キルヒアイス推しの女オタクが作中に転生したので推しの幸せを守るために奔走したいと思います 作:響谷
主に警備上の理由からサビーネが生放送に出演することはあり得ない。いま現在同盟全土で流されているそれは事前に録画されたものだ。ホテルの部屋の中でその放送を眺めながら、サビーネはよくできたでしょう? とルイーゼに笑いかけていた。
「はい、陛下。さすがでございます」
「ふふん。もっと褒めてもいいのよ」
半ば照れながら甘えてくる主人に微笑みを返して、ルイーゼは彼女のストールをブラッシングする。侯爵家の令嬢として、それ以前に皇帝の孫娘として、サビーネは帝王学を授けられている。彼女の教育を管轄した父親の野心あってこそのものではあるが、サビーネの演説や仕草は皇帝として文句のつけようがなかった。無論同じく野心を抱いていたブラウンシュバイク公も娘に皇帝としての教育を施しており、エリザベートにもサビーネと同程度かそれ以上の技術が備わっているのだが。
「未だ15になられたばかりの御身で、社交界に出てもおりませんのに初舞台でこれほどの振る舞いがお出来になるとは、先帝陛下でも驚嘆なさいますでしょう」
求められるままに賞賛を贈りつつ、ルイーゼはやはり安堵していた。少女の努力の成果がこうして発揮されるという一点においても、この選択は間違っていなかった。歴史の潮流の中で塵芥のように揉み消されてしまいかねない小さな命だが、それでもお嬢様には輝ける素質がある。ならば一時でも、できるならなるべく長く、輝いてから散るべきであった。
「もう、ルイーゼったら……」
祖父を引き合いに出されて本気で照れてしまったらしく、サビーネは気恥ずかしげに自らの髪に手をやった。一時的に皇帝の居室としてあてがわれている一等客室のインターホンが鳴ったのは、そのときだった。
「どなた?」
「陛下。キルヒアイス提督がお見えになられたようです」
ブラシをドレッサーの上に置いて、ルイーゼは来客を出迎えに行く。"彼ら"──フェザーンがどのように話をつけたのかはわからないが、キルヒアイス提督は親切な方だからしばらくはお嬢様を見捨てるようなことはなさらないだろう。エリザベート様との間を仲裁なさるという意思をお捨てにならないにしても、すべてはお嬢様次第で自分などの考えを挟む余地はない。一度は危険を犯してお嬢様を救ってくださった方だ、との信頼がルイーゼに扉を開けさせた。
「フロイライン・エルンスト。陛下は御所在であられますか」
「はい」
礼儀正しい微笑みを浮かべてそこに佇む赤毛の青年はどうやらお嬢様に用があるようだ。彼女の身繕いは完璧に整えてある。お嬢様はキルヒアイス提督に好意を抱いているようだし、部屋にお連れしても構わないだろう。
「居室をお訪ねするなど無礼とは思いましたが、火急の事態ゆえ……どうかご容赦ください」
然るべき謝罪を口にする客人を許して、ルイーゼはキルヒアイスをサビーネのもとまで案内して差し上げた。思った通りその顔いっぱいに喜色を浮かべた主人が、お行儀悪く立ち上がって赤毛の青年提督を出迎える。
「提督! お話は済んだ?」
今もスクリーンの中から演説を続けている威容溢れる女帝の面影はどこにもない。憧れの人に向ける潤んだ瞳と愛らしい表情は、どこにでもいる無垢な少女のものだ。キルヒアイスは微かに苦笑して、ええ、と答えてみせた。
「正統政府における宇宙艦隊司令長官と、軍務尚書を兼任するように仰せつかりました」
その穏やかな態度からさしたる破綻もなく話がまとまったのだと理解したサビーネは、そう、と花が綻ぶように笑ってその胸に手をあてた。
「それでもやはり、サビーネ様がエリザベート様を誤解したままであられるのは、私には耐えられません。きっと顔を合わせてお話になれば、互いの気持ちも明らかになるはずです」
余人であれば無礼な発言として咎めるところであったが、キルヒアイスは優しいから仕方がないのかしら、とサビーネは僅かにその表情を曇らせる程度で彼のお節介を受け流そうとした。
「……そうかしら」
「ええ。あの方はその身を呈してでもあなた方を守ろうとされた。ですからエリザベート様とお会いになって、いつかのように……おふたりで笑い合っていただきたいのです」
ハンカチでも取り出すかのように構えられたそれに、サビーネは首を傾げた。部屋の隅でそれを見ていたルイーゼですら一瞬反応が遅れて、ついに主人を救うことは叶わなかった。
「お嬢様!!」
侍女が叫ぶのと同時に、サビーネの身体はブラスターに撃ち抜かれた反動で背後へと倒れた。眉間から後頭部へと貫かれた射線は脳漿と血液を纏って瞬きより短い間、その軌跡の残滓を空中に現した。
「お嬢様っ……! お嬢様……!」
這うようにして主人の遺体に近付き、ルイーゼは必死にその体液を掻き集めている。さらさらと、無情にもそれらは彼女の指を汚しては零れ落ちていく。お嬢様、お嬢様、と何度となく呼びながらルイーゼは少女の死を受け入れるための行程を繰り返す。ブラスターを持った右手を下ろして、キルヒアイスはやはりミューゼル姉弟のことを考えていた。武器も持たない15の少女を殺して、自分はもうあの方たちの寵愛に値する存在ではあり得ないのだな。まぁ、愛されるのは心地よかったけれど、それよりずっと重要なのはあの方たちに幸せになってもらうことだ。この身がどうなろうと、本質的に自分が嘆くことはないだろう。
「きさま……貴様、よくもお嬢様をッ」
どれほどその死体に縋って泣いていたのか。ようやくその死を受け入れたのか、暗くなった灰緑色の瞳を震える指で閉じた侍女が泣き濡れた顔を上げ、当たり前に憎悪を向けてくる。どこか他人事のままそれを受け止めて、古風にもスカートの下に仕込んでいた護身用のナイフを抜き出すのを眺めやる。来るなら来ればいい。自分でも、きっとそうしただろう。
「何故だ! なぜっ……一度はお嬢様を助けておきながら……ッ、」
ナイフを構え向かってくる女性の肩と腿を撃ち抜き、その場に崩れ落ちるのを見つめる。苦しませるのも気の毒なので、キルヒアイスはわざわざ膝を折り、彼女の胸に銃口を押し当てた。
「あ、あ……サビーネ、さま──」
死を理解したルイーゼが、恐怖と、寂しさと、愛しさの狭間で最愛の人の名を呼んだ。手を伸ばして血の海に倒れた彼女の、見開かれたままの瞳を、やはりキルヒアイスは放置することはできずにそっと閉じることにした。
「……責任を、取らなければなりませんから」
誰に聞こえることもない呟きは、死者に対してだからこそ漏らされたものだったのかもしれない。返り血に汚れた軍服を脱いで腕にかけ、キルヒアイスは着替えを求めて皇帝の居室だった部屋を出た。
「同盟内の通信波を傍受! 同盟全土に向けて発信されている放送のようです!」
イゼルローン回廊の帝国側出口付近で待機するトリスタンの艦内にて、ロイエンタールはそれを聞いた。最高評議委員会議長とか称するヨブ・トリューニヒトなる男の演説と、サビーネ・フォン・リッテンハイムが宣言するゴールデンバウム王朝正統政府の樹立。キルヒアイスはグリューネワルト伯爵夫人と共に同盟に亡命し、正統政府の宇宙艦隊司令長官たる地位に就くそうだ。どこまで事実かはさておいて、とりあえずこの放送に出てきているふたりの人物は本気でそう宣っているようだ。ジョークにしては出来が悪く、与太話にしては現実味がない。この宇宙は意外にも自分より頭のおかしなやつがいるものだ。司令官席にてしばらく笑いが止まらなくて、副官のレッケンドルフに心配されたほどである。
「気の毒なのはキルヒアイスだ……ローエングラム侯の敵手足るにしても、片棒を担ぐのが同盟の腐敗した政治屋どもでは役者不足も甚だしかろう」
正直なところを言うと、キルヒアイスが嵌められたのか、自らの意思でその道を選んだのか、ロイエンタールには判断がつかなかった。彼は自分とは違う純粋な人間に見えたが、だとしてもオーベルシュタインの警戒心や……もしくはおれの対抗心に対して身の危険を感じこれまでとは違う道を選ばざるを得なかったかもしれない。差し迫って選択を余儀なくされる、ということならばこのような事象が巻き起こっても納得できてしまうし、それに今回の件にはグリューネワルト伯爵夫人というロイエンタールには理解の及ばない因数が絡んでいるようだ。自分にはキルヒアイスを論じたり、断じたりする資格はないのだろうよ、と早々に諦めて、ロイエンタールは素直に目の前にぶら下がっている果実へと食いつくことを決めた。
「全艦に回線を開け」
司令官席から立ち上がり、彼は通信士に命じる。このときのロイエンタールは黒い漆のようにその身から滲み出る艶美を広げ、まさに堕天使の如く生まれ持ったそれを羽ばたかせているように見えたと言う。
「我が艦隊はこれよりイゼルローン要塞を攻略・占拠する。同盟の魔術師はかの要塞に無く、その艦隊もほとんどが出払っている。堅守堅牢を謳われたイゼルローンであっても我が艦隊の前には熟れた果実も同じ」
この時点で同盟側の宣戦布告を耳にしていた兵士は旗艦トリスタンの司令官室にいるわずか20名ほどで、さらにロイエンタールの真の思惑を看破する者などは皆無であったのだが、全将兵は彼の檄に奮い立った。金銀妖瞳の提督の弁を聞いているうちに、この状況でイゼルローンを奪らないなんてとんでもない愚か者のすることだという気になってきたのである。確かにこれは、千載一遇の好機なのではないか。莫大な予算と人命とを注ぎ込んで建設し、数十年にわたって守り続け、にも関わらずペテン師によって奪われた帝国の財産をここで取り戻さないのはひどい背信行為なのではないか。理論もへったくれもなく、一兵卒に至るまでことごとくがそう感じた。
「疑うな。畏れるな。此度の出征は卿らとともにイゼルローンで祝杯を上げるためにあったと心せよ」
宇宙を震わせるような歓声の中でロイエンタールは着席し、副官に指示を加えた。
「メルカッツ提督に援護を頼む、と伝文を出せ。それですべて伝わる」
航路の先に待つイゼルローン回廊の隘路を見つめながら、ロイエンタールはこれこそ天啓だと性悪な戦の神に卑屈な笑みで応えていた。最終的にどれほどの暗闇に堕ちることになろうとも、歴史にこの名を刻むことは出来そうだと、そう胸の中で独り言ちながら。