【完結】都立西方浄土高校女子だらだら部部長にして華麗なるお嬢様崋山危懼子ならびにその他女子部員らの活動記録、あるいはなぜだらだらの日常はあっけなく崩壊したかということに関する簡潔な報告   作:ほいれんで・くー

20 / 22
第20話 マカローン・ネーソイ

「うう……ううう……」 地獄の底で鬼の獄吏に苛まれている亡者があげるような呻き声が背後から聞こえてきた。危懼子たちは振り返った。ちょうど天使がスワンボートから降りてきたところだった。天使は見るからに調子が悪そうだった。顔面蒼白で、足取りはおぼつかなく、目は潤んでいて視線は定まっていない。空になりかけた一升瓶を持っている。

 

 天使は白い砂浜を数歩だけ進んで、立ち止まって口を開いた。「うう……完全に二日酔いだ……」 危懼子が冷淡な目つきで天使を見た。「まさに自業自得ですわね。一晩でおよそ10万円分も飲んだのですから」 天使は胸ポケットからシガレットケースを取り出し、煙草を一本取り出すとライターで火をつけ、吸い始めた。浜辺に吹き渡る微風が危懼子たちのもとへ仄かな煙草のにおいを届けてきた。天使はむせた。「おっ、おえええ……み、水……水が欲しい……」「天使様は放っておいて、先へ進みましょう」 危懼子がそう言うと、他の少女たちも頷いた。彼女たちは「群馬県 Gunma Pref」「立ち入り禁止」「遭難多発地域」などといった看板の向こうへと歩みを進めた。天使もふらふらとしながらそれについてきた。

 

「もう二度とお酒なんて飲まない」と天使が言った。「これからは断固として禁酒する。絶対禁酒するわ。今回の件でお酒の正体がよく分かった。あれだけ私はお酒を愛したのに、お酒は私を愛してくれない。あれだけ私はお酒を飲んであげたのに、お酒はこうやって私を苦しめる。なんて愛しがいのないやつ! もうお酒なんて大っ嫌い!」 その言葉は二日酔いに苦しめられている者全員が漏れなく口にするものであった。そして、朝にはそんなことを言いつつも、結局酒飲みは夜になると缶ビールとかチューハイを冷蔵庫から取り出し、プルタブを「カシュッ」とやるのである。天使は一升瓶を口につけて、そのなくなりかけている中身を口の中へと流し込んだ。「ああ、それにしても迎え酒っていうのは美味しいわね……」「これは駄目ね」と魔女が呆れたように言った。さくさくという耳に心地良い足音を立てて少女たちは砂浜を進んだ。時々、青い甲殻を身に纏ったカニが横歩きで通り過ぎた。数十メートルも進むと砂浜は途切れ、6月の美しい緑の土地が目の前に広がった。

 

 そこは緩やかな丘陵地帯となっていた。少女たちの腰ほどの高さもある草が大地を覆っていた。メイドが手で先を示しながら言った。「道が一本通っているな。他に行くべきところも分からないし、とりあえずこの道を行くことにしよう」 少女たちは頷き、メイドを先頭に立てて道を歩き始めた。道は茶色の土が剥き出しで、まったく舗装されていなかった。幅は狭く、並んで歩くことはできなかった。少女たちは黙々と先へ進んだ。小鳥が控えめに朝の歌を歌い、さわやかな風が耳を掠めて新しい日のリズムを告げた。長閑(のどか)な雰囲気だった。

 

 マルタが言った。「なんていうか……その……ここ、確かに最終決戦の地なのよね? すごくのんびりとした空気だから今一つそんな気がしないんだけど」 命賭が静かに首を左右に振った。「ううん、シスター・マルタ。こういうのはけっこう『お約束』ってやつだよ。最近のゲームほどきれいな草原だったり、お花畑だったりを最終決戦のステージとして設定しているよ」 少女たちは30分ほど歩き続けた。生まれたての太陽は既に朝靄(あさもや)の産着を脱ぎ去り、いわば一人前の存在として、今や黄色い光線を放散し始めていた。魔女が言った。「顔を洗いたいわ。昨日はお風呂に入っていないし。せめて顔だけでも洗いたい」 この魔女の言葉を状況にそぐわぬ15歳の小娘の戯言(たわごと)と断じることはできない。少女たちにとって身を清潔に保つこと、顔を洗うこと、入浴することは、食事や排泄と同じく必須の生命活動であった。

 

 やがて、視界が開けた。危懼子が疑問の声をあげた。「駅舎?」 なるほど、そこには駅舎があった。こじんまりとした駅舎であった。木造の平たい建物で、白いペンキが塗られている。双子が口を開いた。桜子が言った。「小さな駅舎」 薫子が続いた。「いかにも群馬っぽい」 駅舎からは軽便鉄道よりも狭い幅の鉄路が飛び出しており、丘陵地帯の更に先へと続いていた。軌間(きかん)はたったの455ミリであった。

 

「あっ! 自販機!」と天使が叫んだ。自販機が駅舎の脇にひっそりと立っていた。天使は自販機に走り寄ると素早い動きでミネラルウォーターのボトルを一本買った。「甘露(かんろ)甘露(かんろ)」と言いながら天使はボトルの中身をがぶ飲みした。双子が言った。「『甘露(かんろ)』とは」「インド神話における『アムリタ』のこと」「神々の飲み物」 マルタが頷いた。「さながらギリシャ神話の『ネクタル』ね」 そう言ってマルタは自販機に陳列されているピーチの「ネクター」を買った。本当のところ、マルタはぶどうジュースが欲しかったのだが、残念ながら群馬県にはぶどうの「ネクター」は存在しなかった。ピーチがあっただけでも奇跡的であった。他の少女たちも飲み物を買い始めた。自販機の透明なパネルの中には羽虫の死骸がびっしりと詰まっている。上の方に一匹の小さなアマガエルが張り付いていた。「こういうのを見ると」と命賭が言った。「群馬に来たって感じがするね」

 

 飲み物を飲み終えると、少女たちは駅舎の中に入った。薄暗い建物の中には誰もいなかった。薄く埃が被ったベンチが並び、色褪せたポスターが壁に無秩序そのものといった形で貼られていた。ひび割れた黒板が掛けられており、そこには「本日の天気」と書いてあった。「どれどれ」とメイドがそれを読んだ。「本日6月10日金曜日(仏滅)の天気は晴れ、ところにより『たま』と書いてあるな」「『たま』? なにそれ?」 魔女が疑問の声をあげた。メイドは首を振った。「分からない。まあ、ここは未開の地群馬県だ。『たま』なるものが降っても槍が降ってもおかしくはないな」

 

 少女たちは建物の中を通り抜けると、プラットフォームへと進んだ。そこには小さな列車が止まっていた。小さな機関車が先頭で、その後ろに天蓋のない箱のような貨車が連なっている。魔女が言った。「これ、動物園とか遊園地とかにある、『おサルの列車』そのままじゃない」 メイドが指をさした。「誰かが機関車に座っているな」 少女たちは機関車へと向かった。操作盤にもたれかかるようにして誰かが眠っている。どうやら女性のようで、白衣を身に纏っており、その背中は大きく膨らんでいた。

 

 先ほど水分を補給したことで幾分か表情に生気を取り戻した天使が、驚きの声をあげた。「あっ! 天使Λ(ラムダ)174号!」「えっ!?」 少女たちは目を見開いた。確かにそれはあの白衣の女だった。声を聞いて運転席で眠っていた白衣の女が目を覚ました。女は二、三回目瞬きをすると、「ふわぁ……」とのんきにあくびをした。それを見て双子が同時に「ふわぁ……」とあくびをした。あくびは伝染するものである。このことについて河野与一が「アリストテレスの欠伸論」という小論を残しているが、詳細についてここで述べることはしない。

 

 白衣の女は言った。「みんな、遅かったですね。まったく、待ちくたびれたわ。昨晩はカピバラと戦い続けていたからちょっと寝不足なのよ。ふわぁ……」

 

 天使は白衣の女の肩を掴んだ。「自分からここまで出向いてくるとはなかなか殊勝なやつ。さあ、神妙にして、さっさとお縄につきなさい!」 しかし白衣の女は動かなかった。女は胸元から一本の煙草を取り出し、火をつけて、その煙を天使に向かって吹きかけた。天使は途端に激しくむせた。「ゴホッ、ゴホッ……! うえっ!」 二日酔いの者にとって何が一番つらいかと言えば、他人の吸う煙草のにおいである。それが自分が普段吸わない別銘柄の煙草であれば、効果はなおのこと顕著である。しかも白衣の女の煙草はものすごいにおいがすることで名高いドイツの煙草ゲルベゾルテであった。天使は脆くも無力化された。嘔吐をしなかっただけマシであった。

 

「まあ、飲んだくれの二日酔い天使なんてこの程度なものよ」 地面に(うずくま)った天使を冷たい視線で一瞥(いちべつ)すると、白衣の女はパンパンと手を叩いて、陽気な声で少女たちに言った。「さあ、みんな、列車に乗って乗って! これから面白いものを見せてあげるから!」「ええ……」とマルタが言った。「なんか、ロクなことにならない気がするんだけど」「そうですわね」 危懼子はマルタの言葉に頷いた。彼女は他の少女たちを見回した。みんな浮かない顔をしていた。

 

 しかし危懼子は決然たる口調で言った。「しかし、『虎穴に入らずんば虎子を得ず』とも『墓穴に入らずんばミイラを得ず』とも言いますわ。皆様、ここはこの白衣の天使様に従いましょう」 少女たちはしばらく顔を見合わせていたが、やがて貨車へと進み、座席に身を収めた。双子はなおも地面に転がったままでいる天使を両脇から抱き抱えると、最後方の貨車に押し込み、自分たちはその前の貨車の座席に仲良く座った。白衣の女は嬉しそうな声で言った。「みんな、席に座りましたね? シートベルトは締めましたか? はい、それじゃあ出発!」

 

 先頭の機関車が電子音の汽笛を鳴らした。鈍いモーターの回転音が響き、電気駆動の機関車が前進を開始した。各車両の連結部が「がちゃん」という音を立てた。列車は自転車ほどの速さで狭い鉄路の上を走り始めた。白衣の女がマイクを手にし、明るい口調で言った。「皆様、本日は『神の列車』に御乗車いただきまことにありがとうございます。本日の天気は晴れ、ところにより『たま』となっております。頭上にご注意ください。本列車は安全運転を心がけておりますが、事故防止のため急停車する場合がございます。シートベルトをお忘れなく。時々線路の上にカピバラが飛び出してくることがございますので」

 

 やがて、列車はゴロゴロと重い音を立てて丘を登り始めた。白衣の女は言った。「当アトラクション、『神の列車』の最終目的地は『研究所(ラボ)』となっております。途中下車はできませんので今のうちに覚悟を決めておいてください。人生、覚悟さえすれば大抵のことは何とかなりますから。また、写真撮影はご遠慮ください。さて、まずは第一の丘を越えます」

 

 列車は丘を登り切り、そして下りに差し掛かった。線路の右手に開けた大地が広がっていた。大地のそこここで人が寝転がっていた。それは群馬県民たちであった。あらゆる年齢層のあらゆる男女がそこにいた。群馬県民たちは眠たげな目をしてポカンと口を開けており、弛緩した表情を空に向けている。白衣の女が言った。「『神の列車』では、『来るべき世』のモデルケースがご覧になれます。私こと大天使Λ(ラムダ)174号改め、新たなる神が創り出す世の中がいかようなものであるのか、とくとご覧ください。さて、最初に皆様にご覧いただきますのは、『浄福(じょうふく)なる人々』です」

 

 マルタが隣に座っている命賭に言った。「ねえ、『ジョーフク』ってどういう意味?」 後ろから双子が答えた。「『浄福』とは」「信仰によって到達した至福の境地のこと」 白衣の女が言った。「そのとおりです。彼らは私の力によって()()へと到達しました。ここはまさしく地上に再現された『浄福者の島々(マカローン・ネーソイ)(μακάρων νῆσοι)』、10の52乗分の1のエリュシオン(天国)です。見てください、あの人々の幸せそうな顔を!」 命賭が口を開いた。「幸せっていうより、なんか放心してない? 放心というか、ぐったりというか」 危懼子が言った。「まったく生き生きとしていませんわね。幸せな人というのはもっと生き生きしているものではないかしら? もしかしたら群馬県民様たちはいつもぐったりしている可能性もございますが」 危懼子の目にある青年の姿が映った。青年はだらりと四肢を大地に投げ出しており、虚ろな目をして空を眺めていた。「くそだるい」と青年は呟いた。

 

 白衣の女が改まった口調で言った。「人間の不幸とは、いったい何でしょうか。病気でしょうか。戦争でしょうか。老いることでしょうか。それとも死、あるいは生そのものでしょうか。いいえ、それらは表面的な現象に過ぎません。根源を見極めなければ、人間は不幸な状態から脱することはできないのです。万病を癒し、戦争を根絶し、不老不死になったとしても、人間から不幸は決して消えはしません。なぜなら、人間は常に『今よりも良い状態』を望み続けるからです。『今よりも良い状態』が叶えば、また人間は『さらに良い状態』を望み始めます。これでは際限がありません。()()()()()()()()()()()()()()()その上、人間はその能力の限界から、『今よりも良い状態』がいったい何であるかを知ることができません。海の水を飲めば飲むほど渇くように、希望を抱けば抱くほど人間は苦しみ続けるのです」 そこまで言って、天使は「あっ」と言って言葉を区切った。「ここでいう『人間』というのは種族としての人間の一般的な性質を指して言うのであって、個々の『足ることを知っている』いわゆる賢人たちについてはまた別です。悪しからず」 命賭が言った。「都合の良い話の進め方だねぇ」

 

 命賭の言葉を気にも留めず、白衣の女は話し続けた。「パンドラの壺に最後に残った希望、それは人類を生かすものではありましたが、しかし『苦しめつつ』生かすものでした。私は断言します。()()()()()()()()()()()()()()()()()()私が作る新しい世の中においても、それは同様です。今、皆様がご覧になっている人々は、あらゆる物質的制約から解放され、あらゆる面で満たされています。食べることも、生殖することも、争うことも、老いることも、死ぬこともありません。しかし、彼らは物質的な意味で幸福ではあっても、いまだに心の中で残存している希望の形が分からないために、一種の放心状態に陥っています」

 

 横になっている中年男性の群馬県民が口を開いた。「ビールが飲みてぇ」 そのとなりに横たわっている女の子の群馬県民が言った。「わたし、アイス食べたいなぁ」 老婆の群馬県民が言った。「わたしはコーラが飲みたい!」 青年の群馬県民が言った。「いつまでここに横になっていれば良いのかなぁ?」 魔女がそれを聞いて言った。「なんか、あの人たちが物質的に満たされているようにはまったく思えないんだけど」

 

 白衣の女が運転席から叫んだ。「コラ! 我慢しなさい! 演技を忘れないで、演技を!」「はぁ~い」というふにゃふにゃとした返事が戻ってきた。マルタが小声で言った。「『いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である』 希望って、そんなに悪いものなのかしら?」 双子が補足した。「『コリント人への第一の手紙』第13章第13節」 命賭が言った。「まあ、この程度のことなら今までいろんな作家がいろんな創作で言っていることだよね。『希望は人類の敵』だって。こんなに大袈裟な展示をしなくても分かりきったことだよ」

 

「そうね、このまま頭のおかしい天使Λ(ラムダ)174号の展示を見続ける必要はないわ」と最後方から声がした。それはようやくゲルベゾルテの毒煙(どくけむり)から回復した天使の声であった。天使は席の上に立ち上がると、大きな声で言った。「おい、コラ、天使Λ(ラムダ)174号! 今から運転席に行くわ! 大人しくしてなさい!」 天使は双子たちの座っている貨車へ軽やかに飛び移った。双子が言った。「さながら源義経の」「八艘飛び」 「私のジャンプ力はバイロン・ジョーンズ並みよ!」 そう叫ぶと天使はまたジャンプして魔女とメイドが座っている貨車へ移ろうとした。

 

 その瞬間、空から何かが降ってきた。それは天使の頭部に直撃した。「ぐええ!」 ゴロンと音を立てて、天使の頭に当たったものが貨車に落ちた。それはボウリングのボールだった。16ポンドの玉だった。「なるほど、本当に『たま』が降ってきたな」とメイドが言った。天使は貨車と貨車の連結部に引っかかるようにして落ちた。魔女が心配そうに言った。「大丈夫? 死んでない?」 メイドが身を乗り出して天使を見た。「死んではいないな」 その直後、空からバラバラと小さな何かが降ってきた。それは硬式のテニスボールだった。「うわ、痛い!」と命賭が叫んだ。少女たちは両腕で頭をガードした。右手の平原を見ると、今まで横になっていた群馬県民たちが起き上がり、「うわー!」と泣き叫びながら右往左往していた。白衣の女が「ちっ」と舌打ちするのが聞こえた。「群馬は良い土地なんだけど、たまに『たま』が降ってくるのが『(たま)に瑕』ね。後で天候を改造しておかないと……」 列車が平原を進んでいる間、テニスボールは降り続けた。ネックレスが言った。「シールドを張りましょう」 黄金の光のドームが少女たちを包んだ。

 

 列車はまた丘へと差し掛かり、登った後、坂道を下った。線路は巨大な建物の中へと続いていた。やがて、列車は建物の中に入った。建物の中は薄暗かった。白衣の女が言った。「さて、私の力によって浄福なる境地に辿り着いた人々は一切の物質的な課題から解放されましたが、しかし希望の形が分からずに苦しみ続けていました。私は新たなる神として、彼らに希望の形を示す必要がありました。私は上位の世界に属する高次精神体として、この下部世界の精神体を導かねばならないのです。ですが、やはりそれは簡単なことではありませんでした。人間とは生意気なもので、Aにとっての希望がBにとっての絶望であり、またその逆でもある。人間にとってのあるべき希望の形を考えるのは非常に面倒くさい……いえ、困難なことだったのです」

 

 白衣の女はまた口を開いた。「ここで私は希望について、わが身に引き比べて考えてみました。私は神となりました。私はこの新しい世界の秩序であり、法であり、言葉(ロゴス)です。そうであるならば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()いえ、論理に従って考えるならば絶対にそうでなければいけません。では私の希望とは何でしょうか?」 列車は少し速度を落とした。線路の前方、左手方向に、ほの明るい光が見えた。数秒後に列車はそこに差し掛かった。

 

「あっ!」とメイドが叫んだ。列車の左側には、工房が広がっていた。群馬県民たちが椅子に座り、机に向かい、何かを一生懸命作っている。それはカタツムリのぬいぐるみだった。いやにリアルな造形だった。触角が飛び出しており、レース地で粘液が表現してあった。端的に言えば、悪趣味そのものと言えた。

 

 白衣の女は言った。「ここで皆様のご覧に入れるのは、手芸室です。見てください。人々は一心不乱にぬいぐるみを作っています。そう、私にとっての希望とは、ふわふわな手縫いのぬいぐるみに囲まれて暮らすことでした。私の大好きなカタツムリのぬいぐるみに囲まれて、終日何もせずゆったりと過ごす。終わりの見えない仕事に従事している最中、私はずっとそう望んでいました。私の希望は人間の希望です。私の希望を叶えることは、人間の希望を叶えることになるのです。カタツムリのぬいぐるみを作ることは、人間にとって最も望ましい希望の形なのです」

 

 自信に満ちた口調で白衣の女は言った。「かくして私の力によって不老不死となった人間は、この世が終わるその日その瞬間まで、カタツムリのぬいぐるみを作り続けることになります。そして、この世が終わることは決してありません。なぜなら私は神で、神である私はこの世が終わることを望まないからです。彼らは疲労を覚えることもなく、意識を保ったまま、永遠にカタツムリのぬいぐるみを作り続けるのです。なんという幸せな人々でしょう! それが彼らの希望の形なのです!」「地獄かな」と命賭が言った。「地獄の方がマシじゃないかしら」とマルタが言った。イエスの教えを奉じるマルタがそのように言うのはよほどのことであった。

 

 メイドは手作業をしている群馬県民たちの顔を見た。その目は一様に落ち窪み、生気がなく、疲れ切っていた。誰かが溜息まじりに言った。「ああ、俺もうカタツムリのぬいぐるみ作るの、飽きちゃったよ」 その声の主に向かって、机から生えているノズルから煙が吹きかけられた。それは白衣の女が吸っている煙草、ゲルベゾルテとまったく同じにおいだった。「ぎゃっ!」とその人間は叫び、卒倒した。白衣の女は首を傾げた。「おかしいわね。私のもっとも好きなにおいをかがせて気分をリラックスさせてあげようと思ったのに」

 

 メイドは言った。「作りたくもないものを作らされるのは手芸ではない。それは単なる強制労働だ。自分の好きなものを好きなように、自由に作るのが手芸ではないのか」 メイドは、自分が最も好むところの手芸によって人間が苦しめられている光景を見て、そのノーブラの大きな胸を痛めていた。

 

 しかし白衣の女は言った。「いいえ。『作りたくない』と思ってしまうのは、つまるところ人間の低劣な精神的能力のせいです。人間は愚かなので、自分にとって最も望ましい希望の形を理解することができません。確かに彼らのうちの何人かは、『作りたくもないものを作らされている』と感じているかもしれません。ですが、それが彼らにとって最もためになるのならば、私は心を鬼にしてでもそれをさせなければなりません。なぜなら私は神だからです」 メイドが言った。「神なのか鬼なのか、どっちかにしたらどうだ。この欲張りめ」 しかし白衣の女は何も言わなかった。

 

「いいえ、あいつは神でも鬼でもないわ。悪魔よ」 いつの間にか意識を取り戻していた天使がそう言った。「そういえばあいつの社宅の部屋、ものすごい数のぬいぐるみがあったわね。ちょっと恐怖を覚えるくらいのぬいぐるみがあった。悪趣味なカタツムリのぬいぐるみばっかり、しかもゲルベゾルテのにおいが沁みついていたわ」 白衣の女はにっこりと笑った。背筋が凍るような笑みだった。「良いにおいでしょ? 今、ここで作ってるぬいぐるみも同じにおいがするようにしてあるの」「最悪だ」とメイドが言った。「煙草のにおいが沁みついたぬいぐるみほど悲しいものはない」

 

 何部屋か手芸室が続き、そして列車は新しい部屋に入った。そこには「検品室」という札が下がっていた。群馬県民たちは浮かない顔をして机に向かい、ゲルベゾルテの濃いにおいがするカタツムリのぬいぐるみを持ち上げてはチェックリストに従って各部をチェックしていた。殻の中央部分を押すと、ぬいぐるみが声をあげた。至極耳障りな声だった。「好き!」「好き!」「大好き!」「『Never Let Me Go.(わたしを離さないで)』」 双子が言った。「カズオ・イシグロか」 白衣の女が首を傾げた。「えっ、なにそれ? ファッションブランドか何かの名前?」 双子は返事をしなかった。白衣の女は言った。「でも、素敵でしょ? 大好きなぬいぐるみが私を囲んで、私にずっと『好き』とか『大好き』とか言い続けてくれるって」

 

 やがて列車は速度を上げて建物から出た。天使が言った。「最後にお見せするのは聖像です。右手をご覧ください」 少女たちは視線をやった。巨大な像が建造されていた。像はカタツムリを(かたど)ったものだった。高さはおよそ20メートルほどある。浮かない顔をした群馬県民たちが資材を運び、足場に昇り、クレーンを操作して建築作業に従事していた。白衣の女は得意げな顔をして言った。「あれは、いわば雛型(ひながた)です。これから世界各地にあの雛型に倣った聖像が建てられることになります」「ここにきて、また平凡なものが出てきたわね」とマルタが言った。「20世紀の社会主義政権じゃあるまいし、巨大建築物なんていまさらな感じがするわ」

 

「もちろん、ただの像でありません」と白衣の女が言った。「あの像にはちょっとしたギミックが仕込まれているんです。ほら」 そう言って女は手元の操作盤のボタンを押した。その途端に、巨大な像から「バリッ! バリッ! バリッ!」という大きな異音が断続的に発せられた。強力な音圧を受けて、像の近くで働いていた群馬県民の何人かがぶっ飛ばされるのが見えた。少女たちは思わず手で耳を塞いだ。「何あれ、何の音?」と命賭が言うと、白衣の女はうっとりとした表情をして言った。「あれはカタツムリがキャベツを齧る音を10万倍に増幅した音です。ああ、なんて美しい音なのかしら! ありとあらゆる音楽をも超越した、無上の喜びをもたらす妙なる響き! 私が作り出す新しい世において、音楽はすべてあの音に倣ったものとなるでしょう!」「その世では、音楽家は最も邪悪な職業になるだろうな」とメイドが言った。

 

 ちょうどその時、空からまた「たま」が降ってきた。無数の16ポンドのボーリングの玉が建造中の像に降り注ぎ、像はあっけなく破壊された。「ぎゃあ! バリッ! 痛い!」 崩壊していく像が悲鳴をあげた。「死ぬぅ! バリッ! いたいよぉ! バリッ!」 像の触角の先の目から大粒の涙が地面に降り注ぎ、群馬県民たちが「うわー!」と泣き叫んで右往左往している。「うーん」と白衣の女が頭をかいた。「聖像に意志を持たせたのは間違いだったかしら」 しかし女は気を取り直したように言った。「でもまあ、時間と労働力(群馬県民)ならたっぷりありますから」と白衣の女は表情も変えずに言った。「また建て直せば良いんです。さあ、そろそろ終点(ターミナル)です。どうでしたか? 私が作り出す『浄福者の島々(マカローン・ネーソイ)』は?」

 

「少なくとも」 危懼子は言った。「まったくだらだらできそうにありませんでしたわね」「それはつまり?」 白衣の女がそう問うと、危懼子はきっぱりと言った。「(れい)点ということですわ」 白衣の女はむっとした顔をして口を噤んだ。

 

 列車は速度を緩め、やがて停車した。そこには綺麗な白い家が建っていた。危懼子の首から下がっているネックレスが、密かに言った。「ここは、間違いなく私が生まれた研究所(ラボ)です」「いよいよですわね」と危懼子が頷いた。白衣の女が言った。「長らくの御乗車、ありがとうございました。終点(ターミナル)の『研究所(ラボ)』です。お忘れ物のございませんように」

 

「そう、そしてここがあんたの終点(ターミナル)でもあるわ」と天使が言った。天使はいつの間にか列車から降りていて、ファイティングポーズをとっていた。「天使Λ(ラムダ)174号、悪趣味な神様ごっこはもうおしまいよ。刑務所にぶち込んでやるわ」

 

「どう? 勝てそう?」とマルタが天使に訊いた。天使は薄く笑った。「勝てるわ。まだちょっと昨日の酔いが残ってるけど、なにせ私は柔道三段、剣道初段、合気道二級だからね。瞬殺よ、瞬殺」

 

「へえ、言うじゃない。飲んだくれのΣ(シグマ)305号ふぜいが」と白衣の女は不敵な笑みを浮かべた。「いいわ、私を捕まえてみなさい。できるものならば」

 

 そう言って白衣の女は白衣を脱ぎ捨てた。大きな白い胸が揺れている。その下はやはり全裸であった。

 

「大した変態だねぇ」と命賭が感に堪えないように言った。

 

(つづく)




次回もお楽しみに!

※ゲルベゾルテはもう生産停止されていて吸えないようです。残念。凄まじいにおいだったとは年配の方から聞いたことがありますが、実際はどのようなものだったのか……
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。