キルヒアイス推しの女オタクが作中に転生したので推しの幸せを守るために奔走したいと思います   作:響谷

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帝国暦488年5月1日。ロイエンタールにイゼルローン方面への駐留が下命される。この人事を決定した宰相ラインハルトに対しオーベルシュタイン総参謀長は反対を唱えたとされるが、実際にその意見が取り上げられることはなかった。

「ふぅ」

財務尚書代行として新体制の実践面を推進しているオイゲン・リヒターは、新設された農民金庫の利率試算を報告書にまとめていた。ふと顔を上げて傍らに用意してある紅茶に手を伸ばしてみれば、執務室が人工的な光で満たされていることに気付く。背後の全面ガラスを振り向くと、知らぬうちに日もとっぷり暮れていたことが理解できた。働けば働くだけ市民の暮らしぶりが良くなる。忙しいことはまったく苦ではないのだ。何年もずっと、こんな仕事ができる日を求めて戦ってきたのだから。

よっこいせ、と革張りの椅子から腰を上げてデスクをシャットダウンし、何人か残っていた職員にも帰宅を促す。健全な国家は健全な仕事から。職員たちが連日残業しているようでは理想にはほど遠い。仕上げてしまいたい書類をいったん止め置いて、リヒターは正しい上司としての振る舞いを優先させた。

「おや、君も今帰りかね」

政治機能のすべてを一時的に集約している宰相府の渡り廊下で、彼は同志であり同僚である男と鉢合わせた。少々恰幅がよく、上質なスーツを着こなしている彼は、穏やかで落ち着いた気配とは裏腹にどこか鋭い光を宿す瞳が特徴的な壮年の紳士である。

「ブラッケ。感心せんな、こんな時間まで部下を拘束していたのか」

「君こそ」

挨拶がわりの軽口を叩き合ってから共にエレベーターへと乗り込む。はぁ、とふたりきりになった途端カール・ブラッケは重いため息を漏らした。そんな彼の横顔を見もしないで、リヒターは来るな、と身構える。宰相府に招かれて以降、この僚友は積極的にローエングラム侯とその軍閥を批判するようにしている気がする。無論批判精神とは自己決定や自由意志と同じ根から生えてくるものだから悪ではないしむしろ世の中に必要なものではあるのだが、そこに関しては未だ声を高くできないというのが我が国の現状だ。

「難しいな」

「ああ」

ブラッケの言わんとすることは理解できている。彼の口にする抽象的な形容詞に同意を示して、リヒターは相槌を打った。

「荘園の開放に手をつけなければ財政改革と言っても限界がある。帝国の財政は未だ厳しいままだというのに、また必然性のない出兵を決めるとは」

「必然性はある。ヤン・ウェンリー無きイゼルローンはいわば軍事的空白地帯だ。万が一、皇帝を擁した旧体制派に奪われるようなことがあれば国内の統一は一気に遠ざかってしまう。そうならぬように強力で信頼できる駒を要所近くに置いておくのは、いわば保守管理というものだ」

議論を価値あるものと感じることができる相手同士だからここまで共に戦ってこられたのだ。打てば響くようなリヒターの返答にブラッケは即座に反論した。

「だがその保守管理のために財政が破綻しては元も子もない。現時点では新体制の"(コア)"の確立が最優先であるように思われるが」

「確かに。貴族たちの大半は面従腹背の状態だろうからな。農民金庫の設立と言論の自由の保証を決定しただけでこの反発だ、その特権を剥ぎ取れるのはいつになることやら」

はぁ、と再び漏らされるふたりのため息と重なってピコン、と地上階に着いたことを示すランプが鳴る。リヒターに道を譲られたブラッケは失礼、と会釈しつつ先にエレベーターを降りた。

「だが良いこともある。平民たちは何の権利も持たない奴隷だった頃には戻れない。最悪貴族たちが結託してローエングラム侯に対し暴力で反抗するような事態になっても、もはや平民兵士はこれに応えんだろうよ。帝国総人口の98%は平民だ、戦略的にも政略的にも、ローエングラム侯の勝利は既に決定している」

その政策を人気取りと批判していた口でよく言う、と思ったがリヒターはただ苦笑するだけだった。

「そうだな。宰相殿下の権力基盤は平民にあり。武断的処置で貴族を駆逐していないのだからむしろ奴らは感謝すべき筋だな」

宰相府の正面口にて彼らは高級官僚を乗せるための地上車を待っていたが、数秒もせぬうちにそれは音もなく滑り込んできた。今度はブラッケがリヒターに先を譲って、彼は一歩その場で足を引いた。

「武断的処置、か。これは冗談として聞いてほしいのだが、特権にしがみつく貴族たちを暴力で一掃できたなら我々の悩みは8割方解決するだろうな」

不謹慎な発言をする同僚に驚いて顔を上げると、彼はほとんど灯りの落ちた宰相府を背景にしつつ夜の中で自虐的な笑みを浮かべていた。一刻も早く理想に近づきたいあまりに焦る自分を、ブラッケは自覚している。人生は有限だ。自分が死ぬまでにどれほど市民階級を育てることができるのか、不安や恐怖に駆られる心地はリヒターにもよく理解できた。

「……ひどい矛盾だ。民衆を苦しませる戦争を否定しながら、誰かが手を汚してくれるのを期待してしまうなんて」

僅かに微笑みながら、後部座席に収まったリヒターは突っ立ったままのブラッケを見上げた。友人が期待する通りの言葉をかけてやると、彼はどこか安堵したようにその眉を下げていた。

「まったくだ。焦らず正直にやるしかないな、我々は」

自分たちから綺麗事を取ったら何も残らない。フォンの称号を捨て、家督を捨て、私財を投げ打って市民階級の啓蒙に努めてきた。結局は上からの強制的な変革でしかこの国を変えることは出来なかったが、少しずつでも前に進んでいるのなら良しとせねばな。

緩慢極まる現実を前に妥協を呑みつつ焦りと同居して、そんな怠惰な自分を嫌ったままでいる理性まで求められる。過酷な役割だが、我々はそれを誇りに思っているので問題はない。

「君も早く休めよ」

「もちろん」

明日もまた理想のために尽くそうと彼らは無言のうちに決意を交わして、それぞれの帰途に着いた。

 

 

 

「ロイエンタール?」

5月1日、深夜。妻はもう休んでいるので夜分遅くに押しかけてきた無礼な客人を出迎える役割はミッターマイヤーのものになった。

「飲みにきたのか? あいにく機嫌を取るべき相手はエヴァではなくおれなんだが」

その手に抱えられた小ぶりの花束を見遣って、蜂蜜色の髪の男は親愛に満ちた表情で笑った。夜の中で佇む黒褐色の髪を持つ美丈夫に、彼は扉を大きく開けて見せる。

「いいや。気遣いはありがたいが今日のところは卿の顔を見られただけでよしとしよう」

親友につられて微笑んで、ロイエンタールは百合の花でも綻んだような芳しくも無垢な気配を滴らせていた。遠慮している様子を見て取ったならミッターマイヤーは強引にでも彼を自邸に引き摺り込んだだろうが、客人は本当に満足そうだった。

「いいのか? 何しに来たんだ」

押し付けられた花束に視線を落としながら、彼はきょとんとした表情を浮かべる。ミッターマイヤーが何をしたところでロイエンタールにはこの上なく平凡で善良な魂が自分の手の届かないところで輝いているようにしか見えないし、彼はその魂の健全な営みを一粒残らず愛していた。

「明朝、高速艦を率いて先発する」

ミッターマイヤーの頭を見下ろしながらロイエンタールは温度のない声で告げる。微かに目を見開いたミッターマイヤーが、数秒後穏やかな目もとを取り戻してそうか、と呟いた。

「おれたちも下手に偉くなってしまったな。卿と艦を並べるのは、しばらく先のことになりそうだ」

此度の駐留責任者の件は、ロイエンタールから願い出たことではない。だが先のシャンタウ星域の反乱においてミッターマイヤーは戦功を上げており、順番が寮友にまわっていくのはいたって自然なことであった。宮廷闘争はいちおうの落ち着きを見、ロイエンタールが抜けても致命打にはならない。もし彼が武勲を立てる事態になっても階級としてはキルヒアイスと並ぶだけだ。オーベルシュタインもそう考えたからこそ強硬に反対し切らなかったのだろう。

「何もないことを祈ろう。でなければキルヒアイスに続く第二の元帥号を卿に譲ることになってしまうからな」

冗談混じりにそう言って、ミッターマイヤーは顔を上げた。彼を見下ろしてくるロイエンタールは、いつになく素直に親愛の滲む表情をしていた。

「第二の元帥号を授与されるのは卿だと、おれは思っているんだがな」

おまえがそう言うならそうなのかな、と楽天的に笑うミッターマイヤーをロイエンタールはしばらくの間見つめていたが、やがてくるりと踵を返しておやすみ、と囁いた。おやすみ、とその遠ざかっていく後ろ姿に小さな声をかけて、家主はぱたりとドアを閉めた。

高速艦か。見送りはさせてくれんだろうな。そう機敏に回転する頭を放っておいて、ミッターマイヤーは自らの端末を起動した。逐一黄色のバラのことで揶揄われている意趣返しに、彼はあの金銀妖瞳の友から贈られた花は必ずその意味を調べることにしている。キッチンに辿り着いたミッターマイヤーは部屋の灯りの下にそれを掲げてみて、薄闇の中では判別できなかった色を確かめる。

「……オレンジ?」

淡い、赤みがかったピンクのバラだ。さらりと調べてみると絆、幸多かれ、信頼、熱望、健やか、などの意味が出てきた。無難かつ、当たり前に嬉しい文言が並んでいる。確かにこれはおれに向けた花束だったのかもしれんな、と顔を近づけその香りを嗅ぎながら心地よい優越が身の内を満たすのを感じる。明日になればエヴァがきちんと面倒を見てくれるので、自分はとりあえず水に浸けておくだけはしておこう。そうして戸棚から花瓶を持ち帰ってきて水を張り、包装を解きつつミッターマイヤーはその本数を数える。まさか花束の本数に意味があるなんて、4年前までは思いもよらなかった。

「ツヴァイ、フィーア……ツェーン。ドライ、フィル、フュンフ……15本(フュンフツェーン)

一本ずつ活けていったそれの総数を把握して、ミッターマイヤーは開きっぱなしになっている端末に指を滑らせ花言葉の一覧をスクロールしていく。

「ふむ、15……」

見つけた欄に記載されているその言葉に、ミッターマイヤーは怪訝な表情を浮かべた。数え間違えたのではないか、とまた花瓶に手をやったくらいだ。どうやら何度数えてもあいつが持ってきたのは15本のオレンジのバラで間違いないらしい。ミスだろうか。あれも本数までは気にしないのだろうか。せっかく美しい花を贈られたのだから、喜んで終わるべきだ。くだらない意味づけなんかで気を揉むのはらしくないだろう。そう思うのに、ミッターマイヤーはこのとき覚えた漠然とした恐怖を拭い去ることができなかった。

──"ごめんなさい"。

何故だか気のせいだと一蹴できない説得力が、あの友人の背中にはあった気がした。

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