【完結】都立西方浄土高校女子だらだら部部長にして華麗なるお嬢様崋山危懼子ならびにその他女子部員らの活動記録、あるいはなぜだらだらの日常はあっけなく崩壊したかということに関する簡潔な報告   作:ほいれんで・くー

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第13話 吉祥寺に吉祥寺はない

 そもそも吉祥寺(きちじょうじ)という地名自体がなかなかに矛盾をはらんでいる。矛盾というのが言い過ぎであるならば、あるいは混乱とでもいおうか。まずその読み方である。おそらくだが、いやきっと、初見(しょけん)で吉祥寺を「きちじょうじ」と正しく読めるものは存在しない。「きっしょうじ」とか「きちしょうじ」と読む者が大半であろう。そして得意げな顔をして「昨日、吉祥寺(きっしょうじ)でさぁ」と言い、正しい読み方を知っている人間から「それ吉祥寺(きっしょうじ)じゃなくて吉祥寺(きちじょうじ)って読むんだよ」と半笑いの顔で言われるのである。こうして拭い去れない恥辱との観念連合を伴って吉祥寺(きちじょうじ)という地名は脳内1000億のニューロンと精神とに記憶される。吉祥寺という名前を口に出すたびに、あの時半笑いで「それ吉祥寺(きっしょうじ)じゃなくて吉祥寺(きちじょうじ)って読むんだよ」と言ってきたあいつの顔を思い出す。この屈辱感は終生消えることはない。それは(プシュケー)(きず)である。

 

 読み方もおかしければその実態もおかしい。というのは、吉祥寺は吉祥寺という地名をしているのにもかかわらず、その地に吉祥寺なる名前の寺院は存在しないからである。吉祥寺という寺は吉祥寺にではなく、駒込(こまごめ)に存在する。東京都文京区本駒込(ほんこまごめ)である。さらに言うなら吉祥寺はもともと駿河台(するがだい)にあった。駿河台は東京都千代田区である。この変遷の歴史について話すと長くなる。歴史の話というものはだいたいが長いものなので仕方がないといえば仕方がないのであるが、それにしてもうんざりする。飲み会の席で歴史の話をすると煙たがられるのは、端的に言って話が長くなるからである。長いことを意識して細部を端折(はしょ)れば話は面白くなくなり、長さは長さとして開き直って話せばやはり嫌われる。どうしようもない。趣味を同じくしない人間相手にだらだらと歴史の話をするのは禁物である。

 

 さて、もともと吉祥寺はかの太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を築城した際その西の丸に開いた寺が元になっている。太田道灌は上野(こうずけ)永源寺から青巌周陽(せいがんしゅうよう)という曹洞宗の高僧を招き、この人を開山(かいさん)として吉祥寺を建立(こんりゅう)した。だいたい大永(たいえい)年間(1521-1528)の頃の話である。「吉祥」という名前は井戸から「吉祥」という文字が刻まれた金印が出てきたことにちなむというが、だいたいどこの寺も似たようなエピソードを持っているので本当かどうかは判然としない。吉祥寺は徳川家康の関東入府に際して駿河台に移された。その後、明暦の大火(1657年)によって吉祥寺と門前町は焼失し、寺は駿河台から駒込の地に移された。困ったのは吉祥寺の門前町に住んでいた人々だった。大火ですべてを失った彼らには行く場所がない。見かねた幕府は救済政策の一環として住むところを失った人々に御用地を貸与した。御用地は現在の武蔵野市東部にあった。ほぼ原野(げんや)である。人々は懸命になって関東ローム層のうんざりするような赤茶色の大地を耕し、新たに得た住処(すみか)をかつて住んでいた吉祥寺門前町からとって「吉祥寺」と名づけた。これが現在の吉祥寺である。ああ、なんとも長い話だ! それにしても、当時の人がもっと気を利かせて「吉祥寺」に「新」という字を付け加え、「新吉祥寺」とかいう地名にしてくれていればここまで長い話をせずに済んだのにと思わなくもない。ニューヨーク、ニューオーリンズ、ニュージーランド、ニューカレドニアなどは「ニュー(New)」という言葉がついているから分かりやすい。しかし、これまでの長い話を頭から信じてはならない。

 

 その吉祥寺は今や大混乱の様相を呈していた。井の頭線構内には音を立てて無数の砲弾が飛来し、着弾し、爆発している。破片が飛び散り、閃光が迸り、なにも道理を(わきま)えていない小学校男子児童が高価なティンパニを乱打しているような無粋な轟音が絶え間ない振動となって地面を揺らしている。爆発はカラフルだった。少なくとも灰色だとか黒色ではなかった。赤、オレンジ、黄、緑、青、インディゴ、パープルなどであった。いかにも漫画チックな爆発の色だった。それが砲撃下にあるという緊迫した状況を幾分か面白おかしいものにしていた。音を立てて砲弾の破片が飛ぶ。引き裂かれた空気が悲鳴を上げている。ぽっかん、ぽっかんという小銃(ライフル)の射撃音がそれに混じり、電動ピックの連続作動音のような機関銃の発射音が唱和している。

 

「吉祥寺が……私の吉祥寺が戦場と化していますわ!」 砲撃の爆煙(ばくえん)が晴れたそこに、危懼子たちはいた。毛虫の電車から降りた危懼子たちのすぐそばに一発の砲弾が着弾したのだったが、彼女たちは奇跡的なことにまったく無事だった。危懼子のネックレスから黄金の光が半球状のドームとなって放出されており、女子だらだら部の五人とメイドと魔女をすっぽりと覆っていた。それは奇跡的なパワーであった。「褒めてください。私は神なのであなたたちを救うことができましたが、これがただのカタツムリだったら……」 声を発するネックレスを無視して、危懼子はなおも叫んだ。憤激していたからというのももちろんあったが、叫ばなければ爆音に声がかき消されてしまうからでもあった。「まさか吉祥寺が戦場(バトルフィールド)になるなんて! こんなことが許されて良いはずがありません!」 その危懼子の言葉には幾分か誤謬が含まれていた。今でこそ平和で文化的な吉祥寺であるが、昔はまさに戦場だったからである。吉祥寺はかつて「一人でうろついていると数分で他校の生徒に狩られる」と言われるほどの激戦地だった。東京の吉祥寺は大阪心斎橋のアメリカ村に匹敵するほどのヤンキーの聖地だったことは一世代前の人間ならば誰でも知っている。

 

 命賭が「あっ!」と叫んで指をさした。その指の先には吉祥寺駅の巨大な駅舎があった。いや、それはもはや見慣れた駅舎ではなかった。それは鉄筋コンクリート造りの、無骨で無粋で凶暴な巨大要塞となっていた。鈍色の砲塔が連なり、砲身がハリネズミのように突き出ていた。「吉祥寺駅がマジノ線になってる!」と命賭が叫んだ。実際のところ、それはマジノ線ではなかった。脳内に要塞の具体的なイメージを表す言葉が「マジノ線」しかなかったために命賭はそう言ったに過ぎなかった。双子が言った。双子は常にないことに大きな声を出していた。声が爆音で掻き消されてしまうからである。砲弾はなおも周囲に着弾していた。「マジノ線だけが要塞じゃない」「アメリカのタイコンデロガ(とりで)とか」「クリミアのセヴァストポリ要塞とか」「函館(はこだて)五稜郭(ごりょうかく)とか」「ベルギーのリエージュ要塞とか」「イスラエルのマサダ要塞とか、他にもある」 ちなみにマサダ要塞とは西暦66年から73年にかけて起こったユダヤ戦争における悲劇的な事件の舞台であるが、マサダとはヘブライ語で「要塞」を意味するので、「マサダ要塞」というのは「要塞要塞」あるいは「マサダマサダ」となり、厳密には重言(じゅうげん)ということになる。「チゲ鍋」とか「サルサソース」などと同じである。

 

「私も要塞を知っているわ」とマルタが言った。「ポーランド人にとっての要塞といえば、間違いなくグダニスクのヴェステルプラッテ要塞よ!」 マルタも叫んでいた。大声を出さなければやっていられなかった。彼女は何でも良いからとにかく大声を出すことで正気を保とうとした。「ヴェステルプラッテ要塞はナチス・ドイツの侵略に対して勇敢に抵抗したの! 1939年9月1日、ヘンリク・スハルスキ少佐とフランチシェク・ドンブロフスキ大尉に率いられたたったの200人の兵士たちが、10倍以上の敵と戦艦一隻に対して決死の抵抗を……」 叫んでいるうちにマルタは次第に興奮してきた。彼女の言語はだんだん日本語からポーランド語へと変化していった。双子が口を開いた。桜子が言った。「Przepraszam. Nie rozumiem.(ごめん、わからない)」 薫子が続いた。「Przepraszam. Nie mówię po polsku.(ごめん、ポーランド語分からない)」 マルタは口を閉じた。双子のポーランド語の発音は酷すぎてほとんど何を言っているのか分からなかったが、そこはかとなく感じる祖国の言語の響きは彼女に落ち着きを取り戻させるのに充分だった。

 

「この魔女野郎(ヤロウ)様!」 突然、危懼子は魔女の肩を掴んだ。「な、なに!? なんなの!?」 魔女は狼狽した。魔女の心臓はどきどきと早く鳴っていた。油断していたところに突然先生から指名された時のように、胸は早鐘を打っていた。しかしその胸はどこまでも平坦だった。そんな魔女に対して危懼子は短く、しかしものすごい形相で言った。「吐け!」「はぁ!?」「吐け、この魔女野郎(ヤロウ)様が! あなたが吉祥寺をマジノ線にしたのでしょうが!」 魔女は首をぶんぶんと左右に振った。「私じゃないわよ! ていうか、どうして私なのよ!」 危懼子はなおも肩を掴んだまま言った。「だってあなたの名前、マジノ線マジ子じゃないですか!」 魔女は危懼子の手を振りほどいた。「私は間地小路(まじのこうじ)真蒔子(まじこ)よ! マジノ線でもジークフリート線でもない!」 魔女は杖を危懼子に向けると、怒りに任せて魔法を発射した。やってもいないことについて犯人扱いされるのは名家の出身である彼女にとって耐え難いほどの恥であった。「ぼとぼとぼと」と牛が排泄するような音を立ててプラットフォームの床に大量のナタデココが落ちた。「ああ、もったいない」とメイドが言った。危懼子はそのナタデココの量の多さに目を(みは)った。それによって魔女の怒りの程度の激しさを理解すると、彼女は素直に頭を下げた。「……申し訳ございません。失言でしたわ。お許しくださいませ。いくら間地小路様が自己顕示欲の強いたった15歳の小娘とはいえ、吉祥寺をマジノ線にするような恥知らずで意味不明で無駄そのものといえる真似をするわけがございません」 魔女は苦い顔をしたが、謝罪を受け入れた。「分かればよろしい」

 

 微小妄想に苦しめられている毛虫の電車はいつの間にか去っていた。その代わりに「しゅっぽしゅっぽ」という音を立てて、機関車が渋谷方面からやってきた。危懼子たちは視線を転じた。機関車は毒々しいショッキングピンクに塗装されていた。機関車の正面には能面(のうめん)がついていた。能面は女面(おんなめん)であった。「なんで?」 マルタの疑問の声は砲撃の爆音に掻き消された。機関車は巨大な大砲を牽引(けんいん)していた。双子がそれを見て言った。「あれは、九〇(きゅうまる)式二十四(センチ)列車加農(カノン)」「重量136トン」「フランスのシュナイダー社製」 しかし双子は首を左右に振った。「でも私たちは女子高校生だから」「兵器については詳しくない」「私たちはミリオタではない」「残念」

 

 列車砲もまたショッキングピンクで塗装されていた。遠目から見ればさながら玩具のように思われるだろう。列車砲には青い服を着た人々が乗っていた。マルタはなんとなくその服装に見覚えがあった。ややあって、マルタは理解した。「あ、あれは動物園の飼育員の服装だわ」 マルタは故郷ポズナンの「新動物園(Nowe Zoo)」を思い出していた。それは彼女と同じ名前の湖のほとりにある広大な動物園であった。「おうちにかえりたい」 マルタは悲痛な声で言った。マルタはホームシックであった。

 

 動物園の飼育員の服装をした列車砲の操砲(そうほう)要員たちは、きびきびとした動きで砲に砲弾を装填し始めた。砲弾はサルであった。ニホンザルのオスであった。サルは「ウッキッキ!」と鳴き声をあげていた。どことなく嬉しそうな声だった。行儀良く手足を縮こまらせたサルは装填棒(ランマー)によって巨大な砲身へと押し込まれた。「ウッキッキ……」 サルの鳴き声は聞こえなくなった。その後、真っ白な巨大な繭のような装薬がまた押し込まれた。実際、それは巨大な繭だった。それは(カイコ)の繭だった。操砲要員たちは汗みずくになって働いた。砲兵とは力仕事なのである。砲弾(サル)装薬(カイコ)が砲身内に収まると、彼らは隔螺(かくら)をぐるぐると回して閉めた。銭湯の煙突のように長い帽子をかぶった指揮官が「発射ぁっ!」と声をあげた。次に来るであろう轟音と衝撃を予想して思わず危懼子たちは身構えたが、その瞬間には砲手が「てぇっ!」と鋭く叫んで拉縄(りゅうじょう)を引いていた。

 

 轟然たる発砲音と共にサルが砲身から発射された。発砲煙はサルと同じ茶色だった。「キッキー!」と陽気な鳴き声を上げてニホンザルのオスは意気揚々と吉祥寺要塞へと飛んでいった。空中で真っ赤な尻が真っ赤な軌跡を描いた。数秒も経たずにサルは要塞に着弾して大きな爆発音と共に膨大な爆煙を巻き起こした。しかし要塞にはなにも効果がないようだった。列車砲の操砲要員たちはいっせいに溜息をついた。指揮官が呟いた。「やはりニホンザルでは駄目か」 指揮官は煙草に火を点けた。それは黒いパッケージのセブンスターであった。「マンドリルだったらうまくいったかもしれないが」「隊長、次はチンパンジーにしましょう」 次の瞬間、列車砲は要塞からの反撃の砲火を浴びて砕け散った。空中高くに無数のピンク色の破片が火山の爆発のように噴き上げられた。積まれていた装薬のカイコが誘爆し、中からカイコが成虫となって飛び出してきた。いや、飛び出そうとしていた。しかしカイコはばたばたと羽を羽ばたかせ、のろのろと地上を這うだけであった。カイコに飛ぶ能力はないからである。家畜化された昆虫の哀れな姿であった。「むごい光景だ」とメイドが重々しい口調で言った。「戦争というのは嫌なものだな」

 

 列車砲は破壊されたが、機関車は無事だった。突然、女面(おんなめん)をつけた機関車がなにかを唸り始めた。「『運ぶは遠き陸奥(みちのく)のその名や千賀(ちか)塩竃(しおがま)(しづ)塩木(しおき)を運びしは、阿漕(あこぎ)が浦に引く(しお)」「なに? 今度はなんなの?」 マルタが疲れ切った声で言った。双子は顔を見合わせた。機関車が口にしているのは紛れもなく謡曲『松風』の一節であった。金春(こんぱる)流である。桜子が口を開いた。「『その伊勢の、海の二見の浦、ふたたび世にも出でばや』」 薫子が後に続いた。「『松のむら立ち霞む日に、汐路(しおぢ)や遠く鳴海潟(なるみがた)』」 双子は声を揃えた。「『それは鳴海潟、ここは鳴尾(なるお)の松蔭に月こそさはれ芦の屋』」 得たりとばかりに機関車が双子の後を継いだ。「『(なだ)の汐くむ()き身ぞと人にや(たれ)黄楊(つげ)の櫛』」 双子が続いた。「『さし来る汐を汲み分けて、見れば月こそ桶にあれ』」 機関車が能面の下から声を発した。「『これにも月の入りたるや……』」

 

 機関車は最後まで歌うことができなかった。要塞から放たれた大口径砲弾が機関車を直撃したからであった。無粋な砲弾は分厚い鋼板で出来たボイラーを貫通し、装着された遅延信管が砲弾をその中で炸裂させた。機関車は真っ白な水蒸気を悪い冗談であるかのように撒き散らすと大爆発を起こした。重い破片に混ざって、軽い女面(おんなめん)がふわりふわりと宙を舞い、やがて地面に落ちてカラカラと乾いた音を立てた。マルタが言った。「優れた歌というのはその意味が理解できなくてもなんとなく感動を巻き起こすものよ。さっき機関車と双子が歌っていた歌を私はまったく理解できなかったけど、なんとなく感動したわ」 メイドが頭をかいた。「それはすごいな。はっきり言って、私は途中で飽きていた。途中で何度スマホを取り出そうかと思ったことか。しかしそれは失礼にもほどがあるから我慢したが」 命賭が言った。「シスター・マルタはすごいね。私はオペラも能もいつも寝ちゃうよ。オペラも能も絶対に催眠音波が仕込まれてるって」

 

 危懼子が言った。「それにしても、あんなに大きな列車砲でも要塞が破壊できないとは……」 魔女が言った。「いや、サルじゃ要塞を破壊できないでしょ」 どことなくその言葉は焦点からずれていたが、誰もそれにツッコまなかった。先ほど目の前で繰り広げられた大破壊劇にみんな大なり小なりショックを受けていたからである。命賭が口を開いた。「ていうか私たち、どうしたら良いのかな。私、中央線に乗らないと家に帰れないんだけど」 命賭の家は国分寺(こくぶんじ)にあった。国分寺は吉祥寺から5駅目にある。危懼子も言った。「それをおっしゃるなら私もこのままでは帰れませんわ。私の家は三鷹(みたか)にありますから」「私は武蔵境(むさしさかい)よ」とマルタが続いた。双子も頷きつつ言った。「私たちは総武線で」「東中野へ」 魔女が口を開いた。「私も三鷹……」

 

 しかし魔女がすべて言い終わる前に危懼子がまた口を開いた。「私は最悪の場合ここからタクシーに乗れば家に帰れますが、他の方々のご帰宅のことを考えるならば自分のことばかりも言っていられません。どうにかしてJRのプラットフォームへ行かなければ」 メイドは仁王立ちして腕を組んでいた。彼女の大きく柔らかい胸はこの狂乱の(ちまた)にあって豊かな生命力を誇示していた。「それじゃあ、ここで四の五の言っていないで、さっさと改札を出てJRの方へ向かおう」 その時、突如として彼女たちの(かたわ)らに落ちていた女面が声を発し始めた。「『これにも月の入りたるや、嬉しやこれも月あり。月は、一つ、影は、二つ……』」 だが、女面の声は強制的に中断させられた。間抜けな音を立てて飛来した砲弾が落下して女面を粉々に砕いたからであった。メイドが言った。「はやくここを離れないと気がおかしくなりそうだ」 危懼子が答えた。「そうですわね。とりあえずJRの改札へ向かいましょう。その後のことは行ってから考えましょう」 少女たちは互いにぴったりと寄り添い、ネックレスから発される黄金の光のドームから出ないようにして、京王井の頭線吉祥寺駅の構内を歩き始めた。

 

 他の利用客たちは砲撃を浴びながらも平然と歩いていた。彼らは一様に無表情だった。一種異様な感じを受けるほど無表情だった。しかしそれはこの状況下において特別にそのように感じられるだけであって、あるいは彼らはいつもそのような無表情をして駅を歩いているのかもしれなかった。

 

 ある中年のサラリーマン風の利用客は砲撃を浴びると吹き飛ばされ、また何事もなかったかのように立ち上がった。全身がピンク色に染まっていた。別の大学生風の女性利用者は匍匐(ほふく)前進をして改札口へと向かっていた。見事な匍匐(ほふく)であったが、女は砲弾のあけた穴に落ちた。女は穴から出てこなかった。危懼子らと同じように一団となって歩いている、黒い学生服を身に纏った中学生たちは、どこかから放たれた機関銃の一連射を食らってバタバタと地面に倒れ伏した。しかし彼らはすぐに立ち上がると平然としてまた歩き出した。「やっぱさぁ、地理の大田原(おおたばら)ムカつくよな」と一人が仲間に対して言った。「今朝、階段でばったりあった時に、ちょっとだけ挨拶するのが遅れたらものすごく怒鳴られたんだよ。『挨拶できない奴は人間じゃない!』って。こっちはこっちで考え事してただけなのにさ」 仲間の一人が千切れた鉄条網を足で()けながらそれに答えた。鉄条網はひじきだった。「大田原(おおたばら)は今年からレスリング部の顧問らしいぜ。レスリング部の連中は気の毒だよな」 中学生たちはまた機関銃を食らった。機関銃弾は美しい青色の軌跡を描いて彼らに降り注いだ。彼らは全身が真っ青になったが、また歩いて行った。「今日の吉祥寺はなんか変だな」と一人が言った。他の一人が言った。「そうか? 吉祥寺はいつも吉祥寺だろ」

 

「中学生っていうのはお気楽よね」と魔女が言った。その言葉にはようやく中学校という前期中等教育段階を抜け出した自分自身に対する誇りと、まだ前期中等教育段階に(とど)まっている者たちへの少なからぬ嘲りの感情が見え隠れした。「なにが『吉祥寺はいつも吉祥寺だろ』よ、まったく。明らかに変じゃない!」「しーっ、真蒔子(まじこ)様!」 危懼子がその言葉を制した。「いったん変だと言い始めたら、もう収拾がつかなくなりますわ。確かに今の吉祥寺はありとあらゆるところがおかしなことになっておりますが、いちいちツッコミ始めたらそれこそあの毛虫の電車みたいに精神を病みかねません。ここはもう、すべてを『そういうものだ』と捉えて乗り越えるしかありませんわ」 その時、目の前で砲弾が炸裂し、黄金のドームを激しい衝撃と爆風が襲った。煙の色はけばけばしい赤色であった。いまさらながらマルタは恐怖を覚えた。彼女はぶつぶつと聖書の一節を呟いた。「『神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに、たとい地は変わり、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない』……」 双子が補足した。「『詩篇』第46篇第1節から第2節」 危懼子が言った。「たとい電車が毛虫に変わり、吉祥寺は要塞に移るとも、私たちは恐れない。ええ、恐れるものですか」

 

 ようやく彼女たちは改札口に辿り着いた。右手方向にあるトイレはゲームセンターになっていた。メダルゲームのマシンが滝のようにメダルを吐き出しており、メダルと同じ金属色の肌をした店員がそれを箒と塵取りで掃き集め、「ああ肩が凝る」と言っていた。メダルゲームのマシンの向こう側には競馬のゲームがあった。ゲームには人だかりができていた。「ハンクブコウスキ」という名前の馬が一番人気なようだった。ハンク・ブコウスキーはアルコールと競馬に耽溺していたアメリカの作家である。「ツッコんではいけませんわ」と危懼子が注意を促した。「キリがなくなります」 しかしそういう危懼子自身がツッコみたくてうずうずとしていた。

 

 危懼子たちは改札に近づいた。しかし自動改札機はすべて素焼きのたぬきの置物に置き換わっていた。素焼きのたぬきの目は人間の目をしていた。フレッシュな輝きを放っていた。目は充血していた。ぎょろぎょろと目を動かしてたぬきは危懼子たちを見つめた。魔女が叫んだ。「コラァ! 見せもんじゃねぇぞ!」 ロリ声の脅しに気圧されてたぬきたちは一斉に目を伏せた。たぬきは臆病な生き物だからである。「どこにカードをタッチしたら良いのかしら」とマルタが言った。少女たちはしばらくあたりを見回した。するとちょうど改札口の中央に、燕尾服を着た男性が手を差し伸べて立っていた。その手のひらにはタッチ部があった。「ここにタッチすれば良いのかしら?」と危懼子が訊くと、燕尾服の男性はどこか荘厳な様子で頷いた。そして、その見た目からは想像もできないほどの甲高い声で「ヴィソントラーターシュラ!(Viszontlátásra!)」と叫んだ。それはハンガリー語であったが、少女たちは誰も(言語に堪能なマルタでさえも)ハンガリー語を理解できなかった。彼女たちは次々とカードをタッチして改札口を出た。

 

「井の頭線を抜けたのは良いけど、この後どうしたら良いのかな」と命賭が言った。彼女たちは今、降りのエスカレーターに乗っているところだった。「どうも嫌な予感がする」とメイドが口を開いた。「駅というのは嫌な予感がする場所なんだ」 魔女が言った。「そんなことを言ったら私なんて駅だけじゃない、毎朝おうちのトイレにいる時から嫌な予感がしきりと……」

 

「私に任せなさい!」と、突然声がした。それは若い女の声だった。少女たちがその方向へ視線をやると、そこにはいやらしいぐらい真っ黒のスーツとズボンと占領軍司令官ダクラス・マッカーサーが着用していたようなごっついサングラスをかけた女が立っていた。

 

「ひえっ」 全身黒ずくめの女の声を聞いて、ネックレスが小さな悲鳴をあげた。

 

 女は胸を張って言った。「安心して! 私があなたたちを導いてあげるわ!」 しかし女は上へと運ばれていった。女は昇りのエスカレーターに乗っていたからである。

 

「あっ、ちょっと! ちょっと待ってー!」 慌てている女の姿はどんどん上方へと遠ざかっていく。

 

 双子が言った。「たちわかれ いなばの山の 峰に()ふる」「まつとし聞かば 今帰り来む」 「またそんな大袈裟な……」と魔女が言った。それは在原行平の歌であった。魔女はお嬢様なので和歌の嗜みがあった。

 

(つづく)




次回をお楽しみに!(ちなみにハンガリー語は「またお越しください!」くらいの意味です。たぶん)
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