キルヒアイス推しの女オタクが作中に転生したので推しの幸せを守るために奔走したいと思います   作:響谷

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「なんなのですか、これは」

帝国暦487年11月24日、夜。キルヒアイス上級大将は元帥府のとある一室にて珍しく声を荒げていた。直属の部下に命じて独自に調査させたとある事件に関する報告書が、沈黙を守ったままでいる総参謀長の目の前で舞い散ちり滑稽なほど当たり前に漆塗りの床へと落ちていく。

「あなたは約束したではないですか。国璽も軍権も手にするかわりに、彼女の従兄弟たちを同盟に亡命させると」

その髪と同じように燃えるような憤りを宿す瞳をふと一瞥して、オーベルシュタインは手元の書類に視線を戻した。

「いたしました。わざわざ拒否していらぬ諍いを起こす利はなかったので」

5日前、新無憂宮の内部で離宮の一つが燃え落ちた。いくらオーベルシュタインが怜悧冷徹を謳われる氷の策略家だからといって、端から疑ってかかってはよくないとキルヒアイスは考えたのだ。だって同じ主君の下に集った同僚だ。同じ目的のために支え合い、助け合う仲間でなくてはならない。そう、良心に咎めて手をこまねいてしまった自分が甘かった。

「エルウィン・ヨーゼフは実は救い出されていた、という物語こそ擬態。あの日、離宮から連れ出された子どもはいなかった。侍従6名、武官4名、そして男児が1名。存在した死体を無いと報告させ、在ったと改ざんする処理を挟んでわざと不審点を残しただけだ、貴官がしたことは」

僅かにその目を伏せて、オーベルシュタインは小さく息を吐いた。絶望的なことに、そこにはなんの感情も見出せなかった。

「おっしゃる通りです」

否定もしないし、言い訳すら続かなかった。オーベルシュタインが現在サインを記している書類を逆さから読み取って、キルヒアイスは目眩に襲われた。補給物資の手配書に目を通すかのような顔色で眺めているそれは、離宮に火を放つ直前男児を含めた11名を直接手にかけた下手人の家族を保護すること、その生活に一切の保証を与えることを誓約する文書だった。

「……オーベルシュタイン中将。私にはあなたがわかりません。なぜそのような振る舞いをなされるのです」

怒りから悲しみに、悲しみから憐れみに感情が変転して、キルヒアイスは訴えるようにオーベルシュタインへと語りかけた。義眼の参謀長は、音もなくその手を止めて15も年下の上官の言葉を聞いていた。

「たった5歳の男の子を逃したところでそれが何になりましょう。身内を案ずる女の子との約束に応えて何が差し障るというのです。我々は、我々の主は、それほどまでに卑しい道を往かねばならぬのですか」

当然反語を含んだ台詞だった。そんなことはないと、返してほしかった。それなのにオーベルシュタインは顔を上げキルヒアイスの目を一瞥すると、迷いなくその唇を肯定のために震わせたのだ。

「無論」

言葉を失い顔を顰めるキルヒアイスを無視して、彼は次の書類を手元に引き寄せた。

「危険の芽は摘んでおくべきです。何になるか、と問われましたな。何にでも利用できるでしょう、ゴールデンバウム王家の血筋であるというだけで」

どんな冷酷な命令書に目を通しているのかもはや想像したくもなかった。キルヒアイスは目の前の人物に対する鬱憤を振り払うように首を振って、自らを落ち着けるための息を重く吐き出し再びオーベルシュタインの顔を直視した。

「あなたがルドルフ大帝の血筋を憎んでいるのは、私も承知しているつもりです。貴官に出来ないというのなら、私が請け負いましょう。リッテンハイム一族の脱出作戦は明日の夜でしたね」

ようやく何か、その琴線に触れることが叶ったのかオーベルシュタインは短い息を漏らしペンを手元に置いた。顔を上げて手を組んだ参謀長が、じっと温度のない義眼でキルヒアイスを見据える。

「……提督がどう解釈されるかはご自由ですが、小官は私念で殺人を指示したりはしません。明日、リッテンハイム侯とその家族の搭乗する船が熱核融合炉の暴走で爆発する予定ですが提督は如何なさるおつもりですか」

隠しもせず諦めたようなため息を吐いて、キルヒアイスは相手の瞳を直視した。

「サビーネ・フォン・リッテンハイムを亡命させます。一方の約束を守ることはできませんでしたが、今ならもう片方を救うことができる」

オーベルシュタインは僅かにその鼻に皺を寄せ、かたりと椅子を引きその場に立ち上がった。後ろ手に腕を組み、彼は背後の窓を振り返る。その表情を見られたくなかったのかもしれないが、夜をそこに押し止める窓は鏡のように我らの顔を映していた。

「キルヒアイス提督。人を生かすにしろ殺すにしろ、その選択をした側には責任が生じます。貴官にはその責任を取る覚悟がお有りなのか」

声だけ聞けば、無感動そのものだった。しかし窓に映ったその表情は、呆れと、それから迷いを内包していた気がする。

「……少なくとも殺した責任より、生かした責任の方を取りたいと私は考えます」

今度こそその目もとを歪めるのが見えた気がするが、やはりオーベルシュタインは静かな声音で物分かりの悪い上官に諦めを示した。

「そこまで仰るなら仕方ありますまい。今のお言葉をお忘れなきよう」

その視線を伏せて、オーベルシュタインは鼻の中だけでため息を吐いていた。

「それで、ローエングラム伯にはこのことをどう報告なさるおつもりですか」

半歩振り返り改めてキルヒアイスに視線を合わせたオーベルシュタインがそう問うてくる。赤毛の上級大将は数秒の逡巡を挟んでから、微かに目を伏せてその首を振った。

「報告するまでもありますまい。あの方は既に、この件についてご興味を失っておいででしょうから」

「同感ですな。伯には旧王朝への責任感など持っていただく必要はない」

ラインハルトを駒としか考えていないその言いようはいちいち鼻につくが、結論が同じならわざわざ言い争う必要もあるまい。何かを凄まじく消耗した気がしてはぁ、と息を吐き、キルヒアイスはもう用はないと言わんばかりに踵を返そうとした。

「キルヒアイス提督」

背後から呼び止められて、キルヒアイスはその場に立ち止まり何か、と冷たい視線を総参謀長に返した。

「貴官の待遇について、ローエングラム伯を諌める気はないのですか」

「……」

耳に痛い諌言を受けた主君とは、このような心地なのだろうか。あるいはもっともなことを説教してくる親に対し反発を覚える子どもの心情か。お前に何がわかると怒鳴りつけたい衝動を抑えて、キルヒアイスは微かな嘲笑を口もとに浮かべた。

「私は伯の半身です。キルヒアイスは私自身も同様だというあの方の言葉を貴官も聞いたはず」

青臭い優越を示すキルヒアイスに、オーベルシュタインは僅かに頭を振っていいえ、と反駁した。

「残念ながら、生物学上も法制上も貴官とローエングラム伯は同一の存在とは見做されません。別の存在である以上、世間はあなたに別個の人格を見出し悪意をもってそれを利用せんとする。お若い貴官には、未だ自制心がじゅうぶんに備わっているとは言い難い」

「自制心? 私はローエングラム伯以外のものに価値を置いておりません。権力に目が眩むことも、あの方に嫉妬することも、この宇宙が滅亡するまであり得ない。……わからない。オーベルシュタイン中将、あなたが何を気にかけているのか」

神経をこれでもかと逆撫でされて、キルヒアイスの脊髄は爪を立てられた鉄のように震えた。本気で怒りかけた自分自身に気がついて頭を振りながら、彼はどうにか熱を逃そうとため息を漏らす。

オーベルシュタインは何かを諭す親のような態度をスッと引っ込め、淡々と確認作業を済ますようにその喉を震わせた。

「キルヒアイス提督。貴官は貴官である限りNo.2の椅子をお捨てにならないのですな」

そういうことになりますね、と半ば自棄になった返答を投げつけキルヒアイスは総参謀長の執務室を出た。もうリッテンハイムの娘を救うのに残された時間は24時間を切っている。やらなければならないことは山積みで、寝ている暇も余計なことに感情を割いている暇もない。そう己を理性で律しようと努めながらもやはり心臓は毛羽立っている。我々の魂の在り方について、なぜ他人にとやかく言われなければならないのか。私が私であることについて、なぜ口を挟まれなければいけないのか。

 

***

 

──そう、肩を怒らせながら元帥府の夜気を切った日のことを覚えている。

「なぜ私なのですか」

キルヒアイスを屈させるためのアンネローゼへの暴行はたった一回で事足りた。銃把でそのこめかみを殴られた彼女の苦鳴を掻き消すほどの声で、キルヒアイスはやめろと絶叫していた。

「なぜ、私などを標的にするのですか」

おそらく、アンネローゼが受けた痛みを数万倍に増幅させたそれが彼の全身を襲った。通信画面の前に膝を突き、キルヒアイスは自らの胸を鷲掴んで呼吸もままならぬままそう問うていた。どうして、どうして。自分はただ、宇宙でたったふたつのものを守りたいと願っただけなのに。どうして誰も彼も、そんな些細な願いを持つことすら許してくれないのだろう。

〔なぜ?〕

どうしてそんなわかりきったことを訊いてくるのだろう、という嘲りを隠しもせずにケッセルリンクは肩を竦めた。

〔それは、あなたがローエングラム陣営のNo.2だからでしょう〕

──No.2。あの方の片割れであること。私が、私であろうとする限り譲れないもの。手放せないもの。ああそうか。これが宇宙に満ちる悪意というものなのか。私は、私であるだけで、もっとも崇拝し敬愛する方々を危険に晒してしまうらしい。私が私として存在しようとするのなら、無条件であの光輝と祝福に満ちたおふたりを損なってしまう。

私は、私であってはいけないのだ。ようやく、理解った。キルヒアイスの中で、何かがひび割れる音がした。

「……何をすれば、アンネローゼ様の安全を確約するのか」

〔いけませんジーク!〕

画面越しに、キルヒアイスの気配の変化を感じ取ったアンネローゼが悲痛な叫び声を上げた。陶磁のこめかみから血を流し、金の髪を振り乱してなお女神のような方だった。

〔あなたにならわかるはずです。わたし一人の命と全宇宙380億人の平穏、天秤にかけるまでもない!〕

絶叫する彼女の後頭部にまたブラスターが振り下ろされる。キルヒアイスは顔面も蒼白になって、理性も良識も吹っ飛んでしまっていた。

「やめろ!! やめてくれ、もう必要ない!!」

交渉相手の心臓を振り絞るような叫びを聞いたケッセルリンクは片手を上げてアンネローゼに銃口を突きつけている男の行動を諌めた。不本意ながら、粗い画面の向こうにいる女性の視線や言動によってそれが偽物である可能性をキルヒアイスは本能的に排除できてしまった。電子的にあの方の皮を被っただけの偽物であるなら、助けてジークと言うはずだ。アンネローゼ様は優しいから、自分を見捨てろとそう諭してくる。

後ろめたくて、挨拶もできずにこんなところまで来てしまった。己の意思によるものでない再会を果たしたことは不幸だが、それでもアンネローゼ様がいつもと変わらず優しくて美しくて、自分を信じてくれていることがわかって、キルヒアイスはいつの間にか泣きながら微笑んでスクリーンに手を伸ばした。

「世界を滅ぼしても、私はあなたを選びます」

愕然として絶望に顔を歪める彼女の表情すら愛しくて、キルヒアイスはその目を眇めた。ラインハルト様が民衆200万人に対する核攻撃を容認したとしたら。皇帝──エリザベートの問いが意識の表層に浮かんだ。あのとき自分はなんと答えたのだったか。その問いの本質は未だにわからないが、200万人どころか全宇宙が天秤に載ったとしてもう片方にミューゼル姉弟がかけられているのなら自分はそちらを取る。これを悪魔と言わずになんと言うのか。すとんと、腹の中に己の正体に対する認識が落ちてきてキルヒアイスは諦めたように口端を歪めた。あの方たちの障害になるものはすべて斬って捨てて撃ち落としてきたではないか。規模が多少大きくなっただけで、自分はこれまでとまったく変わらない行動原理で動くのだ。自制心が足りないとオーベルシュタインは言った。そういう意味だったのかと、彼はもはや笑うしかなかった。

〔キルヒアイス提督には皇帝サビーネを頂く銀河帝国正統政府において宇宙艦隊総司令官の座についていただきます。ローエングラム侯ラインハルトと、この宇宙における覇を争っていただく〕

「間違ってもいないが、正確性に欠ける言い回しが好きだな。覇を争うのは何もふたつの勢力とは限らず、その中でも抜き出るのはローエングラム侯とヤン・ウェンリー提督の勢力であるはずだ」

キルヒアイスの視線や、声、言葉。相対する人間が彼の印象を汲み取るすべての要素から、人らしい丸みが消え去った。アンネローゼが己の口もとを覆い息を呑んだことが、画面越しにも伝わってきた。

〔……そう。帝国と同盟に和平を結ばれては困るのですよ。しかしはあなたにも悪い話ではありませんでしょう? いつまで経っても姉離れできない幼馴染に、そろそろ嫌気がさしていたのではありませんか?〕

故意に見せつけるような仕草でケッセルリンクは手元にいくつもの画面を表した。アンネローゼがわずかに顔を背ける気配が伝わってくる。脅迫者の操作で映し出されたそれらの写真へと、キルヒアイスは侮蔑の視線を注いだ。

〔麗しいものだ。おふたりが憎からず想い合っておられるのは2、3日のうちに周知の事実となるでしょう。これらの映像記録を全宇宙に流しましたので〕

特別なことは何もない。ただティーカップ越しに笑い合い、その手を取ってエスコートし、不審者からお守りしてブラスターを抜いたときの、我々にとって貴重な日常の一瞬に過ぎないものをどこからか隠し撮りしたというだけの写真が何枚も宙に浮かんでいる。ほとんどの場合その場にはラインハルト様がいたのに、その存在は切り取られていた。ありふれた、なんの後ろめたいこともない写真であるのに、そこに映る男女の表情は非常に雄弁に互いの想いを語っている。

〔特に同盟市民は歓迎してくれるでしょうな。圧政者の権力から逃れ個人の愛を求めた物語など、彼らのもっとも好むところでしょうから〕

キルヒアイスがアンネローゼへの暴行で屈しなかったとしても、既に退路は潰しているというわけだ。アンネローゼはこうして実際にオーディンから連れ去られているわけで、傍目にはキルヒアイスと駆け落ちしたように見せることもできる。ラインハルトの耳に届くまでにどれほどこの下世話な勘繰りが歪曲しているかわかったものではない。フェザーンの書いたシナリオは全宇宙に観客を得て、動き出すだろう。

自分たちだけの繊細な関係を、他者の口から低俗な概念へと置き換えられる不快感に耐えられない。怒りという感情の臨界点において、生まれ持った感受性が漂白されかけているのをキルヒアイスは自覚していた。

「それで? アンネローゼ様にこのようなことをしておいてあなた方は報復が怖くないのか」

彼らのシナリオの中で自分は愛に狂った裏切りの騎士だ。殺意にそのまま形を与えたようなセリフを口に登らせつつキルヒアイスは冷淡に首を傾げた。おお怖い、とでも言うように肩を竦めたケッセルリンクがその眼鏡を押し上げながら自信を持って顔を上げる。

〔あなたがこちらの利益にそぐわないことをした場合は、彼女の命の保証はしかねます。同盟政府は我らの傀儡、何事も隠し立ては利きませんぞ〕

そのわかりきった返答にふん、と鼻を鳴らしてキルヒアイスはひとまずの了承を示してみせた。

「あまり期待はせぬように。それからグリューネワルト伯爵夫人には傷ひとつ残さぬよう、丁重に手当てして差し上げてくれ」

〔無論です〕

画面越しにもう一度だけ彼女に視線をやって、そして暗く落ちたスクリーンを見届けてからキルヒアイスは通信室を出た。惑星カプチェランカで初陣を迎えたときのような心地だ。暖かい光で満たされたホテルの廊下で、キルヒアイスはその暗く濁った蒼玉の瞳を瞼の下から覗かせていた。

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