キルヒアイス推しの女オタクが作中に転生したので推しの幸せを守るために奔走したいと思います 作:響谷
誕生日の夜、ワインを飲みすぎたエリザベートは名残惜しむ出席者たちに手を振って早めに席を辞していた。
「お父さま!」
広大な庭園の片隅、時報を告げるための豪奢な時計台の麓でエリザベートは懐かしい影に向かって駆け出す。この数ヶ月を忘れたように愛しげに顔を歪め、躊躇いなく抱きついてくる娘にブラウンシュバイク公は多少面食らいながらも両腕を広げて応えた。
「エリザベート」
自らの娘が敵か味方か確信を持てないでいたブラウンシュバイク公は、この無垢な少女を疑った自分を即座に恥じた。全宇宙でも1位2位を争うお姫さまとして蝶よ花よと育てられたこの子に、ここまで辛辣な現実を描く力などあるはずがないではないか。
「お父さま、ごめんなさい、わたし、わたしこんなことになると思っていなくて」
胸の中でしゃくりあげる娘の頭を撫でて、わかっている、と頷いてやる。この娘は花だ。宝石だ。自らの力で生きる道を定めることなどできない、美しい工芸品だ。もっとも輝く場所に置いてやるのが親としての務めであるのに、こともあろうに金髪の孺子に強奪されてしまった。なんとしても奪い返して、相応しい在処に戻してやらねば。
「助けて、お父さま……わたし、もう嫌。ひどいことばかりされるの。こんなところにいたくない」
かわいそうなエリザベート。下賎の輩に暴行されているのだと察して、ブラウンシュバイク公は全身の血液が煮え立つのを感じた。
「ああ、ああ、すぐに助けてやるとも。不当に国璽を占拠し続けるあの奸臣を誅殺して、おまえを救い出す」
「お父さま……」
泣き濡れた目で、縋るように見上げてくる娘に約束する。先帝陛下の孫娘。光輝あるゴールデンバウム王家を継ぐ最後の希望。美しくて秩序ある、清潔な世界を取り戻さなくては。それができるのは、もはや自分しかいない。
「明朝、ヴェスターラントに向けて発つ。軍備を整えて、わし自ら指揮を取りここオーディンをあの孺子の魔の手から解放する。待っていてくれ、エリザベート」
一瞬息を呑んで唇を震わせた娘の表情を、置いていかれる寂しさによるものだと解釈して父は少女の肩を掴んだ。
「よもや命を奪いはすまい。あの金髪の孺子にとってもおまえは自身の正当性を担保する重要な存在だ。しかし、もしも危険を感じたなら、そこのフェルナー大佐が守ってくれる」
少し離れたところから親子の邂逅を見守っている軍人に視線をやって、それから娘を見下ろす。彼が手引きしてくれたから今夜こうして娘に会うことができたのだ。平民出身ながら、あの若者は信用できる。
「お母さまは……?」
「アマーリエは連れて行く。おまえの母は先帝陛下の娘御であられる。オーディンにひとり残すわけにもいかん……エリザベート。父を信じて、待っていられるな?」
夏の宵の口を閉じ込めたような藍色の瞳を潤ませて、エリザベートは嗚咽した。うん、とどうにか返事を絞り出す娘を抱き寄せて、その耳元に誕生日おめでとう、と祝福を寿いだ。
「お父さま」
「愛している。我が娘」
「わたしも……愛してるわ、お父さま」
帝国中比類ない名門の当主と、その娘であり志尊の冠をいただく皇帝。尊き血を持つ親子の抱擁を、庭園を照らす星空と双方の護衛だけが静かに眺めていた。
「聞いたわね」
「何をです?」
差し出されたハンカチで目もとを抑えながら冷静な声音を作って確認すると、フェルナーはとぼけたように斜め上に視線をやった。
「明朝、父が帝都を発つわ。もう時間がない、そうではなくて?」
心配そうに背を支えて地上車に案内してくれるマリーの手を取りつつ、フェルナーを横目に見る。
「オーベルシュタインに連絡なさい。また武力蜂起を起こさせるわけにはいかないでしょう」
エリザベートの直接的な言葉に、フェルナーは演技がかった仕草で頭を掻いて、それからうーんなどと気の抜けた声を漏らした。
皇帝の誕生祝いが催される今日、通常より多くの来客があるため当然ながら皇宮の警備は厳戒態勢になっている。招かれざる客──ブラウンシュバイク公とその側近などが入り込む余地などないはずだ。だがフェルナーはこのような日こそ楽に穴をすり抜けられる、と言って実際に父をここに連れてきてくれた。おそらく、ケスラー司令官から警備の応援を依頼された要請先の一つにオーベルシュタインがいたのだ。信頼できる僚友に応援を頼んだはずが、まさかそうして派遣されてくる人材の中にこのような劇薬が潜んでいるとは思いもしないだろう。
「アンスバッハ准将に睨まれてしまいました。さすがにそろそろ、蝙蝠でいるのも限界かな」
独り言のようにそう漏らすフェルナーの声音は、自嘲しているように見せかけてどこか楽しそうにも聞こえる。ブラウンシュバイク公にとっての忠臣でありながら、オーベルシュタインにとっての使える道具でもある。この1年足らず、フェルナーは二重三重の役割をそれでも満足にこなしてきた。作中ではあまり目立たなかったけれど、こうして側で見るとなかなかとんでもない人材である。
「彼も高確率で巻き添えになるでしょう。陛下はアンスバッハ准将がお嫌いでしたか?」
紅茶の好みを尋ねるか如く気楽なフェルナーの態度に、エリザベートはどくりと心臓が逆さに血液を送り出した気がして胸を押さえた。
「陛下!」
「アンスバッハは……ダメよ。生かしておけない……彼は、忠臣すぎるわ……」
呼吸を浅くして侍従長の手を取り、辿り着いた車の前で俯くエリザベートを、フェルナーは興味深そうに見下ろしていた。エリザベートが今夜父と会ったことで、門閥貴族たちの最後の武力決起の時期と場所、それを止めるタイミングを明らかにすることができたのだ。父や母、臣下を葬る砲弾の発射スイッチを、エリザベートは一部なりとも確実に押し込んだことになる。
「いずれにせよ、お父君とお会いになれるのはこれが最後です。あなたはそれでいいのですか?」
皇帝に対する不遜極まる問いと態度にマリーが激怒してフェルナーを睨みつけた。これは失礼を、と肩を竦めて涼しげに微笑み踵を返していくフェルナーの背中を一瞥して、エリザベートは地上車に乗り込んだ。
「いいわけないじゃない」
誰にも言えない悲壮な呟きを、ただ侍従長のマリーだけが聞いていた。エリザベートとブラウンシュバイクの名を掲げた反乱がいくつも起きて、何万人もの犠牲者を出しその10倍の人間の運命を狂わせた。今さらその百万分の一の命を惜しむ資格などないと、わかっているだけ。
本当は一つの戦乱も起きてほしくなかったけれど、父に新しい世界に迎合してもらうのは無理だ。あの人はどうしても過日の栄光を忘れられない。ラインハルトに恭順を示すのは死んでもできないだろうし、ラインハルトは今なお内乱を扇動して自らに傅こうとしない相手を決して許さないだろう。
「いいわけないじゃない……」
それでも、エリザベートにとっては家族だった。父も母もずっと支えてくれた臣下たちも、エリザベートは心から愛していた。まだ、悲しみは追いついてこない。責任も罪も、実感が湧かない。助けて、なんてよくも言えたものだと自分でも思う。けれどあれは本心だった。いくつもの韜晦の底に確かに存在する、自分の心だと口に出してそう理解した。選んで、決心して、歩んでいるはずなのに、苦しいのよ、お父さま……。そうして夜の皇宮を車窓に映しながら、そっと瞼を閉じたエリザベートの目尻に浮かぶ涙をマリーは淡々と拭っていた。
帝都を脱出しようとしたブラウンシュバイク公の船が動力部の誤作動で爆発し、乗組員全員の安否が不明であるというニュースが飛び込んできたのは翌日の昼過ぎであった。