キルヒアイス推しの女オタクが作中に転生したので推しの幸せを守るために奔走したいと思います 作:響谷
イゼルローン要塞は1日で陥落した。正確には艦隊の前衛がトゥール・ハンマーの射程圏内に入った瞬間に全面降伏の申し入れがあった。麾下の提督たちは我々を油断させる罠ではないかとも疑っていたが、ロイエンタールは指揮官として最低限の警戒を保ちつつも本能的にその申し入れを信じていた。
「いかに強大なハードウェアを保持しているとはいえ、それのみに頼って我が艦隊に挑むような愚か者をヤン・ウェンリーが重用しているとも思えんな」
その長い人差し指にこめかみを預けて、不敵な笑みを湛えたままロイエンタールはそう言ったと伝わっている。あるいは同盟内の不協和音の結果かの魔術師が望まぬ人材を押し付けられていることも考えられるが、それはそれでその程度の相手ということになる。互いを信用するためのいくつかの手順を経て、段階的に陸戦部隊を上陸させロイエンタールは半日ほどで要塞内の全区画を制圧した。
「よく統治されたものだ。敵国に侵攻されるという恐怖は理性では律しがたい。大規模な暴動が起きてもおかしくないものを」
そうしてトリスタンの艦内に招いた要塞司令官代理を前に、ロイエンタールは首を傾げていた。訝しがるというより面白がっている。用心深い部下が念のため手錠をかけて連れてきたが、その姿を見た途端金銀妖瞳の智将は礼を失すると言ってこれを外させてしまった。
「これから起こるかもしれませんな。なにしろヤン・ウェンリーは必ず我らを救いに来ると大ボラを吹いて皆を納得させましたもので。あれの英雄としての威光がここまで便利なものだとは、小官は出来のいい後輩に感謝しなければなりません」
反省しているようには見えないし、かといって自暴自棄になっている訳でもないらしい。なんならロイエンタールといい勝負になるくらい冷笑が板についている男だった。もっとも彼のそれはロイエンタールのものより、はるかに健康的な印象を与えるのだが。
「一度も砲火を交えることなく降伏するなど武人の風上にも置けぬ、己の命欲しさに要衝を差し出すなどこの恥晒しめが……と、卿を侮蔑して処刑を命ずるかもしれんぞ。助命を請うなら今が機会だ」
部屋の隅に待機しているレッケンドルフは上官の発する冷たい気配に震えている。アレックス・キャゼルヌと名乗るその男にはロイエンタールの威圧が通用しないようで、彼はただ静かに微笑み視線を伏せただけだった。
「小官の命はどうぞ閣下のご随意に。しかしイゼルローンに在留する418万8224人すべてを虐殺するわけにはいきますまい。この要塞にはそれだけの人数の死体を処理する機能はありませんから」
どうもこの男、ジョークを交えなければ会話もままならんらしい。あまりセンスがいいとは言えないが、初めてまともに接する同盟将官の意外なまでの柔軟さにロイエンタールは興味を持ち始めていた。
「ところで卿は我々が上陸する前に、同盟領内の航路図と軍事機密に類するすべての情報をメインコンピュータから消去させたようだな。間違いないか?」
「間違いありません。その判断を行ったのは小官です。もしそれを罪とお認めになるのなら、小官ひとりを咎めるがよろしいと存じます」
はっきりと肯定して、キャゼルヌは臆することなくロイエンタールの金銀妖瞳を見つめた。なるほどヤン・ウェンリーはいい部下を持っている。同盟にこれほどの覚悟と判断力を備えた将ばかりが揃っていたのなら、昨年のアムリッツァ前哨戦での醜態はなかっただろう。ロイエンタールは甘く低く、しかし芯の通った声音でよかろう、とひとつ頷いてみせた。
「418万8224人と言ったな。その数字がはったりではなく事実であったならば、キャゼルヌ少将、卿と卿の家族の生命を保証しよう。要塞司令官ともあろう者がそこまで正確に人口総数を把握しているというのは、帝国ではあまり類を見ないことなのでな」
無条件に助命するのも芸がないし、ほとんど賭けを持ちかけるつもりでそう言ったのだが。数秒、アレックス・キャゼルヌは虚を衝かれたように意外そうな表情を晒していた。やがて帝国人の価値観について独自に納得したのか、彼は眼鏡の向こうの目を細めて控えめな笑みを浮かべた。
「おそれながら閣下、それは我が同盟でも同様です。なにしろ小官は、つい今朝方まで総員の脱出計画を練っていたただの事務屋に過ぎないのですから」
イゼルローン陥落の報が同盟首都ハイネセンにもたらされたのは、翌5月24日のことだった。
「ロイエンタール提督から後詰めの艦隊を派遣するよう要請が来ております」
衝撃的なニュースが全銀河系を駆け抜けてから2日。病的なまでに白い顔をした帝国宰相へ淡々と報告を上げていくのは、能面のような無表情を貫くオーベルシュタイン上級大将である。彼も自らの主君が責務に耐えられる状態ではないことを知っていたが、大きすぎる喪失を癒す術だけはその頭脳をもってしても編み出すことが叶わないのだった。
「同様に、メルカッツ提督からも出撃の許可を求められております。殿下直属の戦力の中では唯一展開済みで、すぐさま行動に移れる我が艦隊が適任であろうと」
ロイエンタールの判断の早さは気になるが、果断速攻も名将の器量のうちであろう。何はともあれ相手に主導権を握らせてはならない。同盟が背反を明らかにしてきた以上、いち早くイゼルローン回廊の支配権を奪いにいったロイエンタールの行動は政略上も戦略上も間違ってはいなかった。
「……殿下。イゼルローン方面の後詰めはメルカッツ提督に任せるとして帝都防衛にはどの艦隊をあてましょうか」
聞いているのかいないのかわからないラインハルトの横顔に、オーベルシュタインは返答を促した。息もしていないのではないかと疑われる彫刻と見紛うばかりの美貌が、自動人形めいて最適解を口にする。
「メックリンガーをあてよ。再び戦端が開かれる以上、オーディンは後方となる」
「かしこまりました」
ラインハルトの声には、一切の感情が載っていなかった。怒りも悲しみも、動揺すらも表出させぬとは。確かに支配者として、完璧な振る舞いであるには違いない。
一礼して、オーベルシュタインは光の届かぬ深海のように静まり返った場を辞す。宰相執務室の外で、彼は今まさに呼び出そうとしていた人物と鉢合わせした。
「フロイライン・マリーンドルフ」
危うくぶつかるところであった。互いに道を譲り合ってしばし居心地の悪い沈黙が流れたが、その女性はやがて愛想笑いを浮かべつつオーベルシュタインを見上げてきた。
「失礼いたしました。オーベルシュタイン総参謀長、殿下のご様子は如何でございますか」
女性どころか同じ男性にも恐れられることの多いオーベルシュタインに対して、しかし彼女は微塵も物怖じする様子がない。男女の距離としてはいささか近すぎるため、一歩背後に引いてからオーベルシュタインは主席秘書官たるヒルダの問いに答えた。
「こちらこそ失礼した。生気を失ったよう……とまでは言いませんが陣頭に立てるか不安ではありますな。立ち直っていただく策も、ないではないが……最後の手段にすべきものだ」
樫の扉を振り返ってそう漏らすオーベルシュタインを才知に煌めく瞳で見つめたまま、ヒルダはええ、と相槌を打った。
「総参謀長のお考えになる手段とは、キルヒアイス元帥とグリューネワルト伯爵夫人を謀略に落とした同盟政府に対する憎悪を煽る種類のものでしょう。それでは将来同盟領を手中に収めたとき、あの方を暴君に変じさせてしまいます」
ミーミルの泉のように深く澄んだ色を湛える彼女の瞳を見返して、オーベルシュタインはただ薄い唇を震わせた。
「フロイラインには他の策がおありと見える。ぜひご教示願いたいものですな」
「策などと、とんでもない。ただあの方の話を聞き、寄り添うという平凡で迂遠な手段こそ今は正道であるように思われます」
謙ってはいるが、ヒルダは明らかにオーベルシュタインに対して一騎討ちを挑んでいた。取り立てて彼女の考えを否定する理由も、現在のところ存在しない。たとえ存在したとしても、それよりラインハルトに立ち直ってもらうことの方が先決だ。オーベルシュタインはわずかに苦笑して、彼女のために道を譲った。今は適材適所で動く他なかろう。自分には主君のメンタルケアよりも、今回の事態を招いた要因の調査の方が向いている。
「それもよろしいでしょう。殿下はあるいは、あなたになら心を開かれるかも知れませぬな」
我ながら、嫌味とも羨望とも取れる言い方をしてしまった。ヒルダは、内心なにを思ったかはわからないが、表情ひとつ変えることなくオーベルシュタインに会釈をして宰相執務室へと入っていった。