キルヒアイス推しの女オタクが作中に転生したので推しの幸せを守るために奔走したいと思います 作:響谷
この2週間、ヤンが独り身であったならシルバーブリッジの官舎に帰ることはなかったに違いない。しかし彼には今年15歳になる被保護者がいた。せっかく首都にいるというのにホテル暮らしを強要するのも可哀想なことだ。そう考えたからこそ彼はホテルを出て、自らの被保護者に夕食を作る機会を与えた。
「放っておけば栄養失調で倒れかねないんだから、提督は」
ひとりで帰宅したユリアンを、官舎の自動照明が出迎えた。ご近所さんもみな夕食どきで、ふわふわと食欲を唆る匂いが流れてくる。ブラスターを外して軍服を脱ぎ、代わりにエプロンの紐を結んでユリアンはシチュー作りに取り掛かった。
「首都の秩序を回復せよとの命令書、か」
ビュコック司令長官は自宅の書斎にてわずかに目を見開いていた。その視線の先には、客人として招かれた第十三艦隊の主人がいる。
「何事も、法的に根拠がなければ自らの正当性を主張できませんからね。無論、司令長官閣下が私を信用してくださっていることが前提となります」
歴戦の老提督が問題にしているのはそんなことではなかった。彼の目から見て事態はそこまで切迫しているのか。これからこの国の内部で武力衝突を伴う動乱が起きるという、事実上の保証が与えられたことに衝撃を受けているのだ。
「……亡命政権、引いてはトリューニヒト議長を殺したいほど憎んでいる人間はたくさん知っている。だが彼らが一致団結し、しかも新たな秩序を確立し得る実力を伴う確証があるのかね? わしの目からは、とてもそうは見えん」
柔らかい光に満ちた、居心地のいい書斎だ。以前足を踏み入れたローザス提督の書斎は理想だが、この書斎も素敵だ。この年齢まで現役であるから来客も多いはずで、主人の机の他に居心地のいいソファーとローテーブルが備え付けられている。50年ほど前に流行った大衆小説の初版本なども見かけて、ヤンは次の機会にはぜひ私用でお邪魔させていただきたいと野望を膨らませていた。
「私もそう思います。不満を抱えていたとしても彼らにはまず時間がない。ただそういった人々が、既存の秩序を破壊するというその点を目的にして行動を起こしたらどうなるでしょう」
「テロ行為……ということか」
「これだけは如何とも防ぎ難い。壊すだけであればほとんど単独での犯行が可能です。現在の疲弊し切った警察力に未然の働きを期待するのも無理な話でしょう。もちろんそんなこと、起きなければいいと私も思います。ですが軍事的に、保険をかけるなら今しかないのです」
手元のベレー帽を握ったり広げたりして虐待しながら、ヤンはやりきれないというようにため息を吐いた。
「同盟には現在宇宙艦隊が三つ存在します。無防備なイゼルローン方面の防衛のために、私の第十三艦隊が明日首都を離れます。もし不穏分子が同盟軍上層部に食い込んでいて、艦隊単位で行動を起こすとしたら。私がもっともハイネセンから離れた瞬間、そこを狙うはず」
艦隊単位。それはもう立派な内戦ではないかね。だがないとは言い切れないのが恐ろしいところだった。上層部に数人、汚染された人物がいたとする。彼らが欺瞞情報をひとつ流すだけで、一定時間の兵力動員は可能になってしまう。兵士や市民にはその命令が国防委員会の裁可を受けた正式なものかどうか確認する習慣がない。行動目的もわからないまま従軍している兵士などそこらにいくらでも歩いている。破壊するだけなら政治的な正当性など必要ないし、嘘が明るみに出たところで大した痛痒もない。捨て身の情報戦で先手を取られれば、秩序を立て直すのは容易なことではなかった。
ビュコックは空中を見遣ってため息を漏らした。それにしても。そんなことになったら、いったいどれほどの兵士が犠牲になるのだろう。憚りなく疲労を露わにする宇宙艦隊司令長官は、改めて今回の懸念の元凶となった同盟政府の愚かな選択に呆れていた。
「艦隊を動かそうなどと考える輩は、なるほどまずは貴官の戦力を戦場から除外することを考えるだろう。第一艦隊、第十一艦隊はほぼ同数の兵力を持つ。どちらかを影響下に置いた時点で反乱は成功の目を見るかもしれない……ということになるな。少なくとも一時的には」
「仰る通りです。そのため秩序を回復せよ、との公式書面が必要なのです。その時点でまともに動ける戦力は、同盟にはもはや第十三艦隊しか存在しませんから」
ふたり揃ってここで大きなため息を挟んだ。昨年のアムリッツァ前哨戦がなければ、同盟の戦力がここまで逼迫することもなかったのに。
「艦隊単位でないときの話はあえてしません。とても小官の手に負える範疇のことではない。あくまで法の下の軍人として、艦隊司令官として、与えられた権限の中で可能となる対処法を考えるだけです」
「それが正しかろう。艦隊戦、艦隊運営以外のことであればそれぞれに正しく権限を与えられた部署が存在する。警察しかり、地上部隊しかりな」
ヤンが考えているのは最悪の事態と呼ばれるものだ。高級軍人が権限を濫用した末の首都制圧と、反対勢力の武力鎮圧。大した組織力もないままで行える反乱の最大規模。だが人間が想像し得る最悪とは、大抵同じ人間が現実のものにしてしまうものである。
「明日の昼にはシャトルに乗り込むのだったな。命令書は朝一番に届けさせよう。貴官のもとに、直接な」
「感謝します。こんな直前でのご相談になってしまい、申し訳ありません。お手間を取らせます」
ぐし、とその黒髪を掻いて、ヤンは心底済まなそうに謝罪した。なんの、と手を振るビュコックに、彼はその顔を僅かに俯かせる。
「実はかなり迷ったのです。同盟の未来を私こそが担うと、そう手を挙げてしまうのと同義なのではないか、と」
今でも迷っている、と言ってしまいたそうな顔をしている若年の提督を眺めて、ビュコックは静かに微笑んだ。こういう人物だからこそ、彼はヤンを信用する気になるのだ。
「確かにな。貴官ひとりの肩に負わせるには、あまりに大きな責任だ。だから出来ることならわしが生きているうちに首都を奪還して、それを分け与えに来てほしい」
はっと顔を上げたヤンが、穏やかに笑っている上司を見て、それから泣きそうに目もとを歪めた。彼もまたこういう上司だからこそ、信じて思慮を打ち明ける気になるのだった。
「……全霊をあげて努力します」
頷いて、ヤンは立ち上がった。その晩、彼らの間に言葉はなくとも、民主主義を愛する精神は確かに共有されていた。
すぅ、と風の流れる気配がした。提督が帰っていらしたのか、とユリアンはおたまを鍋の横に置いて顔を上げる。しかし、それにしては何かが変だ。まず、物音がしない。それから帰ったよユリアン、という声が聞こえない。だが誰かがいる気配はある。至急の確認ごとがあって、声をかけるのも忘れたまま自室に戻ってしまわれたのかしら。提督ならあるかもしれない、と思ってユリアンは廊下に出た。
「提督……?」
空気の流れてくる方へ、足を進める。ヤンの私室は、ドアが閉まっていた。声をかけるのを忘れたくせに、ドアを閉めることはできたのか。何か不審なものを感じながら、ユリアンは早く保護者の無事な姿を見たくてドアノブに手をかけた。
「提督、」
「動くな」
暗い室内に、街灯の明かりが落ちている。聞き覚えのある気がする男の声が低く響いて、側頭部にかちゃりと重い鉄の掠れる音が立った。
「……」
廊下の明かりが落ちるコントラストの中で、ユリアンは視線を左右に走らせた。大人の男の気配が、おそらく五つ。提督じゃない。民主主義国家において、軍隊とは国民を守るためにある。提督はいつもそう言っている。
「ヤン提督はどこにいる」
彼らは明らかな敵だ。平和的交渉のために訪ねてきた相手ではない。正面からインターホンを押して提督の在宅の有無を確かめれば、銃なんか持ち出す必要はないんだから。
「わかりません。今夜お帰りになるかも知りません」
ちっ、という舌打ちが薄闇に響いた。しかもこれは、突発的で感情的な犯行。ため息を吐きそうになるのをどうにか堪えて、ユリアンは開きっぱなしの窓の外に視線をやった。
彼らがきちんと提督に対する尾行なり監視なりを行なっていれば、提督がここにはいないことや、ビュコック邸にいることを知っているはずである。この時間なら自宅の自室にいるだろう、という杜撰な推測をもとにここまで具体的な行動を取れてしまうような人たち。とても論理的な話が通じる相手とは思えなかった。
「おまえはヤン提督の被保護者だったな。仕方ない、おまえを人質にすればヤンとて軽率な動きは取れんだろう」
ブラスターを突きつけてくる男とは別に、人影が近付いてくる。ユリアンを拘束するつもりなのだろう。しかし、提督に対する人質にする、という目的をすでに聞いてしまっている。大人しく捕まってやる理由は、どこをどう探しても1ミクロンだって見つけられなかった。
「あなたがたの目的はなんなのですか? それ如何では、ぼくを人質にしたところでなんの意味もないと思うのですが」
「あの男をこちらの陣営に引き込むこと。それが難しければ拘束すること。意味があるかどうかは我々が決める」
「ぼくを人質に取らなければ説得できないようなことに、提督を巻き込むつもりなんですね」
標準装備である結索ロープ取り出しながら、若い男が進み出てくる。彼に顎で指示を出しつつ、ブラスターを突きつけている男は鼻で笑った。
「そういうことだな。あの大将閣下は、腑抜けた平和主義者でいらっしゃるから」
両手を上げるふりをして、銃を構えたその腕を掴む。それを身体の前に引き寄せて思いっきり膝蹴りを見舞って、腕を本来曲がらない方向に曲げてやった。
「クリスチアン大佐!」
本当に人の骨を折ったのはこれが初めてだな。そう感慨を覚えながら、取り上げた銃でロープを構えた男の手と太腿を撃ち抜いた。
「いッ、いってぇ……! この、このクソガキがぁッ!」
悲鳴や罵倒が2人分上がっている。残りは3人か。訓練場でしか発揮したことのない戦闘技術だが、さてどこまで通用したものか。
血の匂いが立ち昇ってきて、ユリアンはほんの少しその身を固めた。人を傷つけること、そうして生き抜くこと、誰かを守りたいと願うこと。何もかも、まだ子どもの自分には重すぎるかもしれない。提督の言う、自分の力で考え判断することだって、未だぼくには出来ているとは思わない。でも、提督がたくさんの、もっとも力ない人々の生命とその未来を尊んでいるということは、ぼくにもわかっているはずなんです。そんな提督を正しいと感じて、そのまま穢されずに進んでいってほしいと願う気持ちは、やはり誰にだって否定できるものではないと思うのです。
「ふっ」
身体を低く屈めて、飛んでくるレーザービームを頭上にかわす。提督の蔵書がいくつか焼かれた音がする。大いに嘆くだろうな、あの人は。そのまま重心を低く保って床に手をつき、一番近くに立っている男の向こう脛に蹴りを入れる。倒れたその身体の上に乗って、やはり脹脛と利き手を撃ち抜いておく。狭い室内では同士討ちが怖い。残りの2人はまだ15歳の少年の動きに衝撃を受けながらも、ブラスターを構えて照準を定めようとしている。人道上の配慮もあるが、床に転がっている3人が未だに存命であるという事実がユリアンには有利に働いた。
「こっ、の……!」
サバイバルナイフを抜いて、ひとりが突っ込んでくる。それを避けて腕を掴み、その鳩尾に遠慮なく膝を入れる。一時的に呼吸困難に陥った男が床に転がって、ナイフを取り落とした。
ちゅん、と安っぽい音を立ててレーザービームが亜麻色の髪先を掠っていく。ユリアンの背後を取った最後のひとりが放つ光線を、その場に屈むことでどうにか躱す。一対一になった時点で、ユリアンに負ける理由はない。これまでと同じ要領で制圧して、その手のひらと脚を撃ち抜いておいた。
「提督に……提督に知らせないと」
急いで部屋を出ようとして、流れ出た血を踏みながらドアに駆け寄る。その前にまずは警備システムに通報を、と端末を開いた瞬間、ユリアンは足首を掴まれてその場に倒れ込んだ。
「クソガキが……反吐が出る。利き腕を潰すだけとは、さすが保護者の薫陶よろしきを得ているらしい」
半分笑いながら、その男はゆらりと身体を起こした。この男たちのリーダー格と思われる、最初に右腕を折られた"クリスチアン大佐"だった。
「っ……」
とっさに受け身を取ったせいで仰向けの体勢になっている。右手に持ったままのブラスターを構えようとするが、反応が一歩遅く手首の上に男の膝を乗せられてしまった。これまでにない恐怖を覚えて、ユリアンは思わず震える息を呑んだ。
「あ、あ、あぁああ!!」
当然と言わんばかりに全体重をかけられて、右手首が冗談のような音を立てて砕ける。涙が浮かんで、そして溢れていった。
「……ふぅ。返してもらうぞ、この銃は」
呆気なく武装解除されてしまって、ユリアンはなす術もなく自分に乗り掛かる男の影を見上げた。痛みより、痺れより、恐怖の方がずっと大きい。捕まってしまった。提督に迷惑がかかってしまう。自分はこれからどうなるんだろう。これまで我慢してきた分だかなんだかわからないが、原因不明の落涙が止まらない。ずっと提督が守ってくれていたんだ。こういう痛みや恐怖から。
「泣くくらいなら抵抗するな。殺せないなら銃を取るな。おまえらはいつも、覚悟が足りない」
ぱしゅん、と赤い閃光が走って、左腕に灼熱の激痛が落ちてきた。振り返って状態を確認するのもいやだ。おそらく、前腕を撃ち抜かれて床に血溜まりが広がっている。
「おい、撤収だ。目立たん地上車をまわしてもらえ。止血してからでないと話にならん」
そうやって動ける仲間に指示を飛ばしながらも、男はユリアンの上に乗り上がったままだ。彼の目的がわからない。人質と言うからには傷をつけてはいけないはずだ。なぜこんな、無駄な流血を強いてくるのだろう。
「おまえらが選んだ民主共和制を守るために軍人は命をかけて、捨てるんだろうが。その大義も、大義の下の力の行使も、おまえらに否定する資格はない。人命よりも大義が重いと、始祖アーレ・ハイネセンがその身で示した。無数の犠牲の上でおまえらは、平和こそがもっとも尊いのだと間の抜けたことを恥知らずにも喚き立てる」
ぱしゅん、ぱしゅん、と無感動にこちらを見下ろしながら男はユリアンの両脚を撃ち抜いた。そろそろ認識することのできる苦痛の容量を超えてきて、意識が朦朧とする。身体の中から血が抜けていく感覚があって、ユリアンは死という存在を身近に感じ始めた。
「あんな男、引き込んだところで大して役には立たんだろう。それどころか獅子身中の虫になりかねん。腑抜けた厭戦家で、国に忠誠を誓う兵士を鼻で笑うような奴だ。この世でもっとも忌避すべき、卑怯な卑劣漢だ」
……ああ。なるほど。わからないけれど、少しわかった。提督が何を憎んで、何を守ろうとしていたのか。どうして人は分かり合えず、宇宙に平和は訪れないのか。なぜトリューニヒトのような政治家が人心の隙間に付け込み、力を得るのか。今この瞬間、ようやく提督が求めるような人間に一歩近づけたと思うのに、それをあなたに伝えることができない。会いたくて、懐かしくて、ユリアンの瞳からはやはり熱い涙が溢れてきた。
「きれいな顔をしているな、少年。血も、痛みも、人の世の闇も、何も知らないままであの男を信奉してきたのだろう。それではあまりに、哀れというものだ」
薄闇の中で、男がブラスターを持った左腕を振りかぶった。血と涙の合間に、紙の本の匂いがふと香ってユリアンは微かに微笑んだ。死ねば少なくともあなたの足手まといにはならない。父に、提督に、提督の周りの人々に、たくさん愛された幸せな人生だった。いろんな大切なものがキラキラして、胸が溢れている。大変な世界だけれど、提督と、提督の周りの人たちが、出来るだけ長くキラキラしていますように。そう祈って、ユリアンは紅茶色の瞳を閉じた。