エレジアで過ごした音楽ばかりの毎日が嘘だったかのように、私の中に常にあったはずの素晴らしい歌手になりたいという欲望はすっかり萎びていた。
私がやることといえば、船から水面を見下ろしてきらきらと眩しい光景にただ目を細めるくらいだ。そうして美しいものを視界に入れては、耳の奥から聞こえてくる混じり気のない音色が喉を締める。あんなに捨ててしまいたかったはずの日常が、こんなにも恋しい。
あの日から、歌う気になれない。
歌手としての私はもう、死んでしまったのだろうか。
毎晩のように笑って死んでいったオトの顔を夢に見る。遺体に縋って泣き喚いている私を含めて、上から見下ろしているような視点でただ立っているだけの夢。
それを見ながら何を思っているのかは、私自身にもわからない。ただ、悲しみはないのだと思う。無意識の最中ですら涙は出てこないから。
一粒の感情さえも溢さずに。それでも朝はやって来て、お腹は空いて陽の光を浴びたくなって、吸い込まれるような危機感も抱かずに水平線をなぞる。
私は、いったい何をしているんだ。
オトと引き換えに繋がったこの命の使い道が、こんなことでいいはずがない。それだけはわかるのに、ここからどうすればいいのかわからない。
映像電伝虫はもうない。シャンクスたちが隠した手配書にはわけのわからない金額がついてて、私を知っているのはファンのみんなだけじゃなくなった。私はもう、世界中から愛された歌姫には戻れない。
蹲りたい気持ちさえ湧き上がってこないことは、救いなのだろうか。
美味しいご飯が虚しくて、せめてみんなが騒いでくれたらなと思った。
しんみりとした空気は続かないもので、誰かが肉を食い千切られた骨つき肉をマイクに歌い出した時は思わず笑ってしまった。それからというもの、みんなは私に過剰な気遣いをするのをやめた。
船からどこからともなく歌が聞こえてくると、頬が緩んだ。水面の眩さが和らぐような気持ちになった。私は、未だに歌を愛している自分に辟易しながらも安堵した。自分の中の音楽への愛を見つけて失望もした。
まだ諦めていなかったのか。
諦めたくないと、しがみついているのか。
そこには相反する本音があり、私は嫌でも理解した。オトの夢を変わらず見ている。選べないから、安らかな死に顔に答えを求めているのか、私は。
その日のオトも、当然のように眠るような顔をこちらに向けているだけだった。
戦闘が起きた。昔と変わらず私は舟番で、みんなが怒涛の勢いで相手を薙ぎ倒していくのをマストの上から眺めていた。
今なら、私一人でも同じようなことができるのになあ。誰もがわかっている事実を、誰一人として口にはしなかった。それは優しさで、愛だ。わかっている。
だから私はシャンクスたちに混ざって戦おうなんて思わない。どさくさ紛れに船に近づいてきた敵にも気付けない。同じく舟番だったホンゴウさんに名前を呼ばれて振り返るのが精一杯。
エレジアで海兵に囲まれた時だって今日ほど危機感を覚えなかったのに。呼吸の仕方も忘れたように、迫る刃先を目で追っていた。
重症だな。自分でも、命の危機が迫れば反射的に能力を使うだろうと思っていたのに。現実は蛇に睨まれた蛙みたいに固まっただけ。私はこんなに弱い人間だっただろうか。
恐怖はない。不安もない。それは結局のところ、ウタウタの実の能力あってのものだと考えていたれけど、単なる自暴自棄だったのかと突きつけられてなかなかにショックを受けている。
私はゴードンの優しさも、オトの献身も、放り出してしまえるほどに無責任だという事実。それだけがただ重い。そうしてやっぱり、涙は少しも出てこない。
「ウタ、少しいいか?」
「いいよ。なあに、シャンクス」
話をしないか。お前も大人になったことだし。そう言って、シャンクスは手に持っていたワインのコルクを引き抜いた。
まさか夢が叶うとはな。見たことのない丁寧さで、シャンクスはワインを注ぎながらひとりごちた。なんとなくだけど、たぶん私には言ってないのだろう。
目線の先のいつもの樽ジョッキには、なみなみとお酒が注がれている。初めてグラス──いや、実際にはそんな洒落た器じゃないのだけど──を打ち鳴らそうという量ではないが、みんながお酒に関して救いようがないほど馬鹿なのは別に今始まったことではない。
「自分のガキと盃を交わす、親なら誰でも少しは憧れるもんだ」
「そういうものなんだ」
「だから少しだけ申し訳なくも思う」
「なにが?」
「ゴードンと酒飲んだことあるか?」
「……ない。ゴードンはお酒飲まないよ」
「そうなのか? もったいねえ」
「……耳が拾う音を」
それらすべてを、聴き零したくないのだとゴードンは言っていた。完璧に同じ音は二度と聴けないからと、サングラスの下の瞳にどんな色を宿していたのか、今なら想像することができる。きっと彼は、記憶の中の夜の闇に燃え盛る炎を見つめていた。
「意識して、聴いていたいんだって。全部」
「そうか。真っ直ぐなあいつらしいな」
「……そうだね」
「お前はどうだ? もう注いじまったが、要らないなら俺が飲むぞ」
「それ、シャンクスがたくさん飲みたいだけでしょ?」
「当然だろ。酒なんてあればあるほどいい」
「私に飲んでほしいのかほしくないのか、どっちかにしなよ」
「それはウタが決めることだ」
急に突き放されたような物言いに、ゴードンと最後に交わした言葉を思い出す。生きるということは苦しくて、つらいものを飲み干しながら、信じたいものを決めなくてはいけない。お酒を飲むかどうかの簡単なことから、歌えない今の私をどうするかまで。全て、私が決めるのだ。
子供のときは毎日嗅いでいたお酒の匂い。エレジアでは全く感じなかった独特な香りが、初めて口の中に広がった。美味しいとか不味いとかはよくわからないが、不思議な感動があった。
「お前と酒が飲めるとは思ってなかった」
シャンクスは、ほとんど同じ意味の言葉を繰り返した。そしてあのライブがなければ、私に自ら会いに来るつもりもなかったのだとなんのことはなく言い切った。
「ゴードンにも、お前の姉さんにも申し訳ない気持ちはあるが、おれはあの日、あのライブがあったことをありがたいと思ってる」
こうして一緒に酒も飲めたからな。そんなにいいものだろうか、このお酒という飲み物は。口の中が苦くてたまらない。
きらめくばかりの水面。潮風のここちよい香り。波に揺れる足元。不揃いな楽しいだけの歌。私がなくしたすべて。
見つめるだけの水平線。もどかしく髪をとく空気。踏みしめる焦土。美しく研ぎ澄まされた音楽。私に与えられたすべて。
一隻の船も寄らなくなった港。皮肉なほどに澄んだ大気。苔むしていく家屋。絶え間ない音。私が奪い去ったすべて。
頭の中で煩雑に氾濫する今までのすべてを、私はただ噛み砕いた。胃の中で溶かし、取り込み、そしてまた脳みそに焼き付ける。驚くほどに心は穏やかで、私にはもう、荒れ狂うほどの熱がないのだと実感する。
私はもう、世界一の歌手にはなれないんだ。
踠き苦しみながら縋りついた夢を追いかける私はもういない。祀り上げられて逃げるように捨て去る覚悟はもう持てない。私には、その最期は選べない。
『死んでも許さないから』
ぐしゃぐしゃになった五線譜に、ぐちゃぐちゃになった私の想いを押し付ける。笑って私を置いて逝った姉を恨んで、呪って、愛して、焦がれて、焦がれて。
『覚えててね』
忘れない。忘れないから。私はすべてを忘れない。目も逸らさない。逃げ出さない。生きていく。願いも夢も後悔もなにもかもを抱きしめて、生きていくから。
そうしろとオトが言ったように、私は生きるよ。忘れないように、忘れさせないように、生きる。
歌をうたおう。希望の歌を。未来の歌を。怨嗟の歌を。怒りの歌を。きれいなものも汚いものも全部うたおう。愛されながら、憎まれながら、脅かされながら、踏み躙りながら。
私は、赤髪海賊団の音楽家。エレジアのこころを飲み干した悪魔。世界を上書きする魔王。みんなが愛した天使。
私はウタ。一人の歌手で、一人の海賊。たくさんの血の繋がらない家族に愛された、一人の人間。
何も背負ってない、ただの、人間だ。