キルヒアイス推しの女オタクが作中に転生したので推しの幸せを守るために奔走したいと思います 作:響谷
「度し難い女だ」
居室に戻るとロイエンタール大将が窓辺に寄りかかってワイングラスを傾けていた。あまりの図々しさにもはやコメントする内容も思いつかなくて、エリザベートは部屋着に召し替えたスカートを摘み鏡台の前に腰を据える。
「皇帝の男娼に甘んじるおれなどかわいいものだな。おまえの意中の男がまさかあのキルヒアイスだったとは」
その視線を眼下の庭園にやって、夕暮れの色に染まり始めたテラスに来客の名残を見ている。なぜこの男がここに入り浸るのかは不明だ。おそらく主君に背くスリルがその破滅的な欲求を程よく刺激するのだろう、とエリザベートは見ている。人妻に手を出すことで女という生き物の不誠実を証明した気になっているのかもしれない。さらに言うなら創作物のイケメンにありがちな、自分に興味のない女には興味を持つ、みたいな面がある気もする。なんにせよ愚かで下らない関係だが、ロイエンタールは気が向けばここに押し入って皇帝を押し倒していた。
「言葉を慎みなさい。そんな下世話な勘繰りをわたしは誰に対しても許した覚えはないわ」
ふん、と鼻を鳴らしてロイエンタールはまたグラスを傾けた。ここの警備責任者を任されているからといって職権濫用にも程がある。しかし他の誰か、例えばラインハルトやオーベルシュタインに言って責任者を変えてもらおうにも、不審がられない言い訳が思いつかない。ロイエンタールの方は(当然のことだが)かなり真剣に事実の隠匿に努めていて、エリザベートだってことを公にしたりしたくない。このだらだらと続くよくわからない関係を、どう処理すべきか彼女はわからないままでいた。
「なかなか苦労を偲ばせるではないか。キルヒアイスを直接手に入れることはできん。グリューネワルト伯爵夫人がおられるからな。故にキルヒアイスの半身である宰相殿下を手に入れ、宰相殿下と同様に尊重されることで妥協しようとした、というわけか」
ちり、と神経が逆撫でされるのを自覚する。相手にしないつもりだったけれど、顔を顰めずにはいられない。なぜこの男はそのような発想しかできないのか。世の中の人間がすべて下半身と恋情で動いていると思ったら大間違いだ。
「キルヒアイスにはおれと同じことはできんよ。曲がりなりにも殿下の伴侶に手を出すなど、思いも及ばぬに違いない。皇帝陛下にはご苦労なことだが、彼のことは諦めるべきだな」
これまで散々我慢してきたけれど、わたしにも堪忍袋というものはある。ガタッと席を立ってロイエンタールの方を向き直り、ドレッサーの上にあったブラシを思いっきり彼に向かって投げつけてやった。感情が昂ってほとんど前は見えないし狙いもなにもあったものではなかったが、ロイエンタールは薄ら笑いを浮かべながらおっと、と声を漏らしてその身を避けた。
「逆鱗にアイスピックを突き立ててしまったか」
はー……っと自らを落ち着ける努力をしようとして深い息を吐いても、ふいに決壊した激情はもう止めようがなかった。誰に理解されるわけでもない、理解されようとも思わなかった自らの孤独が、ここまで深いものだとはこの瞬間まで自分でも気がつかなかった。
「推しと!!! 恋愛感情は!!! ぜんぜん違う!!!」
声の限りに怒鳴りつつ、エリザベートは手鏡を投擲した。殺意の高い攻撃にその眉を寄せつつ、ロイエンタールはひょいと長い手を伸ばしそれを掴まえた。
「推し」
「あなたみたいな、好意の種類がミッターマイヤーかラインハルトか性欲かにしか分類されない人種には理解できないでしょうけど!」
「──ふむ」
激昂した女を正面から相手にするような愚は犯さないのか、ロイエンタールはその顔を険しくするだけで売られた喧嘩を買いはしなかった。
「もう、いい加減にしなさい! わたしに関わらないで! あなたはそうやって、あなたを愛してくれる人を裏切って、独りで悦に入るのがお好きなようだけど、」
感情が昂りすぎて、涙が出てきた。わたしだって、この世界のファンだ。ロイエンタールのことが好きだ。ミッターマイヤーと友だちのまま歳をとってほしかった。ぐちゃぐちゃに傷つけられる前の、魂に根付いた熱いまでの情が溢れてくる。なんでみんな壊れていくの。なんでみんな傷つけ合うの。わたしがすべてを差し出したのだから、少しくらいは平和になってよ。わたしのことなんか忘れていいから、なかったことにしていいから、最後にひと匙の幸せな夢を見させてよ。
「あ……あなたを愛した人はどうなるの。きらいよ、きらい、あなたなんか……どうしてわたしの前に現れたのよ」
ぐちゃぐちゃになって、わからなくて、エリザベートはしゃくりあげつつコットンの箱を投げた。そういう破滅的なところが彼の魅力だけど、もうその人としての温もりを知ってしまった。彼は生きている。愛し、愛される、人間だ。その危うい在り方を遠くから愛でている場合ではなくなってしまったのだ。目の前に現れなければもう少しきちんと消費者としての姿勢を保てたのだろう、と思うとなにやら悔しくてたまらなかった。好きな作品の中に転生するなんて、ご褒美でもなんでもない。地獄だ。彼と接して、ようやくその実感が理解に染み渡ってきた。
「……精神病患者並みに、何を言っているかわからん」
呆れたようにため息を吐きつつ、彼はコットンも拾ってこちらに近付いてきた。互いに今さら嫌悪したり怯えたりすることもない。ひっく、と様にならない泣き声を上げて肩を震わせているエリザベートに、彼はドレッサーから取り上げた手拭いを被せて踵を返してしまった。
「精神病患者の言うことをいちいち真に受けてもいられん。おまえに何がわかる、などと、怒るだけエネルギーの浪費というものだろうな」
はぁ、とまた大きく息を吐いて、ロイエンタールはローテーブルに置いてあるワインボトルを持ち上げ皇帝のベッドへと向かった。てっきりこの関係はもうこれまでだと思ったエリザベートは、顔を拭いながら寝台に腰掛ける彼を振り返って口をへの字にした。
「……なによ、はやく出ていきなさいよ」
年相応の少女になって顔を拭い続けるエリザベートを一瞥して、ロイエンタールはワイングラスをチェストに置いた。
「出て行けと言われると出て行きたくなくなる。……という冗談はさておき、感情的なおまえは観察しておくべきだ。殿下の重臣として」
思いのほか冷徹な声音でそれらしきことを言っている相手に驚いて、つい顔を上げてしまう。優秀な提督の顔をしている相手の表情が目に入って反射的に顔に血が上り、エリザベートは相手に届くか届かないかくらいの声量でわたしを襲ったくせに今さら何よ、と憎まれ口を叩いた。
「お飾りとはいえ皇帝という立場にある者の思惑がどこにあるか把握できないというのは、臣として居心地が悪いものだ。おれ以外は、おまえの目的を宰相殿下と思い込んで疑っていないようだが」
下手に女性経験があるせいで彼は建前に納得してくれない。やたらとかまってくるのはそのせいか、と半ば納得しながらエリザベートはぷい、とそっぽを向いた。
「もう、感情的なことは何も言いません。これ以上ここにいても得るものは何もないわ」
相手の存在を無視して、マリーを呼ぶためのベルを鳴らす。一緒に食事を摂る者もいないし夕食は軽めのものをここに持ってきてもらおう。そうわがままをねだる心算でいるエリザベートの横顔に皮肉げな笑みを浮かべて、ロイエンタールはその長い脚を組んだ。
「それはおれが決めることだ。そうそう、何か食事を申し付けるならチーズとカナッペも付けてくれ。そうしたらおれのワインをわけてやらんこともない」
怒るのも無視するのも面倒になってきて、エリザベートは自身の食事とともに彼の注文もマリーに伝えた。ロイエンタールが来ている最中はすべての用事を彼女を通して頼んでいる。エリザベートの側からこの秘密が漏れることはあり得ない。でも、と水分と塩分の不足した頭でエリザベートはぼんやりと思った。ロイエンタールはラインハルト陣営からわたしに直接差し向けられたスパイのようなものなのかもしれない。だとすればそこまで何かを恐れる必要はないのかもな、とエリザベートはほんの少しだけ楽観的な心地が自身の内側に広がっていくのを感じた。