【完結】都立西方浄土高校女子だらだら部部長にして華麗なるお嬢様崋山危懼子ならびにその他女子部員らの活動記録、あるいはなぜだらだらの日常はあっけなく崩壊したかということに関する簡潔な報告   作:ほいれんで・くー

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第15話 酔いどれ天使

 知らない店に入って知らないメニューを開くその時こそ、まさに緊張の一瞬であると言える。メニューは合成皮革の革張りで、ラミネート加工された綺麗なページが何枚もその中に納まっている。その中に自分が食べたいものが果たしてちゃんとあるのか? なかった場合、どうすれば良いのか? もう席には着いてしまった。水もおしぼりも出されている。もう店員は自分のことを「客」として認識しているだろう。金と儲けをもたらす「客」として、また職業意識を発揮しておもてなしをするべき「客」として、席に着いたその瞬間から自分はそのように店側に認識されている。メニューを見る。しかし、食べたいものがない。その時、「この店に私の好む料理はないようなので、申し訳ありませんが店を出ることにいたします」と店員に言うのは非常に難しい。

 

 だが、危懼子たちは幸運だった。席に着いた彼女たちはメニューを開くと、そこに美味しそうな「しっかりとした」料理が並んでいるのを確認した。正直なところを言うと、メニューの最初の3分の2まではケーキやフレンチトーストやパンケーキなどのスイーツ類が記載されていたので彼女たちは焦ったのであるが、残りの3分の1にはちゃんと料理が表示されていた。料理はパスタの類が多かった。危懼子は「やはりこの店は本質的にはカフェなのだろう」と思ったが、今はそのパスタ類の豊富さがありがたかった。若者はパスタであるならばなんでも嬉しがるものである。歳をとってくるとそうはいかない。どうしても糖質が気になる。食べれば血糖値が爆上がりする。食物繊維が少ない。肝心のタンパク質とビタミンは? こういったことを大人は気にしてしまう。まことに愚かな生き物である。

 

 危懼子たちは空腹だった。空腹が決断力をもたらした。普段の女子高校生ならばもっとだらだらとおしゃべりをし、時間をかけて何を注文するか決めるものであるが(なぜなら女子高校生にとってレストランでの会食は単なる栄養摂取ではなく、政治的行為の範疇に含まれるからである)、彼女たちはさっさと決めてしまった。危懼子は言った。「私はこのナスとパプリカのアラビアータにしますわ」 それは1,580円であった。命賭が言った。「私はこのチーズリゾットにするよ」 それも1,580円であった。マルタが言った。「私は海老のスープパスタにするわ」 それは1,730円であった。海老はやはり高いのだった。双子は無言でメニューを指さした。そこには「チキンとモッツァレラチーズのトマトソースパスタ」と書いてあった。それは1,580円であった。双子のエネルギーは既に枯渇しかけていたため、彼女たちは声を発することすらできなくなっていた。メイドが双子に尋ねた。「二人で別々のものにしないのか?」 双子は力なく首を左右に振った。危懼子がメイドに言った。「双子というのは訳もなく同じものを食べたがるものですわ。別々のものを注文して半分ずつ食べる方が経済的であるのは分かっているのに、なぜか同じものを注文してしまうのです。それが双子という生き物の悲しい習性なのですわ」「そうなのか」 メイドは頷くと、メニューを見ながら言った。「私はこの野菜が多そうな煮込みハンバーグにしよう」 それは1,580円であった。

 

 魔女が最後に言った。魔女は15歳の小娘らしく最後まで腕を組んで悩んでいたのだった。「私は『モッツァレラのフルーツカプレーゼ』にする……」 それは980円だった。魔女がそう言うと全員が魔女の方を見た。魔女は戸惑ったように言葉を発した。「な、なによ? 私が何を頼もうと私の勝手じゃない!」 危懼子が言った。「やはりまだお子様ね、真蒔子(まじこ)様は。おそらくは値段の高さに(おく)して、しかも『なんとなくお洒落なもの』を選ぼうとした結果その『モッツァレラのフルーツカプレーゼ』を選んだのでしょうが、残念ながらカプレーゼ(サラダ)では空腹は満たされません。それは前菜に過ぎないのですから。ちゃんとしたものを選んだ方が身のためですわ」 魔女は沈黙した。危懼子の言うことは尤もであると彼女は納得していた。そして、10秒ほど経った後に小声で言った。「じゃあ、『ベーコンと生ハムのチーズクリームソースのパスタ』にするわ……」 それは1,580円であった。危懼子は頷いた。「大いに結構ですわ。その名前だけでカロリーがバカ高いことが分かりますし」

 

 彼女たちの注文が決まると、離れたところからさりげなく様子を窺っていた店員がこちらへ近寄ってきた。危懼子はテーブルを挟んで向かい側に座っている黒ずくめの女に声をかけた。「ほら、あなたもいつまでもしくしくと泣いていないで、何か頼まれてはいかがですか? ビールが飲みたいのでしょう?」「うう……うう……」 情けない声を漏らしつつ女は泣いていた。女は声を絞り出すように言った。「サングラス……返してぇ……」 メイドが危懼子に言った。「泣かれたままではせっかくの食事がまずくなるし、いったんサングラスを返すのはどうだろう」 危懼子は首肯するとサングラスを女に返した。サングラスを顔にかけると、女は直前までとは打って変わった力強い口調で言った。「ビール!」 ビールはKリンのハートランドであった。一杯で780円であった。店員はそれぞれの注文を聞くと「少々お待ちください」と言って去っていった。店員は伝票を書くこともなかったし、伝票を置いていくこともなかった。命賭が言った。「当然、料理の後で伝票を置くんだろうけど……それとも置かないのかな。伝票をテーブルに置いていかない店ってなんとなく緊張するよね。会計の時に混乱しないのかなって。店の方でちゃんと管理しているのは分かっているんだけど……」

 

 料理を注文してしまうと、彼女たちの空腹感は多少の落ち着きを見せた。まことに希望というものはすべてに作用する良薬である。遠くない未来にちゃんと料理が来るだろうという希望が身を裂くような空腹感を癒すのである。だが、そんな希望があっても料理が来るまでの時間は殊更に長く感じられるものである。ましてやその時間を沈黙のままに過ごすことなど、危懼子にはできなかった。危懼子は言った。「料理が来るまでに、軽くで良いですからこれまでの経緯についてお二人から話してもらいましょう」「そうね」と黒ずくめの女は答えたが、その口調はどこか上の空だった。女はビールのことしか考えていなかった。ネックレスは黙っていた。会話は始まらなかった。危懼子は苛立ったが、その状況を打開する方策は見当たらなかった。ちょうどその時、グラスに注がれたビールが運ばれてきた。黒ずくめの女は「あ、ビール! ありがとう!」と大きな声をあげた。彼女はグラスを店員の手から直に受け取ると、すぐに口をつけ、ぐいぐいと中身を飲み干し始めた。そして、店員が立ち去る前に空になったグラスを返し、「美味しかった! もう一杯お願いね!」と元気よく言った。店員はにっこりと笑って「かしこまりました」と答えた。

 

 ただビールと言ってもこの世には無数の種類のビールがある。しかしビール好きはそのようなことに頓着しない。彼らはビールならばなんでも好む。ワイン好きはよく「どこそこのワイナリーの何年産のものが良い」だの「ワインは葡萄畑の小路一本を挟んだだけで味が変わる、例えば……」だのと自分のワインに関する「高尚な」好みと知識を(頼まれもしていないのに)吹聴するが、それに比べるとビール好きはよほど無邪気で素直であると言える。黒ずくめの女もまたそうであった。

 

 そして、ビールによって力を与えられたのだろうか、彼女はようやくこれまでのことについて説明を始めた。女は危懼子たちを眺めてから言った。「まず、私の名前を名乗ったほうが良いのかな。でも、私に名前らしい名前なんてないんだよね。とりあえず、私のことは『天使(アンゲロス)(ἄγγελος)』とでも呼んでちょうだい」「嘘を言うな!」 それまで沈黙を保っていたネックレスが叫んだ。「うわっ」と危懼子が驚いた声をあげた。「突然大きな声を出さないでくださいまし! 空っぽの(ストマック)驚倒(びっくり)するではありませんか! 胃液(ガストリック・ジュース)逆流(リバース)したらどうするのです!」「すみません」 ネックレスが謝るのを聞いてから、「天使」と名乗る女はまた口を開いた。「『オルガノン』、あなたはまだ私のことを『悪魔(ダイモーン)(δαίμων)』だと思っているみたいね。まあそれも仕方ないか。生まれた時から()()()に私たちのことを悪魔だと言われ続けていたら、そう信じてもおかしくはない」 天使はやれやれというふうに首を振った。

 

「天使ねぇ」と命賭がのんびりとした声で言った。「そう言われても、私たちは現代っ子だからすぐに『はあそうですか』と信じることはできないよぉ」 現代っ子とはまことに罪深い存在である。天使はうんうんと頷いた。「それはそうでしょうね。人間っていうのは疑り深い生き物だから」 マルタが言った。「『ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った。「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」』」 双子は残された力を振り絞るように言った。「『ヨハネ福音書』……第24章第25節……』」 天使は言った。「そう、12使徒のひとりであるディディモのトマスは疑り深い性格で、イエスが復活しても実際にその目で見てみるまでは信じなかった。聖書はトマスだけが特別に疑い深い性格をしていたということを言っているのではない。そうではなくて、人間が一般的に有している『とにかく何でも疑ってみないと気が済まない』という厄介な性格を、トマスという象徴的な人物によって表現しただけ。だから、私もあなたたちに目で見ることができる証拠を示してあげる」

 

 そう言うと、天使はいきなり背中から大きな羽を生やした。羽は白鳥のように美しかった。薄暗い店内で、羽はきらきらとした霊妙な白い光の粒子を纏って輝いていた。天使の隣に座っていた双子と魔女が「うわっぷ!」という間抜けな声をあげた。顔に羽が覆いかぶさったからである。天使は笑いながら言った。「ほらほら、これでどう? これこそまさに天使の羽よ! 一目瞭然じゃない?」 天使はばっさばっさと翼を羽ばたかせた。光の粒子と抜け落ちた羽が粉雪のように店内を舞った。ちょうどそこへ二杯目のビールを持って店員がやってきた。「あっ、ビールありがとー!」 天使はビールを受け取ると至福の表情を浮かべて飲み始めた。店員は申し訳なさそうに天使に言った。「申し訳ございません、お客様。店内で翼を展開するのはご遠慮ください。他のお客様のご迷惑となりますので……」「あっ、そうなの? ごめんなさい」 天使は羽をしまった。しまわれていく過程で羽が勢い良く顔を(こす)ったため、双子と魔女は一斉に「へっきち!」とくしゃみをした。マルタがすかさず「Sto lat!」と言った。それはポーランド語であった。ポーランドでは誰かがくしゃみをした時に「Sto lat!」と言うのである。「お大事に」くらいの意味である。

 

「他に証拠はないのか?」とメイドが尋ねた。「今時、天使の羽くらいで信じるようなピュアな若者はいないぞ」 メイドの言葉に対して天使は困惑したような顔をした。「じゃあ、これでどう?」 天使は頭の上に輪光(ハロー)を浮かべた。それは天使という語から通常想起されるイメージそのものだった。輪光(ハロー)は蛍光灯よりも激しくギラギラと輝いていた。天使が言った。「ほら、これ、この輪光(ハロー)なら信じるでしょ。これ、私の意志で光ったり消えたりするんだよ。ほらほら」 天使が「カチカチカチ」と妙な声をあげた。それに応じて輪光(ハロー)がチカチカチカと明滅した。薄暗い店内が白い光で照らされたり照らされなかったりした。店員がまたやってきて言った。店員は三杯目のビールを持っていた。「申し訳ございません、お客様。店内で輪光(ハロー)を展開するのはご遠慮ください。他のお客様のご迷惑となりますので……」「あ、そうなの? ごめんなさい」 天使は輪光(ハロー)をしまいつつ、三杯目のビールを飲み始めた。メイドは「うーん」と唸った。「確かに羽も光の輪っかも本物っぽいが……」 天使は面倒くさそうな顔をした。「えー、これでも信じてくれないの? 使徒トマスだって直接イエスの傷を見て触ったら信じたよ。いい加減信じてくれても良いんじゃないの?」

 

「もっとこう、端的な証拠が欲しいわ」とマルタが言った。「現代社会でも充分通用するような、そういう端的な証拠が欲しい」「ええー」 天使は腕を組んでしばらく考え込んだ。そして、スーツの胸ポケットから何か小さなカードを取り出した。「じゃあ、これならどう? ほら、私の身分証明書」 少女たちは首を伸ばしてそれを見た。それはまごうことなき身分証明書であった。ちょうど運転免許証と同じくらいのサイズで、青みがかった銀色をしていた。青いバックの証明写真の横に、細かなギリシャ文字で何かが書いてある。マルタは少しだけだがギリシャ文字が読めた。「天使(ἄγγελος)」「事業所(γραφείο)」「有効期限(ημερομηνία λήξης ισχύος)」などと書いてあった。証明写真の天使の顔は今の天使よりも幾分か若かった。どことなく緊張したような顔をしている。危懼子が口を開いた。「なるほど、あなたが天使であることを信じましょう」 少女たちはみんな頷いた。天使が驚いたような顔をした。「えっ、これで信じるの? まったく、現代っ子っていうのは本当によく分からないな……」

 

「それで、その天使様はどうしてこの世界に降り立ったのかしら?」と危懼子が言った。「それはね……」と天使が答えようとした時、店員が料理を運んできた。料理は続々と運ばれてきた。テーブルの上に料理が並べられると、危懼子が言った。「こちらからあなた様にお尋ねしておいて何なのですが、私たちはこれから栄養補給に(いそ)しまなければなりません。食べながらお話は聞きますので、どうか私たちを気にせず喋り続けてくださいまし」 それはお嬢様としては苦渋の選択であった。誰かが真剣に話しているのにそれをおいて食べ続けるというのはあまりエレガントな行為とは言えない。しかし彼女たちはもう限界だった。

 

 まず最初にフォークを手にして料理へと取り掛かったのは双子だった。双子はまったく同じ動きでトマトソースが絡んでいるスパゲッティが盛られている皿に手を伸ばしたが、しかし皿が移動した。「なんだと?」と双子が言った。双子が手を伸ばす。皿が動く。双子がさらに手を伸ばす。皿がさらに動く。よく見ると皿には手足が生えていた。いかにも栄養不良そうな青白い肌の、枯れ枝のように細い手足だった。皿はゴキブリのような素早い動きでテーブルの上を走り回った。双子たちの皿だけではなく、他の皿も同じように手足が生えていて、同じようにテーブルの上を逃げ回った。命賭が嘆くように言った。「ああ、このお店だけはまともだと思ったのに……」 メイドが言った。「食べられることを拒否する料理なんて初めて見るな」 そう言いつつ、彼女は必要最低限の見事な動きで煮込みハンバーグの皿を掴んだ。「すごい」と双子が声をあげた。皿から生えている手足がじたばたと藻掻くように暴れた。メイドは言った。「いかん、けっこう力が強いぞ。こら、暴れるんじゃない。中身がこぼれる」 魔女が一喝した。「たかだか料理の分際で食べられるのを拒否(きょひ)るんじゃない! 手足を切り落とすぞ!」 魔女はナイフを振り上げた。皿たちは一斉に動くのをやめた。ようやく少女たちは食事に取り掛かることができた。

 

 少女たちが黙々と食事をしている間に、天使は話を続けた。天使は今や四杯目のビールに口をつけていた。「まあ、天使って言ってもね。そう大した存在じゃないんだ。この世界の人間たちは随分と天使という存在を偉いものだと思ってくれているみたいで、それはそれでありがたいんだけど、本質的にはサラリーマンと変わらないの。給料をもらっていて、社宅に住んでいて、税金と社会保険料を払っている。なんだっけ、ほら、『ヘブル人への手紙』だっけ。あそこでは随分と大層なことが書いてあるけどさ」 マルタが口の中のものを飲み込み、紙ナプキンで丁寧に口を拭ってから言った。「『御使(みつかい)たちはすべて仕える霊であって、(すくい)を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか』」 双子がスパゲッティを食べながら補足した。「『ヘブル人への手紙』第1章第14節」

 

 天使はビールをぐっと飲み干した。「そうそう。そりゃ、職業意識としては『人々に奉仕するため』とは思っているけどね。でも仕事はキツイよ。ほぼ年中無休だし、休暇をとろうとすると同僚たちの目が気になるし。でも忙しいのは天使だけじゃないの。神様も忙しいの。忙しすぎたせいで神様が体を壊しちゃってから、私たちの業務はもっと忙しくなったけどね。神様って割と無茶をするから……」 マルタが疑問の声を発した。「その、さっきから神様っていっているけど、その神様は私の信じる教えと同じ神様なの?」 天使は「ええっとねぇ」と言った。「その話をするとものすごく面倒くさくなるし、長くなるし、しかもあまり愉快なものではないと思うよ。とりあえずは『そういうものだ』と思って話を聞いてくれない? それに、私たちは天使で、神様という存在を直接的に知っているけど、だからといってあなたたちの教えと神様の概念を否定なんてしないわ。だってそれには人間にとって大切な真実が含まれているから。だからね、とりあえずはそういうことで良い?」 マルタは無言で頷いた。いろいろと言いたいことはあったが、今の彼女は食事をするので忙しかった。皿の中身が減ってくるにつれてまた手足が暴れ始め、それを抑え込むのに忙しかったということもあった。

 

 運ばれてきた五杯目のビールを飲みながら天使は話を続けた。「仕事がキツイのに給料は少ないし、休みは取れないし、昇進の見込みもなければ昇給の見込みもない。そんなんだから気が変になる奴も出てくるのよ。職場でいきなり全裸になったりする奴とか」 メイドがすぐにそれに反応した。「全裸になるのはそんなに変なことなのか?」 天使は気にせず話を続けた。「職場のフロアを全部こんにゃくに変える奴とか」 魔女が頷いた。「嫌な職場に対する最高の嫌がらせね」 天使はなおもビールを飲んでいた。「まあその程度の奇行なら許容範囲だったのよ。でもね、つい先日とんでもない行動へ走った奴が出た。そいつは『オルガノン』を持ち出して、下界へと逃げ出したの。正確に言うと『オルガノン』の卵ね。下界で『オルガノン』を孵化させて、その力を使って自分が新しい神になろうとした。いえ、ちょっと違うわね。自分が新しい神になろうとしたのではなくて、自分で新しい神を生み出して、それに天使として仕えようとしたといった方が良いかな。どこまでいっても天使は所詮天使でしかないから、自分が神様になるなんていうのは思いもよらなかったのかもしれない。まあ、とにかくとんでもないことよ。いくらそいつが25連勤だったとはいえ……」

 

「ちょっとお待ちになって」と危懼子が口を開いた。彼女はそろそろ料理を食べ終えかけていた。「その『オルガノン』とか『卵』とか、あなたたちだけの業界用語(ジャーゴン)を当然の了解事項として言うのはおやめになってくださいまし。はっきり言ってちんぷんかんぷんですわ」「あ、ごめんごめん」 そのように言う天使の呂律は少し怪しくなっていた。どうやら酒を飲みすぎているようだった。しかし天使は言った。「なんかビール飽きてきちゃった。ビールって一番美味しいのは最初の一口だけなんだよね。後はなんとなく惰性で飲んじゃう。ねえねえ、赤ワイン頼んでも良い?」 双子が答えた。「As you like it.(お好きなように)」「いえーい!」と陽気に叫んで天使は店員に赤ワインを注文した。店員は去っていった。

 

「『オルガノン』っていうのは、文字通り私たちの仕事道具よ。職人だって道具がないと仕事ができないように、私たち天使だって道具がないと仕事ができない。『オルガノン』は神様の形相(エイドス)を分有していて、下界の運営とメンテナンスに必要な機能を果たすの。人間からすると絶大なパワーのように見えるかもしれないし、実際のところ取り扱いに注意しないと下界の秩序と法則が乱れるから管理には厳重な注意を払っていたんだけど、そいつはそれを持ち出した。もちろん、そのままの形では持ち出すことができないから、そいつは『オルガノン』の製造工場から『卵』を持ち出した。製品として出来上がった『オルガノン』にはシリアルナンバーが振られている上に緊急停止プログラムが仕込まれているから、天使が業務外で勝手に使うことはできない。でも『卵』の段階ならそこまで監視が厳しくなかったのよ。そいつは業務の関係上、『オルガノン』の製造工場に詳しかった。どこをどうやったら上手くつけこめるかなんて、とっくの昔に熟知していたんでしょうね。で、そいつは下界に逃げ出して『卵』を孵化させた。そいつが無断欠勤をしたから、上司が社員寮へ行ってみたら部屋はもぬけの殻。『くたばれ死んだ魚の目をした悪魔(ダイモーン)共、私は新たな天使となって自由にはばたく』と書き置きがしてあったから、ようやく事態が発覚したの。で、ちょうど休暇をとっていた私が手隙(てすき)だってことで下界に派遣されたの。もう本当に迷惑な話よ。もうちょっと休んでいたかったのに……」 天使は赤ワインをがぶ飲みした。次第に天使は激してきたようだった。「そうよ! 私だって地獄の26連勤をくぐり抜けて、やっとのことで休みになったのに! なによあいつ、たかだか25連勤くらいで音を上げて! 尻拭いをするこっちの身にもなって欲しいわ、こんな大変なことをしでかして! あんな奴、天使じゃないわ。悪魔よ、悪魔! ()使()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 しかし少女たちはあまりその話を真剣に聞いていなかった。腹がいっぱいになった彼女たちの関心は今やデザートに移っていた。彼女たちはメニューを広げて議論していた。命賭が言った。「ねえ、何にする? 私、このバナナとイチゴのフレンチトースト食べたい。コーヒー付きで」 マルタが言った。「私も同じものにしようかしら。でも、飲み物はハーブティーにするわ。夜にコーヒーを飲むと眠れなくなるし」 双子はぼそぼそと何やら双子言語で話し合っていたが、やがて「これ」と言ってメニューを指さした。それは季節限定のヨーグルトソースの白ブドウのパンケーキだった。メイドが言った。「お嬢様は何にする? 私はバニラアイスがあればそれで良いが……」 危懼子は低い唸り声をあげた。「そうですわね、私は……」 魔女が呆れたような口調で言った。「あなたたち、よく食べるわね……私はもうお腹いっぱいよ。デザートはもう良いわ」 危懼子が窘めるように言った。「いけませんわ真蒔子(まじこ)様! デザートのない食事なんて食事ではありません! いやしくもお嬢様である方がデザートを食べなくても良いなどと発言なさるのは不見識極まりますわ! お嬢様がデザートを食べなかったらこの世からデザートという食文化が消滅するではありませんか……!」

 

 そのようにまくし立てる危懼子の胸の上で密かに黄金の輝きを放ち続けていたネックレスが、ごく平静な口調で言った。「なるほど、あなたのお話は分かりました。あなたの話に則って考えると、私はどうやら『オルガノン』であるようです。しかし、あなたの話が真実であると証明する証拠がどこにありますか? あなたこそが狂った天使、いや悪魔で、私を(たばか)るために嘘をついているのかもしれない」

 

 天使は笑った。「ふへっへっへ!」 酔いのためその笑い声は天使らしからぬ下品な響きを有していた。「ふへっへっへ、証拠はねぇ、ちゃんとあるんですぅ! ほら!」 天使はそのように呂律の回らぬ口調で言うと、ポケットからスマホを取り出した。天使はスマホをいじり、何かを画面に表示した。「ほら! これ! 工場が出してる『オルガノン』の製品カタログよ! あなたの正式名はΓ(ガンマ)109-2231型。去年の冬に出たニューモデル! メモリのクロック周波数は2,800Pcps、自己診断プログラムと自己修復プログラム内蔵、軽くて丈夫で長持ち! そして成金趣味(スノビズム)丸出しの黄金のボディ……!」 滔々と話し続ける天使の声をネックレスは聞いていなかった。彼は呆然として画面に見入っていた。

 

 そこには彼とまったく同じの、黄金のカタツムリが何体も映っていた。

 

「私は……」 ネックレスは愕然としたような声で言った。「私は、神ではなかったのか……? しかし……」 天使がもう何杯目になるか分からない赤ワインをぐっと飲み干した。そして、先ほどまでとは打って変わった沈痛な面持ちをした。

 

 天使は気の毒そうに言った。「そう、あなたは神ではないわ。限りなく神と似た力を持った、ただの『オルガノン(道具)』よ」

 

 その瞬間だった。店の窓に何か巨大な影がぶち当たり、窓が音を立てて割れた。「デザートは食べられないかもしれないな」とメイドが呟いた。

 

(つづく)




次回もお楽しみに!
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