キルヒアイス推しの女オタクが作中に転生したので推しの幸せを守るために奔走したいと思います 作:響谷
帝国暦488年4月14日。ジークフリード・キルヒアイス元帥は選び抜かれた友好親善使節団を伴い帝都を発った。同28日、イゼルローン要塞に到着ののち簡素ながらも完璧な礼節をもって遇されていると帝都へ報告が入る。
「まさかヤン・ウェンリーとともに3週間の旅程を過ごす役得があるとはな。おまえと代わってしまいたいくらいだ、キルヒアイス」
超光速通信に乗せるためのボイスレターを撮っているラインハルトが、その陶磁のような頰に白い指をあてて柔らかく微笑む。キルヒアイス元帥に同盟首都までお越しいただくのなら、格は不足するが大将である自分が案内役を引き受けましょうとヤンは申し出てきた。おそらく難色を示す同盟政府との駆け引きはあっただろうが、最前線の防衛司令官が席を外すことで相手と同程度の信頼を返すと言ってきたのである。その情報が宰相府に回るや否や誰もやりたがらなかったはずの親善使節全権代理の役回りは一挙に周囲の羨望の的になってしまった。みなそれぞれの感慨をもって、ヤン・ウェンリーなる名将と話してみたいと望んでいたのだ。
「まだ先のことになるが土産話が楽しみだ。おれを差し置いて勝手に仲を深めたりするなよ、拗ねるからな」
行政分析官の意見をよく聞くこと、どんな条件を出されてもまずは我々の利益を考えること、あとはおまえの思う通りにやってくれ、信頼している、と当たり前のことを思い出したように付け加えてラインハルトは手紙を締め括った。FTL通信を用いれば今日中には相手に届く。ふ、と顔を上げ背もたれに体重を預けたラインハルトの視界の端に、影から滲み出たような人物が立っている。それは珍しく発言を躊躇うかのような逡巡を挟んでから、静かに主君に問いかけた。
「陛下の件はお伝えしなくてよろしいのですか」
「よい。キルヒアイスが留守のうちは、我らで国内の事案に対処するのが筋というものであろう」
森とも言える皇宮の庭園には、すべての輪郭を曖昧に溶かすようなはっきりしない陽射しが降り注ぐ。ラインハルトは鷹揚に振り返って、疲れたようにその目を眇めた。
「皇帝陛下が、行方不明……!?」
主君から告げられた事項をそのまま復唱したのはビッテンフェルトだ。他も各々椅子を引いたり、顔を顰めたり、愕然と口を開けたりして驚愕を示していた。
「陛下が父母の月命日のため墓参りに赴いた際、つまり先の22日のことだが、出先でそのまま行方不明になった。侍従長以下お付きの者24名、護衛一個小隊、総勢100名近くの足取りが掴めていない」
ということはつまり、事件が起きてからもう1週間ほど経っているではないか。関係各所に捜査させて内密に収めようとしたのにそれが失敗したのだと、この不自然な期間の開き方に大抵の面々は舞台裏を悟った。
「皇帝の生死は不明。ケスラーは尽力したが、もはやこの地上で足取りを追うのは不可能とのことだ。宇宙に出たとなれば、これは長期戦を覚悟せねばならん」
帝都郊外にて、側近たちのみを連れ足取りを絶ったため、ケスラーに責任が問われることはなかった。帝都上空の警備にあたるウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ上級大将にも至急帝都封鎖命令を通達したが、これまで網にかかった不審物はない。衛星軌道を円周上に艦隊展開するのが通常時の警戒体制であるものだから、全面警戒に移る前にすり抜けられたとしても彼を責めるわけにはいかなかった。まず、前提として、ラインハルトの皇帝への関心が薄かった。それが配下たちの無関心を誘い、新体制の倹約体質と重なって、警備の簡略化が誰に押し進められるわけでもなく自然となされたのだ。自らに責任があることを自覚しているラインハルトは、部下の首をもってそれ贖おうとはしなかった。
「まず結論としてこれからの方針を伝えておく。当面はご病気ということで取り繕い、皇帝の捜索は担当者を立てて続行する。国璽はなおも宰相府に保管してあるため国政に滞りはない」
配下たちが惑わぬように、ラインハルトは滔々として告げていく。席についてその言葉を聞く者はみな粛々とそれを受け止めながらも内心、一様にとある人物を黒幕として疑っていた。
「逃亡、誘拐、事故、この三つの線が考えられるが、この際問題となるのは誘拐、であった場合だ。現皇帝の使い道は、それこそいくらでもあるのだからな」
ラインハルトは、昨年フリードリヒ4世が崩御したときからずっと変わらない。利用すべき対象と割り切っている態度を崩さず、部下にも自身と同じ感覚を持つよう徹底させている。中にはいくらか、そこまで冷徹になりきれない将はいたが。
「卿らに求めることはただ一つ。皇帝を利用せんとする輩がその名と姿を現したとき、それを蹂躙する覚悟と用意を整えておくこと。以上である」
さすがだ、と感服する者は多かった。これが覇道を征く者の冷厳さだ、と。しかし同時に、罪の意識を覚えた者も多かった。戦場で、何千何万を駒として扱う身分にしては感傷が過ぎるとはわかっている。しかし、武器を取る力も、自らを守る術さえないひとりの少女を利用して、そしていずれ捨てるのだという自覚が、正々堂々を旨とする武人に耐え難い負荷をかけたのは事実であったろう。
「卿ではないのか」
ローエングラム侯の去った後、思わずといった表情でそう溢したのはビッテンフェルトだった。その顔は捨てられた仔犬のようとでも形容できるほどで、目には哀愁を、口もとには寂しさを滲ませていた。
「……」
明らかにその問いを投げかけられていた、主人のいなくなったいま最上座に着席する総参謀長が、聞こえぬふりをして手元の書類を抱え立ち上がる。その態度に激昂したのか、ビッテンフェルトは机を飛び越える勢いで彼に詰め寄りその襟首を掴み上げた。
「卿ではないのか、オーベルシュタイン!」
この場のたった2人を除いて、皆が同じ気持ちだった。それでも腕力に訴えてはビッテンフェルト自身が処罰を受けることになるので、ミュラーやワーレンが慌てて制止の声を上げた。
「ビッテンフェルト提督!」
「おい、やめておけビッテンフェルト」
そうしてミュラーが駆け寄ってくる間、帝国きっての猛将に掴み上げられながらオーベルシュタインは考えていた。
自らの死期を悟っての逃亡なら、何処へなりとも行かせてやれば良い。だが、誘拐であった場合は。7割の確率で旗頭を求める門閥貴族の残党。2割でフェザーンの巡らす陰謀。残る1割は、隣の男の仕業。皇帝との交流は、彼に野心を抱かせるに至ったのだろうか。この場で、いや、ローエングラム侯にも彼と皇帝の関係を明かして、この男を排除し未来の危険を摘み取っておくべきか。いや、今この男が消えたなら誰がキルヒアイス元帥を掣肘することができるというのか。疑惑のまま、確証も得ないで弾劾するには失うものが多すぎる。キルヒアイス元帥に対抗するには、どうしてもこの男の力が必要なのだ。
「……ブラウンシュバイク公とその夫人が亡くなったときは、私に掴みかからなかったではないか」
そうしてその橙の目を見下ろして吐き捨てたのは、どうしようもない自傷の台詞だった。彼の高潔さが嫌いなわけではない。なのに、それを嘲弄するようなことしか言えない。オーベルシュタインの口から出た言葉に、傷ついて、言葉を失ったビッテンフェルトが、貴様、と微かに唇を震わせる。
行き場のない怒りを燃やして、彼はその拳を振りかぶった。ミュラー提督は間に合わない。その渾身の一撃が、義眼はともかく脳に損傷を与えないことを祈って目を瞑ったオーベルシュタインは、数秒待っても衝撃が襲ってこないことに気がつきやがて瞼を開いた。ムスクの香りと、完璧に整えられた黒褐色の髪。会議の間ぢゅう隣に着席していたロイエンタールが、猛将の重い一撃を片手で押し留めていた。
「そこまでにしておけ、ビッテンフェルト。なにも戦いたがっているのは卿だけではないのだ」
猪武者の拳に、彼の腕力が敵っているというだけで刮目すべき事象ではあるのだが、ロイエンタールはあくまでも涼しげな目もとのまま僚友に語りかけていた。
「卿にだけ総参謀長を殴らせたのでは、我々の立つ瀬がなかろう。かといって袋叩きにするのも趣味ではないしな」
ちらりと視線を流して、ロイエンタールは万年不健康そうな顔色のオーベルシュタインを揶揄う。卑怯をもっとも嫌うビッテンフェルトは己の行為を客観的に見ることを思い出したのか、盛大に舌打ちをしつつオーベルシュタインの襟を手放した。ほっとしたようにその場に居合わせた全員が息を吐いたのがわかる。ようやくビッテンフェルトの横に辿り着いたミュラーが、拳を引っ込めた猛将を心配そうに覗き込んでその名を呼んでいた。
「……主人を間違えぬことだ。そして殿下は、己の道を弁えておられる」
今度こそ頭の血管が切れて飛びかかろうとしたビッテンフェルトを、ミュラーが必死になって押し留め皆がそれに加勢した。憎まれ口しか叩けないのかこいつは、と呆れながら、ロイエンタールはオーベルシュタインの後ろ姿を見送った。あの態度のせいで今回の件の黒幕はオーベルシュタインであり、ローエングラム侯はそれを黙認したのだと諸将は解釈するだろう。
会議室を出た後、ほとんどビッテンフェルトと同じ気持ちに違いないミッターマイヤーが沈んだ表情を浮かべたままロイエンタールと帰り道を共にしていた。
「効率的ではあるが、少々回りくどい気もするな」
仄かな自嘲を浮かべながら、ミッターマイヤーはそう溢した。
「皇室の権威を受け継ぐことがこれほど手のかかることだったとは。いっそのこと、門閥貴族どもを反対勢力として結集させ一度に殲滅していた方がよかったのではないかとすら思ってしまう」
ぽつんと呟いて、蜂蜜色の髪の将は遠くを見る。今仮定してみせたifの歴史に思いを馳せて、彼はすぐに親友の隣へと戻ってきた。
「それこそ軍人の、自己満足の正義を煮詰めた考えだろうがな。そんな大戦に巻き込まれる民衆の立場を考えれば、やはり殿下は最善の道を歩んでおられる」
正義と現実感覚のバランスが素晴らしく取れたこの男でも、今回のことは精神に堪えているらしい。こんなことではこれから先やっていけないぞ、とお節介としか言えない感情が湧き上がってたまらなくこの友人が心配になる。だがそれと同時にロイエンタールは、自らの隣を歩く彼の魂が貴重に思えて仕方なかった。
「政治というのは何を取り何を捨てるかの判断の連続だ。侯ならば、きっと最善の判断を繰り返していくことができるだろう」
友の迷いを出来得る限り取り去ってあげたくて、ロイエンタールはその金銀妖瞳を細めミッターマイヤーを見下ろした。今のはただの、楽観論だ。そうわかっているふたりの視線がかち合って、ミッターマイヤーは気が抜けたように眉を下げたかと思うと秋の小麦色の瞳を蕩けるように弛ませた。
「もちろんだ」