キルヒアイス推しの女オタクが作中に転生したので推しの幸せを守るために奔走したいと思います 作:響谷
ボリス・コーネフは棒付きキャンディを舐めながら虚空を見つめていた。定時連絡の途絶えがちな監視係へと報告の催促をして、今は返事待ちの時間である。昨日も一昨日もレムシャイド伯から皇帝陛下の様子に関する報告が上がってきているし、たぶんこの監視係がサボっているだけだと思う。正統政府として今一番警戒すべきは同盟内の反体制派による皇帝暗殺だが、未だ世論は混沌を極めており彼らが具体的な行動に出るまで時間がかかるだろうことが察せられた。散漫とした思考で現在の状況を整理しつつ、口内の飴玉を弄ぶ。なんだってこのおれがハイネセン駐在のフェザーン弁務官付き秘書官なんて不愉快な肩書きを押しつけられて、こんなつまらんデスクワークに取り組んでいるんだ。ボリス・コーネフを地上に押し留めようなんて、ペンギンに空を飛べと言っているようなものだろう。
ゴールデンバウム王朝正統政府なんてろくでもない代物の成立と監視、それが現在における彼の主任務である。どこからどう見ても無能でつまらん年寄りをおだてつつ宇宙の反対側への亡命を手引きして、お飾りの女帝陛下の機嫌を伺いながら同盟国内の主戦派を煽るよう誘導する。やっていることのあまりの生産性のなさに自分が虚無に陥るのも無理はないと思う。実態もなければ意義もなく、利益を得るのは本国の上層部だけときた。いつからおれは他人様の犬に成り下がってしまったのかとこの身が哀れで仕方がない。現在同盟ではそこいら中にキルヒアイス元帥とグリューネワルト伯爵夫人、皇帝サビーネの三角関係を取り沙汰する三流ゴシップ記事が溢れている。中にはローエングラム侯ラインハルトは幼少の頃姉を奪われた経験から性的指向が捻じ曲がり、実の姉にしか欲情しなくなってしまったのだという悍ましい中傷の類いも混じっていた。会ったこともない他人を畜生以下だと貶めて利益を得るような工作に、他でもない自分の手を染めているのだと思うとさすがに気が滅入ってくる。ああ宇宙に出たい。おれに首輪を嵌めて飼い慣らしたつもりでいる黒狐に噛みついてやりたい。そんなことを考えているうちに無意識に飴玉を噛み砕いてしまって、ボリスはちっ、と小さく舌打ちを漏らした。
ヤンの幼馴染だとかなんだとか言ってルビンスキーの野郎に指名されたせいでここにいるのだが、そのくらいの繋がりを持つ人材なら探せば他にもいるだろう。なんでおれなんだ。本当ならマリネスクに船を預けるのだって嫌だったんだ。コーネフ家はな、役人と犯罪者を出したことがない云々、くっそ、ヤンのやつも下手に偉くなりやがって、おかげでこっちも巻き込まれているんだぞ。これは一回くらい会って直接文句を言ってやるべきかな。……などという調子で八つ当たりに近い思考は常にその存在に行き当たる。ちょうどやつもハイネセンに帰ってきているようだし、古い友誼を温める、なんて口実で連絡を取ってみてもいいかな。
やる気のない態度を隠しもせず後頭部に組んでいた腕を解いて、ふとデスクに陣取る職務用端末に視線をやる。あいつの連絡先を調べて文句の一つや二つ言ってやるのもいいか、と思ったその矢先、画面の右下に新着メッセージが届いたことを告げるアイコンが浮かんでいることに気付く。本国の諜報部からの指示でも、上司からの出張要請でもない。見覚えのない差出人のアドレスに首を傾げながら、面倒くさそうにボリス・コーネフはそのメールを開いた。
──弁務官府の秘書官なんて言葉は君と対極の位置にあると思っていたよ。
初っ端からたいそう失礼な挨拶である。それでも彼の口もとに呆れたような笑みが浮かんだのは、その文体や言葉選びの向こうに見知ったやつの存在を確信したからだ。短い文面の最後には、答え合わせのように子ども時代遊びで使っていた暗号風のイニシャルが記されている。3ヶ月前ルビンスキーに呼び出されて以降、初めてやりがいのある仕事が舞い込んできた。
ボリス・コーネフは細かい打ち合わせのために落ち合う日時を指定して、自身も文末に子ども時代使っていたイニシャルを添え送信元へとメールを送り返した。
「オーベルシュタインの仕組んだことだと言われてもおれは驚かん」
特に声を低くするでもなくそう口にするビッテンフェルトに、ミュラーは慌てて制止をかける。
「て、提督。誰が聞いているかわかりませんから……」
「何を驚く。何を恐れる。おれはオーベルシュタインの陰険野郎なんぞ怖くはないわ。あとミュラー、卿に断っておくがな、ビッテンフェルト家には人を褒めるときは大きな声で、貶すときはもっと大きな声でという家訓があるのだ!」
酒が入っているせいで普段に輪をかけて声量が豊かになっている。青くなって周囲に目を走らせるミュラーを無視しつつ、もうひとり同じテーブルに着いている上級大将がカランと手元のウィスキーを傾けた。
「おれは今回の件、オーベルシュタインの陰謀ではないと思うがな。やつの巡らした策略にしては、無駄が多すぎるだろう」
普段酒を酌み交わしている友が遠方に出征しているため、ミッターマイヤーは仕事上がりに受けた彼らからの誘いに素直に乗った。ひとつ格上の僚友の見解に、ビッテンフェルトはむ、と唇を尖らせて反論する。
「そうか? やつがキルヒアイスを邪魔に思っているのは周知の事実だったろう。旧門閥貴族勢力、キルヒアイス、自由惑星同盟、すべてを結合させてから一掃しようとしていても不思議はないではないか」
もともと緩い敬語がさらに緩くなっているがミッターマイヤーは特に咎めない。酒の席でもあることだし、変に畏まるビッテンフェルトもそれはそれで居心地が悪いというものだ。
「そうだな。仮に今回その三つの勢力が集結していたとして、それを待ってから倒そうというのでは各個撃破を良しとする用兵学の基本に反する。オーベルシュタインがその程度のことを弁えていないとも思えぬのでな」
「なっ」
「さらに言わせてもらうならやり方が温すぎる。逆しまに卿に問うが、皇帝陛下すら排除しようとするオーベルシュタインがリッテンハイムの娘を生かして逃すだろうか? 結果こうしてキルヒアイスに一定の政治的正当性を与える事態になっているが」
ぐぬ、と言葉に詰まったビッテンフェルトが革のソファーに座り直して腕を組んだ。顔を険しくする猛将の隣に着席しているミュラーが、少し言葉に迷ってから恐る恐るミッターマイヤーを見つめてくる。
「それでは、その……ミッターマイヤー提督はキルヒアイス元帥が自らの意思でこのような状況を画策したとお考えですか」
ミュラーの言葉には、さすがのミッターマイヤーも即答は出来なかった。自分はまだキルヒアイスと逢って2年と少ししか経たない。だがいいやつだ、というのはわかっている。彼がその忠誠と敬愛を損なわぬまま生きていければいいとも思っていた。だから、自分個人としては彼を信じてやりたい。だがキルヒアイスを弁護することが我々の未来をより良きものにしていくかというと、それはまた別の問題だと思えるのだった。
「……いいや? だがそれは殿下がお決めになることだろう。我々にできるのは近々に行われるであろう出兵に対して、万全の備えをしておくことのみだ」
曖昧に答えを濁されたと察して、ミュラーは苦しげに口を噤んだ。そう。もはや同盟との全面衝突は避けられない。ローエングラム体制の正当性を主張するのなら、ゴールデンバウム王朝正統政府とそれに共謀する同盟は倒さねばならないのだ。争わねばならぬことがわかっている以上、今さら敵に対する同情を持ち出して何になるだろう。
ミッターマイヤーは氷の溶けたグラスをひと息に干して、どこか遠くに目をやった。ここが初等教育の学級であるのなら、友人を庇って意地悪な上級生と事を構えることを良しとしただろう。だがローエングラム侯は既に帝国宰相で、帝国200億の民衆に対し責任を持つ立場になっている。そんなものはどうでもいいからキルヒアイスを助けてやってほしい、などと、自分に言えるはずがない。今までそれほど強固な自覚があったわけではないが、おれはきちんと公人なのだな。いつもより苦い気がする酒が喉を滑り降りるのを感じつつ、ミッターマイヤーは遠くイゼルローンにいる友人の顔を思い浮かべていた。