キルヒアイス推しの女オタクが作中に転生したので推しの幸せを守るために奔走したいと思います 作:響谷
キルヒアイスは静かに激怒しながらサビーネの背後に控えている侍女を自室に呼び込んだ。サビーネと唯一共に亡命させた世話係の彼女がついていながら、なぜこんなことになったのか。あなたはなぜ守るべき主君を守らず、正しく導くべき子どもを政治的な思惑を抱く薄汚い大人たちの好きにさせてしまったのかと、開口一番叱責の色も露わにキルヒアイスは声を低くした。
「フロイライン・エルンスト。私はあなたを信用していました。もちろん、あなたひとりでは立ち向かえない強大な敵というものは宇宙にいくらでもあるでしょう。だから弁明を聞きたい。あなたは彼女を守ろうとして、努力したのだと」
普段なら婦人と部屋でふたりきりになるような軽率な真似はしないし、こんな厳しい態度を取ることだってあり得ない。しかしキルヒアイスは彼女たち──運命を定められた令嬢にどこまでも尽くし着いて行く侍女という存在に、無意識のまま己を重ねていた。好意と微笑ましさと、戦友に向けるような信頼を視界の端に映る彼女らに抱いていたのだ。
「……あなたなら主人を守れましたか。閣下」
険しい表情を浮かべるキルヒアイスを見つめ返して、彼女はぽつんとそう呟いた。三十手前の若い女性だ。主君からルイーゼと呼ばれるその人は、もはや元帥であるキルヒアイスを前にして萎縮ひとつしていなかった。
「お嬢様は一夜にして自らを自ら足らしめるものをすべて失われました。ご父母が亡くなったこと、エリザベート様が即位されたこと、すべて宇宙船の中でお聞きになりました。敵だとみなされたからこんな仕打ちを受けているのだと、お嬢様の衰弱はひどいものでございました……何がいけなかったのだろう。どうすればばらばらにならずに済んだのだろう。わたしは生きてるだけで邪魔なのかしら。そうやって日に日にあの方は壊れていきました。命だけを救われて、あとは好きに生きろと言われたって、お嬢様はまだ幼すぎます」
声を荒げることはしなかったが、彼女もまた怒っていた。正しいとか、間違っているとか、そういう次元でなく主人を苦しめる世界そのものに憤っている。ルイーゼの、心臓から流れ出る血のような告白にキルヒアイスは息を呑んだ。彼女の気持ちが、わかってしまうからだった。
「生まれを忘れ、別の人間として生きろ、などと。少なくともお嬢様にはできなかった。皇帝の孫娘、侯爵家の一人娘、そのアイデンティティを失ったお嬢様は空っぽになってしまわれました。あの方は本来、ごく平凡な15歳の少女なのです。依って立つものが突如なくなって、支えを失ってしまったあの方に私はそれでいい、自由に生きよう、と言い聞かせなければならなかった……なので、やはり私は無能者なのでしょう。結局は"彼ら"以上にお嬢様の中身を埋めることは出来なかったのですから」
キルヒアイスには、もう彼女を責めることはできなかった。例えば、アンネローゼ様を失って虚無に呑まれたラインハルト様が目の前にいたらどうだろう。どう声をかけても光を宿してくれない瞳に際限のない恐怖が募って、この方の中身を埋めてくれるならなんでもいいと悪魔の手だって取ってしまうのではないか。真空の中で脳が押し潰されるような感覚に襲われて、キルヒアイスの息は浅くなった。
「……閣下には、お嬢様の命を救っていただきました。その点について感謝はしておりますが、やはりエリザベート様の側にのみ正当な権利と正義があったとは思えません。一介の亡命者として人生を終えるかどうかの判断は、お嬢様ご自身がされるものであると、そこはご理解いただけますでしょう」
この半年、誰にも言えなかったのであろう怒りと怨みと悲しみを、ルイーゼはすべてキルヒアイスに叩きつけた。そうだった。自分は救うばかりで、そして満足してしまっていた。何もかも自分のための行為だったのだ。そう自分の若さと浅さを自覚して、キルヒアイスは自身の胸を右手で押さえた。
「フロイライン・エルンスト。あなたの忠誠を疑うような言葉を口にしたこと、どうかお許しください。私は傲慢で、そして怠惰な人間でした。しかし……」
自身を責めるように目もとを歪めて俯いていたキルヒアイスが顔を上げて、どこか縋るようにルイーゼを見つめる。口に出すのも恐ろしいという様子で、キルヒアイスは彼女に問いかけた。
「皇帝を、名乗るということは……あの方を、ローエングラム侯を敵に回すということ。お分かりでしょう……そんな戦いの運命にその身を投じる主君を、あなたはやはりお止めにならないのですか」
必死に引き留めようとしているキルヒアイスの態度を、ルイーゼはほんの少し微笑んで素直に受け取った。キルヒアイスがどうしようもない善人であることは、彼女にも伝わっているらしかった。
「もう、生きる目的を失ったようなあの方は見たくありません。お嬢様が何をして、どこに行こうと、私は最後までお側におります」
キルヒアイスの視線の先で、ルイーゼは覚悟の決まってしまった人間の顔をしていた。もう彼女に手が届くことはないと身体の芯で理解しながら、キルヒアイスはその名を呼んでしまう。
「フロイライン・エルンスト」
部屋の外から、ルイーゼ、と呼ぶ声が聞こえる。彼女はキルヒアイスに会釈して、そして背後の扉を開けた。ルイーゼの記憶の中にいる、衰弱しきった少女とは別人のようにいきいきとした小型の貴婦人がもう、とその頰を膨らませていた。
「なんでわたしを仲間はずれにするのよ。ルイーゼったら意地悪だわ」
「申し訳ございません、
ふん、と拗ねた演技をして甘やかしてもらおうとしているサビーネにルイーゼは静かに微笑んだ。どうしたら彼女たちを救えるのか。キルヒアイスはブラックホールを目の前にしたかのような重圧をその身に感じながら、どうにか口で息を吸い込んだ。
「キルヒアイス提督。通信室へ。"彼ら"からお話があるそうです」
主君を誘導してその場を後にする間際、ルイーゼはキルヒアイスにそう囁いた。もう既に悪夢のようだが状況とは際限なく悪くなるものだ。悪い予感しかしないが、直接話す機会をわざわざ設けてもらっているならこれを逃す手はない。気を揉みながら待機していた副官たちに自室での待機を命じ、ラウンジを素通りして注文通り宿泊客専用の長距離通信室に赴いてやる。薄暗い室内に入ると同時に既に繋がっているらしき画面を睨みつけて、キルヒアイスは悪魔の姿を視認した。
「"積み荷"に手を加えるなど、フェザーン商人らしからぬ背反行為ですね。まさか、お渡しした額に不足でもありましたか」
〔まさか〕
敵意に満ちたキルヒアイスの表情と声音に、それは肩を竦めて口端を上げるだけだった。超長距離通信特有の粗い画質と音質の悪さ。少なくともこの相手は星系5つ分は離れたどこかにいるようだ。故にその顔や声を正確に把握できているかは不明だが、画面越しにでも印象は感じ取れた。若く、野心に溢れ、自信に満ちた人間特有の気配がする。事務仕事の途中だったのかいくつかのウィンドウを閉じる仕草をして、彼はかちゃりと眼鏡をかけ直した。
〔はじめまして、キルヒアイス提督。私はフェザーン自治領主付き主席補佐官。ルパート・ケッセルリンクと申します〕
「自治領主」
既に鋭かった視線をさらに鋭くして、キルヒアイスはその単語を繰り返した。その名にはある種の絶望がある。宇宙の真の支配者は誰なのか。諸々答えはあるだろうが、ルビンスキーの名が挙がっても真っ向からその主張を否定できる人間はそう多くはないだろう。
〔我々フェザーンから提督に、ひとつしてもらいたいことがあるのです。既に察していらっしゃるかもしれませんが〕
「お断りします。あなた方は私の野心を煽って火をつけたいのでしょうが、そのようなもの存在しはしません。フロイライン・リッテンハイムは私が保護し、帝国領に連れて帰ります。陛下に直接お会いいただき誤解が解けるよう尽くしますし、その関係が修復されるまで私が両者をお守りいたします」
〔ふふ〕
冷徹な声音で言い放つキルヒアイスを小馬鹿にするように、ケッセルリンクと名乗ったそれは肩を震わせた。その無礼な態度に眉を顰めて唇を引き結んでいると、ケッセルリンクはふとどこか他の方角へと視線を移した。
〔皇帝がまだ生きていると、本気でそう信じていらっしゃるのですか?〕
椅子に腰掛けたまま、彼はそのこめかみに指をやった。そんなことすら、忘れてしまったのかとでも言うように。
〔あなたが見捨てたんだ。邪魔になったから? 役目に飽きたから? 覇者には子どもっぽい正義感など相応しくないと、ようやく気付いたからですか?〕
最後に皇帝に見えた曇天の景色が目の前に蘇って、キルヒアイスは愕然とした。そうだ。自分は、彼女の両親の殺害を黙認した後ろめたさに耐え切れず、彼女自身が望むからと言い訳をして、最終的にこの手を離してしまったのだ。こんな状況でオーベルシュタイン上級大将が大人しくしているはずがない。もう皇帝は暗殺されたと考えるのが妥当かつ当然の思考回路だ。なのに自分は彼女がまだ生きていると信じていたし、サビーネを救うために協力してくれるはずだとそう口にしたのだ。
〔私個人の感想ですが、あなたのような方はあまり好きではありませんね。あなたに限らず帝国も、同盟も、自身が悪を為したという認識を正しく持つことができない。損益の前には善悪など、些細な色分けに過ぎないというのに〕
やれやれ、と呆れたように首を振って、ケッセルリンクは顎をしゃくり画面の外の何者かに指示を送った。画面のズームが解除されたのか、通信画面にパッと部屋全体が映し出される。ケッセルリンクの腰掛ける椅子は画面右手に小さくなって移動した。彼は何かと、向かい合っているようだ。画面の左側に誰かが着席し、その横に男が立っている。いったいなんなのかと、粗い画像の向こうを注視したその瞬間、キルヒアイスの心臓は止まった。春に降り注ぐ柔らかい陽射しのような金髪に、異様なまでの整った面立ち。自分はこの宇宙にふたりしか、かような美貌を持つ存在を知らない。
「アン、ネ、ローゼ……様……?」
幽霊でも見たかのようにその名を口にしたキルヒアイスの声が画面の向こうに届いて、美しい人はやがて直視に耐えないほど悲痛に歪んだ顔を上げた。
〔ジーク〕
それは宇宙にたったふたつしか存在しないジークフリード・キルヒアイスの急所で、弱点。ミューゼル姉弟の片割れ、その人だった。