キルヒアイス推しの女オタクが作中に転生したので推しの幸せを守るために奔走したいと思います 作:響谷
ヤン・ウェンリーは悩んでいた。というよりげんなりしていた。ここ2週間にわたりイゼルローン回廊帝国側出口付近を哨戒する部隊からもたらされる報告内容を、そのままハイネセンに伝えるべきか、否か。個人的には伝えたくないがさすがにそんな政治的な判断を自分のような一軍人がするべきではないと民主主義を奉ずる精神が反論している。司令官室に集った面々に対して知らなかったことにするのはどうだろう、と言ったら冗談もほどほどにしてくださいと言わんばかりにムライ少将に咳払いされた。
「伝えてどうするってんだい。未だに攻め口を一つしか持たない、つい先日全体の3割もの兵力を失った我々に、また逆侵攻の命令が下されて去年のような愚行を繰り返すことになるのがオチさ」
情報の隠匿ではなく精査のための期間だと呼ぶことにして、ヤン・ウェンリーは紅茶風味のブランデーを飲んでいた。まるで水のようにどばどばとカップに注ぎ消費していく保護者の姿には慣れたもので、一、二杯好きに配合させてやったあと容赦なくそれを取り上げたユリアンがイゼルローン方面司令官の向かいに座る。
「でも……敵が内戦状態にあるのならそれに乗じる、というのはぼくからすると合理的に見えなくもないですが」
哨戒部隊からの報告は至極断片的なものだった。当然である。ヤン・ウェンリーともあろう者がたかが哨戒部隊如きに敵の領域へ侵入するような危険を犯させるわけがない。哨戒部隊からの報告は、敵基地の存在が確認されている星域から艦隊の出撃が見られた、というものだ。たったそれだけの情報でもヤン・ウェンリーには事態の裏付けとしてじゅうぶんであった。先帝が死去し、孫娘が帝位に立ってローエングラム侯が宰相となった。フェザーン方面からもたらされるその政治的な情勢が、軍事上の事象として表面化している。つまり帝国は、そう公に呼称することはないが内乱の時期を迎えているのだ。
「我々の戦略目的が帝国を滅ぼすことで、去年の大敗が無く、敵がローエングラム侯でなければ、ね」
かちり、とソーサーの音を立ててヤンはカップを置く。非常に穏やかな顔をして諭すようにいろんなことを教えてくれるのは、それがユリアン相手だからだ。こんなに素直な聞き手はイゼルローンに唯一この少年だけであった。
「場当たり的犯行というものは必ず暴かれるものだよ、ユリアン。確かに今、私が13艦隊を率いて攻め入ったらそこそこの戦果は上げるだろうね。だが我々には兵力がない。物資がない。戦略構想も戦術面の勝算も、政治的な手回しも何もない。行き詰まることはわかっているんだ。キャゼルヌ先輩がひどい顔をして絶対にハイネセンの連中には知らせるなと私に詰め寄ってくるんだから確実さ」
キャゼルヌ少将はその家族を伴ってつい2、3日前イゼルローンに来てくれたばかりだ。ふむふむ、と頷いて、それからユリアンは悩ましげにその目を伏せた。毎日の過酷な兵科訓練の後、このように紅茶を振る舞いヤンの癒しになってあげている彼はまことによくできた被保護者であった。
「相手はともかくこちらは戦える状況にない、ということですね。でも、やっぱり少し歯痒い気がします」
「そうかい?」
「この内戦を経て、帝国は強化されるのではないですか? 強くなった帝国軍と戦わなければならないのは、やっぱりぼくたちじゃないですか」
私はまだおまえが軍人になることを認めたわけじゃないぞ、と恒例になりつつある前置きを挟んで、ヤンはうーんと斜め上を見ながらソファーの上に膝を立ててしまった。
「帝国は強化される、か。うん。上手くいけばそうなるだろうね」
ヤンの曖昧な態度に、意外そうにその目を瞬かせてユリアンはこくんと首を傾げた。
「上手くいかない場合もある、とお考えですか?」
「というより、不安要素が多いんだ。ローエングラム侯は先帝の血縁と姻戚を結ぶ道を選んだ。少なくとも現在のところ、門閥貴族たちの旗頭になり得る存在を残したままなんだよ」
数秒かけてヤンの言葉を噛み砕いて、ユリアンは自分なりに歴史の展開を巻き戻してみる。旧体制と手を結ぶのでなければ、ローエングラム侯は他にどんな道を取ったのだろうか。
「……では、提督は、ローエングラム侯は門閥貴族たちを反対勢力として糾合させ全面対決ののち絶滅させるべきだったと、そうお考えなのですか?」
ユリアンの質問の完成度に満足して、ヤンは柔らかく微笑んだ。慈悲すら感じられるその表情のまま、彼は緩やかに首を振った。
「いいや。それではあまりに多くの血が流れすぎる。そっちの方がよかったなんて、私は口が裂けても言えないよ」
そう言いつつヤン自身も正答を決めあぐねているようだった。彼には見えているのだろう。少しばかり現状をマシにする努力はできても、最初から完全無欠な道を選ぶことなど誰にもできない。なぜならそんなものは人間社会に存在し得ないのだから。
「ローエングラム侯……もしくはその麾下にいる誰かの進言によって、帝国は大規模な内乱を避け政治上で決着をつけようとしている。それは人間に知性があることの証明だ。その努力に敬意を払いこそすれ、軽蔑したりする理由はないさ」
ヤン提督はその内戦を避けようとした誰かのことがお好きなんだな、と聞き手は自然に理解した。確かに、と頷きながらユリアンは質問を変えてみる。
「つまりローエングラム侯は旧体制が旗頭を得てしまうリスクを承知で政治闘争に持ち込んだというわけですか。提督が考える上手くいかない場合、というのはそのリスクが現実のものになり帝国内の内乱が長引くこと、なんですね」
うん、と頷きつつヤンはさらなる危険性に言及する。この頃にはふたりとも自分の前に紅茶があることを忘れて討議に夢中になっていた。
「ローエングラム侯は我々同盟が敗戦処理であたふたしてる合間に決着をつけてしまおうと思っている。いま起こってる戦闘だって実際の規模はせいぜい地方反乱が2、3ヶ所、といったところだろう。彼とその下に集う名将たちであれば不可能ではない計算だ。だが、おまえが言及した心配が現実のものになったとき、それは内乱と呼べる規模では収まらないものになるかもしれない」
「というと?」
「王朝の分裂だ」
ユリアンは驚いて、その口をわずかに開けてしまった。ヤンの口からはたびたび非現実的なほどスケールの大きな話が出てくるが、今回はまた格別だ。上手くその状態が想像できないでいるユリアンを放って、ヤンは深刻な表情で己の顎に指を伸ばした。
「王統が分裂すると下手をすれば100年単位の政治的分断を生む。南北朝時代、なんて名前をつけられてしまう程度に」
はぁ、と気の抜けた相槌しか打てないでいる聞き手の態度に気がついたのかヤンはハッとその顔を上げた。故にそんな状態になったとき、我々同盟はさらなる非情な戦いに引き摺り込まれるだろうとの予想は口にされることなく終わった。
「いやね、自分でも想像力が逞しすぎると思っていたんだ。たまたまいくつか、そんな例を歴史の中に見てきたなというだけで、大した根拠のある話じゃない」
「そうですか」
どうやら提督はただの茶飲み話だったということにしたいらしい。その意を汲んでユリアンは求められるままに優しく微笑んでみせた。紅茶を飲み干したヤンに倣って自分も手元のそれを空にして、流しにそれらを片付けにいく。
「でも、本当に何の自慢にもならないんだけど、嫌な予想ってだいたい現実のものになるのが私の人生だったりするんだよなぁ」
かちゃかちゃとエプロンをつけた背中の向こうから洗い物の音が聞こえ始める。おかげで気疲れしたようにソファーに背を預けたヤンのぼやきは、辛うじてユリアンの耳に届かずに済んだ。