キルヒアイス推しの女オタクが作中に転生したので推しの幸せを守るために奔走したいと思います 作:響谷
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メルカッツ艦隊において長年後方支援を担当してきたとある補給担当者は、ここひと月余りの間に起こっている不可解な事態の数々に眉を顰めていた。
キルヒアイス元帥がオーディンを出立してしばらく経った頃だろうか。まず最初にメルカッツ提督が居室を移すと言い出した。旗艦であるミネルヴァから降りられるのかと思ったら、自らは同艦内にて副官たちに割り当てているような佐官級の部屋を使うため配慮はいらないと仰っている。旗艦とはその艦隊を統べる提督のためにあるものなのに、なぜそんなことをする必要があるのだろう。疑問符を浮かべているうちにやってきた次の注文は、女性が使うはずの日用品や美容品の大量調達だった。ますます首を傾げながらも、彼は不透明な状況を推測し始める。もしや提督は、恩義のある大貴族やその家族を匿って亡命させようとしているのではないか。それにしたって自らの居室を譲られるのはやりすぎだと思うが、あの方は変なところで頑固だったりするのであり得ない話ではない。もうオーディンではローエングラム侯の権勢が確立されつつあるし、時期的にもおかしいことはないだろう。ミネルヴァと、それからいくつかの巡洋艦に追加随員として何名かずつ分乗させるから、その分の補給計画を頼むとも言われている。おそらく彼らはメルカッツ提督の居室を使っている"誰か"の使用人とか家来とかなのだろう。ここまで考えた辺りで、旗艦ミネルヴァに搭乗している補給担当者は自身の周囲にも異変が起こっていることに気がついた。戦艦であるはずの艦内で、なんと女性とすれ違うのである。それもひとりふたりではなく10名を超す顔ぶれを見かけた気がする。まさかメルカッツ提督ともあろう方が将兵の慰労のためにその道の女でもお雇いになられたのかとも思ったが、どうにも彼女たちの出立ちや立ち振る舞いからは男に対して下手に出る気などない高飛車なプライドを感じた。男所帯の軍隊内にいることを自覚して警戒しているらしく、彼女らは常に二人以上で行動している。侍女、というものなのかなぁ、などと大雑把に納得して、彼は女性用化粧品とか日用品とかを不審がられず調達するための工作にその能力を割いていた。
約ひと月後、同盟に赴いていたキルヒアイス元帥が敵側へと寝返り事態が急転したことで我が艦隊にも新たな命が下った。イゼルローン方面へ出陣するのだから、いい加減正体不明の来客はフェザーン方面へ送り出すか追い出すかすると思ったのに特に何の命令もない。このままでは戦場へ連れていくことになるがいいのかな、と肩を竦めながら多忙な職務をこなし各星系に立ち寄る補給計画を立案していく。そうしてイゼルローン回廊に迫ったある日、補給ポイントに降り立った彼のもとへと秘密裏に命令が届いた。至急腕のいい産婦人科医を手配してミネルヴァまで連れてこいというのである。さすがに辟易して、追加で入り用になるだろう医療品の内容を確認するという口実で上官に問い合わせた。もしや身重の女でもいるのか。これから向かうのは避難先ではなく前線なのですよ。そう苦言を呈する彼に対して、後で説明する、とだけシュナイダー少佐は言った。やれやれとため息混じりにその星で一番の名医と呼ばれる医者を訪ねて、適格と思われる人材を洗い出し軍用シャトルに押し込んだ。これまで100人は取り上げたという熟練の産婆もつけておいたから文句はないだろう。オーディンを発ってから2週間弱、メルカッツ艦隊はその大部分を最後の補給ポイントに残し、ミネルヴァとその直属護衛艦隊のみをイゼルローン回廊内部へと侵入させた。
「そうか。あれの中には子がいるのか」
ロイエンタールの表情からはすべての温度が抜け落ちている。イゼルローン要塞の港に降り立つそれを遥か高層階の司令官室からガラス越しに見下ろして、彼は小さくそう独り言ちた。
「……ロイエンタール提督。少なくとも、陛下に対する小官の忠誠心を利用したいとお考えなら、二度とあれなどといった呼称はお使いにならないでいただきたい」
鋼のように硬質なメルカッツの苦言に、彼はすぐさまバツの悪そうな、それでいて柔らかな笑みを返して見せた。
ここ2週間、ロイエンタールは公正と寛容を旨とするほぼ完璧な統治者としてこの要塞内に君臨している。同盟市民の考え方や感じ方をロイエンタールに教授し、さらには事務方の具体的な数字を管理してくれるキャゼルヌ少将がついているからこそ、ではあるが。
「これは相すまぬ、メルカッツ提督。すでにご存知のことと思うが、小官は数ヶ月に渡って幾度も陛下のご温情を賜る身であった故。つい気の砕けた接し方になってしまうこともある」
それを世間では襲ったとか姦通したとか言うのではないか。本当に陛下が望まれたことなのか、と問い詰めて糾弾したい思いはあっただろうがメルカッツは紙一重で耐えた。あの、侍女たちに周囲を固められながら黒いベールに顔を隠しタラップを降りてくる女が、もはや身内と呼べる存在をひとつとして持っていないことを知っているからだ。
「して、陛下はどのようにお考えかな。小官如き下級貴族の種など産めぬ、とは仰せではなかっただろうか」
「……いいえ。ご懐妊の事実をお知りになったとき、陛下はしばし呆然として、それからぎこちなく微笑み自らの腹を撫でておいでだった。あの方はご出産に挑む気でいらっしゃる」
答えながら、メルカッツは苦渋にその目を伏せていた。あの女が真の家庭を得られるかもしれない。何より皇帝の安息を求めるメルカッツには、母になりたがる女の選択を否定できないだろう。この帝国きっての宿将を我がもとに縛り付ける理由がひとつ増えるというだけでも、あの女の妊娠は歓迎すべきことであった。
子。
おれの、子か。
悍ましさのあまり、ロイエンタールはそれを私事として捉えなかった。政略上役に立つという理由がなければ、あの女を殺してでも胎内のそれの存在を否定しただろう。だが役に立つのなら、あの女が堕ろすと言っても無理に産ませる。おまえの意思など問うていない。おまえの意見など聞いていない。さらに言うならこれから生まれてくる子に備わっているだろう人格の存在すら、ロイエンタールは認めてやるつもりがなかった。
「──ふ。ふ、ふ」
そうだな。あれの産み落とす子が左右違う目の色だったらどうだろう。ゴールデンバウム王朝第38代皇帝は父譲りの金銀妖瞳であったと、歴史書にそう書かれるのだろうか。
「は、あ……はは……!」
それはそれで好都合だ。誰だっておれの子だと認めざるを得ないに違いない。呪われた目ではあるが、存外役に立つものなのだな。
どの道あの女は用済みになるし、おれが実権を握るのだから子どもの能力など問題外だ。生まれてくるのは、女かな。男かな。どちらだろうと、不貞の子なのだからろくな人間には成長すまいよ。女だったら母親のようになって、男だったらおれのようになるのだろう。生まれる前から気の早いことだが、これほど不幸な命がこの宇宙に存在し得るだろうか。胎児のまま死んでおいた方がよほど幸福なのだろうと、そのくらいの言葉であれば我が子にかけられるかもしれない。
メルカッツが退出した後、ロイエンタールはその身を切り刻むような笑い声を上げていた。呼吸もままならないほど嘲笑が込み上げてきて、その秀麗な目尻に涙が浮かぶ。崩れ落ちてしまわないように目の前のガラス窓に縋って、彼は自らの胸を掴んだ。何が痛くて、何が苦しいのか。彼は理解できなかったし、理解する必要も感じなかった。こんなにもお誂え向きに叛逆者への道が整っている。ならば、あとはそれをひた走るだけだろう。条件が整いすぎてしまっている節はあるが、わざと手を抜くような真似は性に合わない。あのローエングラム侯なら。自分より優れているはずの彼を敵にするのであれば、これ以上の充実はない。相手に取って不足なし。自分はきっと、自分のすべてを燃やし切ることが出来るだろう。
「はやくおれを殺さねば、卿らは歴史の敗者になってしまうぞ」
広すぎる司令官室に、愛しさと寂しさを滲ませた言葉が虚しく落ちていく。遠くオーディンから離れたこの部屋に、血の色をした酩酊から呼び醒ましてくれる友の姿はなかった。