【完結】都立西方浄土高校女子だらだら部部長にして華麗なるお嬢様崋山危懼子ならびにその他女子部員らの活動記録、あるいはなぜだらだらの日常はあっけなく崩壊したかということに関する簡潔な報告   作:ほいれんで・くー

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第19話 明日はきっと、良い一日になるよ

「確かに、なんとかなりそうですわね」と危懼子が言った。スワンボートは見る見るうちに速力を増している。船首には白い波が盛り上がり、船体は滑るようにして黒い水面を進んでいく。「先ほどまでのカタツムリのごとき(のろ)さとは大違いですわ」「しかし、どうしていきなり速力が増したんだ?」とメイドが疑問の声をあげた。メイドは右舷から外へ顔を突き出し、周囲を眺めた。長い黒髪が風に靡いている。ホワイトブリムの白さが夜闇の中で際立っていた。やがてメイドは納得したような声をあげた。「ああ、なるほど。そういうことか」「なにが『そういうことか』なの?」とマルタが言った。メイドは指をさした。「ほら、あそこを見てみろ」 マルタは指先へ視線をやった。そこには一隻の屋形船がスワンボートと並行するように走っていた。

 

 平たい形をした屋形船の屋根は鮮やかな水色で、赤い提灯が一定の間隔を置いて整然と下がっていた。マルタが声を発した。「あれって、屋形船だっけ? でも屋形船とこのスワンボートの速度とに何の関係が?」 メイドはまた指をさした。「ほら、あれを見るんだ。屋形船の左舷の、一番前の窓」 マルタは言われるままにその窓を凝視した。「あっ!」 次の瞬間、屋形船の窓から何かが飛び出した。飛び出した何かは水飛沫をあげて着水し、素晴らしい速度で泳いでスワンボートの前方に位置をとった。どうやら、その何かがボートを泳いで引っ張っているようだった。月が言った。「私がチャーターしたんだよ。君たちが苦戦しているようだったから。これからは屋形船が手助けしてくれるよ」「それはどうも」と魔女が言った。「ありがと」 しかし支払いは誰がするのだろうかと魔女は思った。

 

 屋形船のクリーム色の船体には墨痕鮮やかに「ぼくとう」と書いてあった。「『ぼくとう』? なんで木の刀なのよ」とマルタが言うと、命賭が答えた。「『ぼくとう』は木刀じゃなくて、たぶん『墨東(ぼくとう)』だよぉ。隅田川の東の地域のことを指すの。ほら、永井荷風の『墨東奇譚(ぼくとうきだん)』って小説も墨東地域が舞台だよ」

 

 突然、前部の席に座っていた双子が歌い始めた。「~♪」「~♪」 どことなく軍歌調の歌だった。マルタが疲れたような声をあげた。「なに? 今度は何なの?」「さすがにこれは分からないな」 メイドが諦めたように首を左右に振った。双子以外はまったく知らないことであったが、それは警視庁第二機動隊の隊歌であった。双子の父親がかつて警視庁第二機動隊に隊長として勤めていたため、双子はそのマイナー極まる隊歌を知っていたのである。双子は声も高らかに二番目を歌い始めた。歌っていると、なんだか双子はだんだん楽しい気持ちになってきた。この歌は父が機嫌の良い時によく歌うものであった。双子は歌を中断して言った。「警視庁第二機動隊は」「通称『河童(かっぱ)』の二機」「水難救助のプロ」 マルタが言った。「『河童』ってあれ? 日本版の『ルサルカ(Rusałka)』?」 魔女が「うーん」と唸った。「河童とルサルカはちょっと違うというか、だいぶ違う気がするんだけど……」 ちなみにドヴォルザークの「ルサルカ」は魔女のお気に入りのオペラであった。魔女はやはりロマンチストであった。

 

「おーい」と屋形船から声がした。「何かしら」と危懼子が屋形船へと目をやった。「おーい」という声の主は、船尾の操舵室から顔を出していた。それは河童であった。頭に皿があり、背中には重そうな亀の甲羅を背負っている。河童は白い鉢巻を締め、空色の法被(はっぴ)を身に纏っていた。河童は危懼子に声をかけてきた。「懐かしい警視庁第二機動隊の隊歌が聞こえてきたが、あんたたちのところに二機(にき)の関係者が乗っているのかね?」 河童のその言葉は強烈なまでの東京下町言葉のイントネーションで発音されていたが、危懼子は難なくそれを理解することができた。なぜなら彼女はお嬢様だからである。「ええ、まあ、そんなところですわ」と危懼子は答えた。

 

「それは良い」と河童は笑顔を浮かべた。笑顔はあまりきれいなものではなかった。妖怪ゆえ仕方のないことであった。「今は江戸川区へと二機は移ってしまったが、墨田区にいた頃はよくうちを利用して飲み会をしてくれたんだ。二機の関係者なら安くしとくよ。何にする?」「何にするって、何を?」とメイドが問うと、河童はなおもニコニコしながら言った。「そりゃ、当然天ぷらさ。屋形船といったら天ぷらだよ。あ、あんたたちはまだ高校生だからそんなこと知らないか、ははは!」 河童はそう言って屋形船の舵を切った。実に繊細かつ大胆な動きで屋形船はスワンボートのすぐそばまで寄ってきた。熱されたごま油の良い匂いが漂ってきた。

 

 河童は何かをスワンボートのキャビンの中へ投げ込んできた。「ほらこれ、お品書きだよ」 それはビニールでコーティングされた、B5サイズのメニュー表であった。「どれどれ……うげっ」と、メイドがメニューを読んだ。そして驚愕の声をあげた。「なんてこった。時価と書いてある!」 メニューには飲み物、海苔巻き、つまみの他、各種の海鮮天ぷらの名前が記載されていた。どれもその名前の下に「時価」という文字が躍っている。およそ料理屋、レストランにおいて「時価」という語ほど恐ろしいものはない。メイドは思わず手が震えるのを感じたが、しかし動揺を表に出すのはメイドとしてあるまじき行為であるため、なんとかそれを抑え込んだ。メイドの言葉を聞いても危懼子は平然としていた。「随分と高級な天ぷらなようですわね」と危懼子は河童に言った。「そりゃそうさ。だって、この船で獲ったものをすぐに天ぷらにして出すんだからね。新鮮も新鮮、高級も高級さ」と河童は誇らしげに胸を張った。「高いやつほど速度が出るよ」と河童は言った。

 

「えっ? 何? 速度? どういうこと?」と魔女が問うと、河童は答えた。「さっきからそっちのボートの速度が出てるでしょ。天ぷらだよ、天ぷら。天ぷらが手助けしているのさ。でも、そろそろさっきのやつの衣が剥がれると思うから、また新しく注文した方が良いよ」 河童の言葉が終わるや否や、スワンボートの速度が落ち始めた。何かがぷかりと船首付近に浮かび、船尾の方向へ流されていった。それは水分でべちゃべちゃになった天ぷらの衣であった。何かしら物悲しいものを感じつつ、魔女は「じゃ、じゃあ。とりあえずこの『カニ』で」と言った。初っ端から高そうな「カニ」を選ぶあたりに魔女がお嬢様であることがよく表れていた。「はいよ!」と河童は威勢よく返事をし、操舵室の近くにある調理場へ向かって「カニいっちょう!」と叫んだ。

 

 しばらく何かが揚げられるような音がした。そして三分も経たずして、何かが「どたどたどた」という乱雑な足音を響かせて屋形船の細長い座敷を駆け抜け、一番前方の窓から身を躍らせて水の中へ飛び込んだ。それを見て魔女は叫んだ。「あっ! カニ!」 それは確かにカニであった。カニの左のハサミであった。カニのハサミの天ぷらはスワンボートの前につくと、素晴らしい勢いでボートを引っ張り始めた。しかし数分も経たずして、また速度ががくっと下がった。「ズワイガニは今、旬じゃないからね」と河童が残念そうに言った。「旬じゃないから生き生きしてない」

 

 メイドが口を開いた。「一般的に、江戸前天ぷらの三大ネタは(キス)、メゴチ、銀宝(ギンポ)であると聞いたことがある。旬じゃないカニよりも、そういったものを頼んだ方が速度が出るんじゃないかな」 河童がにやりと笑った。「最近の若い子にしては学があるねぇ。そうだよ。カニよりも(キス)とか、メゴチの方がオススメかな」「じゃ、じゃあ、メゴチで……」とマルタがおずおずとした口調で答えた。メゴチがどんな魚であるか、ポーランド内陸部の出身であるマルタには皆目見当がつかなかったが、なんとなく「メゴチ」という語の響きが彼女の言語的感性に快く受け止められたのであった。「はいよ! メゴチね! おい、次はメゴチだ!」 河童はそのように調理室へ声をかけたが、調理室からは何かごにょごにょとした不明瞭な答えが返ってきた。河童が首を左右に振った。「ちょうどメゴチの在庫がないってさ。でも心配すんな。これから俺が獲るからね!」 いつの間に手にしたのか、河童は投網を構えていた。彼は見事な手つきで網を右舷方向へと投げた。しかし、引き揚げた網の中には何も入っていなかった。「こりゃ駄目だ」と河童は溜息をついた。「俺のじいさんの代まではメゴチなんて海に溢れるほどいたが、最近はあまり獲れなくなってなぁ」

 

 マルタが言った。「『話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」 そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった』」 双子が補足した。「『ルカ福音書』第5章第4節から第7節」 マルタが河童に言った。「日本のルサルカさん、諦めないでもう一度網を投げてみて。きっと魚はかかるはずよ」 マルタはそう言いつつ、危懼子の首に下がっているネックレスへそっと視線をやった。ネックレスは応諾の意を示したように薄く光った。

 

 河童は首を傾げた。「俺は根っからの浄土宗で耶蘇(やそ)(イエス)の教えは信じていないが、まあそういうこともあるかもしれないな。あんたのいうとおり、試してみよう」 河童はまた網を投げた。「おおっ!?」 今度は網いっぱいに魚がかかっていた。それはすべてメゴチであった。「大したもんだ、イエス様っていうのは!」 しかし感嘆の声をあげつつも、河童はまた首を傾げた。「でも、よく考えたらメゴチが網にかかるってのもおかしいよな。メゴチは投げ釣りで獲るもんだからな」 危懼子が河童に向かって言った。「まあこんなに乱れ切った世の中ですから、メゴチが投網で獲れることもあるでしょう。お手数ですが、今かかった分をすべて天ぷらにしてくださいまし。そうしたら群馬県まではきっともつでしょう」「はいよ!」と河童は元気良く答えた。

 

 双子が前部の席から後部のキャビンへと移ってきた。桜子が言った。「疲れた、もう眠い。足がコチコチ」 薫子が言った。「もう23時近く。私たち、もう寝る時間」 魔女が大きなあくびをした。「ふあぁ……そうね。もう寝ないと。どうやら明日は決戦みたいだし、ここでちゃんと寝ておかないと戦えないわ……」「戦うのは私だけどね」と声がした。少女たちは一斉にその声の方へ顔を向けた。そこには天使がいた。「それにしても、屋形船なんて良いものが来てくれたじゃない。前から一度、屋形船で景気良く一杯やりたいと思っていたのよ」 メニュー表を手にした天使は元気良く声を張り上げた。「ねえねえ、河童さん。ビールちょうだい! あと(キス)の天ぷらも!」 注文を終えると天使は少女たちに言った。「さあ、あなたたちはもう寝なさい。起きた頃には群馬県に着いているわ。睡眠不足は美容の大敵よ。私はこれから夜通し飲むつもりだけど」

 

 魔女が呆れたような声を出した。「明日主力で戦う人がそんなことで良いの……?」 しかし魔女のその言葉は虚空へと消えていった。天使に対して飲酒を戒めるのも今更だったからである。危懼子が重々しく頷きつつ言った。「そうね。それでは眠ることにしましょう。その前に、河童様に明日の朝食の弁当を頼んでおきましょう」「それも私が注文しておくわ。さあ、もう寝なさい」 河童が声をかけてきた。「そうそう、あんたたち、救命胴衣(ライフ・ジャケット)をちゃんと着ないとダメだよ。船に乗る時は救命胴衣。これは常識だね。じゃないと俺が引きずり込んじゃうよ、水中に」 その言葉を聞いて全員が一斉に眉をしかめた。「ははは!」と河童が笑った。「ジョーク、ジョークだよ! これ、河童ジョークね!」 命賭がキャビンの中を見回した。「そんなもの、このボートにあるのかな」 メイドが動いた。「たぶんここだろう。ほら、やっぱりあった」 メイドはシートの下に格納されていた蛍光色の救命胴衣を取り出すと、全員に手早く配った。危懼子がそれを着る時に、メイドは手を貸した。「ようやくメイドらしいことをすることができた」 笑みを浮かべるメイドに対して、危懼子は微笑んだ。

 

 やがて、キャビンの中に可愛らしい寝息が満ちた。揺れるボートの上でも平然と眠ることができるのは、彼女たちの若さゆえの特権によるものか、あるいは彼女たち全員が奇跡的に船酔いに対して耐性があったためか、またはひどく疲労していたためか、いずれとも分からなかった。天使は河童に対してなおも注文を続けていた。「この(キス)の天ぷら、最高に美味しいわね! ねえ、冷えた日本酒もちょうだい!」「はいよ! ちょうど五橋(ごきょう)が冷えてるよ」 まだ完全に眠りに落ちていなかった魔女は、いったいあの調子で注文を続けていたら、翌朝の会計時にどんな金額を要求されることになるのだろうかと恐れの感情を抱いた。そう思いつつも、魔女は次第に甘美な微睡(まどろみ)の中へ落ちていった。魔女は寝ながらメイドの胸を揉んでいた。どこまでも柔らかいその柔らかさが魔女の眠りの質を高めた。やはり魔女は所詮(しょせん)前期中等教育を脱したばかりの15歳の小娘であった。一方で、メイドは夢の中で子猫を抱いていた。子猫は凶暴で、メイドの胸にしつこく猫パンチを繰り返した。

 

 マルタは命賭と肩を寄せ合って眠っていた。マルタは夢をみていた。夢の中で、彼女は故郷ヴィエルコポルスカ県ポズナンの実家のアパートの一室にいた。そこはリビングだった。テーブルにはイエスと彼女の妹が座っていた。妹はまだ小学生である。妹は熱心にイエスの語るところに聞き入っているが、マルタは給仕するのに忙しかった。私だってイエス様のお話を聞きたいのに、とマルタは思った。彼女は思わずイエスに向かって口を開いた。「イエス様、妹が私にだけ接待をさせているのをなんともお思いになりませんか。私の手伝いをするように妹に……」 マルタはそこで言葉をやめた。これではそのまま『ルカ福音書』第40章第10節ではないか。

 

 イエスはマルタに柔和な笑みを浮かべて言った。「『マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである』」 マルタはうなだれた。これはやはり聖書の一シーンそのままである。しかしイエスはまた口を開いた。「マルタ、随分と今日は大変だったね。しかし明日になればすべてが終わるよ。安心しなさい」 マルタははっとして顔をあげた。イエスはまた言った。「困った時はお祈りをしなさい。『もうどうしようもない、完全に行き詰まってしまった。祈りも何も通じない』と思った時こそ、お祈りをしなさい。私が信じられなくなった時こそ、あえてお祈りをしなさい。お祈りの中で、私を罵っても良い。大丈夫だ。私は罵られるのに慣れている。なんといっても、人類史上私ほど罵られたものも他にいないからね。良いかい、繰り返すようだが、()()()()()()()()()()()()()()()()()そして君は、それをよく分かっている。明日はきっと、良い一日になるよ」 イエスはマルタの出したクッキーをボリボリと齧った。「これ、美味しいね」

 

 命賭もまた夢をみていた。彼女は馬になっていた。放牧場で、彼女は暢気に草を食んでいた。牧柵の向こうに女の子が立っていて、スマホで写真を撮っていた。それは命賭であった。自分自身にシャッターチャンスを提供しようと、馬になった命賭はぬかるみの中へと転がって泥浴びをした。その時、命賭は「あーあ」という声を聞いた。その声は馬となった自分が発したものであるのか、それとも馬となった自分を見ている自分が発したものであるのか、分からなかった。

 

 命賭とマルタのすぐそばで双子が抱き合って眠っていた。双子もまた夢を見ていた。桜子は運動会で玉入れをしていた。投げても投げても玉は籠に入らない。なぜなら玉はヒヨドリだったからである。投げた先から玉は鳥となって飛んでいってしまった。ヒヨドリは「チーズ!」と鳴いた。薫子は数学のテストを受けていた。見たことのない数式が問題用紙にずらずらと並んでいた。一番得意な数学でこれほど苦戦するなどあり得ない、これは夢だと彼女は思ったが、夢はなかなか覚めなかった。苦戦しながら問題を解いているうちに、テストはいつの間にか古文になっていた。問題用紙には「夢について和歌を詠みなさい。(15点)」とあった。薫子は解答用紙に「山吹(やまぶき)の にほへる(いも)が 唐棣花色(はねずいろ)の 赤裳(あかも)のすがた 夢に見えつつ」と書いた。薫子はその歌が自分のオリジナルではなく万葉集の一首であることを承知しつつ、そう書かざるを得ないと思い込んでいる自分をもまた重層的に認識していた。桜子の見ている夢に比して遥かにややこしい夢であった。

 

 危懼子は夢を見なかった。脳神経組織の構造上必然たらしめるところの現象は彼女の頭蓋の中で起こっていたのかもしれないが、それを夢と呼ぶほど彼女はロマンチストではなかった。そのかわりに、眠っている間、彼女の中で誰かの声がずっと響いていた。それは聞き覚えのある声だった。ぶつぶつと呟くような声が闇の中で絶え間なく続いていた。

 

「私は神ではなかった。私は全知全能ではなかった。私が神ではなく、全知全能ではないならば、私は滅びるべき存在である。この世のすべての被造物と同じように。私には力があるが、その力によって私の滅びを遠ざけることが可能であるとしても、()()()()()()()()()()()()()しかし、それならば、神はどうであろうか。神は不滅の存在であるが、同時に神は全知全能である。全知全能とは『ありとあらゆることを知り、ありとあらゆることを行う』という意味であるのと同時に、『知らないということはあり得ず、(おこな)えないということもあり得ない』という意味である。このように考えるならば、神にとって()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()神にとって、滅ぶこともまた可能である。否、むしろ、全知全能であるがゆえに神もまた滅ばずにはいられないものである。神は不滅であるが、同時に『()()』でもある。私たち被造物は、確かにこの神の可滅性をも分有している。しかし、神にはまた永遠性というものがある。永遠における可滅性とはいかなる意味を有するのであるか……」

 

 ぶつぶつという声は一向に止まなかった。危懼子は夢の中で「うっせぇですわ!」と叫んだ。声はしばらく止んだ。少しして、声は弁解するように言った。「すみません。記憶(メモリー)を整理していたものですから。バックアップを取る前に、整理をしておきたかったのです」 闇の中で危懼子は言った。「『子(いわ)く、学んで思わざれば(すなわ)(くら)し。思うて学ばざれば則ち(あやう)し』 ぶつぶつと思索にばかり耽っていないで、あなたはもっと読書をするべきですわ。ただでさえ形而上学(メタフィジックス)というものは難しいのです。本を読みなさい、本を。スピノザとか、ライプニッツとか」 声は言った。「じゃあ、あなたは読んだことがあるんですか、スピノザとか、ライプニッツとか」

 

 危懼子はムッとした。彼女は「スピノザくらい読んだことはありますわ!」と叫ぼうとした。本当は一冊も読んだことがないが、お嬢様としてのプライドがそのような事実を告白するのを妨げた。お嬢様とはある意味では形而上学的な存在であり、それゆえ一流のお嬢様は形而上学にも通じているものである。しかし危懼子は至極単純な思考回路しか有しておらず、形而上学をまったく理解できなかった。神学の本を読んでも、形而上学的な議論が出てくるともうお手上げであった。そういえばあの「シャルル・レーフラー」とかいう嘘っぱちが書かれていた神学の本、あれをどうにかしないといけない。危懼子はそう考えた。ゴミ箱に捨てても良いが、しかし後になって「堂々と嘘っぱちが書かれた本」としてプレミア価値が出るかもしれない。そう考えるとゴミ箱に捨てることはできない。そもそも、どんな本であれ本をゴミ箱に捨てるなどということは言語道断である。だが、本棚に置いておくのも業腹(ごうはら)ではないか。「出版社様め、なんという本をお出しになったものでしょう!」と危懼子は声をあげようとした。

 

 はっとして、危懼子は目を覚ました。ちょうど遥か遠い東方の水平線上に、生まれたばかりの太陽が姿を現したところであった。前夜の月には顔があったが、太陽は太陽のままであった。乳色をした濃い濛気(もうき)が水面上に漂っていた。濛気(もうき)は朝日の柔らかな桃色の光線を受けて、あたかも魔法の素材であるかのように非現実的な存在感を示していた。危懼子は腕時計を見た。時刻は朝の4時半だった。キャビンの中を見渡すと、命賭とマルタが肩を寄せ合い、双子が抱き合い、メイドと魔女が寄り添って眠っていた。「はぁ~、朝が来るぅ~♪ 寝ても覚めても朝が来るぅ~♪ 年末調整みたいに朝が来るぅ~♪」 低い声で天使は歌っていた。天使はほぼ空になった一升瓶を抱えていた。一升瓶には「極上黒松剣菱」と書かれていた。明らかに天使は酔いどれだった。

 

「お嬢さん、よく眠ったかい?」とボートの外から声がした。危懼子が視線を向けると、そこにはまだ屋形船が並走しており、操舵室に河童が立っていた。「ええ、おかげさまで」と危懼子は答えた。河童は笑った。「いや、それなら良かったけどね。なんか(うな)されていたからちょっと心配しちまった。寝起きで悪いが、そろそろお勘定をしてもらわないと」 河童はバインダーに挟まった伝票を放り投げてきた。

 

 危懼子は伝票を見て、思わず目を剥いた。「なんですって!? 128,540円(税込み)!?」 河童から陽気な声がした。「二機の関係者だからね、一割引きにしておいたよ」 危懼子は伝票に書かれている会計の詳細へと目を走らせた。総額128,540円(税込み)のうち、およそ10万円ほどが彼女の記憶にない酒類と料理で占められていた。危懼子は天使に視線を向けた。天使は一升瓶を抱えて眠りこけていた。「おい、コラ」と危懼子は天使に言った。「どんだけ飲みやがりましたかこの酔いどれ天使様が」 天使は何も答えなかった。天使は(いびき)をかいていた。口からだらしなくよだれが垂れていた。

 

 お嬢様である危懼子にとって、およそ13万円の出費はさほど大きなものではない。確かに、一回の飲食代としてこれだけの費用を請求された経験はこれまでになかったが、屋形船で一晩遊べばこれだけの金額がかかるであろうことは論理的に考えれば納得できることであった。納得できることではあったが、納得しがたいことでもあった。危懼子はお嬢様らしからぬ舌打ちをした。「あの時、キラリナの南仏風のカフェで、なんとなく私が払ってしまったのが良くなかったのですわ。天使様はきっとあれで味をしめたに違いありません」「これ、頼まれていたお弁当だよ」という声がした。いつの間に泳いできたのか、キャビンの(へり)に弁当の包みを持った河童が浮かんでいた。危懼子は弁当を受け取り、そして財布を取り出して、一万円札を13枚取り出して河童に渡した。さしもの分厚さを誇った危懼子の財布も一気に薄くなってしまった。河童は丁寧に一枚ずつ万札を数えると、破顔一笑して「毎度あり!」と言った。河童は釣りを危懼子に渡すと、皺の寄ったビニール袋に万札を入れ、素早く屋形船まで泳いで戻っていった。屋形船は舵を切って舳先(へさき)を巡らせると、のろのろとした動きで去っていった。

 

 やがて、少女たちは全員目を覚ました。彼女たちは朝食の弁当を食べた。弁当は天丼だった。(キス)の天ぷらと海老の天ぷら、舞茸の天ぷらとサツマイモの天ぷらが、艶やかな粒が美しい白いご飯の上に乗っていた。冷めて衣がべちゃべちゃになっても天ぷらが美味しく食べられるようにという、河童の工夫と思いやりが感じられた。しかし、彼女たちはあまり弁当が美味しいと思えなかった。弁当を食べる前に危懼子は、会計として128,540円支払ったことを報告したのであるが、それが少女たちの純真で無垢な経済感覚を無惨にも蹂躙したのであった。その余波が食欲と味覚に影響していた。危懼子は、会計についてそっと胸にしまっておくべきだったと反省しつつ、(キス)の天ぷらを口へと運んだ。白身がほろほろと舌の上で崩れた。

 

「ねえ、あれ見て!」と、一足先に食べ終えた命賭がキャビンの外へ指をさして言った。全員がその方向へ目をやると、そこには緑色の塊が幼児向け絵本の一ページであるかのようにぽっかりと浮かんでいた。「島ですわね」と危懼子が言った。「島ね」と魔女が言った。どこからどう見ても島であった。しかし、不測の事態が起こりやすい海の上では、分かり切ったことでも一々声に出して言うことが重要である。距離はさほど離れていない。ペダルを漕げば一時間も経たずに島に着くと思われた。

 

 朝食を食べ終えた双子が前部の席へと移った。双子はペダルを漕いだ。双子は途中で一度だけ飲み物を要求した。45分後に、スワンボートは島の砂浜に到達した。砂浜は白く、広々としていた。そこかしこにヤシの木が生えており、青々とした大きなヤシの実がなっていた。

 

「本当にここ、群馬県なんでしょうね」と魔女が言った。「どっからどう見ても南の島って感じじゃない、ここ。グアムとか、サイパンとか」 そう言った魔女であったが、彼女はグアムにもサイパンにも行ったことがなかった。彼女が行ったことのある「南の島」は、せいぜい江ノ島くらいなものであった。

 

「いや、確かに群馬県だ」とメイドが言った。メイドはある一点を見つめていた。そこには金属製の看板が二つ立っていた。

 

「群馬県 Gunma Pref」と、一つの看板に青い文字で記されていた。青い文字は風雨によって(かす)れていた。「この先危険につき関係者以外立ち入り禁止」と、もう一つの看板には書かれていた。こちらの看板は比較的新しいものであった。

 

 よく見ると、下の方にもう一つ小さな看板があった。そこにはこう書かれていた。

 

「遭難多発地域」

 

「間違いなく群馬県ですわね」と危懼子は言った。ついに最終決戦の地に到達したのである。

 

(つづく)




次回もお楽しみに!(なかなか終わらんぞ……)

※永井荷風の『墨東奇譚』は、私もこれまでずっと『ぼくとうきたん』と読んでいたのですが、どうやら『ぼくとうきだん』と読むようです。知らんかった。

※双子が歌っていた警視庁第二機動隊の隊歌は、作詞福井水明、作曲警視庁音楽隊によるもので、今回引用するにあたってJASRACとNexToneのサイトで検索をかけてみたのですが、ヒットしませんでした。歌詞の引用はやめ、タイトルのみ用いることにしました。
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