「実を言うと、私はそんなにこんにゃくが好きじゃないんだ」とメイドが言った。「というより、大嫌いだと言っても良い。こんにゃく農家だとか、こんにゃく製造業者だとか、こんにゃく愛好家には大変申し訳ないんだが……どうしてこの世にこんにゃくという食べ物が存在するのか、まったく意味が分からない」 汚穢にまみれた外界と神聖なる女子だらだら部部室とを隔てていた健気なドアは今や白いこんにゃくになっていた。メイドはそれを指先で撫でながら言った。「おでんと聞くとこんにゃくを連想してしまってあまりありがたい気持ちがしないし、鍋とかすき焼きも同じ意味で好きではない。『今晩はすき焼きよ』と母が嬉しそうに言って家族全員が喜んでいても、私としては『ああ、またこんにゃくを食べないといけないんだな』と思って暗い気持ちになってしまう。他にどんなに美味しい具があってもこんにゃくとかしらたきのせいで帳消しになる。父が『こんにゃくは体に良いぞ。美容にも良いぞ』と言ってもまったく信用できない」 メイドは溜息をついて言った。「歯ごたえが嫌なんだ。歯ごたえが。およそ食べ物らしくない歯ごたえだから、脳が拒否反応を起こす。どんなに体に良いと言われても、嗜好が合っていなかったらどうにもならない」
メイドの言っていることはある程度真実であろうと思われる。人間はただ健康のことを考えて食べ物を選び、食べるのではない。そうではなく、食べ物はまさに嗜好によって選ばれ、食べられるのである。もし今、全人類を救う栄養の神が現れて、「毎日こんにゃくを500グラム食べれば人類の寿命は10年延びるであろう」と託宣を下したとしても、おそらく人類はこんにゃくを食べないだろう。それどころか寿命が縮まる可能性すらある。
命賭が言った。「私はこんにゃく好きだよぉ。おでんにこんにゃくが入ってないとおでんって感じがしないし。コンビニでおでんを買う時は必ずこんにゃくも買うけどなぁ」 双子がうんうんと頷きながら言った。「薫子も私もこんにゃくが好き」「およそ食べ物らしくない歯ごたえだからこそ好き」「食べ物らしくない食べ物だからこそ人類の叡智が感じられる」「あなたたち、食べ物を食べる時にいちいち人類の叡智を感じているの……?」 マルタの疲れた声を余所に、メイドは頭をかきながら言った。「そもそもこんにゃくを作るには大変な手間がかかるというではないか。切ったり砕いたり水酸化カルシウム水溶液とか炭酸ソーダを加えたり煮たり固めたり。だが、そんなに手間をかけてまで食べるべきものなのか、こんにゃくというものは? 私がもし首相になったら鍋物にこんにゃくを入れることを禁止する法案を提出するぞ」 危懼子が言った。「あなたがこんにゃくが嫌いなのはよく分かりました。ですが世の中にはちょうどあなたを正反対にしたくらいにこんにゃくを好む人がいます。かくいう私もそうです。あなたが首相になって鍋物にこんにゃくを入れることを禁止する法案を出したら、私はあらゆる手段を用いて倒閣運動をするでしょう。そもそも私は三歳の時に初めてこんにゃくの味噌田楽を食べ、それ以来……」
「コラァ! だらだらとこんにゃく談義をしているんじゃないわよ! 人の話を聞きなさい!」 魔女が吼えた。魔女の声は大きかった。声の振動を受けてドアのこんにゃくがおぞましくぷるぷると震えた。「うわっ」とマルタが言った。ポーランドにいたならばこのような光景を見ずに済んだであろうに、なぜ私はいま日本にいて、巨大なこんにゃくがぷるぷると震えるのを見なければならないのだろうか。マルタはぼんやりと思った。いや、そもそも「なぜ」と考えるのが良くないのかもしれない。この世のすべてのものに神の意志が込められているのならば、このこんにゃくもまた神の意志の表れ、神の賜物であるのかもしれない。マルタはそう考えた。マルタは疲れていて、その思考は茫洋としていた。
マルタは呟いた。「『わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない』」 双子が補足した。「『ヨハネ福音書』第6章第48節から第50節」 マルタが続けて言った。「もしこのこんにゃくが天から下ってきたものならば、私は食べるわ」 メイドが言った。「もし荒野を彷徨っている時に『マナ』という名の『マンナン』が降ってきたなら」 メイドは体を震わせた。「私はきっと飢え死するか、奴隷に戻っても良いからエジプトに逃げ帰るだろう」
「私もこんにゃくが天から降ってきたなら神と天を呪うわ」と魔女が言った。「ああ、こんにゃくなんて嫌いよ。大嫌い」 魔女はうんざりとした声をあげた。魔女は杖の匂いを嗅いだ。そして吼えた。「畜生め、こんにゃくくせぇんだよ!」 弾かれたように六人の少女は魔女の方へ顔を向けた。危懼子が言った。「あら、これほどまでにこんにゃく魔法をお使いになられるものですから、私はてっきりあなたはこんにゃくが大好きなものだと思っていましたわ」 その言葉にはある種の含みがあったが、危懼子以外誰もそれに気づかなかった。
魔女は首を大きく左右に振った。「そう考えるのが似非お嬢様の浅はかさよ、崋山危懼子。嫌がらせをする時に自分の好きなものを使う阿呆がどこにいますか。自分にとって嫌なものだからこそきっと相手も嫌がるだろうという確信が生まれる。その確信がないと嫌がらせなんてできやしないわ」 しかし魔女は首を傾げた。「あれ? でもちょっと待って。それとは逆に、相手の好きなものだからこそ嫌がらせになるという考え方もできるかもしれない。そう、芥川龍之介の『芋粥』なんかその典型例よ。相手の大好きなもの、欲しくてたまらないものを、相手が嫌になるまで与えてやる。それが最高の嫌がらせになるのだと藤原利仁はよく理解していた。食べきれないほどの芋粥を見せつけて、いくらでも食べて良いと言ってやる。そうよ、あれは嫌がらせの理想的な形よ! 藤原利仁は芋粥そのものによって五位を虐めたのではない。そうではなくて、五位が心の中で大切に保っていた『飽きるまで芋粥を食べてみたい』というささやかな望みを、望んでも望み得ないほどの膨大な芋粥という圧倒的物質力で破壊した。そうやって五位の素朴な精神を蹂躙したの。相手の精神を破壊する。そう、それこそ嫌がらせの本質よ。分かる?」 一気にそこまで言い放ってから、魔女はしばらく呆けたような顔をした。そして呆けたような顔をしたまま言った。「えっと、なんの話をしていたんだっけ?」
命賭が言った。「マジノ小路マジ子ちゃんは直前まで『そう、あれは今日の放課後のことだったわ……』と言っていたよ」「そうそう、そうだったわ!」 魔女は一つ咳払いをした。そしてまた口を開いた。「そう、あれは今日の放課後のことだったわ……」 危懼子が言った。「こうなったらとことんまで話を聞いてあげることにしましょうか」 危懼子の首から下がっているネックレスが言った。「別にその必要もないのではありませんか? 私の力があればこのドアをまた元通りにすることは可能です。私が力を振るうのにリチャージする必要はありません。すぐまた力を行使することはできます。なにせ私は神ですからね。まあ、その、何度も何度もこんにゃくから元通りにするためだけに力を使うのは気が進みませんが……だって、こんにゃくですよ」
危懼子は静かに首を左右に振った。「ここで元通りにしてもきっと真蒔子様はまた飽きもせず馬鹿の一つ覚えみたいにドアをこんにゃくにするでしょう。ここは言いたいだけ言わせてやります。ほら、立てこもり犯の言うことを警察が辛抱強く聞いてやっているでしょう? あれと同じです。喋れば喋るほど人間というものは力を消耗します。真蒔子様もきっと言いたいことを言ったら疲れるはずです。そこで適当に抑え込むなり腕挫手固をするなりして無力化しましょう」 メイドが言った。「腕挫手固なら私に任せてくれ。私は柔道一級なんだ」 双子が言った。「柔道一級の帯の色は」「茶色」 マルタが言った。「それって強いの?」 命賭が答えた。「白帯よりは強いよぉ」
魔女は話を続けた。「そう、あれは今日の放課後のことだったわ……」 そのように魔女が言うのは本日四回目であった。女子だらだら部の部員五人とメイドは畳の上に座った。全員がきちんと正座をしていた。「私は入学以来の数カ月間、ある書類を作成するために持てるすべての知力と気力を振り絞っていた。それを今日、ついに職員室へ提出しに行ったのよ。それは新しい部活動の設立願だったわ。その部活の名前は『女子びしばし部』。ああ、なんて麗しく、力強い名前なんでしょう。『女子びしばし部』! 素晴らしい!」
「うげっ」と危懼子がお嬢様らしからぬ声をあげた。「なんて酷い、聞くに堪えない名前なんでしょう。『女子びしばし部』なんて! 品性の欠片もない!」 命賭が危懼子に注意を促した。「しーっ、危懼子ちゃん! 犯人を刺激するようなことを言ったら駄目だよ」 マルタが言った。「日本語のオノマトペって外国人の学習者にとっては鬼門なのよ。『びしばし』っていうの、私も意味としては『容赦なく』とか『力いっぱいに』って理解できるけど、感覚としては掴みづらいわ」 メイドがマルタに言った。「そうだな。それじゃあ身近な光景を思い浮かべれば良い。『びしばし』は馬を鞭で叩くというようなイメージだ。鞭で『びしっ』とか『バシッ』とか。そういう感じだ。まあ100年前はいざ知らず、現代の世の中においては馬を鞭で叩くのは身近なことではないが」 命賭が言った。「競馬があるよぉ、競馬が」
「話を続けるわ、女子だらだら部とメイドたち」 魔女は話を妨害されて怒りを覚えていたが、その口調は平静だった。「設立の趣意はこうよ。『この学校にいるありとあらゆるびしばし系女子を勧誘し、びしばしと鍛え上げ、よってもって全校生徒の模範、全都立高校生の模範となるべき人材を養成することを目的とした部活動』」「うげっ」と危懼子がお嬢様らしからぬ声をあげた。「カスみてぇな部活動ですわ! 考えただけで怖気立ちますわ! ほら見て命賭様、ほらここ腕にぶわーって、ぶわーって鳥肌が立っていますわ!」「しーっ! お嬢様、しーっ!」 メイドが危懼子を宥めた。
魔女は話を続けた。「私はこの高校に入ってからイラついていた。あまりにもみんなだらけきっている! 授業はまともに聞かないし、制服は着崩しているし、上履きのかかとは踏んでいるし、掃除はロクにしないし……まったく、だらけきっているわ! 私はそれが許せなかった。私は旧華族間地小路家のお嬢様、お嬢様である私が学んでいる学校がこんな体たらくでは、私のお嬢様としての体面に関わる! 私は入学してから早々にこの学校の、牛の小便のようにぬるい空気を変えてやろうと決意したわ。実際のところ、牛の小便がどれくらいぬるいのかは知らないけど」
「それで、そのカスみてぇな部活動の設立願はどうなりましたの? どうせ却下されたんでしょうけど」 と危懼子が挑発するように言った。「そのウツボカズラみてぇな口を閉じなさい! こんにゃくにしちまうぞ!」 魔女は危懼子に杖を向けた。危懼子は黙った。魔女は話を続けた。「悔しいことに、設立願は却下されたわ。先生からはこう言われてしまった。『間地小路さん、先生はあなたが毎日マジで頑張っているのを知っているわ。あなたの願いの真剣さもよく分かる。でもね、あなた自身が頑張っているからといって、あなた以外のすべての人も頑張るべきだということにはならないのよ。世の中は『びしばし』だけでは上手くいかないわ。いや、むしろ、あなたはもっと『だらだら』した方が良いかもしれないわね。ああ、先生ももっとだらだらしたい……』 そう言って先生は私にある部活動を紹介したわ。その部活動はこともあろうに、『女子だらだら部』という名前だった! しかも部長の名前には『崋山危懼子』とあった! 私は憤激したわ! 憤激したままの勢いで私はこの文化部棟二階へやってきた。崋山危懼子に対して、『女子だらだら部』とかいうふざけた名前の部活を創設したその意図を質し、できることなら『女子びしばし部』に改名させてやろうと思った。でも、部室には誰もいなかったわ。私は愚弄されたように感じた。憤激の念が高まり、血圧も上がって、ちょっと意識が遠くなったと思ったら目の前が光った」
「例の光ですわね」と危懼子が言った。魔女は話を続けた。「私は『うわっ、まぶし!』と言った。光はあまりにも強かった。しばらく目を擦っていたら、私はいつの間にか自分が魔女になっていることに気が付いた。上から下まで私は魔女そのものになっていたわ。魔女そのものになっていて、こんにゃくの魔法を使うことができるようになっていた。これはチャンスだと思ったわ。だから初めて使う魔法でこの部室の畳を全部こんにゃくに変えてやったのよ。素晴らしい嫌がらせになると思って。あまりにも凄まじいこんにゃくっぷりには私も驚いたわ。ちなみに部室の鍵は魔法で開けた。私は魔女だから開錠くらい魔法でお手の物よ」「なんでまた嫌がらせとしてこんにゃくを選択したのよ」とマルタが口を挟んだ。
魔女が答える前に、危懼子が声を発した。「それはこの子がこんにゃくを憎んでいるからですわ。この子のお家、間地小路家は四代前、だいたい明治時代の頃に、こんにゃく芋の先物取引に手を出して莫大な経済的損失を出しましたの。あまりにもすさまじい入れ込みようで、明治天皇からは『こんにゃくの先物取引だけはあきまへん』と優渥なるお言葉を賜ったのにもかかわらず、この方のひいおじいさまはこんにゃく芋に熱中した。ロシアとの戦争で大量のこんにゃく芋が必要になるからこれで大儲けできるとかなんとか言って。本当にこんにゃく芋が戦争で必要になったのはそれから40年後でしたけど。かくして間地小路のひいおじいさまは破産寸前にまで追い込まれましたわ。そしてそれ以来間地小路家では『こんにゃくの先物取引だけはあきまへん』という言葉が家訓として伝えられるようになりましたの」 命賭が感心したように言った。「詳しいんだねぇ」 危懼子が得意げに答えた。「この子のことならばだいたいなんでも知っていますわ。好きなご飯のおかずは塩昆布で、苦手な教科は音楽。音痴ですからね。好きな歌人は斎藤茂吉。『ただひとつ 惜しみておきし 白桃の ゆたけきを吾は 食ひをはりけり』」 双子が補足した。「歌集『白桃』」「茂吉は食いしん坊」
「そう、私はこの子のことならばなんでも知っていますの」と危懼子は改めて言った。自分が絶対的なまでに優位にあると確信している口調だった。「幼稚園の頃からの付き合いですから。手の内を知り尽くしておりますから、じゃんけんだって無敗ですわ」 魔女は憤然として言った。「歴史を改竄するな! 私だってあなたに一回か二回くらいはじゃんけんで勝ったことがあるわよ!」 危懼子はこともなげに言った。「あら、そうだったかしら? じゃあ、ほら。じゃんけん」 そう言うと危懼子はじゃんけんを繰り出した。魔女が応じた。「ポンッ!」 結果は危懼子がパーで魔女がグーだった。危懼子が笑った。「おほほほ、ほら見なさい! この子、せっかちな性格をしているのに気が小さいから、じゃんけんの時は緊張して必ず手を握り締めますの。だからパーを出せば必勝ですわ。猿でもメイドでも勝てますわ!」「ぐぬぬ……」 魔女は拳を握り締めたまま悔しさに震えた。メイドが声を出した。「猿でもメイドでも勝てるのか。それなら、ほら、じゃんけん」「ポンッ!」 魔女はメイドに応じた。結果はメイドがパーで魔女がグーだった。メイドは深く頷いた。「お嬢様のおっしゃるとおりだ。これなら誰でも勝てる」
「それなら、私も……」とマルタが声をあげた。マルタはこれまでじゃんけんという日本の珍妙な勝負事で勝ったことがなかった。だいたい、紙が石に勝つのはおかしいではないか。マルタはいつもそう考えていた。石ならば容易に紙を破ることができる。石を包むことができるゆえに紙は石に勝てるというのはいかにも日本的な発想のように彼女には感じられた。そんなことをじゃんけんのたびに考えてしまうがために彼女はいつも手を出すのが遅れ、そのために負けてしまうのであった。しかしこの小さい魔女にならばあるいは勝てるかもしれない。マルタはまだ見ぬ勝利の味を予想してその表情にうっすらと笑みを浮かべた。
その直後であった。いきなり魔女がキレた。「ふざけるのも大概にしなさい!」 魔女は素早く杖を構えて魔力を放出した。こんにゃく芋の花とそっくり同じ色をした、あまり見る者に愉快な気持ちを催させない紫がかった海老茶色の魔力がマルタに直撃した。「あっ、マルタ!」と、魔女以外の全員が叫んだ。「大変!」 悲痛な感情が部室に満ちた。マルタがこんにゃくになる! それは今日の部活動が始まって以来のシリアスな事態であった。
「あれ? なんともない?」 しかしマルタには何も起きなかった。マルタは自分の体をペタペタと触り、撫でさすった。近くにいた双子もマルタを触り、撫でさすった。「シスター・マルタ、大丈夫ですか!?」 気遣う危懼子に対して、マルタの代わりに双子が答えた。「マルタ、なんともなってない」「大丈夫」「良かった」 しかし、双子の言葉から数秒も経たずして、マルタの顔がみるみるうちに青ざめ始めた。「いえ、大丈夫じゃないわ……」 メイドが不安そうな顔をした。「どうしたんだ?」 マルタは言った。「ほら、双子。これ、ここ触ってみて」 マルタは桜子と薫子の手を自分のスカートの中へ導いた。双子はほんのりとその無表情の上に不審な色を浮かべていたが、マルタのスカートの中を手で探ると、得心がいったように言った。「マルタのパンツが」「こんにゃくになっている」
双子がなおもスカートの中を探る中、マルタが口を開いた。「パンツだけじゃないわ。ブラジャーもこんにゃくになってる。うええ……」 こんにゃくのぷるぷるとした感触が直に肌に触れる気持ち悪さに震えているマルタに対して、双子が言った。「『羊毛と亜麻糸を混ぜて織った着物を着てはならない』」 マルタが即座に補足した。「『申命記』第22章第11節……」 メイドが重々しい口調で言った。「大丈夫だ、シスター・マルタ。モーゼはこんにゃくでできた服を着てはならないとは言っていない」
危懼子も猛然とキレた。「このこんにゃく魔女が! よくもやってくれやがりましたわね!」 危懼子はそう叫ぶと立ち上がろうとした。しかしバランスを崩した。危懼子は立てなかった。「なっ!?」 このような重大な局面でかくのごとき失態を犯すとは何事であるか、危懼子は自問したがすぐにその理由を察した。「足が、足がしびびびですわ!?」 危懼子の足は痺れていた。悲しいかな、古式ゆかしいお嬢様とはいえ危懼子は高校生として21世紀を生きる現代っ子であった。そして現代っ子というものは例外なく正座に弱い。「私も足がしびびびだよぉ!」と命賭が言った。「私たちも立ち上がれない」「私もこれでは立てんぞ」 双子とメイドもそう言った。「おうちにかえりたい」 マルタはそれどころではなかった。人体でも一、二を争う敏感な部分がこんにゃくによってぴったりと包まれているのはたとえポーランド人でなくとも耐え難いことであった。
「ぐへへへへ!」 魔女は高らかに笑った。あまり上品な笑い方ではなかった。「お嬢様の笑い方がそんなので良いの?」と命賭が言ったが、魔女はそれに答えなかった。「あなたたち、私に長話をさせて体力を消耗させようとしたんでしょう。それくらいの策はとっくの昔に看破してたわよ! 逆にこっちが喋りまくってあなたたちの足を痺れさせてやったわ! 贅沢三昧をして部室を畳敷きにしたのが裏目に出たわね!」 魔女は勝ち誇ったような顔をした。彼女は品定めをするように杖の先端をそれぞれに向けた。「さあて、次はどの子の下着をこんにゃくに変えてやろうかしら」 メイドが手を挙げた。「お嬢様にこんにゃく製の下着を身につけさせるわけにはいかない。代わりに私に魔法をかけろ」 魔女は言った。「メイドながら見上げた根性……と褒めてあげたいところだけど、あなたはダメよ。こうやって改めて見てみるとなんかうすらでかくて怖いし」
その時であった。危懼子が決然とした表情を浮かべた。命賭はその顔を見て悟った。何かするらしい。そしてこの状況は打開されるだろう。危懼子が言った。「それなら私にしなさい。幸いなことに私はこんにゃくが好きですし。それにほら、そろそろ下校時間から一時間経ってしまいますわ。あなたのお父さまとお母さまも心配なさるでしょう。それに、かわいいかわいい箱入り娘の真蒔子様は、暗くなった帰り道を一人で歩けますの? 昔、帰りが遅くなると、真蒔子様は私に縋りついておりましたわね。『お姉ちゃん怖いよぉ。真蒔子、お姉ちゃんと一緒に帰るぅ』なんて目を潤ませて……」
「わーっ、わーっ! 黙れ、黙りなさい、この腐れお姉ちゃんが!」 魔女は再度キレた。知られたくない過去を明かされることほど怒りの感情を刺激するものはない。「それならお望みどおりこんにゃくにしてやるわ!」 怒りに任せて魔女はまたもやこんにゃくの花の色をした魔力を発射した。
魔力は危懼子に直撃するかに見えた。しかし、黄金の光が危懼子を守った。光は危懼子のネックレスから発していた。黄金の光のバリアーによって魔法は瞬時に反射され、杖へと戻っていった。
「ぐわっ!?」 ボンっという軽い爆発音がし、白い煙が魔女とその杖を包んだ。この間、わずかに0.5秒ほどである。0.5秒もあれば光は地球を三周ほどできるし、人体は嚥下反射によって食べ物を口腔内から食道へと押し込むことができるが、もちろん少女たちは何もできなかった。
数秒も経たずに、白い煙が晴れた。みんな叫んだ。「こんにゃく臭い!」 煙は凄まじいほどこんにゃく臭かった。煙の中から魔女が姿を現した。魔女は健在だった。魔女は危懼子を見て嘲笑った。「ぐへへへへ! 馬鹿ね! どんな手品を使ったのか知らないけれど、その程度のことで私の魔法は止められないわ! 今度こそトドメよ!」
魔女は杖に魔力を溜めると、一気に放出した。危懼子たちは身構えた。
しかし、杖から出てきたのは魔力ではなかった。「ぼとぼとぼと」とさながら山羊が糞を排泄するような音を立てて、何か白い立方体状のものが杖の先から出て畳に落ちた。
「えっ……?」 魔女は唖然とした。「あれは……」足が痺れたままのメイドがにじり寄り、その白い何かを口に運んだ。メイドは口の中でそれをじっくりと咀嚼して味わった後、にっこりと笑って言った。
「美味い! これはナタデココだ!」
(つづく)