キルヒアイス推しの女オタクが作中に転生したので推しの幸せを守るために奔走したいと思います 作:響谷
お手柔らかにお願いします
※本作はpixivからの転載になります
序
過労死したOLが聖女とか悪役令嬢とかに転生して無双する系の話、いつまで流行るんだと思っていたがまさか自分にそれが降りかかってくるとは思わなかった。今回は生まれたときから記憶がある系ではなく頭を打つとか、なんらかの衝撃によって証明しようのない前世とかいうやつの記憶が蘇るパターンだった。
クロプシュトック事件とは。後世においては獅子帝ラインハルトと双璧と称される二人の英雄が知己を得たきっかけとして記録される。だがこれはもともととある公爵家の一人娘の誕生日を記念するパーティーでのテロ行為が呼び水になったのであって、その娘の名は歴史の潮流の中に忘れ去られた。そこまでの情報、あるいは自身の理解が脊髄を駆け上って脳内で破裂した。アンスバッハに肩を貸されて避難してくる父の頭の向こうに、遠ざかっていく赤と金の髪を目視した瞬間だった。
脚を負傷したお父さまも、彼に手を貸すアンスバッハも、きれいなものしか視界に収めず完璧な人形であり続けた自分自身も。このままでは恐ろしい破滅に飛び込んでいく。そしてなにより宴の間からでていくあの赤毛の後ろ姿……キルヒアイス中佐が友を庇って命を落とす。爆発の余波で灯りが落ち、ところどころ砂煙で霞む視界に存在するこのすべて、砕けて、消える。あまりに悍しい未来の幻視に、エリザベートは階段の踊り場へとへたり込んだ。
「エリザベート様!?」
「エリザベート様!」
侍女たちがおろおろとわたしの名を叫んでいる。すべての音が遠くなったのは一瞬で、気がついたときには誰だ娘をこんなところに連れてきたのは、と怒鳴る父の姿が目の前に飛び込んできた。
ほとんど本能的に、エリザベートは自らの取るべき行動を決めた。わたしと、わたしの家族を守るには。キルヒアイスを救うには。ヴェスターラントに核攻撃を加えさせてはならない。つまり、リップシュタット戦役と称される貴族連合とローエングラム陣営の全面対決を回避せねばならない。そのために。
「ミューゼル大将はご無事でしたの?」
わたしの口から出た脈絡のない心配ごとに、父もアンスバッハも眉を顰めて顔を見合わせた。今この瞬間から、エリザベートはラインハルトに恋心を抱いているという設定にする。いずれ彼の勢力が増大して門閥貴族たちとの武力闘争が本格化するその前に。エリザベートは、ラインハルト・フォン・ミューゼルと結婚しなければならない。
キルヒアイスの何が尊いか。それはもう筆舌に尽くしがたいし彼の尊さをすべて言語化できるなんて思い込むのは驕りとしか言いようがない。そのくらい尊いのである。
お父さまのお見舞いに参じる日の朝、侍女たちに毛繕いをされながら鏡の中の自分を見る。わたしはエリザベート・フォン・ブラウンシュバイク。皇帝の孫娘。母・アマーリエ譲りのくすんだ金髪を持つそれなりの美少女である。何度脳内を、あるいは精神世界を走査しても、自我の認識はエリザベートだった。前世(そんなものの存在を証明することは不可能なのだが便宜上形式に倣ってそう呼称する)は記憶としてしか保持していないし、前世の女のそれが自分自身の人生であるという実感も希薄である。この現在を前世の延長とする感覚もまったくない。どうにか言葉にして表現するなら、自分の状態は、長い空想夢を見てそれを忘れないまま目覚めたような感じなのである。ただ記憶というものは不思議なもので、この長い夢を見る以前の自分と今の自分がまったく同じ人格かというとそれについては自信がないのだった。
「お嬢様、お車の用意が整いました」
「ありがとう」
席を立って、この世で1位2位を争う豪奢なドレスを揺らしエリザベートはドレッシングルームを出る。キルヒアイスの幸せを考えたときもそうだが、それ以前に道徳的な問題としてヴェスターラントへの核攻撃はぜったいに阻止せねばならない。200万人の民衆が生きたまま焼かれるなんて人類史上に残る惨劇、誰が望むものか。ここは夢の世界ではない。ひとりひとり、自分も、侍女たちも、奴隷に等しい扱いを受ける平民階級の者たちも、生身の身体を待って生きている。自分には関係ない、なんて思えるはずがない。この先に起こるさまざまな悲劇を知っている身とすれば、それを阻止すべく動くのは当然のことであった。
身近な範囲で動機を求めるとするなら、このヴェスターラントの件のせいでブラウンシュバイク公爵は人道の敵となり存命の道を絶たれる。エリザベートも同様だ。リップシュタット戦役の最終局面、おそらく17才という若さで命を落とす。そういう意味では悪役令嬢に転生するジャンルなのかな、とも思うがエリザベートがその人生において自らの意思で決定できた事柄なんて何一つとしてない。ヨシキ(この世界の創造主である御大)だってエリザベートのことを特に悪ともなんとも思っていなかったに違いない。運命に翻弄されて時代の狭間に消えていく、ありふれた一個の命としか考えていないだろう。皇帝の孫娘はその生まれと身分だけはこの世に比類ないほどであるが、だからといって幸せだったかというとむしろ逆に近かったのではないかと思う。だから、今から自分にできることと言ってもたかが知れているのだ。それでもクロプシュトック侯討伐に先駆けて未来の夢を思い出せたのは、幸運だった。
「お父さま、お加減はいかがでございますか」
ブラウンシュバイク公の旗艦、アルヴィースの艦橋まで赴いての見舞いだった。父の怪我はとっくに完治しているので実質的には出陣前の激励である。
「おお、よく来てくれた、アマーリエ、エリザベート。おまえももう加減はいいのか?」
「すっかり落ち着きましたわ。突然のことでびっくりしただけですもの」
元気に立ち上がって間近まで降りてくる父にエリザベートは遠慮なく駆け寄っていく。本来会場にお越しになるはずだった皇帝陛下に同じことをしても、わたしはまだ15歳なのでこの程度の無礼なら愛らしい少女の甘えた仕草として許容されるのだ。父はわたしのことを手駒としても娘としても愛してくれている。何一つ決められない人生だったとしても、父を恨むのはまた違うと感じていた。彼は皇帝の息子をことごとく排除(つまり殺害)した疑いがあるれっきとした悪人ではあるし、その上に自分の生活が成り立っているのだと思うと不快感と悲しみに心臓が潰れそうになる。でもこれは、作中でも言われていたが、ブラウンシュバイク公個人の問題ではなく500年の特権の伝統が生んだ病巣の膿みでもある。闇の中にいて、何かをよくしようと望むなら、光に手を伸ばすよう努力をしてみよう。とんでもない地位に生まれてしまったが、平民の娘に生まれるよりははるかに歴史に干渉しやすいはずだと自分の双肩にかかる運命の重みは多少なりとも割り切った。
「これ、エリザベート。お父さまにいってらっしゃいは?」
背後から上がる母の嗜めにほんの少し拗ねた表情を見せて、それから父を見上げる。
「お父さまが行かなくちゃならないの? 戦いになるんでしょう?」
「こら、エリザベート。相手は皇帝陛下への弑逆を企んだ大罪人だ。これを討つのは帝国貴族の義務であり名誉。滅多なことを口にするものではないよ」
むぅ……とますます口を曲げてエリザベートは不満げに、しかし悲しそうに顔を俯かせる。するとブラウンシュバイク公の背後に控えていた青年がまぁまぁ、と声を上げてきた。
「エリザベートは叔父上の身を案じているのです。そうですよね? エリザベート」
この男に好感を持てる女がいるならぜひその極意を教えてほしい。根拠のない自信と虚栄、無駄に高いプライドと傲慢なほどの純粋さ。わたしのものより少し明るい金髪を撫でつけたポマードの匂いを撒き散らして、フレーゲル男爵は呼ばれもしない場にしゃしゃり出てきた。そう。この男だ。エリザベートは俯いたままその顔を歪める。ただでさえ嫌いな男であるが記憶の蓋が開いたときからさらに生理的に受け付けなくなった。無駄にラインハルトへのライバル心を燃やして稚拙な陰謀を幾度となく企んでは父を巻き込み、金髪の孺子への対抗心を煽ってくれた。わたしに今できることがあるとするなら、それはこの男をブラウンシュバイク公爵から切り離すこと。そうすることができるなら、ブラウンシュバイク、ラインハルト両陣営の互いに対する心理的な障害が僅かばかりでも少なくなる。それに自分個人の範囲で考えるにしても、エリザベートがラインハルトと結婚することを一番受け入れないのは、間違いなくこのフレーゲル男爵だった。
「ご武運をお祈りします、お父さま。どうかご無事に帰っていらしてね」
見上げて、かわいい娘として完璧な笑顔を浮かべてみせる。わたしは近い未来、父が率いる討伐軍が略奪行為を行いその中で何人もの人が財産や命を奪われることを知っている。できることならそれを防ぎたかったが今はあまりに力が足りない。それに双璧とライキルの関係は尊いのでなかったことにしたくない……現実をエンタメにするなという批判は甘んじて受ける。だからせめて、クロプシュトック事件から始まる一連の騒動の中で最強硬派のフレーゲル男爵をブラウンシュバイク公から遠ざける。ミッターマイヤー少将を監禁し暴行するフレーゲルの行動を、本来の歴史より広く世間に喧伝するのだ。
これは悪役令嬢転生ものではない。これまでのエリザベートは毒にも薬にもならないお姫さまだっただろうが、彼女はこれから、本物の悪女となる。存在しないハッピーエンドを目指して歴史を変えてしまう女が自身の願いの先に待つものを悟るには、まだ数年の時を必要とした。