キルヒアイス推しの女オタクが作中に転生したので推しの幸せを守るために奔走したいと思います 作:響谷
エリザベートの妊娠の発覚が遅れたのは、悪阻が表れる以前からストレスなどの理由で体調を崩しがちだったからだ。
胃腸が食事を受け付けず、無理やり何かを入れても吐き気に苦しむことになる。食が細くなって伏せがちになっていたところにキルヒアイス元帥とグリューネワルト伯爵夫人が揃って同盟に亡命したという、とどめと言わんばかりのニュースが飛び込んできた。いよいよ彼女はベッドから起き上がることも困難な状態になって、脈絡なく涙を溢したり嗚咽してシーツに縋ったり、精神にも異常をきたしている様子が散見されるようになった。必死に看護するマリーは毎食エリザベートの好物を用意したり、好きな香油を取り寄せたりして主人のために心地いい環境を作り続けた。マリーがもしやと勘付いたのは、エリザベートが粥の上に飾られた香草を苦すぎると言って残したときだった。宇宙にこれほど、外れていてほしいと願う直感があるとは思わなかった。だが同時に、誰よりも皇帝の近くでその世話をし続けていた侍従長は確信に近いものを得ていた。エリザベート様は、あのヘテロクロミアの子を身籠もっておられるのだ、と。
「へーいか! お加減はいかがですか?」
ぴょこ、と悪戯っ子のようにドアの向こうからこちらを覗いて、エリザベートとほとんど変わらぬ年の頃の少女がきらきらと笑う。お父君譲りの、秋の夜空に光る天の川のような銀髪を肩口で切り揃えた少女は、エリザベートが身体を起こしているのを見てじゃじゃーん! と一冊の冊子を頭上に掲げてみせた。
「父がキャゼルヌ夫人という方から貰ってきてくれたんです! 帝国のじゃないですけど、赤ちゃんのかわいいお洋服がいっぱい載ってるんですよ!」
クララ・リーゼロッテ・フォン・メルカッツ。今回の密航を決行する際、メルカッツ提督は奥方だけでなくご息女をもお連れになった。つまり彼は、本気なのだろう。本気でローエングラム侯ラインハルトに歯向かい、ロイエンタールにつく気なのだろう。分不相応にも皇帝などという至尊の冠を戴く、わたしなどのために。
「あ〜っ、もう見てくださいこれ! 頭の上からお花が生えてますよ! 写真見るだけでかわいい〜っ!」
きら、きら、とその髪を振り乱しながらクララはわたしの隣に座って端正に整った顔を高揚に染めている。お人形のように愛らしいな、と思うのに彼女はいつも表情豊かで、しかも蕩けるように柔らかく笑った。
「ねぇ陛下、お子さまのお名前はもう決まっておいでですか? お名前の候補、何がありますか?」
無邪気に振る舞ってはいるけれど、クララは非常に頭が良い女性だ。直接聞かずとも、お腹の子の父親を巡って幸せとは言い難い事情が渦巻いていることをとっくに悟っているだろう。それでもエリザベートが手放し難いものを得たように自らの腹部を見下ろすものだから、皇帝は決して堕胎を望んではいないと見抜いてこのように希望や、楽しみや、将来の夢の話をしている。どうせ生きるなら、自分の好きなものを見つけて笑っていよう。武門の娘だからか、彼女からは極端なまでに完成された信念のようなものを感じ取ることができた。
「気が早いわよ、クララ。無事に産めるかもわからないのだから」
「ええーっ!? ぜんっぜん早くないです! わたしなんか何個も候補が浮かんできて、決断するのに半年はかかりそうですもん!」
ぶんぶんと手を振って真剣にこちらを覗き込んでくる彼女の剣幕に、エリザベートは思わずぷっと吹き出した。
「あなたに決めさせてあげたいくらいだわ。でもこの子、おじいさまの血を引く子だから……宮内省と典礼省に協議させて相応しい名前を提案してもらうのが筋としては正しいのでしょうね」
きょとんと目を丸くしたクララが、やがてほへーというような声を上げて感嘆のままエリザベートを見つめてきた。
「陛下って、本当に皇帝陛下なんですね……」
庶民のように、女学校に通っていたらこのような友人ができるのだろうか。ふふ、と相好を崩した苦笑いを浮かべて、エリザベートはクララの肩を小突いた。
「もう、それってどういう意味よ」
サビーネが自分を憎み、同盟内に政府を建てたと聞いたとき。わたしはもう二度と同性の友人を持たないだろうとそう思った。愛していたのに傷つけて、修復しようもなく壊してしまった。今まで大切に胸に抱えていたぬいぐるみが爆発して、四方八方に槍を突き出してきたような心地だった。胸が貫かれて、痛い。今も真ん中に穴が空いたまま、血が流れ続けている。無惨に内側の飛び出たぬいぐるみを取り落として、わたしは立ち尽くす。わたしはそれを、手に取る資格がなかったのだ。ずっと、これからも、最初から。何を思い上がったのだろう。何を救えると思ったのだろう。何もかもわたしのせいなんだ。わたしが自分の願いのために、歴史のボタンを掛け間違えたから。わたしの想像力が足りなかったから。この身ひとつでは背負いきれない罪の意識にすべての脳細胞は呼吸をやめたがっている。
キルヒアイスは、きっと何者かに嵌められている。だってあの日、彼は約束したもの。何があってもラインハルトを見捨てないと、誓ってくれたもの。あの日の言葉を信じられないのなら、もうわたしには信じられるものが何ひとつとして残っていない。それでも今、彼が何を考えて、どこで何をしているのか、わたしには推測すらできない。たとえ何某かを成そうとする彼を援けてそれが上手くいったとして、そうすれば何もかも元通りになるかといえば絶対に否だ。止められない戦争のにおいがする。この銀河は耐えた分だけ、大量の血を飲み干したがっている。キルヒアイスのためにわたしが出来ることなんて、もう何も残っていないのではないだろうか。そもそも──考えるだけで胸が張り裂けそうになる想像だが──彼はまだ生きているのだろうか? サビーネの放送があってから彼が公の場に出てきたという話を一度も聞かない。既に最悪の状況が起こっていて、わたしは滑稽にもひとり生き残ってしまっているだけなのではないか。
錯綜する思考の中でただひとつはっきりしているのは、サビーネが生きていなければこんな展開にはなっていなかっただろうということ。わたしはどちらも選べなくてどちらも取り零した、救いようのない愚か者だったんじゃないの。オーベルシュタインは最初から、こんなわたしに向かってきちんと選べと言っていたのではなかったの。
やっぱりもう、このまま死んでしまおう。この先の歴史なんて見たくない。わたしはこの世界に耐えられるほど、強くなかったのだ。そう思った矢先、お腹の中に新しい命が宿っていると知った。わたしが死ぬと、ここにいる命も消えて無くなる。もう失いたくないと、朴訥ながらそう思った。これ以上誰かを殺したくないと、喘ぎながら天を呪った。お父さまも、お母さまも、アンスバッハも、わたしが殺した。サビーネを傷つけて、キルヒアイスを追い詰めた。結局ラインハルトは最愛の人を奪われて、ロイエンタールは空虚な野心に身を灼いている。ぜんぶぜんぶわたしのせいなのに、まだ生きなければならないのか。こんなに罪深いのに、まだ死ねないのだろうか。何をして生きればいいのだろう、このすべてが壊れてしまった世界の中で。
「ご無事にお産みするためにも、陛下は健康でなくちゃいけませんからね! あ〜もう、陛下のお子さまとかぜっっったい可愛いですから! 女の子かなぁ〜? 男の子かなぁ〜?」
左右に首を傾げて、クララはまるで自分の子どもでも待ち焦がれるようにまだ膨らみ始めてもいない皇帝のお腹を見つめる。彼女の明るすぎる笑顔につられて、エリザベートは困ったように笑ったし、溢れてきた涙を隠すようにシーツで拭った。
アレックス・キャゼルヌはいちおう捕虜の身分である。今日も今日とて同盟軍少将の軍服を着て、後方司令参謀本部に出勤しイゼルローン全域の輸送・補給の管理業務に勤しんでいるのだが、いちおう捕虜の身分である。
「今日も監視任務ご苦労様」
キャゼルヌの常軌を逸した処理速度のせいで、その職務内容に不審な点がないか確認にまわる人員だけでも二桁必要になっている。ほとんど投げ渡された書類をキャッチしながら、若い参謀士官は珍獣でも相手にするかのようにキャゼルヌを盗み見た。彼がこうして敵に囲まれながらもそんなものは意に介していないかのように通常業務を続けるのは、「そうしないとイゼルローンの住民が全滅してしまうから」なのだそうだ。最初に聞いたときは首を傾げるしかなかったが、こうしてその仕事ぶりを目前にすると否が応でも理解させられる。彼の言ったことは冗談でも誇張でもない。キャゼルヌ少将が捕虜らしく常識的に自室に監禁されて、家族と共に大人しく過ごしていたなら。即座に要塞全地区で物流の遅滞と停滞が発生し、住民400万人が征服者たる帝国軍に対して暴動を起こす事態になっていただろう。そんなことになればいかに政務処理に秀でたロイエンタール提督とはいえ、武断的処置を取らざるを得ない。本来この要塞内で現出されるはずだった地獄を現在のところことごとく回避出来ているのは、目の前の"事務屋"のおかげに他ならないのだ。
「何か質問があるならどうぞ」
「はっ……はい!」
高速でスクロールされる受注票から目を離さず気楽な声をかけてきた捕虜待遇の少将に、参謀士官はつい姿勢を正した。
「差し迫った問題ではなく、単なる興味なのですが……閣下の戦力は、小官の体感では一個大隊を下りません。そんな閣下をここイゼルローン要塞に残留させて、ヤン艦隊は大丈夫なのかな、と……」
尻窄みになっていく彼の疑問を聞いて、キャゼルヌはああ、と呟きその目を画面から離した。コーヒーカップに手を伸ばして、つまらなそうな顔のままズズ、とそれを啜る。
「大丈夫なわけないだろう。だからこんなに行動が遅いんだ」
「お、おお……」
苦味に顔を顰めつつそう断言するキャゼルヌに、彼は面食らう。自作の解析プログラムにここ2週間における生産/消費データを入力して、メルカッツ提督が率いて来られた人員に対する補給試算を弾き出しつつ彼は肩を竦めていた。
「おれがヤンについていたらここはもうおまえさんたちの領土じゃなかったかもしれん。……ああ、冗談だ、おれがついていたらヤンは今日あたりにイゼルローン再攻略作戦を開始していた、というくらいかな?」
冗談がまったく通じていないと参謀士官の表情を見て気付いたのか、キャゼルヌは少々意地悪く笑ってそう言い直した。訂正されたところでまったくおもしろくない。あの魔術師と称される男が、またこのイゼルローンを陥としにくるのだろうか。背筋が凍るような思いをする参謀士官にひらひらと手を振って、キャゼルヌは悟ったように柔らかな冷笑を口もとに浮かべていた。
「だとしても、人間は死ぬまで需要と供給の経済行為の中に身を置いている。おれも、おまえさんも、生きている限りそれをサボるわけにはいかんのさ」
ときに帝国暦488年、宇宙暦797年6月7日。同盟軍第十三艦隊はようやく諸々の手続きを済ませて軍備を整え、まもなくハイネセンを発とうとしている。