キルヒアイス推しの女オタクが作中に転生したので推しの幸せを守るために奔走したいと思います   作:響谷

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ヤン・ウェンリーは愛する人間の遺体というものを見たことがない。正しくは5歳のとき病床の母を看取っているはずなのだがよく覚えていない。父の死を知らせるのは賠償請求の書状だけで、ジャン・ロベールは何光秒と離れた戦場でいつの間にか蒸発していた。

「ユリアーン、帰ったよー」

後頭部を掻きながら玄関のドアを開ける。煮込んだシチューの香りが家中に充満していて、ヤンはすぐにでも出迎えに駆け寄ってくるだろう被保護者を無意識に待った。

「……」

なんの反応も返ってこなくて、ふと顔を上げる。そこまで大きいわけでもない家の、一階の廊下の最奥。ヤンの私室の扉が開いていた。

ふと、空腹を突く香りの下に鉄の匂いが漂ってきた。嫌な予感などというものはなるべく抱かないようにしている。ヤンが予感する悪いことというのはだいたい現実になってしまうから。だから状況を知らせるために各々語りかけてくる証拠に気付かないふりをして、彼は廊下を進んだ。ダイニングキッチンの灯りはついたままで、ドアも開いている。立ち止まってその中を振り返ると、やはりそこに被保護者の姿はない。自動感知で火が止まったのか、微かに鍋底の焦げた臭いが漂っていた。本当なら自らの立場を省みて、ヤンは違和感を覚えた瞬間に通報をしなければならなかった。警察でも、警備会社でも、部下でもいい。いくらでも選択肢はあったのだが、どうしても端末を開く気にならなかった。

自室の開いたドアに近付くたびに、血の匂いが濃くなっていく。完全に回転を停止させた思考の上に、風景だけが流れる。人の気配は、やはり感じなかった。

キィ、と指先で押したドアが音を立てて開いていく。部屋のあちこちが壊れて崩れて、その中心には黒い塊が落ちていた。

「──」

灯りの落ちたままの室内に足を踏み入れて、靴底を血で汚す。窓辺にほど近い場所に転がっているそれだけを、ヤンは見ていた。

「ユリアン」

ほとんど部屋を横切って、見知ったエプロンをつけているそれの傍らに跪く。本来頭があるはずの場所には、真っ赤に砕けた球状の何かがくっついていた。

「ユリアン」

人間の中から出てくるには大量すぎる血が、周囲を血溜まりにしている。頬骨と思しき場所に手を伸ばして、そっと撫でる。温かい血液がべっとりとついて、ヤンは自らの手のひらを見た。

「ユリアン」

血の跳ねた胸元に手をやって、その静かすぎる鼓動を確かめる。ここにもう、彼の命はない。なにか、宇宙の底が抜けたような、いや、天井が抜けたような心許ない心地になって、ヤンは恐怖した。一瞬前まで簡単に触れることのできた世界の輪郭が、遠い奈落に落ちていってしまったようだった。

「……」

泣くことも、喚くこともできないまま、ヤンはユリアンの全身を見渡した。左腕に少なくとも一箇所。右大腿、左大腿にそれぞれ一箇所ずつの銃創。右手首が赤黒く腫れ上がって、不自然な角度へとその先が伸びている。そして鼻の骨、頭蓋骨、たぶん頬骨も損傷しているのではないかと思われる顔面に視線を戻す。砕かれた、というのは、かなり適切な印象だったようだ。

「馬鹿なことを。大人しく捕まっていれば、どんな手を使ってでも助け出してやれたのに」

軍人になりたい、と言い出した彼を諭すときのような声音だった。慈愛と、穏やかさだけで構成された言葉が被保護者だったものに落ちていく。ヤンにはもう、これがどういった状況で、何を目的にして行われた犯行かわかっている。部屋の損害から見て相手は武装した軍人。靴跡から大人の男が3人以上。ヤンの拘束を目的にして、そしてそれを諦めたか取りやめたかした。そうでなければ今も自分が自由に動けている道理がない。強い怨恨から被害者には暴行が加えられているが、ユリアンは人の恨みを買うようなことは何一つとしてしていなかった。だからこれは、ヤン・ウェンリーの身内として認識され、ヤン・ウェンリーへの恨みをぶつけられた痕跡。

「……ああ。おまえは、私を守ってくれるのだったね」

ぼくが提督を守って差し上げます、とつい最近笑いながらそう言ってくれた。天使なんて言葉では言い表せない。おまえはこの世界の希望のすべてだった。

血に汚れた髪と、頰を撫でて、そっとその額に自分の額を寄せる。彼の存在の残滓を、少しでもこの身に焼き付けようとしていたのかもしれない。そうしてユリアンの傍らに座って、ヤンは随分と長いこと沈黙していた。後から振り返ればそれは、燃え尽きたひとつの宇宙の上にドス黒い、恒星など存在しない新しい宇宙が無辺に育っていくための時間だった。

「ごめん。痛いよ」

やがて人の輪郭を取り戻したように見える同盟軍第十三艦隊司令官が、少年の両手を胸の上に乗せた。血の海からその身体を抱え上げて、すぐそこにある自分のベッドへとその肢体を横たえる。

端末を開いて、反射的にアレックス・キャゼルヌと表示された連絡先を押しかける。現状の配置図を思い出して、ヤンは次善の人選を行った。

〔いかがされましたか、提督〕

凛とした女性の声が暗闇に響いて、ヤンは普段通りの声音と表情でああ、と言った。

「シルバーブリッジの私の官舎へ、遺体保存用のカプセルと移送用の地上車を回してくれ。用件はそれだけだが、大尉、ホテルを出る際にはじゅうぶんに周囲に警戒して、護衛もつけること。准将以上の幹部全員に同じ内容を伝達してくれ」

〔はっ……は、あの、提督、何があったのですか〕

「ああそれと、今晩はそちらに戻るよ。すまないが大尉、君にも少し調べ物を手伝ってもらいたい。頼めるかい?」

〔それはもちろん……っ、提督〕

グリーンヒル大尉の声は、少し震えていた。思い至ってしまった自分の発想に、怯えているかのような声音だった。

〔ユリアンは……ユリアンもホテルに戻ってくるのですよね〕

念押しするように、努めて平静に確かめてくる彼女に、ヤンは微かにその目を伏せた。これ以上口に出したくない言葉は思いつかないが、指揮官たるもの自分の感情を別の宇宙に置いてくることには慣れている。

「私の官舎が襲撃を受け、居合わせたユリアンが死亡した。私が帰ったときには手遅れだった」

たぶんその場に崩れ落ちたのだろうな、という音が聞こえてきた。少し遠くなった声が、すみません、と謝罪を伝えてくる。

〔……護衛を連れて、そちらに参ります。警備システムや、警察への通報はどうなさいますか〕

「現時点では事件にしたくない。来てくれるのは助かるが、なるべく目立たないように頼むよ」

了解いたしました、と魂の抜けたままの声で言って、彼女は通信を切った。薄闇の中で、やはりヤンはしばらく微動だにしなかったが、やがてそわそわと周囲を見渡し始めた。困ったように自分の身体を見下ろして、それから丁度いいものを見つけたというように首元のスカーフに手をかける。アイボリーの、落ち着いた色をしたそれを広げて、なるべく綺麗に四角く畳んだ。

「ごめんよ。でもやっぱり、おまえのこんな姿は誰にも見られたくないよ」

首から頭頂までを覆えるほどのサイズにしたスカーフを、そっと赤黒い塊になったそれの上にかける。何重かに布を重ねたおかげで、即座に血が浮き出てくるようなことはなかった。ずっとずっと、なんでもできる美少年として人々に記憶してもらいたい。おまえが生きて、存在したことを、みんなに覚えていてもらいたい。

「しばらくは埋葬もしてやれない。おまえにはずっと、面倒をかけっぱなしだね」

ベッドの端に座ってそう語りかけながら、ヤンは繊細なガラス細工にそうするように少年の手へと触れた。明日の朝には公式の命令書が届く。そして十中八九、首都では武力衝突を伴う動乱が起きる。もはや自分の前に、障害らしい障害は確認できなかった。たった十数手、ことの赴くままに進めればこの国を詰める。トリューニヒトを殺して、そうして空いたマスに自身を進めるのを俯瞰から眺めて、ヤンは首を傾げた。自分は、この国を滅ぼしたいのだろうか。そうなのかもしれない、と被保護者だったものの指を撫でる。愚かなもの、非合理なもの、ユリアンを死なせたもの、つまり現在の同盟を構成する何もかもを、完膚なきまでに否定してやりたいと渇望しているのだ。ぜんぶ壊して、何もかも踏み躙って、そうしたらおまえの死に吊り合う何かを、天秤のもう片方に積み上げることができるだろうか。著しく公正を欠いた世界に対して、ヤンは負債の支払いを求めていた。すべて支払い終えるまでおまえを許さないと、宇宙の深淵を見つめていた。

「ねぇユリアン。ローエングラム侯なら、私を殺せるかな」

このままでは私を止める人がいなくなる。あまりにも自在になってしまう視野の一切に対して空恐ろしさを覚えて、ヤンは宇宙の反対側にいるそれの影を見た。銀河ひとつ潰すほどの怨嗟を背負い込んだ自分とバランスを取れるのは、やはり銀河ひとつを生み出せるほどの熱量を持った英雄だけなのではないだろうか。針の上にバランスを取るようにして、ヤンは今晩を限りにもう二度と戻らないだろう自室にて空白の宇宙の上に佇んでいた。

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