キルヒアイス推しの女オタクが作中に転生したので推しの幸せを守るために奔走したいと思います 作:響谷
体調不良やら何やらでなかなか集中できない状況が続いていたのですが、筆者としては是が非でも完結を目指してがんばるつもりでいます。
お楽しみいただけている読者さま方、これからも気長にお待ちいただけると幸いです。
37
「魔術師の偉業を一日で無に帰せしめたアレックス・キャゼルヌ少将。彼の名はこの一事だけでも歴史の中に燦然たる輝きを放つであろう」
新聞の中に知り合いの名を見つけて、ユリアンは独り言のように読み上げた。統帥本部からシルバーブリッジの官舎に戻る車内で、彼はその保護者と同乗している。とっぷり日も暮れているが官庁舎が立ち並ぶ街中は明るい。住宅街に辿り着くまでにはもう少し時間がかかるはずだった。
「私はともかくキャゼルヌ先輩にそんな嫌味をねぇ。あの人神経がワイヤーロープで出来てるからちょっとやそっとじゃ精神攻撃にもならないよ」
肩を竦めて困ったように笑うヤンに、あなたも似たり寄ったりだろうと思うユリアンであった。
イゼルローン陥落から7日ほどして、ロイエンタール提督の名で同盟政府に対し正式な通告があった。現在要塞内部では略奪も暴行も起きていない。キャゼルヌ少将以下全同盟軍人、および市民は武装解除の上でその生命を保護している。局所的かつ個人的な幾つかの抵抗で怪我人が出ているがそのいずれもが軽傷である。軍事的干渉を企てるのであれば捕虜の生命は保証しかねるが、政治的交渉を望むのであれば応える用意がある。とまぁこのような内容である。これを知ったヤンは安堵からソファーに倒れ込み、それからややあって「ロイエンタールはイゼルローン要塞を無血開城させた歴史上ふたりめの人物だね」と苦笑い混じりに漏らした。
「私はイゼルローンを陥した結果昨年の侵攻作戦で2000万人を戦死させたけど、キャゼルヌ先輩は要塞を開け渡して400万人の民間人を守った。どちらの功績が大きいか、それですらも人類は意見が割れるんだものなぁ」
やれやれ、と肩を竦めてヤンは背もたれに深く体重を預ける。現在彼が辟易しているのは言うまでもなくゴールデンバウム王朝正統政府に対する世論の分断の激しさであった。比較的正確と思われる数値を見る限り、同盟市民の5割は正統政府の受け入れに賛成し、3割はそれを根拠にした軍事行動に積極的である。ちなみに同じ質問に対する反対はそれぞれ2割、4割となっているので数字だけ見れば反戦派の方が多いことになる。だが現状、議会でも市井でもまともな議論らしき議論は成り立っていない。感情論で同じ主張ばかりを繰り返すトリューニヒト派閥の政治家がインタビューに現れると、こんなものを垂れ流しては同盟市民の論理的思考力が低下してしまうと言ってヤンがテレビ画面を切ってしまう始末であった。
「……なんにせよ、キャゼルヌ御一家とイゼルローンの方たちが無事でよかったです。ロイエンタール提督という方はずいぶん柔軟な思考をお持ちなのですね」
ユリアンとしては昨年の大敗北は提督のせいではない、と反論したかったが自分がそんなことを言ってもヤン自身の認識は変わらないと弁えているので出過ぎた振る舞いは避けることにした。被保護者の葛藤には気付かないふりをしているのか、ヤンは両腕を頭の後ろに組んで車の天井を見上げている。
「そうなんだよな。うーん、さすがに名将と呼ぶべき、というか名将の域を越えているかもしれない。暴動すらも最小限に抑えて怪我人しか出していないとか、普通に考えるとあり得ない事態だよ。これはキャゼルヌ先輩がなんらかの形でこき使われてるとしか」
「えっ……と、ではキャゼルヌ少将は敵に投降した上、敵に協力していると……」
「そうとも言えるが。実際問題あの人が仕事をしなくなったら誰がイゼルローンの400万人に物資を行き渡らせるんだい? その辺り、ロイエンタールは冷静に見極めることができる人物だったようだね」
降伏した敵の将官をこれまでと同一の職場で同じ職務に従事させるなどと、常識から考えるとかなりの勇気がないとできないことのように思う。降伏を決断した上民間人のために働き続ける側にも、感情論を超えた極端なまでの合理性を見てとることができる。ロイエンタールは自らの名誉のために、キャゼルヌ少将はイゼルローンの民間人のために、それぞれ合意点を見て現在協力体制にあるのか。ふむふむ、と納得して、ユリアンはふと車外の景色へと目を向けた。
「ん、あれ? 提督、どこかお寄りになるんですか?」
住宅街は住宅街でも、区画違いの風景が流れていれる。佐官以上の軍人にあてがわれる官舎が立ち並ぶ夜の街並みに、ユリアンはふと首を傾げた。
「ああ、少し用事があってね。なに、ビュコック提督のお宅に寄る約束があるだけさ。おまえは先に帰っているといい」
目的地が近いのか、ヤンはごそごそと軍帽を被り始める。宇宙艦隊司令長官の名が出てきて、ユリアンは少し驚きつつその顔を上げた。各種手続きの調整のため先ほどまで統合作戦本部にいたのに、わざわざ会合場所を私邸に設定しなければならないような用があるのか。お供してはいけませんか、と喉元まで出かかった希望を理性で呑み込んで、ユリアンは大人しく微笑んだ。駄々をこねるような真似をして、まだまだ子どもだな、などとヤンに思われたくなかったのだ。
「わかりました。保存のきかない食材を使ってしまおうと思って、アイリッシュシチューの仕込みをしてあるんです。今晩はお帰りになるでしょう?」
音もなく、親子のようなふたりを乗せた地上車がひとつの邸宅の前に停車した。座席から立ち上がりかけたヤンが、甘えるような、しかし深い慈愛に満ちた視線をユリアンに向ける。
「もちろんさ。ビュコック夫人は夕食にお誘いくださるだろうが、謹んで辞退させていただくつもりだ。なんせ今日は、地上でおまえの料理を食べられる最後の機会なんだから」
明日、ヤン艦隊はハイネセンを出立する。艦隊勤めの兵士たちはすでにそれぞれの艦へ乗り込んでいるし、ようやく取り付けた各種補給の準備も万端だ。降車して、地上に足をつけたヤンがドアを開けたままでいてくれるユリアンを見つめる。軍属である彼もまた、明日以降ヤンに従い首都星を離れる。ハイネセンに着いてからもヤンの食生活を万全に管理し続けたユリアンが腕によりをかけて仕込んだシチューは、この世の何とも比べることができない絶品に違いなかった。
「すぐに帰るよ。シチューを温めて待っていてくれ」
ユリアンを安心させるように、ヤンは笑った。ユリアンもまた笑って、ええ、と頷く。温度のないはずの街灯が、冬の暖炉のように暖かく彼らの横顔を照らし出していた。
「お待ちしています」
そうしてユリアンを乗せた地上車が穏やかに走り去るのをヤンは見送った。ヤン・ウェンリーという青年が覚えている中で、温かくて眩しいと呼べる記憶はこのときのものが最後となった。