【完結】都立西方浄土高校女子だらだら部部長にして華麗なるお嬢様崋山危懼子ならびにその他女子部員らの活動記録、あるいはなぜだらだらの日常はあっけなく崩壊したかということに関する簡潔な報告   作:ほいれんで・くー

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第11話 戦いすんで日が暮れて

「馬鹿な!」 魔女は驚愕の表情を浮かべた。魔女には信じられなかった。「こんにゃく魔法は絶対よ! こんにゃく魔法が封じられるなんてあり得ない!」 魔女はそのようなことを叫びつつも、なんだか自分が漫画やアニメなどでよくある、敗北寸前の敵キャラが喚いている光景とまったく同じ状況に陥っているような気がしてならなかった。そんなことを考えている自分自身に対して、魔女は憤怒した。「お約束を超越するからこそ魔女は魔女たり得るのよ!」 目の前でナタデココを美味しそうに賞味しているメイドに向かい、魔女は再度魔法を発動した。悲しいことに、結果は同じだった。杖の先からぼとぼとぼとと、今度は馬の脱糞のような音を立てて大粒のナタデココが出てきた。魔女の感情の強さを反映したものか、ナタデココは先ほどのものよりも大きかった。メイドはまたナタデココを口に運んだ。「美味い! ナタデココはやっぱり最高だな!」

 

「確保!」と危懼子が鋭く叫んだ。部長の号令を受けて、女子だらだら部の部員たち全員が身を動かした。しかし、みんな足が痺れていた。「足がしびびびだよぉ!」 命賭が苦しそうに言った。「足が痺れて動けない」 双子も同じように呻いた。マルタは声すらも発せなかった。実のところを言えば、マルタはあまり足が痺れていなかった。彼女自身まったく想定していなかったことであるが、彼女には正座の才能があった。おそらく独居房のように狭い茶室での堅苦しい茶会(さかい)に参加することになっても彼女は平気だろう。それゆえ彼女が動けなかったのは足の痺れのゆえではなかった。彼女のブラジャーとパンツは今やこんにゃくだった。少しでも動いたらこんにゃく製の下着が破れてしまうのではないかという懸念がマルタにはあった。その懸念がマルタを無言にしていたのだった。そんなマルタに対して双子が言った。桜子が先に口を開いた。「『マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである』」 薫子が補足した。「『ルカ福音書』第10章第41節から第42節」 双子が声を合わせて言った。「今マルタが心配しているのはただ一つ。それは下着」 桜子は薫子の足を指先でつついた。薫子も桜子の足を指先でつついた。双子は同じような表情を浮かべて苦しんだ。「しびびび」「しびびび」 マルタはツッコめなかった。彼女の柔肌に触れるこんにゃくの感触はあまりにも生々しかった。

 

 実は正座をした後に足が痺れるメカニズムについては、いまだに科学的に明らかになっていない。伝統的には、圧迫によって血流が悪くなるからだとか、同じく末梢神経系に障害が生じるからだとかといった説明がなされてきた。最近になって、正座の後の足の痺れは受容体の一つである「TRPA1」が関係していることを京都大学の研究者たちが明らかにした。正座をすると足が圧迫されて血流が悪くなる。血流が悪くなった後、立ち上がるなどして圧迫から解放され血流の流れが元通りになると、細胞は大量の活性酸素を放出する。この活性酸素がたんぱく質で構成された受容体「TRPA1」を刺激し、痛みや痺れの感覚を生み出すという。

 

 こんなことを知って何の役に立つのか? このようなことを覚えておくと飲み会の席での話のネタになるので便利である。特に座敷席での飲み会で使えるネタとなるだろう。足が痺れている飲み会参加者にこの話をしてやると良い。教養のある人間だと一目置かれるかもしれない。だが、容易に想像できることであるが、残念なことに相手は酒で酔っぱらっていてろくに話を聞かないだろう。話をする本人もアルコールで記憶がおかしくなっていて、「TRPA1」という単語が上手く出てこないかもしれない。そうなったら本末転倒である。以上の話を本気にしてはならない。

 

「確保!」 再度危懼子が叫んだ。「承知!」 そう答えて魔女に飛びかかったのは、「TRPA1」の呪縛から真っ先に解き放たれたメイドであった。さもありなん、メイドとは足の痺れに対して耐性があるように天の配剤によって定められている。「ぎゃっ!」 身長170センチ以上の大きなメイドが突進してくるのを目の当たりにし、魔女は驚いて叫び声をあげた。「『ぎゃっ!』って、そりゃまたなんて声を出すの……」 命賭が言った。命賭の言葉を()つまでもなく、それは15歳の少女が出して良い叫び声ではなかった。

 

「どりゃあ!」 メイドは次の瞬間には魔女を畳の上に押し倒した。「ぐえ」 魔女の手から離れた杖がぼとりという鈍い音を立てて畳の上に転がった。数呼吸を置くだけのわずかな時間に、メイドは魔女に対して見事な「腕挫十字固(うでひしぎじゅうじがため)」を()めていた。「いてぇえええっ!」 魔女は痛みに悲鳴をあげた。しかし、痛みに呻きながらも魔女は何かしら異様な感触を覚えていた。「なんか柔らかい!」と魔女は言った。「なんか生のおっぱいの柔らかさを感じる! もしかして、あなたノーブラ!?」 メイドは声も高らかに言った。「ノーブラで何が悪い!」 魔女の左腕の肘関節はギリギリと音を立てて無理やりに引き伸ばされ、その手首はメイドの胸に密着していた。胸は柔らかく形を変えていた。暴れて逃れようとする魔女に対してメイドは言った。「ギブか? 早くギブしろ! 技は完全に極まっている。このままだと腕が折れるぞ」

 

「ギブ! ギブ!」 やがて魔女は右手で畳を叩いた。降参の合図である。「よしっ!」 メイドは技を解いた。魔女もメイドも畳の上で大の字になり、はあはあと苦しそうに呼吸をしていた。格闘戦が繰り広げられている間に足の痺れから立ち直り、横に立ってメイドのノーブラ柔術を観戦していた危懼子が呆れたように言った。「ここは女子だらだら部の部室であって、柔道場ではないのですが……ですがメイド、よくやりました」「ありがとう、お嬢様」 危懼子は視線を転じると、転がっている杖に目を付けた。彼女は杖を持ち上げ、そして即座に眉をひそめて言った。「うわ、こんにゃく(くさ)い! やっぱりこの杖、こんにゃく(くさ)いですわ!」「そんなに臭いの? どれどれ……」 命賭は危懼子から杖を受け取ると、鼻を近づけた。「うわ、(くさ)い! 古くなったおでんのこんにゃくと同じにおいがする!」「どれどれ」 命賭から杖を受け取った双子が鼻を近づけた。「激臭(げきしゅう)がする」「トリメチルアミン(C3H9N)の臭い」 双子はマルタに杖を渡そうとした。マルタは受け取らなかった。

 

 双子は無言でマルタの鼻先に杖を押し付けた。瞬時にマルタは苦悶の声をあげた。「ぐぇっ! なにこれくっさ!? 腐った魚の臭いがする!」 こんにゃくのにおいの主成分であるトリメチルアミンはまさに魚の腐ったようなにおいと表現される。マルタの嗅覚は鋭敏で正確だった。その嗅覚の鋭さのゆえにかえってマルタの苦しみは他の部員に比べて大きかった。彼女はその臭いの強烈さに上体(じょうたい)を捻った。その時、ブチブチという嫌な音がした。ちょうどこんにゃくを手でちぎるような音だった。「あっ!」とマルタは叫んだ。彼女は後ろを向き、制服のシャツのボタンを開け、先ほどまで胸部にぴったりとくっついていたものを取り出した。愕然とした表情を浮かべつつ、マルタはそれを指先でつまんでいた。それはこんにゃくでできたブラジャーの残骸だった。マルタはそれを畳に放り投げた。「べちゃり」という水っぽい音を立てて残骸は落ちた。

 

 双子は申し訳なさそうな顔をした。「ごめん」「私たちが杖を押し付けさえしなければ」 しかし、ポーランドから単身で来日するほど強靭な精神力を有するマルタはいちはやく衝撃から立ち直った。マルタは言った。「『もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう』 だから私もあなたたちをゆるすわ。そもそもこうなったのもそこで転がっているこんにゃくの魔女のせいだし……」 双子が補足した。「『マタイ福音書』第6章第15節」「ありがとう、シスター・マルタ」 マルタは双子に対して寛恕(かんじょ)の意図を込めて頷いた。頷いた後に、彼女は大きな声で言った。「ていうかゆるすゆるさない以前に、今ものすごく胸がスースーするのよ! すごく胸がスースーする!」 彼女は今やその胸部を剥き出しにして外気に晒していた。しかしその場には女子しかいないためまったく問題にはならなかった。その胸部は豊かに膨らんでいて美しかった。あたかもポーランド南部に位置するタトラ山地、その最高峰であるリシィ山(標高2499メートル)のように美しかった。なおもマルタは言った。「あっ! 私、今、『スースーする』っていう日本語のオノマトペを完全な意味で理解できた!」 マルタは嬉しそうだった。彼女は外国語をその肉体的な次元において理解することに喜びを見いだすタイプだった。

 

「ご心配には及びませんわ、シスター・マルタ」 危懼子が自信たっぷりに言った。彼女はネックレスに向かって言った。「黄金のカタツムリ様、あなたの力でシスター・マルタのブラジャーを直してあげてくださいまし。あとついでにパンツの方も」「良いでしょう」とネックレスは答えた。力が放出されると、すぐにマルタのブラジャーとパンツはもとのとおりに直った。もとに戻ったブラジャーを目にした瞬間、マルタは猫のような俊敏さでブラジャーに飛びつき、そして身につけた。彼女の美しい胸は文明の利器によってふたたび隠蔽された。マルタは見るからにほっとしたような表情を浮かべた。「これでメイドと同類になることは(まぬが)れたわ……」 メイドが言った。「残念だ。ノーブラノーパンの気持ち良さが分かってもらえないとは」 ネックレスが言った。「ああ、今、マルタさんから温かい感謝の気持ちが流れ込んできているのを感じます」 マルタは言った。「ええ、すごく感謝しているわ。パンツもブラジャーをしていないっていうのはそれだけで文明から疎外されたような気がするから」「酷い言われようだ」とメイドが独り言を言った。

 

「シスター・マルタの下着も元通りになったし、もう帰ろうか」と命賭が言った。「そうですわね。もうだいぶ遅くなってしまいました」と危懼子が答えた。ネックレスが声を発した。「私は有能な神なのでドアも元通りにしておきました」 ドアはいつの間にか元通りになっていた。全員が荷物を持ち、そして出入口へと向かった。「今日は疲れたよ」と命賭が言った。「今日はだらだらと競馬雑誌を読もうと思っていたのに、黄金のカタツムリとは遭遇するし」 双子が同意した。「マイマイカブリが現れるし」「マイマイカブリはカタツムリを食べるし」 マルタが言った。「アメフトボールがマイマイカブリを圧し潰すし」 危懼子が続いた。「そして部室の畳がこんにゃくにされましたしね。さっさと帰ってお風呂にでも入りましょう」

 

「勝手に帰ろうとしてるんじゃないわよ……」と、恨めしげな声が背後からした。六人は後ろへ振り向いた。そこには杖に縋りつくようにして魔女が立っていた。「まだあきらめないの? とっくに勝負はついたよ」と命賭が言った。「まったく、ゴキブリなみにしぶといですわね」と危懼子が嘲るように言った。「しかし私はお嬢様なのでゴキブリなどという害虫を実際に目にしたことはございません。ええ、ございませんとも。ですから『ゴキブリなみにしぶとい』とは言ってもそれは慣用句的な言い回しの上でそういうだけであって、心底からあなたをゴキブリと見なして嘲っているわけではございませんのでご心配なく。なにしろ私はゴキブリの実態を知らないのですから」 双子が言った。「害虫は大別して」「健康的被害をもたらす衛生害虫」「経済的被害をもたらす経済害虫」「精神的被害をもたらす不快害虫」「以上の三種に分けられる」「ゴキブリは衛生・経済・不快の三要素をすべて満たした害虫の王様」「だからゴキブリなみというのはある意味で最高の褒め言葉かも」 ネックレスが呻くように言った。「その害虫の話はあまりしないでください。それはゴキブリだけではなくカタツムリにも当てはまるので。カタツムリは農作物を食害するので経済害虫ですし、広東住血線虫(カントンじゅうけつせんちゅう)を媒介するので衛生害虫ですし、さらには見た目が気持ち悪いという不当な理由で不快害虫として数えられることもあります」

 

畜生(チクショウ)め、魔女はゴキブリでもカタツムリでもないわ!」 害虫談義を始めた女子だらだら部に対して魔女は、本日何回目になるかもう分からないが、またもやキレた。先ほど腕挫十字固(うでひしぎじゅうじがため)を食らって機能不全に陥っている左腕ではなく、無事な方の右腕で杖を構えると(それは大変な筋力を要求されたが、怒りの感情がそれを補った)、杖の先端から魔法を発射した。それには膨大な魔力が込められていた。「ぼとぼとぼと」という音を立てて杖から大量のナタデココが出てきた。メイドが嘆いた。「ああもったいない」 万策尽きた魔女はがっくりと膝をついた。「駄目だわ……ナタデココしか出ない……」 そんなふうに項垂(うなだ)れてはいたが、魔女はさほどナタデココを嫌っていなかった。むしろコンビニでゼリーを買う時はナタデココ入りを真っ先に探すほどナタデココが好きだった。魔女はナタデココを食べれば食べるほど健康になると信じ込んでいた。それは彼女の両親がそう言ったからである。

 

 しかし、杖の先から魔法の代わりにナタデココが出てくる光景は、端的に言って悪夢そのものだった。魔女はその時、自分が人生において有数の貴重な瞬間を味わっていることに気づいた。好きなものが嫌いなものに変わるという、その瞬間である。魔女は泣きそうな声で言った。「ああ私よ、私。どうかナタデココを嫌いにならないで。私よ、ナタデココを嫌いにならないで」 それは変わりゆく自分への、さらに言えばひとたび変わればもう二度と元には戻らないであろう自分への哀願だった。そして、哀願というものは拒絶されるがゆえに哀願なのである。次の瞬間にはもう、魔女はナタデココが嫌いになってしまっていた。

 

 ネックレスが慰めるように魔女に言った。「まあそんなに落胆することはありませんよ。先ほど私はあなたの魔法を反射しましたが、それによってあなたの体内の魔力の流れが一時的におかしくなっているだけで、一日もすればまたこんにゃく魔法は使えるようになるはずです」 力なく俯いていた魔女は顔を上げた。「本当!? ああ、良かったぁ……」 魔女は心の底から安心した。ネックレスが言った。「あ、なんか魔女から流れ込んできますね、あたたかな感情が。どうやら彼女は今、私に感謝しているようです」 危懼子が腕を組んで言った。「まあそんなことはどうでも良いですわ。それよりも真蒔子(まじこ)様、そのナタデココをさっさと掃除してください。じゃないと私たち、帰ることができませんわ。一晩中部室にナタデココを放置しておくわけにはいきませんので。それこそ本当にゴキブリが湧くかもしれない。掃除をしたら、それを謝罪の印として受け取ることにしますわ」

 

 魔女は困惑したような表情を浮かべたが、案外素直にその言葉に従った。魔女はきょろきょろとあたりを見回した。掃除用具を探しているようだった。「掃除用具と、杉並区推奨の黄色いゴミ袋はそこのロッカーに入っていますわ」と危懼子が顎で示した。メイドが言った。「私も手伝おう。協力した方がはやく済むし、はやく帰れる」 メイドの言葉に命賭も賛同した。「そうだね。私もはやく帰りたいから手伝おっと」 二人は魔女を手伝い始めた。マルタも双子も加わった。危懼子は溜息をついた。「まったく……真蒔子(まじこ)様が一人で掃除をしないと責任をとったことにならないではありませんか……仕方ありませんわね、私も手伝います」

 

 掃除は短時間で終わった。途中で魔女が「これなら魔法を使った方が早いんじゃない?」と言って魔法を発動し、更に大量のナタデココが畳を覆うという事故はあったが、10分後には部室はほぼ元通りになっていた。「皆様、忘れ物はございませんわね?」と言うと、危懼子は電灯を消し、ドアから出て、鍵をかけた。危懼子は部員たちに向かって優雅に頭を下げた。「これにて本日の部活動は終了です。皆様、ご苦労様でした」 少女たちは廊下を歩き始めた。もう文化部棟には他に誰もいないようだった。魔女はナタデココが詰まった黄色いゴミ袋を手にしていた。「これ、どこで捨てたら良いのかしら」と魔女は言った。「家に持ち帰りなさい」と危懼子が言った。「身から出た(さび)、いえ、身から出たナタデココなのですから」

 

 マルタが言った。「日本語のことわざの『身から出た錆』だけど、今一つ意味が分からないのよね。どうして体から錆が出てくるのかしら? どうして体から錆が出てくるのが『自業自得』という意味になるのかしら?」 双子が答えた。桜子が言った。「ここで言う『身』とは刀の『刀身(とうしん)』のこと」 薫子が続いた。「刀の手入れを怠っていると刀身が錆びる」「錆びた刀身だと戦いの時に役に立たない」「日頃の手入れの怠っていたことの報いを受ける」「ゆえに自業自得」 マルタは納得したように頷いた。「なるほど、そういう意味だったのね。勉強になったわ」 命賭が言った。「ポーランドのことわざで『自業自得』を意味するのってあるの?」 マルタは明るい顔をして言った。「もちろんあるわ。『クバが神様に対するように、神様がクバに対する(Jak Kuba Bogu, tak Bóg Kubie.)』って言うの」「『クバ』って何?」「ヤコブ(Jakub)の短縮形をクバって言うの。クバは神様を軽んじていたから、いざという時に神様はクバを助けない。でも私、このことわざはあまり好きじゃないわ。神様っていうのは、私たちがどんなに失礼なことを言ったり、失礼なことをしたりしても、許して助けてくれる存在だと私は思っているから。私たちがどれだけ神様を侮辱して軽んじても、神様は絶対に私たちを見捨てないわ。虫の良い話と思うかもしれないけど」 ネックレスが言った。「私は神ですが馬鹿にされたらムカつくので、少なくとも『虫の良い』話ではありませんね」

 

 少女たちは文化部棟を出た。既に日は暮れていた。彼女たちは歩いて正門へ向かった。遠くからまだ練習をしている運動部の掛け声が聞こえてきた。6月の夜の風は少し肌寒かった。マルタは言葉の調子を改めて言った。「そうよ、神様の愛は偉大なの。ポーランドでも日本でも、よく『神様は残酷だ』なんて知ったようなことを言う人もいるけど、私はそうは思わない。確かに神様は私たちを愛してくださっていると、私は信じているわ。そうでなければ、どうして神様はイエス様をこの世におつかわしになったのかしら。『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある』」 双子が補足した。「『ヨハネの第一の手紙』第4章第10節」 マルタはさらに言った。「重要なのはその次の第11節よ。『愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互いに愛し合うべきである』」 喋っている間に感情が高ぶってきたのか、マルタの語気は勢いを増してきた。「そうよ! 神様と同じだけの愛を持つことは人間にはできないかもしれない。でも、それがどんなに些細なものであれ、愛するという行為そのものは誰にでもできるはずよ! どうしてこの単純にして明快なことを誰も理解しないのかしら! でもそれが人間よね。ラーゲルクヴィストの『バラバ』ではそれがよく描かれている。バラバはイエス様の愛を直接その身に受けておきながら結局最後まで……」 マルタの言葉は次第に日本語からポーランド語へと切り替わっていった。真剣にマルタの話を聞いていた部員たちは顔を見合わせた。少女たちはいつの間にか正門を出て、住宅街の中を歩いていた。

 

 女子だらだら部の部員たちは日常だらだらすることを旨としていたが、若者特有のあのだらだら歩きはしなかった。彼女たちは日中に充分すぎるほどだらだらしたからであった。彼女たちはさっさと歩いた。その歩き方にはどこかしら知性が感じられた。マルタはなおもポーランド語で何かを熱心に話していた。マルタを挟むようにしてメイドと魔女が歩いていた。それは異様な光景だった。しかしそれを見咎める者はいなかった。住宅街には不思議なほどに人影がなかった。双子は双子言語でなにごとかを話し合っていた。桜子が右手でチョキの形を作り、薫子がその上にグーを乗せた。どうやらカタツムリを作って遊んでいるようだった。危懼子と命賭は並んで歩いていた。ひっそりとした雰囲気の住宅街を10分ほど歩くと、京王井の頭線久我山駅に辿り着いた。久我山駅周辺は流石ににぎやかだった。中華料理店、ラーメン店(中華料理店とラーメン店とはその意味する内容が異なる)、ホルモン焼き店、酒屋、学習塾、コーヒーショップ、コンビニ、小料理屋などが並んでいた。文化的な空間がそこには広がっていた。最寄り駅周辺がこれほどまでに物質的に豊かであるから、都立西方浄土高校は自由な(あるいは魔女が言うように懶惰(らんだ)な)校風であるのかもしれなかった。危懼子はある店の看板へ目をやった。そこは畳店だった。危懼子は部活の畳を張り替える時、この店に依頼したのだった。

 

 少女たちは久我山駅の北口に入り、昇りのエスカレーターに乗り、改札口に向かった。メイドは堂々としていたが、魔女は居心地悪そうだった。「コスプレだと思われるかもしれないわ」と魔女は言った。「私は正真正銘の魔女なのに」 メイドが言った。「堂々としていれば良い。それにこの令和の日本、魔女なんてありふれたものだ。メイドよりも珍しくない」「いや、流石に魔女の方がメイドよりも珍しいと思うわ」 魔女の言葉に対してメイドが大きな声で言った。「いや、メイドの方が珍しい! 特にノーパンのメイドは!」 あまりの迫力に魔女がびくりと体を震わせた。マルタはメイドを(たしな)めた。「公の空間でそんなことを大きな声で言っちゃダメ!」「すまん」 メイドは大人しくなった。

 

 メイドの言葉通り、通行人たちはまったく彼女たちを気にかけなかった。改札口を通り、また下りのエスカレーターに乗って、少女たちはプラットフォームに辿り着いた。電光掲示板は、吉祥寺(きちじょうじ)行の電車が五分後に来ることを示していた。危懼子は半ば退色した宣伝看板へ目をやった。そこには緑色の字で「TIME LIGHT」と書いてあった。入学以来、彼女はずっとその店がなんの店であるのか疑問に思っていた。看板には「TIME LIGHT」以外何も書かれていない。スマホで調べれば即座に疑問は解けるのだろうが、危懼子はそうしなかった。疑問は疑問のまま大切にしておきたかった。それが彼女のだらだらだった。

 

「電車が来たよ!」という命賭の声がした。危懼子は視線を左へ向けた。他の少女も危懼子に倣った。

 

 そして一斉に「はぁ?」と間抜けな声をあげた。

 

 渋谷方面からプラットフォームに進入してきたのは、ちょうど電車ほどのサイズがある、巨大な毛虫だった。

 

 毛虫は茶色だった。毛虫は毛でもさもさとしていた。

 

(つづく)




次回をお楽しみに!(話終わるのかよこれ……)
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