【完結】都立西方浄土高校女子だらだら部部長にして華麗なるお嬢様崋山危懼子ならびにその他女子部員らの活動記録、あるいはなぜだらだらの日常はあっけなく崩壊したかということに関する簡潔な報告   作:ほいれんで・くー

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第16話 ウトナピシュティムも真っ青

「窓をぶち破って何かが室内に入ってくるのはホラー映画の定番だよねぇ」と命賭が言った。彼女はまだ熱心にメニューを見ていた。彼女は先ほどバナナとイチゴのフレンチトーストとコーヒーをデザートにすると言ったが、心の中ではまだ多少の迷いがあった。今日は色んなことがあって疲れた。肉体的にも精神的にも疲労しているのだから、こういう時は大いにデザートを食べても良いのだと理屈の上では分かっている。しかし、やはり彼女は女子高校生であった。流石にカロリーをとりすぎるのではないか? そんな疑念が彼女の心の中を満たしていた。このデザートはどんなに少なめに見積もっても600キロカロリーはあるだろう。さっき食べたチーズリゾットと合わせればこの夕食だけで少なくとも1500キロカロリーは摂取することになる。あるいは2000キロカロリーか? カロリーをとるのは簡単だが、消費するのは大変である。だいたい茶碗一杯分のご飯200キロカロリーを消費するのに必要な運動量はジョギング30分である。命賭はメニューを伏せて、しばらく目を閉じた。そして言った。「うん。やっぱりデザートは頼もうっと。『毒(くら)わば皿まで』っていうし」 然り、女子高校生にとっては単なる食事も毒になり得るのである。

 

「しかし、悠長にデザートを楽しむわけにもいかないみたいだぞ」とメイドが言った。メイドは窓をぶち破って店内に侵入してきたものを見ていた。それは魚だった。魚は割れたガラスの破片の上でびちびちとヒレを動かしていた。かなり大きな魚だった。思わず恐怖を覚えるほどのサイズだった。「魚だ」と双子は分かり切ったことを言った。しかし眼前で展開される現象と事物を言葉に出して正確に表現するのは人間の精神活動の基本でもある。「何の魚かしら。もしかして、(こい)?」とマルタが言った。ポーランド内陸部ヴィエルコポルスカ県ポズナン出身の彼女にとって、魚はあまり身近な存在ではなかった。彼女にとって魚とは第一に鯉であった。鯉はポーランド人にとってクリスマスのご馳走である。ポーランドではシーズンが近づくと、市場やスーパーで鯉が生きたまま売られるようになる。買われた鯉は料理されるその直前まで風呂場の浴槽で大事に飼育される。マルタは日本に来た時、日本人がクリスマスに鯉を食べないことに驚き、また浴槽を生け()にしないことに驚いたものであった。マルタはまた5月のこいのぼりに驚き、中国地方の某球団がその名前に鯉を用いていることにも驚いたものであった。

 

「鯉だね。マゴイかな」と命賭が言った。命賭は動物に詳しかった。それはまさしく鯉であった。危懼子が首を傾げながら言った。「ここは地上5階、高さはだいたい18メートルくらいですわ。いくら跳ねるのが得意な鯉でも18メートルの高さを跳ぶというのは……」 しかし彼女の言葉は強制的に中断させられた。店内へさらに鯉が飛び込んできたからであった。そのうちの一体の鯉は滑るようにして彼女たちの前に現れた。鯉は純白のさらしを腹に巻いており、筋肉質な手足が生えていた。鯉は立ち上がると畏まったように居ずまいを正し、そして頭を下げた。「おひけぇなすって、おひけぇなすって」 マルタが「はぁ?」と疑問の声をあげた。魔女がそんなマルタを(たしな)めるように言った。「しっ! これはたぶん『仁義を切る』ってやつよ。ちゃんと聞かないとダメ。失礼になる」 そういう魔女自身も「仁義を切る」ことについては「おひけぇなすって」という言葉くらいしか知らなかった。

 

 鯉は怪しげな口調と動作で仁義を切ることを続けた。「どうぞおひけぇなすって。手前(てまえ)生国(しょうこく)とはっしましては武州(ぶしゅう)でござんす。武州武州と申しましても、霞が関で名高い麹町(こうじまち)ではござんせん。歴史に聞こえた吉祥寺、不良(ヤンキー)高校生も震え上がった、都立井の頭恩賜(おんし)公園の井の頭池、井の頭池で六ヵ年、パンの耳と()の欠片ばかり食ってはいたが、いささか筋金が入ったしがねえマゴイの旅がらすでござんす。(かしら)を含めておいら1000匹、池の水全部抜くかいぼり掻い潜り、やっと見つけた新天地、音に聞こえた京王キラリナ地上5階、お洒落尽くした贅美(ぜいび)のカフェ、エサはなくとも鯉は育つ、鯉ヘルペス異常繁殖電気漁法まっぴらごめん、パクパクしつつも希望は高し高尾山、仁と愛との溜め池掘って、1000匹仲良く暮らすまで、艱難辛苦(かんなんしんく)堅忍不抜(けんにんふばつ)乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)どうかひらにご容赦ご勘弁……」 鯉の声はキンキンとした金属質な高音だった。危懼子が言った。「これ以上聞いていると気分が悪くなってきそうですわ」 鯉たちはいつの間にか集まって店内中央で車座(くるまざ)になり、賭場(とば)を開いて盛んにサイコロを振り始めた。「駄目だよぉ、賭場を開くのは」と命賭が言った。双子が口を開いた。桜子が言った。「賭博場開張等図利罪(とばくじょうかいちょうとうとりざい)は」 薫子が続いた。「刑法第186条第2項で禁じられている」 しかし鯉たちは聞く耳を持たないようだった。

 

 そのうち、ザーッという水の音がし始めた。「今度は何なの?」とマルタが疲れたように言った。マルタはすぐにその音の意味を悟った。窓から大量の水が流入しているのであった。メイドが納得したように言った。「なるほど、鯉がいるのならばそこには水がある。当然のことだ」 水は見る見るうちに店の床を覆い、水位を上げ、彼女たちのくるぶしまで濡らし始めた。危懼子が勢い良く席を立った。「店を出ましょう! このままでは全員、女子高校生から成瀬川(なるせがわ)土左衛門(どざえもん)へとジョブチェンジすることになりますわ!」 他の少女たちも無言で危懼子に倣った。この期に及んで反対する者などいようはずがない。しかし、黒ずくめの天使は席を立たなかった。天使はテーブルに突っ伏していた。天使は酔い潰れていたのであった。隣に座っていた魔女が天使を揺さぶった。「おい、コラ! 起きろ! 起きなさい! この(クソ)酔っ払いが!」 天使は「ううーん」と唸った。天使は手近にあった赤ワインのグラスへと手を伸ばすと、無意識にであろうか中身をあおった。そして言った。「あれ? ここどこ? 新検見川(しんけみがわ)駅?」 魔女は杖で天使の頭をぶん殴った。「ちげーよ! まだ吉祥寺! さっさと起きなさい!」 双子が天使を両脇から抱え上げた。天使はふにゃふにゃとした声で言った。「煙草が吸いたぁい」 確かに、酒をしこたま飲んだ後の煙草は格別に美味い。しかしその言葉に応じる者は誰もいなかった。

 

 魔女と双子が酔っぱらった天使をどうにかしようとしている間に、危懼子は店員に会計を申し込んでいた。店員は言った。「お会計、18,990円になります」 危懼子は素早く財布から一万円札を二枚取り出した。彼女は高校生であるのでクレジットカードをまだ使用できないのであった。お釣りの1,010円とレシートをもらった危懼子は、素早く詳細に目を走らせた。途端に彼女は憤然として叫んだ。「なんか高いと思ったら、この天使様ひとりで8,000円近く酒を飲んでいましたわ! 780円のビールを5杯に、680円のグラスの赤ワインをいつの間にか6杯も飲んでいる!」 メイドが「まあまあ」と言って危懼子を(なだ)めた。「落ち着けお嬢様。そもそも酒飲みに酒を与えるのはサハラ砂漠の緑化事業なみに金がかかるものだ」 命賭が言った。「ごめんね危懼子ちゃん、後で払うよぉ」 危懼子は落ち着きを取り戻した。「まあ良いですわ。考えてみれば天使に酒をご馳走するなどというのは滅多に経験できないことですし。今日のところは私の奢りということにさせていただきます。もちろん、皆様の分も含めてですわ。それよりもさっさとここから離れないと」 水はさらに勢いを増していた。マルタが言った。「でも、逃げるってどこへ?」 彼女たちは沈黙した。

 

 困った様子の危懼子たちを見て、店員がすかさず口を挟んだ。「9階のキラリナテラスに脱出艇がございます」 店員はいつの間にか人魚になっていた。鱗は銀灰色に輝いており、裸の上半身には目にも鮮やかなピンク色のビキニを身につけていた。危懼子が叫ぶように言った。「9階ですわね、分かりましたわ! さあ、皆様行きましょう!」 マルタは店を去る時にポーランド語で「Dziękuję bardzo.(ジェンクーイェン、バルゾ)」と言った。それは「どうもありがとう」という意味であった。店を去る時にそのように言うのは、彼女の身に沁みついた良き習慣の一つであった。その時、店内から例の甲高いキンキンとした金属質な声が響いてきた。「おい! 今ポーランド語が聞こえたぞ!」「聞こえた! 確かにポーランド語が聞こえた!」「ポーランド人は俺たち鯉の(かたき)だ!」「探せ、ポーランド人を!」 先述したように鯉はポーランドの祝い料理に供されるものである。双子が「やべっ」と声をあげた。双子はもう天使を抱えてはいなかった。天使は自力で立っていた。マルタが呻くように言った。「早く逃げましょう」 危懼子たちは足早にその場を離れた。人魚になった店員は「またのお越しをお待ちしております」と言うと、水飛沫を上げて深みに飛び込み、姿を消した。

 

 危懼子たちは上階へ通じる出口を探した。危懼子が言った。「エレベーターは使えませんわ。この水ではエレベーターシャフトはもう水没しているでしょうし、それにまたピンク色の肉塊がぎっしりと詰まっていたら目も当てられません。エスカレーターで上へと昇りましょう」 彼女たちは走った。エスカレーターは動きを止めていた。「歩いてあがろう」とメイドが言った。彼女たちは金属製のステップを昇り始めた。昇りながら命賭が言った。「今になってこんなこと言うのもなんだけど、今が緊急事態なんだってことをやっと実感してるよ。水が店に入ってきた時は『ああ、水かぁ』って感じだったんだけど、動かなくなったエスカレーターを目の当りにしたら『もしかして大変なことになっているんじゃ?』って思い始めたというか……」 彼女たちは無言でエスカレーターを昇っていた。今更のようにこみあげてきた緊張感と切迫感が彼女たちの口を閉ざしていた。

 

 天使は苦しそうにゼイゼイと荒い呼吸をしていた。赤いハンドレールにしがみ付きながら、天使は呻くように言った。「禁煙しなきゃ」 天使は日常的に煙草を吸っていた。過酷な労働環境が天使に喫煙という悪しき習慣を身につけさせたのであった。天使の後ろにいる魔女が声をかけた。「あんた、毎日どれくらい煙草を吸ってるの?」 天使は答えた。「ええっと。忙しい時だと一日2箱は吸ってるかな。休みの日は吸わないんだけど、残念ながら天使に休みなんてほとんどないから、結局毎日吸ってることになるね。毎朝、出勤前に社宅近くのコンビニで4箱は買っていくんだ」 天使の歩みは遅かった。

 

 魔女は気が気ではなかった。魔女は杖の先で天使の形の良いスリムな尻をぐさりと突いた。「痛い!」と天使が叫んだ。魔女が言った。「とっとと上に昇りやがれ! 水はどんどん上がってきてるのよ!」 天使は頭をかきながら言った。「やっぱり煙草はやめた方が良いよねぇ。お酒は飲んでて楽しいんだけど、煙草は吸うたびに寿命が縮んでいる気がしてならないよ」 天使のすぐ前を行く双子が口を開いた。「煙草は百害あって一利なし」 しかし天使はその言葉を聞いて首を左右に振った。「いえ、流石に『百害あって一利なし』ってほどではないでしょ。『二利』か『三利』くらいはあるはず」 魔女が言った。「じゃあ、たとえば?」 天使はゼイゼイと苦しそうに呼吸をしていた。魔女の質問に天使は答えなかった。

 

 やがて天使は静かに口を開いた。「まあ、少なくとも、煙草を吸うと健康にはなるよ」「はぁ?」と魔女が声を漏らすと、天使はどこか得意そうな口調で言った。「えっ、分からないの? この明々白々な理屈が? 良い? 煙草は健康にとって害があるよね」「うん」と魔女が律儀に答えた。天使は続けた。「だから煙草をやめると健康になる」「うん?」と魔女が疑問の混じった声で答えた。双子がツッコミを入れた。「いや、なんでそうなる」 天使は勢い込んで言った。「だからさぁ、煙草をやめると健康になるでしょ? これは誰にでも分かることよね。でも、煙草をやめるにはまず煙草を吸っていないといけない。だって、やってもいないことをやめるわけにはいかないんだから。ね? だからさ。煙草を吸う。すると健康に害が出る。害をなくすために煙草を吸うのをやめる。煙草を吸うのをやめたことによって害がなくなり、健康になる。だから、このロジックに基づけば『健康になるためには煙草を吸わないといけない』ってことになるじゃない。分かった?」「詭弁よ!」と魔女は叫んだ。天使は答えた。「詭弁でもなんでも良いじゃない。こう思うことで私は毎日、いや毎時間ごとに『自分は健康になっている』と感じられるんだから。だって煙草を吸っていない時は健康になってるってことでしょ? 健康ランドに行ってサウナに入るよりよっぽど手軽に健康になれるのよ、煙草を吸うっていうのは……」

 

 だらだらと天使が喋っている間に、危懼子たちは9階に辿り着いていた。そこはYザワヤのブース内であった。エスカレーター乗り場はYザワヤの中にあった。店内に人は少なかった。メイドが言った。「残念だ。こんな時でなければ一通り店内を見て回って新しい素材を探すのだが」 危懼子が言った。「また状況が落ち着いたらゆっくりとお買い物を楽しめば良いのですわ。さあ、テラスへと向かいましょう」 天井から下がっている表示板にはテラスが所在する方向が示されていた。

 

「あっ、あそこ!」と、突然命賭が叫んだ。命賭の指さす方向には、何か巨大な影があった。それはピンク色の巨大な肉塊だった。肉塊はプラスチック製の買い物かごを持っていた。陳列棚の毛糸玉を手にとってはしげしげと眺め、小さく首を振って毛糸玉を棚に戻している。肉塊はアクリル製の毛糸ではなく、天然素材の、できればアルパカの毛の毛糸玉を探しているのだった。「さっきエレベーターに乗ってた肉塊だ」とメイドが言った。「やはり手芸用品を探していたようだな」 メイドは肉塊に親近感を抱いた。こんな状況でなければ声をかけて手芸談義をしたかもしれない。しかし、肉塊が喋る言語がスロベニア語であったことをメイドは思い出した。メイドは危懼子たちと共にその場を走り去った。

 

 何段かのステップを駆け上がってキラリナテラスの入口のガラスドアを開くと、目の前には青々とした芝生が広がっていた。危懼子は柵の向こうへと目をやった。そこは一面の水だった。水は夜の大気の色を反射して、そのそこ知れぬ深淵を満々と示していた。夜空には大きすぎるほどの月が輝いていた。双子が「ああ」と声を漏らした。「関東平野が」「水没している」 マルタが言った。「『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる』」 双子が補足した。「『創世記』第6章第7節」

 

 天使がそれに応じた。「聖書の洪水物語だけど、これ、似たような話が世界各地にたくさんあるんだよね。たとえばギリシャ神話にも洪水神話がある。ローマ時代の作家だけど、オウィディウスの『変身物語』ではそれを簡単な形で読むことができるわ」 双子が補足するようにそれに答えた。「『変身物語』第一巻」 天使は歌うように言った。「『いまや、海と陸の区別はなく、一面が海となっていたが、この海には岸もなかった。丘にのぼりついた者もあれば、そりかえった小舟に坐り、このあいだまでは耕作していたあたりで、(かい)をあやつっている者もある。穀物畑や、沈んだ農園のはるか上を、舟で行く者があるいっぽう……』」 双子が叫ぶようにいった。「それは中村善也訳の『変身物語』」「出典を明らかにしない引用は危険」「どうせ引用するならラテン語の方が良い」「ごめんごめん。私、ラテン語は苦手だから」 そう言って天使は頭をかいて誤魔化した。ちなみに出典はオウィディウス『変身物語(上)』(中村善也訳、岩波文庫、1981年、24頁)に拠った。

 

「聖書とギリシャ神話だけではないな」とメイドが言った。「そもそも洪水物語そのものの原型は中東にある。かの有名な『ギルガメシュ叙事詩』では、ギルガメシュが永遠の生命を求め、長旅の果てに不死なる人ウトナピシュティムを(おとな)う一節がある。このウトナピシュティムがメソポタミアの洪水物語の主人公だ」 そのように得意げに知識を披露するメイドは、たまたま先日矢島文夫訳の『ギルガメシュ叙事詩』を読んでいたのであった。天使がまた言った。「『光輝くころになると空の果てから黒雲が起ち上がった。アダトはそのまんなかで神鳴(かみなり)をならした。シュルラットとハニシュは真先を行く。先触れとして山々を、国々を行く。エルラガルは船柱をなぎ倒す。ニヌルタは進み行き、水路をあふれさせる……』」 メイドが警告するような口調で言った。「ちゃんと出典を明示しないとダメだぞ。天使は著作権を尊重しないかもしれないが」 天使は頷いた。「大丈夫よ、()()()()()()()()()()()()」 その天使の言葉がどういう意味であるのかは今一つメイドたちにとって分からなかったが、やがて、まあそのように自信ありげに言うのならば大丈夫だろうと納得した。ちなみにここでの出典は矢島文夫『ギルガメシュ叙事詩』(筑摩書房、2018年、107頁)に拠った。

 

「それにしても、脱出艇はどこにあるのかな」と命賭が困惑したように言った。少女たちは四方へ視線を巡らせて脱出艇を探したが、それらしきものはどこにもなかった。危懼子が突然キレた。「あの店員様、(ウソ)情報を私たちに言いましたわね! このままでは私たちは魚類の仲間入りをしなければならなくなりますわ!」 危懼子が突然キレたのもある意味では仕方がなかった。危懼子は危懼子なりに焦っていたのである。そんな危懼子を命賭が宥めた。「どうどう、危懼子ちゃん。どうどう。もう少し探してみようよ」 マルタも口を開いた。「そうね。もっとよく探してみましょう。何か手がかりがあるかもしれないし」 そのように言うマルタの内心は危懼子以上に焦りに満ちていた。たとえ魚類の仲間入りをするにしても、あのヤクザ(YAKUZA)っぽい鯉たちは決して自分を許しはしないだろう。「おうちにかえりたい」とマルタは悲しげな声で言った。彼女はホームシックであった。

 

 芝生の片隅に、木目の美しい綺麗なテーブルと椅子が並んでいるのが少女たちの目についた。そのテーブルに、浮かない顔をしたスーツ姿の中年の男性が座っていた。スーツは巨峰色だった。テーブルにはジャック・ダニエルの大瓶(3リットル入り)とショットグラスが置いてあった。中身は4分の3ほど残っていた。危懼子は言った。「もしかしたら、あのおじ様がなにか知っているかもしれませんわ」 少女たちが駆け寄ると、男性は浮かない表情をしたまま彼女たちの方へ顔を向けた。危懼子はお嬢様らしい優雅な身振りで男性に挨拶をした。「ごきげんよう、見知らぬおじ様。吹き抜ける風がとても気持ちの良い夜でございますわね。ところで、私たちはあるよんどころない事情で『脱出艇』を探しているのですが、おじ様は何かご存じではございませんか」 男性はショットグラスにウィスキーをなみなみと注ぐと、一気に飲み干した。そして「ああ……」と声をあげた。それはウィスキーの美味さに対してあげた声であるのか、それとも危懼子の言葉に対する応答としてあげた声であるのか、判然としなかった。

 

 男性はまたもやウィスキーをショットグラスであおった。そして言った。「うん、脱出艇ね。うん。知っているよ。お嬢さん」 危懼子の顔は輝いた。「ご存じなのですね! 良かったですわ。それはどこにございますの?」 男性は首を静かに振った。「うん。『どこにございますの』もなにも、君の目の前にあるよ」 危懼子は首を傾げた。「ええと? すみません、もう一度おっしゃっていただけますか?」 男性はまた言った。「うん。君の目の前にある」「はぁ」 危懼子はまた首を傾げたが、本心では「この酔っ払いは酔っ払い特有の酔っぱらった戯言を言っていやがりますわ」と思っていた。そんな危懼子の心を見透かしたのか、男性は気怠そうな口調で言った。「つまりだね、私がその脱出艇だっていうことさ」

 

「ふざけてんじゃないわよ、この(くさ)れ酔っ払いが!」 危懼子の代わりに魔女がキレた。現代の若者は感情と衝動を言語化する能力に乏しくすぐにキレるとよく言われているが、この緊迫した状況にあっては若者でなくともキレるであろう。魔女はさらに怒りに満ちたロリ声で叫んだ。「あんたみたいなただの人間(ヒューマン)が脱出艇のわけがないでしょうが!」

 

 男性は「はあ」と溜息をついた。その溜息には大量のアルコールが含まれていたが、距離がそれなりに開いていたのでアルコール臭い息が彼女たちを直撃することはなかった。男性は覆い難い疲労感が滲んだ声で言った。「怒るのも無理はないと思う。でも私こそが脱出艇なんだ。これまでに一度も脱出艇になったことはないし、そもそも脱出艇なるものがどんな存在であるのかも理解していないが、私は脱出艇で間違いない。そして、なにも分かっていないのに私は脱出艇としての使命を果たさねばならない。そのことだけが分かっている。それがものすごく憂鬱だから、私は酒を飲んでいる。酒を飲まない人はよく『酒を飲めば嫌なことを忘れられる』と知ったようなことを言うが、しかし私に限って言えばそんなことはまったくない。アルコールは忘却をもたらすこともあれば、もたらさないこともある。アルコールは救いの女神でもあれば、裁きの神でもある。私の場合、飲めば飲むほどに嫌なことがどんどんはっきりしてくるし、酔いが回れば回るほど『使命』とか『やらなければならないこと』が『やれ!』という幻聴を伴ってやって来る。つらいよ。憂鬱だよ。今も『やれ!』と言われている。だから私は酒を飲むんだ。飲めば飲むだけ自分は自分自身を破壊していると感じる。でも、自分は破壊されてしまったのだから使命を果たせなくて当然だという言い訳もできる。でも使命はいずれ果たさないといけない。私は脱出艇になって君たちを救わねばならない。その使命がどうしても重く感じられる。だから飲まずにはいられない」

 

「長い上に意味が分かりませんわ!」と危懼子が叫んだ。「なるほどね。これは真正の酔っ払いだわ」と天使が言った。「言ってることが支離滅裂だもの。でも、『自分を破壊したい』という気持ちはよく分かる。それにしてはジャック・ダニエルなんて高級なものを飲んでいるけど」 天使は椅子に座ると胸ポケットから銀色のシガレットケースを取り出して蓋を開け、一本の煙草をつまみ出した。天使はライターで煙草に火をつけようとした。「ちょっと!」 即座に魔女が杖を向けた。「健康そのものの肺胞を持っている女子高校生たちがいる場所でなんで煙草なんか吸おうとしてるのよ! 禁煙よ、禁煙!」 魔女が魔力を放出した。大量のナタデココがアルパカの脱糞のような音を立てて天使の持っているライターに降り注ぎ、火が消えた。天使は無言で煙草をシガレットケースにしまうと、男性に向かって話しかけた。「さあ、いつまでも飲んだくれていないで、自分の仕事を果たしなさい。じゃないとこのお酒、私が代わりに飲んじゃうわよ」

 

 男性は口を開いた。「良いよ」「えっ?」 天使は呆気にとられた顔をした。男性はなおも言った。「飲んでくれ。飲めるものならば。あんたがこのジャック・ダニエルの大瓶を飲み干したら、私はきっと救命艇になれるよ。確たる理由はないが、ただそんな気がするんだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()実のところを言うと、救命艇にならないといけないという使命感より、この大瓶のウィスキーを全部飲まないといけないという使命感の方がつらかったんだ。私はそもそもあまり酒が飲めないし、私の父はアルコール依存症だった……」 天使は頷いた。「なるほど。この大瓶のウィスキーの中身がなくなるというのが()()()()()()()()()()()()()()()わけね。じゃあ私が飲みましょう。私以外は全員未成年だし」 そう言うと天使は大瓶を鷲掴みにし、口元へと運んだ。命賭が心配そうに言った。「大丈夫? ウィスキーの一気飲みはあの世への直行便だって私のお父さんが言ってたけど……」 天使は笑った。「何言ってるの、私は天使よ。あの世なんて生まれた時から見飽きているわ。それにたかだかウィスキーの1リットルや2リットルくらい、私にとっては水みたいなものよ」 メイドが言った。「水だって1リットルや2リットルを一気飲みしたら危険だと思うが」

 

 メイドの言葉を気にも留めず、天使は大瓶をラッパ飲みし始めた。ごくごくと喉が動き、それに伴って琥珀色の中身が減っていく。少女たちは目を(みは)っていた。やがて、大瓶の中身は空になった。どんと音を立てて、天使はテーブルに大瓶を置いた。「ほら! 飲んだわ! どうよ!」 見たところ、天使は変わりなかった。命賭が声をかけた。「大丈夫?」 天使は椅子から立ち上がった。「大丈夫大丈夫! ほら、こんなに大丈夫!」 そう言いながら天使はテーブルから離れた。天使は真っ直ぐに歩こうとした。しかし天使はどうしようもなくふらついていた。数歩を歩いて天使はばったりと芝生に仰向けに倒れ、ピューっと口から琥珀色の噴水をあげた。「うわ」と双子が同時に言った。しかし危懼子は静かに言った。「まあ死んではいないでしょう。たぶん。天使が急性アルコール中毒になると今まで聞いたことはありませんし」

 

 その時、「ボンッ」という軽い爆発音が響いた。危懼子たちが振り向くと、そこには通常の何倍ものサイズがある足漕ぎ式のスワンボートが鎮座していた。ボートには墨痕(ぼっこん)鮮やかに「脱出艇」と書かれていた。

 

「ウトナピシュティムも真っ青な脱出艇(箱舟)ね」と、マルタが呆れたように言った。

 

(つづく)




次回もお楽しみに!

※出典
・オウィディウス『変身物語(上)』(中村善也訳、岩波文庫、1981年、24頁)
・矢島文夫『ギルガメシュ叙事詩』(筑摩書房、2018年、107頁)
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