キルヒアイス推しの女オタクが作中に転生したので推しの幸せを守るために奔走したいと思います 作:響谷
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「自治領主閣下。やはりローエングラム侯はイゼルローンに和平交渉のための使者を遣わしたそうです」
帝国に潜り込ませている間者から、それを裏付ける情報が上がってきた。情報処理部門の主任を務めるルパート・ケッセルリンクを直接呼びつけその報告をさせている自治領主の傍らで、ボルテック主席補佐官がわずかにその眉を顰めた。
「それは……まずいことになりましたな」
「はなはだまずい。金髪の孺子め、さすがに慣例というものへの敬意を欠くことにおいては右に出る者がいないとみえる」
罵倒を口にしているはずなのに、その唇には愉快そうな笑みが浮かんで見える。ルビンスキーのその表情を見下ろして、ボルテックは眉間の皺を深くした。
「帝国と同盟を結ぶ、唯一の政治機関。情報の特異点にして銀河の歴史を決定する財と富の集積地。それは片方の回廊にだけ存在するから意味があるのであってあちら側を通すのは軍事的交渉だけであるはずだ。あるはずだったのだ。フェザーンの存在意義をこんな軽い一手で吹き飛ばしおって、なるほどさすがに戦争だけが取り柄ではないらしい」
フェザーンにとってよからぬことが起きているはずだが、ルビンスキーはなおも楽しげにそう言葉を奏でている。この余裕はなんだ、とその場にいるふたりは己が視界の不明瞭さに苛立ちを覚えてそれぞれ顔を顰めた。
「閣下。このままですと数ヶ月のうちに講和条約や、それに類するものが結ばれるかと。我々はいかが対応すべきでしょうか」
主席補佐官の立場からこれからの対応を伺うという形を取って、領主の意図を探っていく。非常に賢明な人物ではあるが、このルビンスキーという男は自分以外の知性体を己より下等と見下しがちなきらいがあった。素直にわからないと言われれば憐れむように相手を見遣って、その思惑を解説してくれる。ボルテックであれば彼のそのような性質もよくわかっていた。
「なに、結ばせなければいいのだよ」
余裕をもってその手元にいくつかの画面を開いて、彼は背にもたれたままそれらを眺めた。
「そう、3ヶ月はかかるだろうな。帝国は宰相のひと声ですべてが決定するからよいとして、相手の同盟は民主主義国家だ。イゼルローンを預かるヤン・ウェンリーが和平を提案されたその場ではいいいですよと返す、というわけにはいかんのだ」
時間的猶予はじゅうぶんすぎる、と続けた自治領主に、その場に居合わせた両名は微かに背筋に冷たいものを感じた。
「ボルテック。おまえは帝国の高等弁務官府に赴き直接指揮を取れ。後任の主席補佐官はそこのルパート・ケッセルリンクとする」
「は……」
突如告げられた命令に、ボルテックは感情が置き去りになった音だけを返す。帝国に赴いたとして何をすればいいのかわからない彼のために、ルビンスキーは学校の教師のような口調になった。
「帝国内で、もっとも熱心に宥和路線を進めているのは誰か。ボルテック」
「は。おそらくですが、キルヒアイス提督ではないかと。彼の人柄は折につけ聞くところですし、今回も全権代理を任されています」
うん、と主席補佐官の解答を肯定して、今度は正面に佇んでいる若者に水を向ける。
「であればどうするべきかな。キルヒアイス提督がいる限りローエングラム体制は宥和路線を捨てないだろう。ケッセルリンク、君ならどうする」
少々意表を突かれたように目を見開いたものの、ケッセルリンクは物怖じせずに顎を引いた。
「キルヒアイス提督を殺害し、その罪を同盟に帰せしめます。和平交渉の場を狙ったテロリズムを装えば確実ですし、フェザーンの優位性は再び我らの手に戻ることでしょう」
会計報告を済ませるような声音で凄まじい思案を披露する次期主席補佐官に、ルビンスキーは含みきれない笑い声を上げて肩を震わせた。
「そう。悪くはない。だが帝国にはオーベルシュタインとかいう曲者もいてな、それでは少々確実性を欠く。ことの次第を暴かれて帝国と同盟が手を結びフェザーンに攻め込んでくる、というような事態にもなりかねん。なので今の君の案を、少し修正することにしよう」
ふ、とオーベルシュタインについての調書の上にキルヒアイスの調書を開く。その指先を見下ろしたまま、ルビンスキーはいっそ残忍なほど淡々とした声音でその唇を震わせた。
「キルヒアイス提督には同盟国内に樹立させるゴールデンバウム王朝正統政府の首班となっていただく」
一拍待っても聴衆はその言葉の意味を理解しかねた。当然のように陰謀の開示を続ける自治領主を見て、ああ、彼は本気なのだとボルテックもケッセルリンクも少し俯瞰したところで理解していく。
「そうなればオーベルシュタインも文句はあるまい。政治的な正当性のために同盟、そしてキルヒアイス提督を倒さねばならなくなり、再び宇宙は二つに割れる。いいかね、あくまでキルヒアイス提督が自らの意思で離反し、同盟はそれを受け入れた、と認識させなければならんのだ」
フェザーンが陰謀と詐術で成り立っていることは知っていた。だがそれを生み出す場を実際に目撃しては恐れずにはいられない。ほんの指先ひとつ動かすだけで、我々は現在と未来における数億の流血を決定してしまうことができるのだ。
「はてさて、金髪の孺子はどう出るかな。大義を手にし続けるには幼なじみを殺さねばならない、幼なじみを救うには大義に背を向けなければならない……やつが本物の英雄かどうかを、我々フェザーンが見極めてやろうではないか」
ルビンスキーはその手を組んで背後を振り返り、この銀河系の中でもっとも富んだ都市を見下ろした。主席補佐官とその後任は、自らの任務とは他人を蹴落とし、足を引っ張り、すでにある絆を壊して流される血を啜ることなのだと、改めて冷めた認識を自身の中に見出していた。
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推しなんて遠くから見るに限る。エリザベートは陽射しの傾いた昼下がりの庭園で、目前の来客に礼を失さないよう己を鼓舞するのに全神経を使い果たしていた。
「皇帝陛下。ローエングラム侯はさぞ御身にご迷惑をかけておいでのこととお察しします」
推しとサシ飲みって何? 割とちょっと勘弁してほしい。さっきから変なことを口走りそうでカップを口に運び続けている。その責任感とか優しさは好きだけれど、わたしなんかを訪ねてくる暇があったらラインハルトに世話を焼いたりアンネローゼ様のケーキを食べたりしていてほしい。欲を言うならその場面をこっそり見ていたい。
「庇うわけではありませんが、宰相殿下も政務にお忙しく……しかし我々に御身を委ねてくださった陛下を軽んじるような真似は、私としても感心いたしません。こちらに参上するよう私からも言っておきますので、顔を合わせられた際には文句の一つや二つでも言ってやるとよろしいでしょう」
わたしの沈黙を怒りや傷心だと解釈しているのか、キルヒアイスは身振り手振りを交えて一生懸命お話ししてくれる。かわいい。とうとい。えーん、これだけで今までいろいろ頑張ってきた甲斐があるというものだわ。いつのまにか涙ぐんでいるわたしに驚いて、キルヒアイスはハンカチまで取り出してきた。
「陛下、どうかお気を鎮めてくださいませ……」
震える手を伸ばしてハンカチを受け取り、視界を確保するために目頭を押さえる。なんだか世話を焼いてくれるキルヒアイスをずっと眺めていたい気もしてきた。わがままを言って彼を引き止めたりしたら、さすがにラインハルトも直接殴り込んでくるんじゃないだろうか。
「いえ、いいの、キルヒアイス提督……ラインハルト様の周囲で、わたしを気にかけてくれる人がひとりでもいるとわかって救われました」
ぐすん、と小さく鼻を啜って、渡されたハンカチをテーブルに置く。このまま貰って宝物にしてしまいたいのは山々だけれど、リアルの人間に対してそれはちょっとよろしくない気がする。
「……以前から思っていましたが、フロイライン……いえ、陛下は欲がなさすぎます。どうかご無理はなさいませぬよう」
心配そうな面持ちを崩さないまま、キルヒアイスはそう言い募ってくる。燦々と陽の降る庭園の端でのお茶会に、そんな顔は似つかわしくないと思った。
「いいえ、キルヒアイス提督。わたくしはじゅうぶん、欲深いのです」
エリザベートの悪戯っぽい言葉に、キルヒアイスはしばし思案げな表情を浮かべた。実際はそんなものないのだろうけれど、この瞬間の彼はちょっと隙がありそうでかわいらしかった。
「それに、ラインハルト様はたまに通信をしてくださいますのよ。お側にはたぶんオーベルシュタインがいて、いやいや言うことを聞いているのでしょうけど」
くすくすと笑いながら教えてやると、キルヒアイスはほっと息を吐いてようやくその顔に安堵を浮かべてくれた。どうぞお手をおつけになって、と紅茶を勧めれば彼は礼を言ってからそれを口に運んだ。
「そうですか、オーベルシュタイン中将が……」
「彼は別にわたくしのことなどどうでもよいのでしょうけど、ラインハルト様とケンカされても困るのね。この際はあの陰気な参謀長どのがキューピッドというわけ」
そうして推しが真ん前にいて自分と話しているという状態に少しは慣れて、エリザベートはこの日の午後珍しい来客と世間話を楽しむまでに成長した。