キルヒアイス推しの女オタクが作中に転生したので推しの幸せを守るために奔走したいと思います 作:響谷
──婚儀の夜。皇帝の寝室。
フェルナーとの通信を切った直後、ガタリと天井まで届く扉の向こうから音が聞こえてエリザベートは身を固めた。何か考えたり心の準備をしたりする前にギィ、と両開きのドアが押される。
「マリー?」
違う、と直感しつつ確かめるようにそう口に出してしまった。くすりと笑ったように見えるその長い影は、明らかに男のものだった。
「皇帝陛下におかれては随分とお静かな夜を過ごされている由。その才知をさらに磨くべく勤勉に読書にでも励んでおいでなのでしょうな?」
この、声は。エリザベートの顔は恐怖と、わずかな高揚に引き攣った。聞き間違えるはずがない。低く甘い、脳髄を蕩かすような声。格調高い、されど悪意を隠さない皮肉。智勇の均衡においてはラインハルトすら凌ぐと言われる名将、その美貌は蠱惑的に湛えられた金銀妖瞳により魔性の域に到達する──。重い音を立てて扉が閉まり、彼は躊躇いのない靴音を立てて窓明かりの下に姿を表す。黒褐色の髪に縁取られた濡れるような美貌と、浮世離れした英雄のオーラは、まさにこの夜の中に顕現した妖の類いに違いないと思った。
「……ロイエンタール」
「ほう。覚えていただいていたとは恐懼の極みですな。王配殿下の影にあっては小官ごとき、路傍の小石に等しきものと自認しておりましたが」
なぜ彼がここにいる。助けを呼ばなくては、と本能的に枕元のベルを求めて寝台に上がる。慌てたネグリジェの女などまともに相手にするまでもないのか、ロイエンタールは大股でエリザベートの前を横切りベルの置いてあるチェストに寄りかかってしまった。
「随分な怖がられようだ。これは本当に生娘なのかな? 箱入り娘、なんて一番相手にしたくない種類なんだが」
一瞬何を言われているかわからないほど無礼な台詞を吐かれた。困惑と、不審、不快感が順々に湧き上がってきて怒りの順番はまだ回ってこない。驚愕のまま固まってしまったエリザベートを見て、ロイエンタールは軽蔑するようにふん、と唇を歪めた。
「父も家臣も身分も血筋すらも売って、おれたちの閣下を手に入れたのだ。今日くらいわがままを言って付き合わせても誰も文句は言わんだろうに」
ここまで率直に侮蔑を向けられたのは初めてのことだった。ラインハルトですらこんな小娘如き、という余裕をもって諦めたように妥協しつつ付き合ってくれている。キルヒアイスからの同情や取りなしも効いているのだろう。ラインハルト麾下の部下から嫌われるのは、覚悟していた。だが覚悟していたからといって実際にその悪意に耐えられるとは限らなかった。
「卑しい女だ。他に売り物になるものがないからといって身内を切り捨て、その身を差し出し己が恋情だけを求めるとは」
その言葉があまりに正鵠を射ていることに耐えられなくなって、エリザベートは胸を押さえ顔を背けてしまった。息をするのがつらい。そんなことは、自分が誰よりもわかっている。でも、他にどうしろというのか。怪物が跳梁跋扈するこの世界で、凡人である自分が何かを望み叶えようとするなら、どんな手段を取り得たと言うのだ。過呼吸気味になって顔を手で覆ってしまおうとしたけれど、それより先にロイエンタールがわたしの顎を鷲掴んだ。
「なっ、にを」
「と、先ほどまでは思っていたのだが。貴様、殿下を求めてはおらんな?」
息を呑んで、その金銀妖瞳に視線を吸い寄せられる。まるで芯まで暴かれるような恐怖を感じて、エリザベートは相手を突き飛ばし寝台の中程まで飛び退いた。
「不愉快だ。おまえなぞがあの方の隣に立って許される身分であることが」
その鼻に皺を寄せて、美貌の青年提督は渋面を作る。いやほんとに、怖くなるほど美しい。わたしがそれを向けられる当事者でなければ素直に喜んでいたのに。
「ッ、えっ、何……!」
信じがたいことに、ロイエンタールは大将の礼服のまま寝台に上がり込んできた。悲鳴を上げようとすれば頬を掴まれて、そのままシーツに頭を押しつけられる。
「……ッ……!」
暗殺される方がまだマシだった。生まれて初めて男に脚を触られて、どす黒い恐怖が自分の中を染め抜いていくのがわかる。こんなに泣いたことはないというほど底無しに涙が溢れて、視界は利かなくなってしまった。
「殿下はお怒りになるかな。そうすればおれは、ランスロットにならずに済むのだろうが」
どんな心理が働いていたのだろう。わたしを組み伏せることで、ラインハルトの隣に立とうとしたのだろうか。記憶の中のロイエンタールはいつも屈折していた。致命的に歯車を外したところで空虚を埋めるために血反吐を吐いて、最後は内側に崩れていった。そんな男が何を考えているか、わかるなんて言えるはずない。でもやっぱり、彼は自分などではなくラインハルトを見ていた。痛みと傷だけを残していった行為の中で、エリザベートはそれだけを理解していた。
「そろそろ同盟に対するなんらかの態度を示さねばならんだろう」
婚儀の夜だというのにローエングラム侯は宰相府で国策を練っていた。オーベルシュタインは沈着に相手をしながら、花嫁たる婦人に対するアフターケアについても思案を巡らせている。
「はい。即位式も済ませましたし、政治的空白の期間は終わりました。向こうもそろそろこちらを見る余裕が戻ってくるでしょう。失った兵力が戻ることはありませんが」
嫌味ですらない。事実の指摘だ。うむ、とラインハルトは頷いて手元の資料を机に置く。
「やれんこともないが、今は戦いたくない。宮廷内に穴を空けては致命傷になるし、地方反乱に常に1、2個の艦隊を動かしている。何より民心が安定しない。門閥貴族の残党どもと戦うのは構わないが市民の反乱となっては目も当てられん」
「仰る通りです」
すでにラインハルトはいくつかの革新的な政策を強行している。民衆の支持は確実に獲得しつつあるが、戦争が市民階級に負担をかけるのはいつの時代、どんな政治体制でも変わらぬことだ。最終的に目指すかたちを念頭に置けば、ラインハルト陣営が民衆を弾圧しなければならなくなるような事態は絶対に避けるべきであった。
「ついては当面のところは宥和政策を取るべきかと。同盟側もあれほどの大敗の後ではそれをこそ望むでしょう」
オーベルシュタインの言葉に頷いて、ラインハルトは口を開く。
「キルヒアイスも同様の考えだ。イゼルローンに対する使者を任されたいとも言ってきている」
「副宰相閣下が……」
ぴくりとその目を鋭くして、オーベルシュタインが眉を顰める。繰り返された説教の気配を感じて、ラインハルトはわずかに身構えた。
「殿下。組織にNo.2は必要ありません。副宰相などという地位は組織に混乱をもたらすだけです。ロイエンタール、ミッターマイヤー両将とのバランスもお考えください」
「わかった、わかった、卿もよく飽きないな……」
片手を上げ無理やりオーベルシュタインを制止して、ラインハルトは盛大なため息を吐いた。
「イゼルローンへはとりあえず式典の打ち合わせと称した使者を送ろう。宥和の意志はそれで伝わる。キルヒアイスはいったんオーディンに呼び戻して幕僚会議に出席させる。正式な親善使節決定はそこで、ということでよいか?」
本当は今すぐにでもキルヒアイスに全権を委ねたいのだろう、と主の態度に読み取って、オーベルシュタインは不本意ながらも一時的な譲歩を呑んだ。その目を閉じて御意を示し、彼らは次の案件の処理に移った。