。怪我をしているようだ。破れた服には血が染まり、やせ細った腕は振戦していた。まるで麻痺をしているような足どりで、両手を前に伸ばしながらゆっくりと魁夢に近づいてきた。
「たす、け、く……」
「だ、大丈夫ですか?」
呻き声を上げる彼に魁夢はシャベルを捨て置き駆け寄った。
魁夢は困っている人を助けたかった。それが唯一の彼の中での救いだった。虐げられた自分みたいな人間が苦しみ、踏み躙られるなど。魁夢はその男の手を取り自身の肩に組ませ、先程自身が眠っていたベンチに寝かせようとした。
その瞬間、魁夢は男の体に違和感を覚えた。
驚く程に、異様な程に冷たいのだ。それに、本来は腕で脈が分かるはずなのに、握った彼の手からは全く脈を感じなかった。魁夢の心臓が高鳴る。
「いじょお、ぶ、たす、け、た、ず……」
「ひっ……」
魁夢はその男を払い除ける。使い物にならない笛を吹いているかのような呼吸音は人のそれではなかった。
落ちかけの赤の中、魁夢は恐ろしいものを見た。虹彩が著しく濁り、結膜は血走り、開き放しの瞳孔は赤く光っていた。夕日に照らされたような赤ではない。まるで燃えているような、揺らめいているような目だった。
これは、人じゃない。人とは言えない。人以外の何かだ。
男の口が大きく裂け、顎を支える筋肉がブチブチと音を立て、まるで笑っているようだった。またも覚束無い足どりで、首が座ってない赤子のように頭を揺らしながら、魁夢に躙り寄る。
「だあ、す、げ……」
「こ、来ないで……ください……」
逃げなきゃ、やられる。そう思うのに体が言う事を聞かない。
その「人では無い何か」は、魁夢を黒く腐敗している手で掴みかかろうとした。
魁夢は反射的に腕を振り払い、シャベルを取ろうと駆け出した。だが、彼は男に細い脚を掴まれ、引き倒された。その尋常ではない力に背中と後頭部を打ち付けられた魁夢は、目の前に火花が散り、朧気となる。どこかで感じたことがある記憶だった。
「っ……ぐ…! やめてください! は、離してください!」
魁夢は朦朧とした頭の中、馬乗りになりながら首筋に歯を立てようとした化け物を振り払わんと、無いに等しい全力で顔を両手で押えつけた。
「やめて…!」
さらに強く押し返そうとしたその時、その瞬間、
「いぃっ…!」
指に鋭い痛みが走った。その何かは左手目がけて噛み付いたのだ。歯が肉まで刺さり骨まで砕くような感触、灼けるような痛み。
「っ……ぁあああああ!! 痛い! 痛い! やめて!」
魁夢の手からまだ温かい血が流れ、自身の服や石畳の床に飛び散る。どれだけ腕を振ろうとも、まだ男が噛み付いて離さないでいた。
「やめ、助けて……うあぁ……」
魁夢は、このまま此処で終わるのだろうと覚悟した。元来、「別の世界」とやらで生きていけると露ほども思ってはいなかった。元の世界でもこの様に、愍然で、惨憺なる人生を送ってきたのであろう。若しくは全てが夢であるとも。
彼の指が徐々に無くなっていくのが見える。そんな事をお構い無しに月は明るかった。彼の意識が段々と薄れ、白くぼやけていった。
その時だ。
「あら? こんな時間にお客様なんて、さぞかし火急の用でしょう」
魁夢の前方、と言うより足元から声が聞こえたかと思うと、なにやら黒いものが、ひゅっと言う音と共に動いたようだった。
その瞬間、何かが男の腹部を、貫いた。黒い物体はそのまま男を、石造りの壁に軽々と放り投げた。男は一瞬にして、肉片と骨片と臓器だけになり、そこら中に散らばった。魁夢は、今しがた起こった事の一連の流れが飲み込めない儘、恐る恐る起き上がった。
「汝、斯様な惨めな姿で終わるのですか?」
何処か慈悲に満ちた、それでいて透き通るような声。そこに立っていたのは、背丈は2メートルを優に超え、月明かりをも全て吸い込むかのような黒い喪服の女性だった。黒いベールで顔はよく見えなかったがそれの下に見えたのは、魁夢の腕を噛んだ奴と同じ燃えるような深紅の瞳だった。そして先から蠢いていた黒いもの。
それは彼女の右腕から出ていた、翼。
巨大な蝙蝠のような腕部、異形の右腕が彼女の肩から広がっていた。
魁夢はその時ヨスガが言っていた事を思い出した。「禁忌を冒し、追放された天使」。
魁夢は転びながらシャベルを掴み取り、異形に刃先を向けた。
「貴方は、だ、誰なんです?」
恐怖と痛みでシャベルを持つ手が震える。何本か砕かれた左手指から血が滴り落ちている。彼女は凶器をものともせずにしずしずと彼に向けて歩みを進めた。恐怖が近づいているというのに、魁夢はその恐怖や混乱に首を絞められ攻撃することは出来なかった。彼女が目の当たりで立ち止まる。
元々思春期の平均身長よりは低い方の魁夢だが、平均身長とは何なのか、考えさせられる背丈であった。
「う、あ……」
喪服の女性は、両手を広げ魁夢の体を、優しく抱きしめた。左手と異形の右手で彼を包み込んだ。長駆の彼女に、華奢な彼を包むのは簡便だろう。予想だにしない行動に、魁夢はさらに混乱する。彼女は魁夢の頭を優しく撫でながら言った。
「あら、なんて懐かしい香り。ここまで大変だったでしょう? もう恐れずとも良いのですよ」
混乱と同時に、奥底から、えも言われぬ感情が湧き出る。このような気持ちは一体何なのだろう。しかし、今はただ、只々こうして居たくなった。魁夢は不意に涙が溢れた。
この人を、僕は……
「大丈夫ですよ、大丈夫。汝の穢れ、断ち切りましょう。」
「……へ…? た、断ち切るって…?」
「ええ、痛みなど、一瞬のこと」
彼女は微笑みながら、静かに右手を振りかぶり。
一閃。
左耳からひゅっと、先と同じような風切り音。魁夢は音のする方に視線を向けた。魁夢の左手が宙を舞っていた。
「なに、が……」
理解が追いつかなかった。
だが、暫くして床に転がるそれ、自身の左腕を見た瞬間、理解してしまった。
「ああ! ああ! あああああああ!」
切断された傷口から血が、脈動と同じテンポで、まるでポンプのように流れ出る。赤黒い液体が、制服の白いシャツを染める。腕を押さえながら悶え苦しむ。
震えるような声で、魁夢は言った。
「なん、で……」
(泣かないで)
「汝は清められました。汝の穢れは断ち切られました。祝福が施されたのです」
(狂わないで)
痛みの最中に見たものは、喪服の女性の右腕がまるで翼を畳むように収まり、段々と人間のそれに変わっていくのが見えた。彼女は月の方を向いたかと思うと、左手で目を覆い、右手を中指と薬指だけ折った状態で手のひらを天に、月明かりに掲げながら言った。
「ああ、外なる私達の母あるいは父よ。私たちの肉体が聖とされますように。善と悪、そのどちらの穢れも断ち切る力をお与えください」
「う、はぁ……はぁ……」
呼吸が出来ない。息が苦しい。喋ることもままならない。
僕は死ぬ。
その時、女性の胸に、小振りの刃物が「ドス」と音を立てて刺さったのだ。
「あら……どうやら御業に横槍が入ってしまったようですね。続きはまたの機会にいたしましょう。主が導き給う時、きっとお会いできますわ。ふふ、それまで、今はどうか、安らかに」
彼女は暗闇の中に消え、見えなくなった。
痛みも、夜風の冷たさも感じない。けれど、その声だけは魁夢の耳に確かに届いた。
「2人やられてる! 1人は完全にダメそうだから後に見る。もう1人は……女、左腕損壊、出血が酷い! おい、聞こえるかー? 聞こえるかー? まずいぞ、イジ。脈が安定してない。こいつを暖めるからお前のセーターを貸せ。止血から始める!」
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