【完結】都立西方浄土高校女子だらだら部部長にして華麗なるお嬢様崋山危懼子ならびにその他女子部員らの活動記録、あるいはなぜだらだらの日常はあっけなく崩壊したかということに関する簡潔な報告 作:ほいれんで・くー
気の毒な話ではあるが、毛虫ほど人間から嫌われている生き物もない。「毛虫駆除業者」という語でネット検索をかけてみると、どれだけ人間が毛虫を嫌っているのかがすぐ分かる。無論、人間が彼らを嫌う理由はいくつもある。まず、見た目が悪い。びっしりと毛が生えているその
それゆえ毛虫は「衛生害虫」「経済害虫」「不快害虫」の三要件を備えた立派な害虫であるといえる。しかしこれは毛虫にとって至極迷惑な話とも言える。毛虫の身になって考えてみれば良い。ある日突然、宇宙のかなた、プロキシマ星系第五惑星人が地球にやってきて、人間を「害虫である」と断じたとしたら、人間はどのように感じるであろうか。おそらく宇宙人に対して核攻撃も辞さないはずである。そして敗北し、駆除されるだろう。このようなあまり面白くもない流れのストーリーを想像してようやく人間は毛虫の置かれている苦境を理解できるのである。人間のなんと傲慢なことか。
その点で言うと、昔の人間はもっと他の生き物に対して思いやりがあった。昔の人間はもっと自分たちに引き寄せて他の生き物のことを考えてやることができた。17世紀フランスの弁護士、作家、歴史家であるニコラス・ショリエ(1612-1692)は、以下のような話を残している。彼によると1584年(1584年といえば日本では小牧・長久手の戦いが勃発した年である)、フランスのヴァランスにおいて、長い雨のため毛虫が大量発生したことがあったという。天候不順がどのようにして毛虫の大量発生と繋がっているのか、その点は
その毛虫が京王井の頭線久我山駅のプラットフォームへ、わさわさと音を立てて進入してきたのであった。「ぎゃあ、毛虫!」と魔女がロリ声で叫んだ。「私、毛虫嫌い!」 魔女の叫びに対してメイドが平静な声で言った。「それはそうだろう、毛虫が好きな女子高校生など存在しない。女の子というものはその一般的な性質として虫を嫌う。このことを理解していたからこそ『堤中納言物語』の『虫めづる姫君』の作者は魅力的なキャラクターを創り出すことができた。それにしてもあの姫君が好きだった毛虫はいったいなんという種類の……」 メイドの言葉は長かった。おそらくそれはメイドが無意識のうちに現実逃避を試みていることのあらわれであったのであろう。
危懼子がメイドの言葉を中断させた。「長話をしている暇はございませんわ。なぜ井の頭線の電車が毛虫になっているのか、その点については確かに興味の尽きないことでございますが、さっさと乗らないと電車が行ってしまいます。いや、電車? 毛虫? とにかくこの毛虫が線路の上を走ってきたということからして、この毛虫もまた電車と同様に時刻表に則って動いていると見て間違いはないはずです。こうして話している間にも電車が……いえ、毛虫? とにかく、毛虫の電車が行ってしまうかもしれません」 危懼子たちは周りを見回した。他の乗客たちは毛虫に乗り込んでいるところであった。不思議なことに、毛虫にはちゃんと窓とドアがあった。車内は通常の電車と何も変わりがないようだった。しかし危懼子たちはしばらく逡巡した。
「乗るなら乗るでさっさと乗ってください」と毛虫が声を発した。その声は陰気で、疲れ切っていた。「うわっ!」と危懼子たちは叫んだ。「そろそろ発車しないと鉄道総合指令センターからどやされます」と毛虫は言った。しかし、どことなくその声には「この女の子たちはきっと自分には乗らないだろう。なぜなら毛虫を好む女子高校生なぞ存在しないのだから」という卑屈な諦めの感情が透けて見えた。それが危懼子を激怒させた。「乗りますわよ!」と危懼子は叫んだ。「乗れば良いんでしょう! 私は、最初から諦めきっているような類の方は大嫌いですわ!」 危懼子は怒りにまかせてカバンを振り回しながらドアへと歩いて行った。「私も乗ろうっと。私は毛虫そんなに嫌いじゃないし」 命賭も後に続いた。彼女は動物ならばなんでも好きな
その一方で、マルタは立ち竦んでいた。ああ、ポーランドにいればこのような珍妙な目には遭わずに済んだであろうに。彼女にとって毛虫の電車などというものは悪夢そのものであった。祖国が誇る恐怖小説作家、「
「乗らないわよ」 そんな女子だらだら部の五人を見て、魔女は言った。「私は乗らない。誰が毛虫の電車になんて乗るものですか」 メイドが魔女に向かって言った。「しかしこの毛虫の電車に乗らないで次の電車を待つとしても、次の電車がちゃんとした電車かどうかは分からないぞ。もしかしたら次に来るのは毛虫よりもおぞましい何かかもしれない。ムカデとか、ヤスデとか」 メイドの思考は奇しくも朝のサラリーマンのそれと似通っていた。朝のラッシュ時に、この満員電車をやり過ごして次の
「ちょっと、待ちなさいよ!」 魔女はメイドの背中へ向かって大きな声をあげた。魔女は心細かった。魔女は魔女であったが所詮はまだ15歳の小娘であった。ちょうどその時、どういうわけか、一陣の風が久我山駅の細長い駅構内を吹き抜けた。強い風を受けて毛虫から生えた無数の毛が「わさわさわさ」と歌うように鳴った。すると、見る間に毛の一本が「ぷちっ」と抜けて、プラットフォームの上で渋谷行きの電車を待っていた一人の男の肩に突き刺さった。男は「いてぇ」と、しかしどこか無関心そうに声をあげた。毛が刺さったにもかかわらず、男はスマホでゲームをし続けていた。その光景を見て、魔女はなぜだかとてつもない恐怖の感情を覚えた。魔女は今やナタデココしか吐き出さなくなった杖を握り締めると、逃げ込むようにして毛虫の電車の中に入った。
「はい、それじゃあ、発車しますよ」と毛虫は
車内のそこここに人々がいた。普通の人もいれば変わった人もいた。スーツ姿の男性、普段着の女性、作業服姿の初老の男性、
危懼子が言った。「どうかしら。毛虫の電車の車内とはいえ、今までとあまり変わらない気もしますわね」 命賭が答えた。「そうだね。どこか変な気もするけど、でも、今までもけっこうこういう感じの乗客がいたような気もするよね。なにせ京王井の頭線だからね」「渋谷から変な客が乗ってきているのかもしれない」「渋谷は
メイドが頷いた。「私は普段、
「申し訳ないのですが」と、突然車内のスピーカーから声がした。それは毛虫の声だった。「『三鷹台』まではもう少し時間がかかると思います」 毛虫の声は明らかに元気がなかった。「なにしろ、脚が痛むものですから」と毛虫は言った。「脚って……どの脚よ?」とマルタが問いを発した。彼女は毛虫から生えていた無数の人間の脚を思い出して身震いをした。マルタは身震いをするのと同時に、自分がなんとなく毛虫の電車という異常に対して慣れてきつつあるのを感じていた。異常な世界においては必然的に正常も異常へと馴化しなければならないのであろうか。異常な世界においてなおも正常であり続けようとするのは、気高さではなく傲慢を意味するのではなかろうか。優秀な頭脳を有するマルタであったが、その優秀さゆえに彼女の頭脳はとめどもなく混乱した。「おうちにかえりたい」 混乱の末にマルタは悲痛な独り言を漏らした。そんなマルタをおいて、毛虫の声はなおもスピーカーから響いた。「分かりません。いったいどの脚が痛んでいるのか……でも、とにかく脚が痛むんです。つらいですよ、痛む脚で線路の上を走らなければならないのは。いくら鉄道車両整備士に訴えても理解してもらえないのでなおさらつらいです。整備士は言うんです。『異常はない、気のせいだ』って。私はこんなにつらいのに」
「ふうむ」 メイドが腕を組んだ。組まれた腕のせいでノーブラの柔らかな胸が強調された。見る者すべてを惹き付けるほどの濃厚な色気がその胸部から発散されていたが、乗客たちはみなスマホをいじっていて気付かなかった。メイドは言った。「確かに脚が痛むと感じているのに、整備士からは異常がないと言われる。もしかしたら、それは
毛虫の声を気にせず、危懼子は先を続けた。「微小妄想はまだありますわ。他には、なんら罪を犯していないのにもかかわらず、自分が何か重い罪を犯してしまったのだと思い込む『
双子がスマホの画面から顔を上げた。双子はスマホゲーのデイリー任務をこなしているところだった。桜子が言った。「昔フランスのヴァランスで毛虫が裁判にかけられたことがあった」 薫子が続いた。「でも現代において動物裁判は行われていない」「近代的な法体系において動物に法的権利は認められていないから」「だから安心して」 しかし毛虫は溜息をつくだけだった。「いえ、きっと私は裁判にかけられます。今日ではないでしょうし、明日ではないかもしれませんが、いずれ裁判にかけられます」
毛虫の言葉が終わるのを見計らって、危懼子は再度口を開いた。「他に微小妄想として、『貧困妄想』があります。いくらお金があっても自分が貧乏だと思ってしまうのです。たとえば自由に使える預金が100万円あっても『自分は貧乏だ』と思ってしまったり……」 スピーカーから陰気な声が響いた。「私は貧乏ですよ。働いても働いても暮らしが楽になりません。私は貧乏です。でも考えてみれば、それは大抵の人がそうなんじゃないですか。誰もが自分は貧乏だと思っているから必死に働くんですし、自分は貧乏ではない、満たされていると思っていればそこまで頑張って働かないと思います。そして私は満たされていないので働かないといけません。そう、働かないといけないんです! 夜、眠る前、ふと預金の額が気になって、そのまま眠ることができずに朝の4時まで起きていることがしばしばあります。窓の外が白んでいるのを見ていつも絶望します。こんなにも眠れなくて疲れ切っているのに会社に行って働かないといけない。でも、いざ預金残高を確認しようとすると、それがとてつもなく怖い。怖いんです。こんなに怖いと思うのはやっぱり私が貧乏だからですし、だからその怖さをなくすためにも私は働かないといけません。でも私は重い病気で脚が痛みますし、きっと近いうちに裁判にかけられて職を失います。夜は眠れないし、休日はすごい勢いで時間が過ぎていくんです……」
メイドが言った。「やはり、車両整備士だけではなくカウンセラーか精神科医にかかるべきじゃないかな。うつ病というのは虫歯と同じで、一度かかったら医者に頼らない限り絶対に自然治癒しないと聞く。手遅れになる前に医者にかかったほうがいいと私は思うぞ」 ここで「手遅れ」というのは紛れもなく「死」を意味するのであるが、メイドはそこまで言わなかった。「死」という言葉がどんな影響を毛虫に及ぼすのか不明だった。危懼子も言葉を発した。「私たちは医師ではありませんから断言はできませんが、あなたに必要なのは医療の専門家による手助けではないかと、私もメイドと意見を同じくしますわ」
いきなり毛虫は減速した。少女たちは「うわっ!」と声をあげた。危懼子は手にしたつり革で持ち
毛虫は溜息をついた。「ああ、また遅れてしまった。しかも信じられないことに、今度は定刻から3分遅れだ。これは絶対に問題になる。始末書だけでは済まない。きっと裁判になる。私は罪人だ。人殺しだ……」 毛虫が嘆いている間、ドアは開け放たれて乗客の乗り降りを待っていたが、出て行く人間も乗り込んでくる人間もいなかった。命賭が言った。「三鷹台にはなにもないからねぇ。乗り降りする人もいない」 双子がスマホをいじりながら言った。「三鷹台の一日の平均乗降人数はだいたい17,000人」「久我山が33,000人」「つまり三鷹台は久我山の半分くらいの戦闘力しかない」 ちなみに渋谷は245,000人である。さらにデータをあげれば、島根県松江市の松江駅の一日平均乗降人数は4,200人である。
ドアが音を立てて閉められた。毛虫は猛然と走り始めた。その勢いはすさまじかった。マルタが言った。「こんなに早く走って大丈夫なの?」 毛虫がスピーカー越しに答えた。「遅れを取り戻さなければなりません」 その言葉の後、スピーカーからはゼイゼイという喘ぎ声しか聞こえなくなった。煙草を吸い過ぎて肺機能に甚大な損害を負っている哀れな中年男性が全力疾走しているような喘ぎ声だった。
次第に車内は蒸し暑さを増した。マルタは、壁から妙な色彩の液が
井の頭公園駅は無視された。そもそも吉祥寺から井の頭公園までは600メートルしか離れておらず、徒歩であっても3分もかからない。それゆえ無視して構わない。いや、無視するのはやはりマズいが、いまは無視しなければならない。毛虫はそのように判断したようだった。毛虫は今や一刻も早く吉祥寺駅へ滑り込むことだけを考えていた。毛虫は必死だった。しかし、必死といえば彼はその瞬間だけではなく毎日が必死だった。一分一秒を必死な思いで過ごしているため、彼の精神は消耗しきっていた。正常な思考力と判断力が失われるほどに彼の精神は消耗していた。それは明らかに精神的な問題を抱えている証拠だった。毛虫は猛然と走りながら、漠然とそれを認識し始めていた。
ほどなくして、毛虫は吉祥寺駅の明かりをその目に認めた。毛虫は安心したように言った。「ああ、なんとか定刻通りに吉祥寺に着きました」「そうですか、それは良かったですわね」 危懼子はどこか他人事のように言った。彼女の靴底はじゅうじゅうと嫌な音を立てていた。女子だらだら部の五人とメイドと魔女は、ドアが開くのを心待ちにしていた。床面はすでに分泌された消化液で覆われていた。
「でも、あなた方を乗せて良かったと心の底から思いますよ」と毛虫は言った。毛虫はいまや安堵の念に似た何かを感じていた。「やっぱり、自分はどこかおかしいのかもしれません。あなたたちとお話してそれがなんとなく分かりました。今度休みになったら医者に行こうと思います」 毛虫の声は明るかった。
「ええ、是非そうしてくださいまし。あと、とっととドアを開けてくださいまし」 ドアが開いた。消化液が車外へと迸り出た。消化液を浴びた脚が苦悶して波打った。危懼子たちは大急ぎで毛虫から降りた。
「ああ、吉祥寺はいつも吉祥寺ですわね」 プラットフォームに降りた危懼子が胸をなでおろした、その直後だった。
駅構内へ何かがひゅるひゅると音を立てて飛来し、着弾し、鋭い閃光と猛烈な爆風を巻き起こした。
(つづく)
次回もお楽しみに!(字数が増えてきて困っています……)