そして奈落へ墜ちてゆけ   作:しゅないだー

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#1 墜ちた星

 

 

 このオースという街は、広いようでずっと狭い。中心にはアビスと呼ばれる大穴が鎮座し、周囲を海に囲まれているせいだ。

 アビスの中には地上とは全く異なる独自の生態系が広がり、先人達の遺産である遺物が眠っている事もあって、この星最後の神秘だとか何だか大層な呼ばれ方をしているらしい。

 そんな環境もあってオースの主な産業は遺物の発掘、それを海外に高値で売り捌く事で生計を立てている。直径1000mはある大穴を取り囲むようにして建造された町並みは、そんな営みを千何年と続けてきた。変わり映えする事がない暮らしの傍にはいつもトコシエコウが香っていて、そして今日みたいに風が強い日には薄っすらと潮の香りがする。

 探窟家達を支えるこの街は退屈ではあったが、それは決して悪い事ではない。少なくとも我が身を危険に晒しながらアビスに潜む原生生物と鎬を削るよりはよっぽど健康的だと自分は思う。

 今の自分の職場、滑落亭の入り口へ繋がる石段に座り込んでそんな取り留めもない事を考えていた。首に下げている黒笛を特に理由も無く弄ぶ。

 

 

 自分が探窟家を辞めて、数年が過ぎようとしていた。

 今は"黎明卿"と呼ばれている白笛の元で働いていた日々を少し懐かしく思う。まだ背も伸び切らぬ歳にあの人と出会い、弟子入りを志願した。

 幾度も深層に潜り、紙一重で命を得ながらそこで生きていく(すべ)を学んだ。あの人や他の祈手(アンブラハンズ)は自分にとって良い師匠ではあったが、それが決してその人格を担保するとは限らない事に気付いたのは月笛を得てからだった。

 遺物の横流し、生態系の破壊、違法な人体実験。傍から見れば悪人と後ろ指を差される事も納得の行く所業だった。それでも『新しきボンドルド』は自分にとってただ一人『先生』と呼べる存在だった。自分の特性を理解し、埋もれていた才能を開花させ、適した装備を与えてくれた。無償の愛がそこにはあった。

 あの人の為ならどれだけ多数の競合探窟家とも、どれほど強大な原生生物であろうとも刺し違える。それくらいの覚悟はあった筈なのに。

 

 それでも、"あれ"だけは何故か耐えられなかった。全身の細胞一つ一つがそれに触れる事を拒否した。黎明を望む探窟家を、白笛に押し上げた特級遺物。

 

 随分と前置きが長くなったが、とどのつまり。

 自分は祈手の恥晒しだという事だ。

 

 ─────────────────────────────────

 

 

「デャホーデ!」

「えっ、あっ、はい! 失礼しました、何でしょう!?」

 

 浸っていた感傷が泡のように消え、今という時間に引き戻される。

 腰掛けている石段から飛び跳ねるようにして恐る恐る声の主へ向き直った。まだ開店時間ではないとはいえ、仕込みもせずにこんな所でぼんやりとしているのを見られれば店長から大目玉を食らう事必至だ。

 

「今日はハモロゲ丼やってるか?」

 

 米をハモロゲ出汁で炊き、様々な具を乗せた丼料理。その名前を口にする男の、顔に施された入れ墨のような装飾には馴染みがあった。ほっと胸を撫で下ろす。大柄な男はもう一度「デャホーデ」と独特な挨拶を投げると自分の隣に腰掛ける。

 

「クラヴァリさん、帰ってたんですね」

 

 単独行の天才と名高い彼は人の良さそうな顔で屈託なく笑った。若干痩けた頬はきっと探窟帰りだからだろう。

 首に下げられている黒笛は四層までの立入りを認められている事を表している。それは裏を返せば五層、そして最早人が人の姿のまま戻る事が叶わない六層への侵入は許されていない。ただ例外もあり、白笛に付き従う探窟隊は黒笛や月笛であっても深層への立入りが便宜上許されている。

 そもそも三層、四層の時点で黒笛であろうと単独行にはかなりのリスクが付き纏うが、それでも必ず五体満足で戻ってくるこのクラヴァリという探窟家を少なからず自分は尊敬していた。

 

「今回は三層までだ、どうにも様子がおかしくてな。タマウガチを見かけた」

 

 命穿ち(タマウガチ)、正式名称はトカジシだがその名前で呼ぶ者は殆どいない。

 深界四層(巨人の盃)を代表する原生生物であり、その危険度は理不尽の域に踏み込んでいる。網を通す程の靭やか且つ強靭な針には猛毒があり、もはや予知能力といっても差し支えないレベルの勘の良さも相俟って数多の探窟家を屠ってきた。真正面から対峙すれば十全な準備を整えた黒笛でさえ危ういだろう。

 そんな四層の頂点が何故自らの縄張りを放棄して三層に現れたのか理解できず、思わず首をひねった。

 七層から飛んで来るサカワタリや気流に乗って上の階層に昇ってくるベニクチナワとは訳が違う。そもそもタマウガチの食性は藻といった植物性で、餌を求めていたとしても渇いた第三層(大断層)にやってくる筈がない。

 

「なんでわざわざ階層を跨いで……」

「さあな、まあ見掛けたのは一体だけだ。一応念には念を入れて戻る際に監視基地(シーカーキャンプ)の『不動』に伝えておいたが」

「なら安心ですね」

 

 二層の守人であるその名を聞いて納得したように頷く。白笛はその身に一杯の尊敬と祝福を受けているが、その実皆大なり小なりイカれている。ただその中でも"不動卿"動かざるオーゼン、あの人はかなりマシな部類だ。きっと早急に対処してくれるだろう。

 

「ああ、白笛と言えばお前知ってるか? 黎明が……」

「今日はやってますよ、ハモロゲ丼」

 

 続きを遮るように強引に話を最初に戻す。

 このオースという街では稲作が行われていない。米は海外から輸入するしかなく肉などの食材も基本的にはアビスから賄えるが、自然を相手にしている事もあっていつ如何なる時でも目当ての食材、目当ての料理を食べられるとは限らない。

 その中でもうち(滑落亭)はかなり頑張っている方だとは思う。

 輸送手段を含めたより安全なアビスへのルートが確立すれば話はまた変わってくるだろうが、現状では未だ難しいだろう。目当ての料理が今日は出てくるか先に確認するのは、店の手間を減らす為の探窟家のマナーでもあった。

 

「それは助かる、久し振りの米を慈しむとするか。またあれにありつける幸運の為なら願掛けの甲斐もある」

 

 自分がその話題を嫌っている事を察したのか、彼は快く話題を変えてくれた。

 

「そろそろ店開きですから、どうぞ中へ。そしてお帰りなさい」

 

 年季の入った重々しい観音開きの扉を開く。

 探窟家御用達酒場、滑落亭。

 

 その不吉な名前には『縁起の悪い場所に行く事で、代わりに探窟には幸運を持って行って欲しい』という主の願いが込められている。普段はいがみ合っている探窟隊同士も、この場では大人しく情報を交換し、出された料理や酒に舌鼓を打つ。

 

 祈手改め、滑落亭の料理番。

 墜星のモルグなんて仰々しい二つ名が付けられた自分にしては、悪くない働き口だと思う。

 

 ─────────────────────────────────

 

 

「おい見ろ、またお前の先生とやらが名を売ってるぞ。五層までの直通エレベーターだとさ」

「止めてくださいよ、黎明卿の話。自分が祈手辞めてもう幾年は経ってるんですけど。今はしがない料理番です」

 

 丸縁眼鏡を掛けた壮年の男性が、椅子に座ったまま今朝の新聞を投げ付けてくる。彼こそがこの滑落亭の店長で、地上に戻ったはいいものの働き口に困っていた自分を拾ってくれた大恩人である。

 その右足は膝から下が欠けており、行き場を失った様にゆらゆらと揺れていた。

 

「はん、その胸に下げてる黒笛が泣いてらあ。祈手辞めたなんて言っても幾らでも売り込み先はあるだろうが、白笛の元探窟隊なら地臥せりだって嫌な顔はしないだろうよ」

「そんなの不義理じゃないですか、それに探窟はもういいんです。冒険はこっちに帰ってくる時十分堪能しました」

 

 滑落亭は一言で言ってしまえば、探窟家の為のキッチンだ。

 アビスで採れる野草や肉に加え、異国から輸入した米などの食材を美味しく召し上がってもらう事でこの街の稼ぎ頭である彼らの英気を養っているという訳だ。

 コックは探窟隊の料理番や引退した者、給仕も探窟だけでは到底食べていけない青笛などが賄っている。その中においてまだ現役の黒笛といって差し支えない自分が飯炊きをしている事は、傍目から見ればかなり異質だろう。

 実際ここで働き始めてそれなりに経つが、殆どの従業員に未だに腫れ物に触れるような扱いをされる。仕方が無いと言えば仕方が無い。

 不機嫌そうな顔をしている店長を尻目に厨房に入る。

 彼も元は名の知れた探窟家だったらしい。足を失って最早アビスに潜る事は叶わなくなったが、それでも行き場を失くした夢を託すようにこの滑落亭を開いたそうだ。

 ふと考える。

 夢の中で死ぬのと、夢を追い切れずに生きる。本当に不幸なのは一体どちらだろうか。どっちでもいいな。

 

 今日上がってきた食材には珍しくタチカナタが含まれていた。一層に生息する巨大な甲殻類で、身はシンプルに茹でてやると美味い。味噌もまた珍味で酒の肴として人気だ。今日の主役は間違いなくこいつだろう。

 他の料理番に声を掛けながら手際良く作業を進めていく。

 スリルこそないものの、確かに誰かの役に立っているという実感で心が満たされていった。

 生きていくのにロマンは必要無い。これが今の自分の生活だ。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 そんな日常が崩れてゆく、一つ目の出来事。

 滑落亭の常連でもある黒笛、ハボルグさんが店を訪れたのはある日の夜更け、まだ酒盛りの続く店を早上がりしようとした矢先の事だった。敵同士である事も多い探窟家の中で、朗らかな性格の彼を嫌う人はいなかった。自分の数少ない交友関係の一人でもある。

 そんな彼が持ち込んできたのは何とも奇妙な話だった。

 

「月笛が先導して成りたての赤笛四人に一層について仕込んでやる、って催しだったらしいんだがな。一人も帰ってきていないんだと」

「それは……変ですね。一人二人なら滑落事故も有り得ますが。原生生物の線にしても一層で全滅するとしたらゴコウゲかな、でも月笛が子供を連れてあれの縄張りを侵すミスをするとも思えないし」

 

 月笛は三層までの探索を許されている、言わば師範代だ。赤笛を少々連れていた所で一層の環境に躓くようではその笛を背負えない。

 何とも言えない薄気味悪さが話の節々に漂っていた。

 

「ああ。とりあえず夜明けを待って捜索隊を出すらしいが、事態が事態だ。組合から依頼が出てる」

 

 何となくその先が読めた。わざわざ彼が自分の元を訪れたという事は確実に黒笛案件だ。そして余程人手が足りないらしい。

 

「現在地上にいる有志の黒笛に捜索願いだ。三層でのタマウガチ目撃例もあるしな、一層とはいえ何が起こっているか分からん以上月笛を出すのは組合も不安らしい」

「……」

「どうする?」

「通しで一年は潜ってないんですよ、自分。ブランク長過ぎですって」

 

 少し考えさせてください、そう言って自分の部屋へ戻る。寝床と簡単な物入れくらいしかない、小さな部屋だ。

 染み付いた料理の匂いを落とすように、洗面所で顔を洗う。鏡に映っていた顔は自分の物である筈なのに、いつまで経っても見慣れない。暗い海を思わせる深藍色の髪は、一部分だけが幾度もの探索でかかった負荷により白く濁り、奇妙に捻れていた。所謂『奈落髪』という奴だ。

 その上に頬にはマドカジャクに付けられた傷痕が深く残っている。御世辞にも上等とは言えない面だ。

 それに幼い頃に腹一杯食べられなかったからか、同年代にも見劣りする体格。偉丈夫の多い祈手の中では文字通り子供のようだった自分を思い出す。

 

 ……赤笛と言えば、まだ殆ど子供だ。このアビスにおいて笛を下げ、遺物で稼ぐ以上そこに大人も子供も関係無い。それが道理だ。道理だが。

 

「……行くか」

 

 物入れの奥に仕舞い込んだ白い外套を取り出す。

 死装束(シュラウド)と呼ばれる祈手の中でも戦闘に長けた者しか着る事の許されていないこれに、祈手を辞めた自分が袖を通すのは後ろめたい気持ちもあったが、他に探窟用装備も持ち合わせていない。流石に仮面を被る事は止めた。刻まれた幾何学模様をなぞると、ぼんやりと光るそれをもう一度収める。

 バックパックにハーケン、ロープ、応急処置セットを詰め込む。捜索には迅速さが肝要だ。時間がかかればかかるほど、生存率は大きく下がる。

 削れる荷物は削った方が良い。必要最低限の武器であるナイフ二本をベルトに差し、蔦を切り開く為の鉈を腰に提げる。

 

 

 最後に、ベッドの下に置いていたある遺物を手に取る。

 通常の安全靴より一回り程大きいサイズの靴に幾つもの孔が空いている、そんなデザインだった。青笛の頃から自分を何度も助けてくれた相棒とも言えるそれに、少し迷って履き替える。

 

「いっ……」

 

 足を入れた瞬間、鋭い棘で刺されたような痛みが走る。何とか堪えようと数分の間、じたばたとベッドの上で転げ回っていた。

 

「だからこれ使うの嫌なんだよな……」

 

 やっと痛みが収まり、誰へという訳でもない悪態を一頻りついた後。

 胸に下げた黒笛にそっと触れると、夜のアビスへ繰り出した。

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 ハボルグさんと合流してまず手渡されたのは、一丁の銃だった。

 

「弾に加工した石灯を詰めてある。信号弾として使ってくれ」

「何か見つけたらこれで知らせろって事ですか」

「ブランクがあるんだろ? 何かあっても先走るなよ」

 

 素直に礼を言って受け取る。最近は実戦に身を投じる事もなく、どれくらい身体が鈍っているか自分でも分からない。

 

「他の黒笛も多少は来てるな……俺は方舟の方を探してみる」

「じゃあ自分は丘を見てみますよ。未踏域だったらもうそれは仕方ないです」

 

 このアビスでは一層、二層といった低階層でさえ未だに誰の手も入っていない未知の地形が発見されることがある。未踏域と呼ばれるそこに何らかの理由で入り込んでしまい、出られなくなっていたとすれば息のある内に救助できる可能性は限りなく低いだろう。

 瀑布ゴンドラの方に向かうハボルグさんと別れ、多階層の丘を目指す。一層の中でもかなり深い場所にあり、ゴコウゲと呼ばれる蜘蛛に似た原生生物の縄張りも含まれている場所だ。

 腰に付けたランタンを灯りにアビスを駆ける。街灯一つないこの場所では本当に奇麗に星が見える。

 何だか家に帰ってきたような、そんな訳の分からない懐かしさが込み上げてくるまま目的地に辿り着く。だが、すぐにそんな感傷は消える事になった。

 足を踏み入れた途端、辺りに漂っている異臭に気が付いたからだ。鼻をつく饐えた臭い、今までの経験がこれ何かの死臭だと告げている。

 

 その正体はあっさりと見つかった。

 腹を切り裂かれ、臓腑を撒き散らしたゴコウゲの死骸が草地に転がっている。咄嗟に信号弾を空に向かって放つ。一層切っての捕食者を無惨に殺した何かが近くにいる。まだぴくぴくと微かに動くその様を見るに、この惨劇が起きてそう時間は立っていないだろう。

 目を閉じて辺りの環境音に耳を澄ませる。

 

 

 おかあさん、おかあさん。

 

 

 最悪の想像を胸に忍ばせて声の方へ向かう。

 そこにあったのは白い羽毛、長く伸びた鑢のような舌、人と聞き紛う哀願。

 三体のナキカバネが丘の上に陣取っていた。コロニーを形成している途中なのだろうか、倒木で器用に巣のような物を作り始めている。

 

 その上で、とっくに息絶えた月笛と思しき男が臓物を貪られていた。

 

 

 鐘を打つ心臓を何とか鎮め、辺りを観察する。よく見れば、その内の一体は岩陰の隙間に隠れる何かに舌を巻きつけていた。目を凝らしてみると中にいるのは……どうやら赤笛だ。引きずり出されないよう必死に抵抗していたのだろうか。

 

 ハボルグさんが到着するのを待つ猶予は恐らくない。 

 音を立てないようにそっと屈んで、靴に仕込んである遺物を起動させる。地上に戻って以来使う機会こそなかったが、壊れていない事を祈るしかない。

 

 

『──泡沫に沈む(テンペスト)

 

 

 先生(黎明卿)に名付けてもらったこの遺物は至極単純で、故に暴れ馬だ。周りの空気を吸い込み噴出する、それだけのシンプルな機構。だが操作を誤れば無様に上昇負荷を受けるか、地面に叩き付けられるかの二択だ。

 何れにしても、ブランクの空いた自分に乗りこなせるかは五分五分といった所だろう。 

 渦を巻きながら靴へ吸い込まれていく空気が、眼前のナキカバネを威嚇するように音を立てた。啜り泣きにも似た鳴き声を上げて獣がこちらを睥睨する。左右非対称の眼球が悍ましく蠢く様は、二層という低階層に住む原生生物でありながらこの大穴(アビス)という場所がどういう物か端的に指し示していた。

 並の人間ならば少し食いでのある餌にしかなれないであろう致命的な存在。死ぬか生きるかの生存競争の中には人の崇高な理念などポケットの中の毛糸屑よりも役に立たない。

 

「落ち着け……」

 

 自分へ言い聞かせるようにしながら鉈の位置を確認し、空いた手に二本のナイフを忍ばせながら改めて三体の場所を頭に叩き込む。少し離れた所で夢中になって月笛を貪っているのが一つ。岩の隙間に隠れている赤笛を穿り出そうとしているのが一つ。そして自分に対して今翼を広げて飛び掛かろうとしているのが一つ。

 タイミングを合わせて息を大きく吐きながら、真正面から飛んでくる爪をすり抜けるようにして躱す。

 ナキカバネの特徴の一つとして、頭頂部にある右眼が挙げられる。学者達によればこれは視野をより立体的にし、死角を無くす働きがあるらしい。兎にも角にも要するに右眼は狙い辛い、潰すなら左眼からだ。

 

 すれ違い様、ナイフの一本を左眼に突き立てる。悶えるようにその場で足踏みをする獣の左翼を掴んで、身体を駆け上がるようにしながら空中へ飛ぶ。3m、まだ上昇負荷は考えなくていい。そのまま重力に身を任せて落ちるようにしながら、残った右眼にナイフを捻じ込んだ。

 転がって受け身を取ると、すかさずその鼻っ柱を崖の方に向かって渾身の力で蹴り飛ばす。鼻骨を折った確かな手応えがあった。よろけたナキカバネはそのまま絶叫と共に足を踏み外して落ちていった。

 

 

 一体がやられたのを見て、残りはようやく目の前にいる相手がただの餌ではない事に気付いたらしい。月笛の死体、岩陰に隠れていた赤笛。それぞれの目的を放棄してこちらを威嚇するように吼える。二体同時は分が悪い。手前側にいる月笛を喰らっていた個体に狙いを定めた。

 

 遺物によって足元から吹き荒れる風に身を任せ、瞬間的に加速する。

 

「……ッ!?」

 

 気付いた時にはナキカバネの胸に勢い良く激突していた。脳が揺れるような衝撃に思わずふらつく。どうやら制御に失敗したらしいが、面食らっているのは向こうも同じだ。

 腰に提げていた鉈を抜くと、勢いよく喉笛に突き上げる。獣の白い羽毛が、喉から漏れ出る風を切るような音と共にみるみる鮮血に染まっていく。暫く藻掻いていたが、やがて声を上げる事もなく地に臥した。

 

 すぐさま動かなくなった死骸から鉈を引き抜こうと手を掛ける。抜けない。

 

「嘘だろ……」

 

 筋繊維が刃に絡んでいるらしい。こんな事ならちゃんと研いでおけばよかった。鉈を諦めて最後の一体に向き直る。不動卿は素手で獣を引き裂くらしい。黒笛の自分もその真似事くらいはできる事を祈るしかない。

 

 狙うは首、一撃で叩き折る。加速を上手く扱いながら爪や舌を躱して懐へと潜り込んだ。そのままの勢いで上段蹴りをナキカバネの頭に命中させる。

 インパクトの瞬間、遺物に貯めた風全てを解き放つ。轟音と鎌鼬、到底人の身に許される筈がない速度の代償に、蹴りを入れた足が軋むのを感じる。大した手ごたえもなく、獣の頚椎が折れる枯木を叩き割ったような音がした。まだ微かに動くその頭を思い切り踏み砕く。

 

 終わった。

 

 

 完全に沈黙したナキカバネの死骸を乗り越えて、痛む足を引き摺りながら岩の隙間へ歩いていく。驚かせないようそっと覗き込んだ中には赤笛が四人、しっかり揃っていた。あの月笛はきっと自分のなすべきことを全うしたのだろう。巣の上でだらしなく開かれた瞼をそっと閉じてやり、祈る。

 

「怪我はない?」

 

 赤笛達にそう訊ねると、足を掴まれていた年長者であろう女の子が瞳一杯に涙を浮かべながら黙って首を縦に振る。他三人も極度の緊張で衰弱しているものの、外傷はなさそうだ。

 

「もう少し待ってたらもう一人おじさんが来るから、そうしたら帰ろう。お腹減ってない? これ食べる?」

 

 バックパックの中に眠っていた行動食4号を差し出す。一口齧るなり皆一様に何とも言えない顔をしているのを見て、久々に笑みがこぼれた。

 程無くして来たハボルグさんに呆れた顔でたんまり絞られながら帰路を往く。黒笛も怒られるんだね、と後ろでひそひそ耳打ちし合っている赤笛に対して情けないやら恥ずかしいやら、ただ俯くしかなかった。

 

「お前、自分でブランクが空いてるとか言ってただろう。何の為に信号弾持たせたと思ってるんだ」

「いや本当にすみません、返す言葉もございません」

「ったく、まあ無事で良かったよ。本当によくやった」

 

 乱暴に、だが確かに親しみの篭った手が自分の髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回す。頭を撫でられるという経験があまりなく、思わず肩をすくめる。けれど何だか悪くない気分だった。

 

 

 三層に現れたタマウガチ。一層にコロニーを作ろうとしていたナキカバネ。

 何処か心の隅に引っかかるものの、とりあえず今は蓋をして日常に戻る。それを繰り返していけばいい。

 

 ─────────────────────────────────

 

 そんな日常が崩れてゆく、二つ目の出来事。

 件の赤笛捜索からまだ一週間も経たない頃の事だった。いつものように探窟家たちへ振舞う料理を作っていた自分の肩を店長が叩いた。

 

「モルグ、お前に客だぞ」

 

 客、と言われて首を傾げる。孤児であった自分の交友関係は決して広い方ではない。祈手となってからも友人よりは敵が多い、況してや今自分がこんな所で飯炊きをやっているのを知っている探窟家はそういないだろう。

 キャラバンから仕入れた異国の香辛料を鍋に加えながら冗談交じりに返す。

 

「客ですか、指名までされるなんて自分も出世しましたね」

「馬鹿、違う。(ハンズ)だ」

 

 思わず味見をしていた匙を取り落とす。

 

「確かグェイラとか言ってたな……ああ何だ、いるじゃねえか店の中に」

 

 近くにいた青笛に調理を引き継いでもらうと、急いで厨房を出る。店長が指し示す先にあったのは見知った顔。ツチバシの焼串をつまらなさそうに頬張っていた男は自分の姿を認めると、懐かしそうに笑って手招きした。

 

「よお、一番弟子。そんなに見つめんなよ、照れちゃうだろ」

「先輩、何でここに」

 

 まあ座れよ、そう言われておっかなびっくり机を挟んで着席する。申し訳程度に頼んだのか、机に並べられている何品かの料理は冷めていた。

 

「旦那からの言伝だ、簡単に伝えるぞ。今非常に手が足りていないので五層での作業に協力してもらえないか。それが不可能であれば枢機に還す光(スパラグモス)の返却をお願いしたいってさ。何か質問は?」

 

 聞きたい事は山のようにあった。この数年間今まで接触を図る事もなかったあの人が、わざわざ祈手を差し向けてまで自分を呼び戻す理由。逃げるようにして前線基地を出た自分に対して思う所はないのか。けれど今一番知りたいのはそんな事ではなかった。

 時化た海のような心を鎮める為に、大きく息を吐く。吸う。もう一度吐く。

 

「とりあえず、一つだけ教えてください」

 

 じっと彼の瞳を見つめる。

 

「先輩は、精神隷属機(ゾアホリック)を使ったんですか」

「ああ。それが今の祈手の条件だ」

 

 目の前の男の瞳の中に揺らぐ何か。そこにあの人の面影が隠れているような気がした。

 

 

 

 ─────────────────────────────────────────────────

 

 

『泡沫に沈む』

 競売名:テンペスト

 

 靴状の遺物加工品。等級としては二級に当る。

 三級遺物である"空気まんじゅう"や黎明卿が独自に収集した二級遺物"消えない渦(シュトローム)"を元に製作。とある祈手の為にチューンナップされた専用装備であり、市場には出回っておらず競売名も黎明卿が独自に名付けた。

 装着すると内部に仕込まれている原生生物由来の刺胞が脚部の神経系に接続される事で、直感的な操作を可能とする。

 裏面や側面にある吸気口から空気を吸い込み、必要に応じて排気口から噴出するのが主な効果であり、暑さを凌ぐ送風機程度から人や原生生物を容易に吹き飛ばしうる程の風量まで調整が利くが、あくまで貯め込んだ空気を噴出するだけであり使用までに少々時間を要する。

 移動から落下対策、体術と織り交ぜての戦闘など多岐に渡って応用できるが、上昇負荷が致命的であるアビス深層においては使い所が限られ、また扱い自体も極めて難しく長年の修練が必要である。

 

 

 

 

 

 

 






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