キルヒアイス推しの女オタクが作中に転生したので推しの幸せを守るために奔走したいと思います 作:響谷
元帥の礼服を着込んだまま訪ねて来てくれたキルヒアイスを、エリザベートは管理し尽くされたサンルームに通した。こんな天気の日に来客があるのなら暖炉のある客間に迎えるのが鉄則である。それでもエリザベートは実際に嵐がやってくるまで灰色の雲を眺めていたかったし、キルヒアイスも黙って案内されていた。
「この度のこと、深くお悔やみ申し上げます」
お茶は出されるけれど、どちらも手をつけない。エリザベートはここまで、ほとんど完璧に近い精度で己を律し、掌握してきた。目的を持ってそのために自身を隠し、演じ、邁進した。その瞬間瞬間に湧き起こる衝動をすべてねじ伏せ、恐怖を感じ取らず、後悔と不安を捨てて生きてきた。まったくもって、人間らしくない。未来を知っているなどという神の権能に近い優位性を持つのは、人間性を捨てることと同義だったのね。透明な球面の向こうに広がる不穏な雲を、エリザベートは静かに見つめていた。
「キルヒアイス元帥。あなたは、ラインハルト様を愛していらっしゃる?」
キルヒアイスのいちファンにしては大きく出た問いだ。もうひとりの自分がそこにいて、このセリフを口にする女を側から見ていたなら、殴りかかっていたかもしれない。自らの傲岸不遜を重々弁えながら、エリザベートは足もとに生えるカラーの花に視線を落とした。
「……はい。陛下。私は、ラインハルト様を愛しています」
「そう……」
相手の視線を感じる。20歳とは思えないほど強く鋭い視線のせいで、頬に穴が開きそう。当然返ってくるだろう彼の答えに、エリザベートは浅い呼吸をひとつ済ませた。
「ラインハルト様が民衆200万人に対する核攻撃を容認したとしても、あなたは彼を愛していると言える?」
さらりと、明日の天気の話でもするかのような調子でわたしの口からはそんなセリフが流れ落ちた。真っ黒なドレスに身を包んだまま、魂をどこかに置き忘れたようにエリザベートは淡々と最後の確認をする。愕然と唇を震わせる気配が正面から伝わってきたが、困惑のまま傷ついた顔を晒しているであろう客人を見遣る勇気はやはりなかった。
「……ラインハルト様は、そんなことなさいません」
「そうね。あなたが止めるから。もしもの話よ。あなたはどんなことがあっても、ラインハルト様のお側にいられる?」
キルヒアイスに嫌われたくないと思うなら、こんなことは訊けないだろう。でももう、彼がわたしをどう思うかはどうでもよかった。ただ確証が欲しい。報酬が欲しかった。これはハッピーエンドの物語なのだと誰かに保証してもらいたかったし、彼の口からハッピーエンドにしてみせるという約束が聞けるならわたしはこれから先に待ち受ける1億年の地獄の業火だって怖くなかった。
「……もし。もし、ラインハルト様がなんらかの状況に陥ってそのような判断をしてしまった場合。私はあの方の手を取って、その心の傷に寄り添います」
信じられないものを見たような声音で、しかしエリザベートの妄想話をあり得ないと一蹴することも出来ずキルヒアイスは口を開き始めた。わずかに震えながらも、その声は自らの内側に確かめ直すように芯が通っていた。
「引き止められなかったことを謝罪して、罪と贖いを共に背負います。200万人の霊を弔って、1人ずつご遺族を見舞ってまわります。トマトを投げつけられても、足蹴にされても、私はあの方の側を離れません。あの方が一緒にいたいと、望んでくださる限り」
キルヒアイスもわかっているのだ。ラインハルトの中には、時と場合によっていくらでも冷徹になれる暴君がいること。だからこんなに必死になって、わたしなんかに訴えている。悲痛な表情をしてその場に立ち上がって、胸に手を当てて懸命に献身を叫んでいる。いつのまにかそんな彼の姿に見惚れて顔を上げていたエリザベートは、自らの頰に涙がつたっていることに気付かなかった。
「陛下。陛下……」
夢中になってエリザベートの意地悪な質問に答えていたキルヒアイスは、ふと我に返ったようにその顔を痛ましげに歪めた。ティーテーブルをまわり込んでハンカチを取り出し皇帝のすぐ隣に跪き、キルヒアイスはエリザベートの手にそれを握らせる。
「あまりご自分を追い詰めないでくださいませ、陛下。私は確かにラインハルト様の臣下ですが、あなた様の身も案じているのです」
泣き声も上げられないまま、エリザベートは自らの涙が落ちた手の甲を見た。夫はわたしを利用する対象としてしか見ていない。夫の臣下は全員わたしを邪魔者と思っている。内戦を防ぐためとは言え、わたしを愛してくれる唯一の家族を、わたしは自ら捨ててしまった。世界というのは本当に残酷だ。これはもう演技の必要もなく彼に訴えることができるな。そうわずかに微笑んで、エリザベートはキルヒアイスの顔を見た。
「キルヒアイス元帥。あなたがわたくしを案じて下さっているのは理解しています。ありがとう」
礼を述べられて一瞬安堵したキルヒアイスは、その直後に続いた皇帝の言に絶句して眉を顰めることになった。
「でも、もう、いいの。無理はなさらないで。200万人を熱核兵器で焼き払うより、ずっとよかった。ラインハルトは頑張ったわ。国内を二分する大戦に持ち込まず、宮廷内工作に甘んじてその闘争心を抑え込んだ。彼の努力を認めてあげて」
「陛下……何を」
「わたしも、もう疲れました。お父さまとお母さまのところに行きたい。あの人たちに会えるなら、何も怖くないの」
穏やかな顔でそう告げるエリザベートの表情に、なんの歪みも見て取れなくてキルヒアイスは絶望した。嘘でも、強がりでもない。彼女は本気で自らの死を受け入れているのか。もう、生に対する執着を捨て去ってしまっているのか。目の前で微笑む少女が、触れることも掴むことも叶わぬ霞であるかのような錯覚に襲われて、キルヒアイスは悲痛に顔を歪めた。
「……陛下。私どもに怒りはお抱きになられないのですか。ラインハルト様や私を憎むことすら、していただけないのですか」
どうにか現世に繋ぎ止めようとして、キルヒアイスはハンカチを持たせた少女の手を握り込んだ。そんなキルヒアイスの必死な表情に愛おしさが溢れて、エリザベートはやはり眉を下げた。わたしは、単なる石だ。ラインハルトが覇道を征くなら退けて通らなくてはならない、石。そんな存在にまで心を割いてしまって、この人ったら本当に優しくて不器用なんだから。
「しないわよ。あなたたちのことが好きだもの」
蕩けるように微笑んで、愛嬌たっぷりに首を傾げるエリザベートを見上げるキルヒアイスは、しばし己の無力に打ちひしがれているようだった。そんな彼をいつまでも見ていることはできなくて、エリザベートはそっとハンカチをキルヒアイスの手に押し戻しテーブルの方に向き直った。背もたれに身体を預け膝の上に手を重ねて、ガラスの向こうに広がる曇天を見る。約束はもらった。やることは果たした。キルヒアイスなら、危うさと烈しさを併せ持つラインハルトをこれからも愛していられる。ひとりの少女の死を、彼らは背負って償いながら先に進んでいくだろう。心地よい疲労と眠気に引き摺り込まれそうになりながら遠く眺める灰色の雲の彼方に、雷の音が響いた気がした。
しばらく横に突っ立っている気配のあったキルヒアイスが、最後に一度だけエリザベートの手を取りキスを落とした。そのまま彼が無言で立ち去った後、彼が配していた警備はエリザベートの周囲からひとりもいなくなっていた。