【完結】都立西方浄土高校女子だらだら部部長にして華麗なるお嬢様崋山危懼子ならびにその他女子部員らの活動記録、あるいはなぜだらだらの日常はあっけなく崩壊したかということに関する簡潔な報告   作:ほいれんで・くー

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第12話 突進する微小妄想の毛虫

 気の毒な話ではあるが、毛虫ほど人間から嫌われている生き物もない。「毛虫駆除業者」という語でネット検索をかけてみると、どれだけ人間が毛虫を嫌っているのかがすぐ分かる。無論、人間が彼らを嫌う理由はいくつもある。まず、見た目が悪い。びっしりと毛が生えているその有様(ありよう)を見るだけで身震いするような生理的嫌悪感が惹起される。しかもその毛が毒を持っているのであるから尚更である。刺されば皮膚がかぶれる。抗ヒスタミン薬を用いねばかぶれは治らない。また、毛虫は見た目も悪ければその行いも悪い。毛虫はツバキやサザンカといった園芸品種の葉を食害するからである。手塩にかけて育てた植木(うえき)の葉に毛虫がいずこからか大挙して押し寄せ、葉をもりもりと食べて(ふん)を撒き散らす。想像するだに怖気をふるう。

 

 それゆえ毛虫は「衛生害虫」「経済害虫」「不快害虫」の三要件を備えた立派な害虫であるといえる。しかしこれは毛虫にとって至極迷惑な話とも言える。毛虫の身になって考えてみれば良い。ある日突然、宇宙のかなた、プロキシマ星系第五惑星人が地球にやってきて、人間を「害虫である」と断じたとしたら、人間はどのように感じるであろうか。おそらく宇宙人に対して核攻撃も辞さないはずである。そして敗北し、駆除されるだろう。このようなあまり面白くもない流れのストーリーを想像してようやく人間は毛虫の置かれている苦境を理解できるのである。人間のなんと傲慢なことか。

 

 その点で言うと、昔の人間はもっと他の生き物に対して思いやりがあった。昔の人間はもっと自分たちに引き寄せて他の生き物のことを考えてやることができた。17世紀フランスの弁護士、作家、歴史家であるニコラス・ショリエ(1612-1692)は、以下のような話を残している。彼によると1584年(1584年といえば日本では小牧・長久手の戦いが勃発した年である)、フランスのヴァランスにおいて、長い雨のため毛虫が大量発生したことがあったという。天候不順がどのようにして毛虫の大量発生と繋がっているのか、その点は(つまび)らかではないが、おそらくショリエには昆虫学的な興味関心が薄かったのだろう。とにかく、ヴァランスにおいて毛虫が大量発生した。この毛虫どもは外で農作物の葉を食ったり糞をしたりするだけならばまだ良かったのだが、しまいには家の中に入り込みベッドにもぐりこみ寝ている人間の耳の中にまで侵入し始めた。ヴァランスの住人はかような狼藉を働く毛虫に激怒し、ついに毛虫追放の訴訟を提起したのである。人間が毛虫を法的主体と見なして訴訟をする。これこそ昔の人間が人間以外の生き物に対して深い思いやりを持っていたという逆説的な証拠ではなかろうか。ちなみに訴訟の結果はどうなったか? 弁論の末、毛虫たちは退去するように宣告された。しかし毛虫たちはなかなか退去しなかった。人間たちはどのようにして強制執行をしようかと思案したが、そのうち毛虫たちは成虫となって飛び去ってしまったという。以上の話は穂積陳重の『法窓夜話』からのまた聞きである。頭から信じてはならない。

 

 その毛虫が京王井の頭線久我山駅のプラットフォームへ、わさわさと音を立てて進入してきたのであった。「ぎゃあ、毛虫!」と魔女がロリ声で叫んだ。「私、毛虫嫌い!」 魔女の叫びに対してメイドが平静な声で言った。「それはそうだろう、毛虫が好きな女子高校生など存在しない。女の子というものはその一般的な性質として虫を嫌う。このことを理解していたからこそ『堤中納言物語』の『虫めづる姫君』の作者は魅力的なキャラクターを創り出すことができた。それにしてもあの姫君が好きだった毛虫はいったいなんという種類の……」 メイドの言葉は長かった。おそらくそれはメイドが無意識のうちに現実逃避を試みていることのあらわれであったのであろう。

 

 危懼子がメイドの言葉を中断させた。「長話をしている暇はございませんわ。なぜ井の頭線の電車が毛虫になっているのか、その点については確かに興味の尽きないことでございますが、さっさと乗らないと電車が行ってしまいます。いや、電車? 毛虫? とにかくこの毛虫が線路の上を走ってきたということからして、この毛虫もまた電車と同様に時刻表に則って動いていると見て間違いはないはずです。こうして話している間にも電車が……いえ、毛虫? とにかく、毛虫の電車が行ってしまうかもしれません」 危懼子たちは周りを見回した。他の乗客たちは毛虫に乗り込んでいるところであった。不思議なことに、毛虫にはちゃんと窓とドアがあった。車内は通常の電車と何も変わりがないようだった。しかし危懼子たちはしばらく逡巡した。

 

「乗るなら乗るでさっさと乗ってください」と毛虫が声を発した。その声は陰気で、疲れ切っていた。「うわっ!」と危懼子たちは叫んだ。「そろそろ発車しないと鉄道総合指令センターからどやされます」と毛虫は言った。しかし、どことなくその声には「この女の子たちはきっと自分には乗らないだろう。なぜなら毛虫を好む女子高校生なぞ存在しないのだから」という卑屈な諦めの感情が透けて見えた。それが危懼子を激怒させた。「乗りますわよ!」と危懼子は叫んだ。「乗れば良いんでしょう! 私は、最初から諦めきっているような類の方は大嫌いですわ!」 危懼子は怒りにまかせてカバンを振り回しながらドアへと歩いて行った。「私も乗ろうっと。私は毛虫そんなに嫌いじゃないし」 命賭も後に続いた。彼女は動物ならばなんでも好きな性質(たち)であった。

 

 その一方で、マルタは立ち竦んでいた。ああ、ポーランドにいればこのような珍妙な目には遭わずに済んだであろうに。彼女にとって毛虫の電車などというものは悪夢そのものであった。祖国が誇る恐怖小説作家、「ポーリッシュ・ポー(ポーランドのポー)」と称賛されるあのステファン・グラビンスキ(Stefan Grabiński)であっても、このような悪夢的光景は想像し得なかったであろう。マルタはふと、電車ならば車輪が存在しているであろう箇所へ目を向けた。そこには人間の脚がびっしりと生えていた。つるりとした白い肌が美しい若い女の細い脚があれば、小汚い針金のようなすね毛が生えている日焼けした太い男の脚もある。「ああ……」 マルタは気が遠くなった。ふらりと倒れそうになったマルタを双子が両脇から抱えた。桜子が言った。「『人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ』」 薫子が続いた。「『人は、まことあり、本地(ほんぢ)たづねたるこそ、心ばへをかしけれ』」 双子は声を合わせた。「『これが、ならむさまを見む』」 それは『虫めづる姫君』の一節であった。三人はドアを通って中へ入って行った。

 

「乗らないわよ」 そんな女子だらだら部の五人を見て、魔女は言った。「私は乗らない。誰が毛虫の電車になんて乗るものですか」 メイドが魔女に向かって言った。「しかしこの毛虫の電車に乗らないで次の電車を待つとしても、次の電車がちゃんとした電車かどうかは分からないぞ。もしかしたら次に来るのは毛虫よりもおぞましい何かかもしれない。ムカデとか、ヤスデとか」 メイドの思考は奇しくも朝のサラリーマンのそれと似通っていた。朝のラッシュ時に、この満員電車をやり過ごして次の()いているであろう電車に乗るべきか、それとも次の電車が()いているという保証はないからさっさとこの満員電車に乗るべきか、そのようなことを寝不足でストレス過多で連勤続きのサラリーマンは考えるものである。そしてサラリーマンたちが結局そうするように、メイドは毛虫のドアへと向かって歩いて行った。「ムカデよりも毛虫のほうがいくらかはマシだろう」 メイドは自分に言い聞かせるように言った。

 

「ちょっと、待ちなさいよ!」 魔女はメイドの背中へ向かって大きな声をあげた。魔女は心細かった。魔女は魔女であったが所詮はまだ15歳の小娘であった。ちょうどその時、どういうわけか、一陣の風が久我山駅の細長い駅構内を吹き抜けた。強い風を受けて毛虫から生えた無数の毛が「わさわさわさ」と歌うように鳴った。すると、見る間に毛の一本が「ぷちっ」と抜けて、プラットフォームの上で渋谷行きの電車を待っていた一人の男の肩に突き刺さった。男は「いてぇ」と、しかしどこか無関心そうに声をあげた。毛が刺さったにもかかわらず、男はスマホでゲームをし続けていた。その光景を見て、魔女はなぜだかとてつもない恐怖の感情を覚えた。魔女は今やナタデココしか吐き出さなくなった杖を握り締めると、逃げ込むようにして毛虫の電車の中に入った。

 

「はい、それじゃあ、発車しますよ」と毛虫は気怠(けだる)そうに言った。そしてドアを閉めて、何本あるか知れぬ脚を(うごめ)かせて走り始めた。車内は蒸し暑かった。6月なので冷房も暖房も効いていない。窓は換気のために開け放たれていたが、それでもぬるい空気はまったく循環しなかった。外見に反して、車内は普通の電車と変わらなかった。金属製の手すり、つり革、ソファー張りの座席、優先席、車内広告があった。車内広告は週刊誌、外国製のスマホゲー、保険、投資、展覧会などを宣伝していた。なんの変哲もなかった。それがかえって不気味でもあった。危懼子たちは立っていた。椅子には座らなかった。命賭が全員の気持ちを代弁するように言った。「なんかさ。座席に座ったら、毛虫の毛が刺さりそうな気がするんだよね」

 

 車内のそこここに人々がいた。普通の人もいれば変わった人もいた。スーツ姿の男性、普段着の女性、作業服姿の初老の男性、矢絣(やがすり)の着物の初老の女性、ピエロ、ボディービルダー、相撲取り(幕下(まくした))、眼鏡とパンツだけを身につけた若い男(パンツは女物(おんなもの)であった)、瓶詰めにされている赤ん坊と瓶の上に張り付いているアマガエルのように小さな母親、「区役所はダメなんだ三階にATMがないからなATMが三階にないから区役所はダメなんだ」とぶつぶつと繰り返している中年の男性、「どうして俺を無視するんだよ俺はお前が好きなんだよお前は俺のこと嫌いになったのかよぉ」と仏像に向かって話しかけ続けているパンクファッションの女性、火縄銃を持ったマタギ、今や絶滅したはずのフランス貴族、妖精、ポニー、学生などがいた。全員がスマホを手にしており、互いに無関心だった。

 

 危懼子が言った。「どうかしら。毛虫の電車の車内とはいえ、今までとあまり変わらない気もしますわね」 命賭が答えた。「そうだね。どこか変な気もするけど、でも、今までもけっこうこういう感じの乗客がいたような気もするよね。なにせ京王井の頭線だからね」「渋谷から変な客が乗ってきているのかもしれない」「渋谷は魔窟(まくつ)だから」と双子が言った。双子に支えられていたマルタが言った。「ええ、なんとなくいつもよりも雑然とした感じもするけど、けっこう京王井の頭線の客層ってこんな感じだった気もするわね……」 しかし次の瞬間、マルタは激しく首を振った。「いいえ! やっぱりおかしいわ!」

 

 メイドが頷いた。「私は普段、宮前(みやまえ)四丁目のバス停から荻窪(おぎくぼ)駅までバスに乗って、そこから総武線で高円寺まで帰っている。だから井の頭線については詳しくないが、やはりどこか異常だと思う」 そのように言うメイドであったが、彼女は自分自身の異常性に対してやはり無自覚だった。メイドである彼女の存在が車内の混沌に拍車をかけていることにメイドは気づいていなかった。メイドと同様にその混沌に一役買っている魔女は、おずおずと視線を周囲に巡らせていたが、やがて言った。「異常と言えば異常でしょうけど、それも数分間の我慢よ。次の『三鷹台(みたかだい)』までは2分少々しかかからないんですから。三鷹台から次の駅の『井の頭公園』までは1分。井の頭公園から終点の吉祥寺(きちじょうじ)までは1分、合計で4分よ。カップうどんができるくらいの時間しかかからないわ。我慢よ我慢……」 魔女は杖を握る自分の手が汗をかいているのを感じていた。汗とこんにゃく臭が混ざってすごいにおいになるのではないかと魔女は心配になった。

 

「申し訳ないのですが」と、突然車内のスピーカーから声がした。それは毛虫の声だった。「『三鷹台』まではもう少し時間がかかると思います」 毛虫の声は明らかに元気がなかった。「なにしろ、脚が痛むものですから」と毛虫は言った。「脚って……どの脚よ?」とマルタが問いを発した。彼女は毛虫から生えていた無数の人間の脚を思い出して身震いをした。マルタは身震いをするのと同時に、自分がなんとなく毛虫の電車という異常に対して慣れてきつつあるのを感じていた。異常な世界においては必然的に正常も異常へと馴化しなければならないのであろうか。異常な世界においてなおも正常であり続けようとするのは、気高さではなく傲慢を意味するのではなかろうか。優秀な頭脳を有するマルタであったが、その優秀さゆえに彼女の頭脳はとめどもなく混乱した。「おうちにかえりたい」 混乱の末にマルタは悲痛な独り言を漏らした。そんなマルタをおいて、毛虫の声はなおもスピーカーから響いた。「分かりません。いったいどの脚が痛んでいるのか……でも、とにかく脚が痛むんです。つらいですよ、痛む脚で線路の上を走らなければならないのは。いくら鉄道車両整備士に訴えても理解してもらえないのでなおさらつらいです。整備士は言うんです。『異常はない、気のせいだ』って。私はこんなにつらいのに」

 

「ふうむ」 メイドが腕を組んだ。組まれた腕のせいでノーブラの柔らかな胸が強調された。見る者すべてを惹き付けるほどの濃厚な色気がその胸部から発散されていたが、乗客たちはみなスマホをいじっていて気付かなかった。メイドは言った。「確かに脚が痛むと感じているのに、整備士からは異常がないと言われる。もしかしたら、それは心気(しんき)妄想というものかもしれないな。私は医者ではなく一介のメイドに過ぎないから予断は許されないが」「なんですか、それは」とスピーカーが答えた。メイドの代わりに危懼子が声をあげた。「うつ病などでよくみられる、微小(びしょう)妄想の一種ですわ。微小妄想とは端的に言うと自分自身を実際よりもダメだと思い込む妄想のことを指しますの。たとえば、自分が重い病気にかかっていると思い込む『心気妄想』」 毛虫は嘆くように言った。「思い込んでいるのではありません、実際に私は脚が痛むんです。これだけ痛むのですからきっと私は何か重い病気にかかっているに違いありません。整備士の日常的な点検では分からないような、もっと深刻な原因のある病気にきっと私はかかっているんです。現代の医療では解明されていないような、そういう類の奇病に私はかかっているに違いありません」

 

 毛虫の声を気にせず、危懼子は先を続けた。「微小妄想はまだありますわ。他には、なんら罪を犯していないのにもかかわらず、自分が何か重い罪を犯してしまったのだと思い込む『罪業(ざいごう)妄想』がありますわね」 毛虫はそれを聞いてまた陰気な声で話し始めた。「はあ、うつ病の人は大変ですね。実際にやってもいない罪を妄想して苦しむなんて同情します。しかし私の場合は妄想ではなく、実際に重い罪を犯しているのです。私はいつも苦しんでいます。今日だって渋谷駅で予定時刻よりも2秒早く、新代田(しんだいた)駅で1.5秒遅く、永福町(えいふくちょう)駅で3秒早く、高井戸(たかいど)駅で1.3秒遅く発車してしまいました。そのせいできっと人が死んだでしょうし、経済的に莫大な損害を被った人もいるでしょう。恋人に振られた人もいるはずです。私はきっと告発されます。告発されて職を失い、裁判を受けることになると思います。いつ裁判所から呼出状が来るか、家に帰ってポストを開けるたびにびくびくしているんです」 

 

 双子がスマホの画面から顔を上げた。双子はスマホゲーのデイリー任務をこなしているところだった。桜子が言った。「昔フランスのヴァランスで毛虫が裁判にかけられたことがあった」 薫子が続いた。「でも現代において動物裁判は行われていない」「近代的な法体系において動物に法的権利は認められていないから」「だから安心して」 しかし毛虫は溜息をつくだけだった。「いえ、きっと私は裁判にかけられます。今日ではないでしょうし、明日ではないかもしれませんが、いずれ裁判にかけられます」

 

 毛虫の言葉が終わるのを見計らって、危懼子は再度口を開いた。「他に微小妄想として、『貧困妄想』があります。いくらお金があっても自分が貧乏だと思ってしまうのです。たとえば自由に使える預金が100万円あっても『自分は貧乏だ』と思ってしまったり……」 スピーカーから陰気な声が響いた。「私は貧乏ですよ。働いても働いても暮らしが楽になりません。私は貧乏です。でも考えてみれば、それは大抵の人がそうなんじゃないですか。誰もが自分は貧乏だと思っているから必死に働くんですし、自分は貧乏ではない、満たされていると思っていればそこまで頑張って働かないと思います。そして私は満たされていないので働かないといけません。そう、働かないといけないんです! 夜、眠る前、ふと預金の額が気になって、そのまま眠ることができずに朝の4時まで起きていることがしばしばあります。窓の外が白んでいるのを見ていつも絶望します。こんなにも眠れなくて疲れ切っているのに会社に行って働かないといけない。でも、いざ預金残高を確認しようとすると、それがとてつもなく怖い。怖いんです。こんなに怖いと思うのはやっぱり私が貧乏だからですし、だからその怖さをなくすためにも私は働かないといけません。でも私は重い病気で脚が痛みますし、きっと近いうちに裁判にかけられて職を失います。夜は眠れないし、休日はすごい勢いで時間が過ぎていくんです……」

 

 メイドが言った。「やはり、車両整備士だけではなくカウンセラーか精神科医にかかるべきじゃないかな。うつ病というのは虫歯と同じで、一度かかったら医者に頼らない限り絶対に自然治癒しないと聞く。手遅れになる前に医者にかかったほうがいいと私は思うぞ」 ここで「手遅れ」というのは紛れもなく「死」を意味するのであるが、メイドはそこまで言わなかった。「死」という言葉がどんな影響を毛虫に及ぼすのか不明だった。危懼子も言葉を発した。「私たちは医師ではありませんから断言はできませんが、あなたに必要なのは医療の専門家による手助けではないかと、私もメイドと意見を同じくしますわ」

 

 いきなり毛虫は減速した。少女たちは「うわっ!」と声をあげた。危懼子は手にしたつり革で持ち(こた)え、命賭は危懼子に縋りつき、よろめいたマルタは双子に抱き留められ、倒れそうになった小さな魔女は仁王立ちして微動だにしない大きなメイドの大きな胸にしがみ付いた。魔女はメイドの服の下の異様な柔らかさに声をあげた。「やっ、柔らかい!? やっぱりあなた、ノーブラなの!?」 メイドが答えた。「感謝するが良い。私のノーブラの胸の柔らかさで少しは現実感覚が取り戻せたはずだ」 魔女はその言葉に反論できなかった。確かにメイドの胸の柔らかさは魔女に現実感覚と、それ以上の安心感をもたらしてくれた。所詮魔女は15歳の小娘であった。魔女はメイドの胸を揉んだ。しかしメイドはそれを気にも留めずに言った。「それよりも、ようやく三鷹台に着いたみたいだぞ。久我山から5分はかかったな」

 

 毛虫は溜息をついた。「ああ、また遅れてしまった。しかも信じられないことに、今度は定刻から3分遅れだ。これは絶対に問題になる。始末書だけでは済まない。きっと裁判になる。私は罪人だ。人殺しだ……」 毛虫が嘆いている間、ドアは開け放たれて乗客の乗り降りを待っていたが、出て行く人間も乗り込んでくる人間もいなかった。命賭が言った。「三鷹台にはなにもないからねぇ。乗り降りする人もいない」 双子がスマホをいじりながら言った。「三鷹台の一日の平均乗降人数はだいたい17,000人」「久我山が33,000人」「つまり三鷹台は久我山の半分くらいの戦闘力しかない」 ちなみに渋谷は245,000人である。さらにデータをあげれば、島根県松江市の松江駅の一日平均乗降人数は4,200人である。

 

 ドアが音を立てて閉められた。毛虫は猛然と走り始めた。その勢いはすさまじかった。マルタが言った。「こんなに早く走って大丈夫なの?」 毛虫がスピーカー越しに答えた。「遅れを取り戻さなければなりません」 その言葉の後、スピーカーからはゼイゼイという喘ぎ声しか聞こえなくなった。煙草を吸い過ぎて肺機能に甚大な損害を負っている哀れな中年男性が全力疾走しているような喘ぎ声だった。

 

 次第に車内は蒸し暑さを増した。マルタは、壁から妙な色彩の液が(にじ)み出てきているのに気付いた。彼女は叫び声をあげた。「ねえ、これなんなの!? なんか変な液が出てきてる!」 魔女が杖の先でその液体をつついた。杖の先が「じゅっ」と嫌な音を立てた。魔女も叫んだ。「これ、もしかしなくても消化液じゃない!? 杖の先が溶けてる!」 その声を聞き、車内にいた全員がスマホをいじるのを一時やめた。しかしすぐにスマホへと視線を戻した。スピーカーから弁明するような声がした。「急いでいますから」と毛虫は言った。「消化液の一つや二つは出るかもしれません。ですがあと少しで吉祥寺ですから問題はないですよ」

 

 井の頭公園駅は無視された。そもそも吉祥寺から井の頭公園までは600メートルしか離れておらず、徒歩であっても3分もかからない。それゆえ無視して構わない。いや、無視するのはやはりマズいが、いまは無視しなければならない。毛虫はそのように判断したようだった。毛虫は今や一刻も早く吉祥寺駅へ滑り込むことだけを考えていた。毛虫は必死だった。しかし、必死といえば彼はその瞬間だけではなく毎日が必死だった。一分一秒を必死な思いで過ごしているため、彼の精神は消耗しきっていた。正常な思考力と判断力が失われるほどに彼の精神は消耗していた。それは明らかに精神的な問題を抱えている証拠だった。毛虫は猛然と走りながら、漠然とそれを認識し始めていた。

 

 ほどなくして、毛虫は吉祥寺駅の明かりをその目に認めた。毛虫は安心したように言った。「ああ、なんとか定刻通りに吉祥寺に着きました」「そうですか、それは良かったですわね」 危懼子はどこか他人事のように言った。彼女の靴底はじゅうじゅうと嫌な音を立てていた。女子だらだら部の五人とメイドと魔女は、ドアが開くのを心待ちにしていた。床面はすでに分泌された消化液で覆われていた。

 

「でも、あなた方を乗せて良かったと心の底から思いますよ」と毛虫は言った。毛虫はいまや安堵の念に似た何かを感じていた。「やっぱり、自分はどこかおかしいのかもしれません。あなたたちとお話してそれがなんとなく分かりました。今度休みになったら医者に行こうと思います」 毛虫の声は明るかった。

 

「ええ、是非そうしてくださいまし。あと、とっととドアを開けてくださいまし」 ドアが開いた。消化液が車外へと迸り出た。消化液を浴びた脚が苦悶して波打った。危懼子たちは大急ぎで毛虫から降りた。

 

「ああ、吉祥寺はいつも吉祥寺ですわね」 プラットフォームに降りた危懼子が胸をなでおろした、その直後だった。

 

 駅構内へ何かがひゅるひゅると音を立てて飛来し、着弾し、鋭い閃光と猛烈な爆風を巻き起こした。

 

(つづく)




次回もお楽しみに!(字数が増えてきて困っています……)

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