キルヒアイス推しの女オタクが作中に転生したので推しの幸せを守るために奔走したいと思います 作:響谷
徐々に近づいてきた雷鳴が皇宮を包んで、ぱたぱたと書斎の窓を打ち始めた頃。キィ、と蝶番の擦れる音がして顔を上げれば、喪服に身を包んだ少女が扉の枠を額縁のようにしてそこに立っていた。
「──」
ロイエンタールが見つめていた文机を、その視線で捉えて驚くほど温度の抜け落ちた表情をしている。この娘にはこんな顔もできたのか。ロイエンタールはちり、と毛が逆立つような違和を感じて鋭い眼差しをそのままに険しく眉を顰めた。
いつもとは逆だ。いつも、ロイエンタールは何かの上位存在であるかのように超然として、凡庸な女を手玉に取っているのに、この瞬間だけは彼女の方が神に近かった。
「……そう」
ぽと、となんの情熱もない、しかしどこか寂寥を滲ませる響きを落として、女は悠然と踵を返した。すべてを諦めたようなその態度に、目の前にいるロイエンタールへの失望まで混ざっているような気がして彼は湧き起こる強迫観念、または衝動のまま少女の細い手を掴んだ。
「なんだ。これは」
ロイエンタールの声は怒りと焦燥に震えていた。何か、例えば叛逆行為や民間人に対する暴行を行った部下を詰問する口調だった。間違っても10代の、ひたすら侮ったまま犯した少女に対する態度ではない。
「……手紙」
立ち止まって、これ以上離れようとしなかった少女に救われて、ロイエンタールは圧倒的な力の差のある相手の腕を捻り上げる愚行をやめた。その手を離して、頭ひとつ分は低いところにある彼女の顔を見下ろす。その辺りの床を見つめて、少女はどこか老成すら感じる疲労を滲ませていた。
「おれが訊きたいのはひとつだ。この状況を最初に描いたのは、おまえか」
少女はわずかにその鼻に皺を寄せて、沈黙した。この沈黙こそ、先ほどの質問に対する答えが是であるという何よりの証だった。
嵐がやってくるまで、ロイエンタールはこの書斎に突っ立って、この女の言動を思い返していた。彼女がキルヒアイスを慕っていることは間違いがない。推しだのどうのと言っていた気がするが、ロイエンタールに言わせれば情などというものの様相は常に2種類しかない。すなわち奪う愛か、与える愛か。この女の、少なくともキルヒアイスに向ける情は後者であったのだ。己の死という結末を受け入れてまで、相手に見返りを求めずに尽くしたのだから。
「──ッ、おまえは、何を、どこまで知っている」
ロイエンタールは武人として、政治家としての本能のまま相手の首根っこを掴んだ。相手が男であれば胸ぐらを掴み上げるだけで済んだだろう。だが女帝の漆黒のドレスにはそんな都合のいい場所はなくて、ロイエンタールはその喉元に手をかけることでしか相手の脅威を無効化できなかった。
「あ、か、」
「キルヒアイスにとって、オーベルシュタインにとって、互いが邪魔な存在になるといつから知っていた。おまえは何手先まで見えていたんだ。自らの死を招く結末など、他者から吹き込まれたとも思えん」
実際に締め上げずとも太い男の指に喉を掴まれるだけで彼女は恐怖に血の気を失った。反射的に逃れようとしてロイエンタールの腕に手をやるのを、すべて無視して彼は相手を問い詰めた。
「答えろ! この状況の支配者は、おまえか、オーベルシュタインか!」
その頭蓋を揺さぶって、わずかに指を首の皮に押し込みながらロイエンタールは怒鳴った。苦しげに息を吸い込んで、少女はロイエンタールの腕に縋ったままどこか遠くに目をやった。その瞳には、窓を打ちつける雨粒が星空のように映り込んでいた。
「わたしの、勝ちよ、オーベルシュタイン……」
痛みか恐怖か、それとも緊張が途切れた満足感か。人間の行き着く先の臨界点で流されたひと筋の涙がロイエンタールの指までつたった。遺書と称されたそれは、告発文だった。皇帝、すなわち自身を暗殺した主犯はパウル・フォン・オーベルシュタインである。ロイエンタールが見つけた書きかけの書面には、いくつかの証拠と証人を携えてその事実を訴える言葉が並んでいた。
ロイエンタールは急遽、直属の部下数名をエリザベート周辺の警備を任せるために呼び出した。
「あの女を殺させてはならん。必ず防げ」
そう、至極単純化した命令だけを言い置いて、身勝手な配置を行うことについてケスラーに話をつけにいく。一歩間違えばロイエンタールがその場でエリザベートを縊り殺していた。何もかもが受け入れられない。あの、極めて凡庸でつまらない女が、オーベルシュタインと対等に渡り合って自身の死と引き換えに奴の失脚を確実なものにしただと? 文机に散らばっていたものは下書きで、完成した文面は自分の死を合図に宛先に届く手筈になっているとロイエンタールに絞め殺されそうになりながらあの女は言った。つまり、これは相討ちだ。オーベルシュタインを確実に排除するために、自らを皇帝位につけ、志尊の冠を手に入れて、暗殺の対象となるように誘導した。まるで未来を予知していたかのようだ。予知した上で、自らの死を選択肢に入れた手を取っている。人の動きではない。結果が示す通り、オーベルシュタインすら凌駕する非人間性、圧倒的合理性。とんでもない怪物がそこにいたことに気づいて、ロイエンタールは肩を怒らせながら皇宮の廊下を闊歩していた。しかもそれらの行動がすべて、ある男への献身からもたらされたものだというのだ。ある男、ジークフリード・キルヒアイス。こんなことがあっていいものか。女という生き物が、焦がれた男への見返りも何も求めない献身によって殉死するということが。許されない。あってはならない。あの女の思い通りに、ことを運ばせてなるものか。平凡な女の、平凡でくだらない情のために、オーベルシュタインが失脚させられるなんてことが、あってたまるものか!
雷が落ちて、ロイエンタールが壁に拳を叩きつけた音は掻き消えた。肩で息をしながら、彼は紛うことなく猛禽類の危険な輝きを宿す金銀妖瞳を僅かに上げた。そう、この策略の悪辣なところはもはやどうとも止められないところにある。実際に女帝は排除せねばならない。それはローエングラム侯以下臣下たちの総意と言っていい。あの女が帝位についた瞬間からこの展開は定まっていた。そしてオーベルシュタインは、ローエングラム陣営の影も、汚名も、進んで一手に引き受けるだろう。自らの仰いだ主君を穢さないために。ああ、と絶望に近い吐息が漏れた。あの女の策略をオーベルシュタインに伝えたところで、あの男は立ち止まることはないだろう。刃を振るうなら、それを返される覚悟を持つべきだ、とでも言うだろうか。正論だな。襟を整えて、ロイエンタールは歩みを再開する。おそらくおれは、あの女にも、オーベルシュタインにも、状況の主導権を認められないだけなんだ。やつらに踊らされる小道具のひとつに甘んじる自分を、認められないだけだ。であれば、どうするべきか──不確定な因数Xになるしかあるまい。おまえたちの高潔さを貫徹させて、なるものか。
お許しください、ローエングラム侯。雨風に苛め抜かれる豪勢なステンドグラスを見上げて、ロイエンタールはミッターマイヤーしか見たことがないだろう柔らかな微笑みを浮かべた。憧憬と、親愛と、それらに手が届かないことを熟知している寂しさの狭間で、彼は眩しげに目を細めた。
「あんな小娘の策略でオーベルシュタインを失うのは、あなたの本意ではありますまい──」
どうか誰にも貶められないで。自らラインハルトを冒涜する道を往く決意を固めながら、ロイエンタールは魂の底からそう祈った。