キルヒアイス推しの女オタクが作中に転生したので推しの幸せを守るために奔走したいと思います 作:響谷
「それでは先輩、留守を頼みます」
ヤンにしてはきっちり敬礼していたのだが、それを受けるキャゼルヌははいはいといつも通り手を振っただけだった。
「お客人の前だ、あまりだらしない姿を見せるんじゃないぞ。と言ってももう無駄かもしれんが」
和やかに笑う幕僚たちも、次々とイゼルローン要塞司令官代理に敬礼をして自分の艦に乗り込んでいく。キルヒアイスはここに来てから面食らうことの連続で、そんな光景もどこか圧倒されながら眺めていた。
「それにしても思い切ったことをなさいます。キャゼルヌ少将のみを残して、13艦隊は丸ごと使節団の案内にあてるなど」
イゼルローンの港を出発して、上も下もない宇宙空間に放り出される。ヒューベリオンに同乗し、ヤンの傍らにて遠ざかっていくイゼルローン要塞を見つめているキルヒアイスが感嘆したようにそう溢した。
キルヒアイス元帥の座乗艦バルバロッサ以下、標準装備の巡洋艦で構成された使節団は同盟領内においてもそのまま自前の艦に搭乗することを許された。20隻ほどの小集団をヤン艦隊は囲むようにして航行している。いつでも私的な空間に戻ることはできるが、キルヒアイスはまだまだその知的好奇心を満たし切ってはいなかった。
「キャゼルヌ司令官代理をよほど信頼なさっているのですね」
キルヒアイスの真っ直ぐな言葉に、ヤンはどこか照れ臭そうにその髪を掻いた。
「ええ、まぁ。あの人、ああ見えて同盟最高の事務屋でしてね」
まるで家族を誉められたときのような反応だ。恥ずかしいけれど、どこか自慢げ。そういえば自分はヤン提督の親族関係をほとんど知らない。幕僚たちの背景も。この旅で、彼らの結束の理由について少しでも知ることはできるだろうか。そう思考を巡らせながら、柄にもなくはしゃいでいる自分をキルヒアイスは自覚していた。
「それに、二階級も異なるのに互いに壁が無いように見えます。ああ、小官が失礼なことを申し上げていたらどうかご指摘ください。私の祖国とは文化が異なる気がいたしまして」
キルヒアイスの生真面目な態度に、彼を見上げていたヤンはいやいやと首を振って笑った。こんな彼の姿を見ていると忘れそうになる。アムリッツァ会戦、イゼルローン攻略、アスターテ会戦、その他にも、この智将は名だたる功績を残してきた。どこにでもいる、善良だけど怠惰で、大したことは何もできないというような顔をした男が、間違いなく我々帝国軍を戦慄かせたヤン・ウェンリーなのだ。
「キャゼルヌ少将は特殊です。士官時代からお世話になっている、いや、おもしろおかしく遊ばれている? 頭の上がらない先輩ってやつでして」
この前は少佐と思しき人物に背を叩かれているのを見たし、彼の艦隊には特殊な関係が多いのかもしれない。見ているこちらが心配になるほど呆気なく正式な軍装であるはずのベレー帽を取って、ヤンはぱたぱたと団扇がわりにしている。そういえば、彼の軍服にも、これまで通された司令官室や応接室にも、彼が受賞してきたであろう勲章らしきものは見当たらなかった。権威というものを意図的に排除しているのだろうか。その底知れなさの一端を垣間見た気がして、キルヒアイスはますます目の前の人物への興味を募らせる。
「ああ、それと、今回我々の13艦隊が案内役を引き受けた件、同盟政府の命令なんですよ。私は臆病な人間でして、さすがにイゼルローンを空にしようとは思いませんでした」
たはは、と困ったように眉を下げる相手に目を見開いて、キルヒアイスは隣を振り返った。
「それは、我々の勝手な解釈を押し付けてしまい大変失礼いたしました。文民の方々は慎重論を唱えるはずだと、そう思い込んでいましたもので」
慌てて謝罪するキルヒアイスにとんでもない、と手を振って、ヤンはまたぽりぽりと後頭部に手をやった。
「常識的に考えればそのはずです。小官も、いったい今度は何を考えているのやらと上層部を疑っている次第でして。いえ、命令の内容自体は、確かに信義に敵うものだと思うのですが」
彼の言葉を聞きながら、キルヒアイスはふむ、と自らの顎に手をあててこれまでの経緯を思い返していた。
キルヒアイスを同盟首都まで送り出すことにもっとも強硬に反対したのはオーベルシュタインだった。彼の主張はもっともで、安全の保証が少なすぎる、という点において他の提督たちも懸念を露わにしていた。単純に失うわけにいかない駒としてキルヒアイスを見ているのだろうが、皇帝の生殺与奪をめぐり昼夜を問わず火花を散らしている相手から命の心配をされるのは少し新鮮だった。断固として反対し続けたオーベルシュタインがようやくその態度を軟化させたのは、ヤン提督から"イゼルローンの軍港を空にする"という提案が入ってからのことだった。
「……政治的な交渉の結果として、現在の事象があるような気がいたします。我が国の方からそちらの意思決定機関に条件を提示したのかも知れません」
オーベルシュタインの名は出さなかったが、キルヒアイスの曖昧な語調にその存在を感じ取ったらしい。ヤンは赤毛の元帥の横顔を見上げ、やがてなるほどね、と静かに溢した。
「両国の政治的交渉が機能しているのならそれはそれでめでたいことです。端から我が国の外交能力に期待はしていませんでしたが、それにしてもこれほどの条件を飲ませるとは……そちらの外交手腕は大したものだ」
はは、とはにかんで、とりあえず相手方を褒めヤンはこの話題は終わらせた。その交渉内容がイゼルローンを介してのものでない以上、宇宙の反対側を通ったということだ。同盟の中枢部に巣食うフェザーンの便利屋どもが今回の判断を下したというのなら、そこにはフェザーン首脳部の意図が絡んでいるのではないか。我ながら陰謀論が過ぎるかな、と自身の思考を打ち切って、ヤンは終始和やかに進んだキルヒアイスとの談話を終了した。
「卿の行動原理は理解しかねる」
皇宮の敷地内に位置する、歴史ある図書館の埃をかぶった一画。本棚を背にして梯子に腰を掛け宇宙開発史の本をめくっている色男がそう口にしていた。
「そうですか?」
どこか軽薄な印象を与える若い男の声が、本棚越しに背中から返ってくる。白いシャツに渋茶色のベストというラフな格好のその男は、本棚に向かって立ち、書棚の整理をしているらしい。間違った位置に挟まっていた本を抜き取って、一冊ずつ年代ものの本をずらしていく。その作業の音を聞き流しながら、ダークブラウンの髪の男は手元に注がれる視線をそのままにああ、とまたひとつページをめくった。
「卿は誰の味方なのだ。アントン・フェルナー大佐」
ことん、ことん、と重い装丁の本が一冊ずつ差し込まれていく。ふふ、と微かな微笑みが浮かんで、それは本棚を挟んだこちらまで漂ってきた。
「それを訊くには、少し遅すぎると思いますが? ロイエンタール提督」
煙に巻くような相手の言葉にふん、と形のいい鼻を鳴らして、ロイエンタールは冷たい光を宿したままの金銀妖瞳を眇める。ただ足を組んで膝に本を置き、それに視線を落としているだけで絵画のようになる男だ。彼も黒褐色のスーツに身を包んでおり、軍服姿ではない。
「卿がオーベルシュタインを選ぶというのであればそれでもよかった。おれの予想では五分と言ったところだったな」
アントン・フェルナー。ブラウンシュバイク派閥に対するオーベルシュタインの毒針。しかしその忠誠心がどこにあるかは読めない。エリザベートのしたためた告発状の中に、自身を暗殺しようとした実行犯として彼が証言をするとその名を挙げられていたのだ。そんな証言を請け負えば、すなわちオーベルシュタインを破滅させることになる。だがエリザベートはそれなりの自信をもってあの手紙を書いていたようだ。フェルナーはあの娘に口約束でもしたのだろうか。それはどこまで本気の申し出だったのだろうか。
「おれと皇帝の関係を暴いたのは卿だな。しかしどうやったかがわからん。あの女もあの女なりに隠していたはずだが」
「ああ……それは簡単ですよ。彼女、あなたが来てる間はマリーさんとしか接触しませんから」
「はぁ」
そう言われても、要領を得ない。確かにあの女はそうやっておれの存在を隠していたが、その事実からどうやって真実に辿り着いたのか。
「不自然じゃないですか。皇帝の身の周りのお世話なんて何十人がかりで分担するのが通常なんですから、それだけで何か隠してると告白しているようなものでしょう。国の主人たる皇帝が隠さなきゃいけないことなんて不倫くらいですよ。彼女に接触できる身分を上から洗って順当にアリバイを埋めていけば、当たり前にあなたの名前が残ります」
……。単なる状況証拠ではないか。ほとんど直感で真実に辿り着いているその推理に呆れながら、ロイエンタールは僅かにため息を漏らした。
「つまりあの女の不手際というわけだな。そこは素直に安堵した」
自らに落ち度があったなら居た堪れないところであった。恥の感覚がどこかズレている上級大将は音もなく髪をかき上げて、また本のページに指をかける。フェルナーがおかしそうに笑みを漏らした気配が伝わってきたが、それは無視することにしよう。
「おもしろいですよね。彼女」
「……どこが」
揶揄うようにそう切り出したフェルナーの声音に、ようやく彼自身の動機が垣間見えた気がしてロイエンタールはただ訊き返した。探られていると弁えながらここに来たのか、フェルナーは構えることなく口を開いていく。
「未来が視えているみたいで。たまに、オーベルシュタイン閣下よりわかってるんじゃないかな、と感じる場面があるんですよ」
ばかばかしい、と、普段であればそう返していただろう。口の中で呟かれたそれは、ついに音になることはなかったが。
「あなたも、そう感じたのでしょう? ロイエンタール提督」
かたん。耳の後ろで差し込まれる本が鳴る。否定はできない。探っているつもりが見透かされているな。わかったように自分の内面に言及されるのが不快で、ロイエンタールは最重要の確認作業を繰り上げることにした。
「フェルナー大佐。卿の正義とはどこにあるのか」
このまま自分に協力すれば戦乱が起こる。そう暗に明言して、本当にこれでいいのかと問う。背後にある気配は微かに揺らいで、本を差し込んでいく手が止まった。
「それは、小官には難しい質問です。正義というもののかたちを、自身の中に見出せたことがないので」
午後の陽射しが僅かに反響する中で聞こえたそれは、自嘲や、寂しさを滲ませた声だった気がする。やがて彼はいつもの不敵な声音になって、最後の一冊を残った隙間に押し込んだ。
「自分が仕えるに相応しい相手を探すのは、優秀な人間であれば当然のことでしょう?」
若造が。そう皮肉げな冷笑を浮かべながらもロイエンタールの表情に軽蔑はなかった。自分にも若造である時期はあったし、仕えるべき主人を探していたのも同じことだ。
「試さずにはおれんというわけか。オーベルシュタインか、あの女か、」
あるいはおれか、と臆することもなくそう続けて、ロイエンタールは腰を上げ本を棚に戻した。腕に持っていたコートを羽織りながら、その不遜な気配が本棚の影から姿を現す。
「間違ってはいませんね」
涼しげにそう返すフェルナーの横を何食わぬ顔で通り過ぎて、彼は人気のない図書館を後にした。