「羨ましいよ」
夕暮れ。学校の隣を歩いていたとき、不意に彼女はそういった。
オレンジ色に染まる空に、窓から漏れ出る吹奏楽の音が溶けていく。
様々な楽器が、それぞれの音をだしているせいで、まるで音楽にはなっていない。
けれど、その感覚は懐かしかった。
自分は楽器を叩いて演奏しているけれども、周りの音色が騒がしすぎて、果たして本当に正しい音を奏でているのかさえもわからない。不協和音すぎて耳が痛くなるほど。でも、やらないわけにもいかないし、ここ以外にやる場所もない。
いざ、その騒音とも言える音楽が鳴り終わったら、次はキーンと耳鳴りが始まる。
もうはるか昔にも、つい最近のことのようにも思える。そんな音だった。聞いてて苦しくなる音。これは、耳じゃなくて心の話。
そう、そんな音を聞いて、彼女は『羨ましい』と言った。
僕は黙ってそれを聞いた。なんで、どうしてともいわずに。
僕にとって、学生時代の部活動の記憶は、そう大して色鮮やかなものじゃなかった。なんなら、一年もせずに辞めてしまっているし。
朝が弱い僕にとって、ただでさえ登校に時間がかかる地域に住んでいたのに、もっと早く起きて眠たい目をこすりながら練習する意味がなかった。幸いというべきか不幸というべきか、僕はそこそこに音楽ができた。小さいころからピアノを弾いていたし、僕の担当はパーカッション。楽譜を見るのも簡単だし、少し練習すれば、大体ある程度できた。だから、わざわざ辛い朝練習に駆り出されたくはなかったんだ。
「私には、そんな苦い思い出すらなかったからね」
なんにも感じていないような、もしくは自嘲的な表情を浮かべて、彼女はそう言った。
だけど、ここまで長い付き合いだ。彼女の考えていることくらい、僕はわかる。
理解したうえで、それは多分、『隣の芝は青い』とかそういう類のものだろう、と思った。
逆に、僕は彼女の方が羨ましかった。
類まれなる音楽の才能に恵まれ、それでいて努力を怠ることをしない人間性。理想的だ。
自分の好きな音楽を奏でることができ、そしてより良いものを目指そうという気持ちも持ち合わせている。
僕には、両方なかった。
音楽は、好きだ。自分の人生の多くを占めている。
でも、僕は天賦の才はなかったし、努力ができるほど強い人間でもなかった。
不幸なことに、経験に胡坐をかく才能だけはあった。ただ単に長く音楽に触れているがゆえに、たいていのことは直感的にわかる。弾けと言われたら少し練習すれば60~80点はだせる。
けれども、100点に至るまで努力をしようと思わない。思えない。
努力をすることで、自分の才能を否定したくなかったんだと思う。いや、否定したくない。
「音楽は好きだよ。自分の好きな曲を、好きなように、好きなだけ弾ける。こんなに楽しいことはない。けどね、もしあの時、君が横にいたらって、そんなことを思ってしまうんだ」
彼女は紛れもなく天才だった。
それゆえに、孤独だった。多分、よくある話だと思う。あの時の僕と彼女は別の世界に生きていた。
ほんの少しだけ音楽ができるから、惰性で吹奏楽部に入った僕と、全国を、世界を見据えている彼女とでは、まるで違う。
だから、彼女は僕みたいな普通の人間が羨ましい。だって、普通じゃないから。ないものねだりだ。贅沢なことで。
「あの時、君がいてくれれば、私は一度でも音楽を嫌いになることはなかったんだろうな」
お互い、学校を卒業してからすぐ、彼女はプロとしての音楽活動を始めた。
有名な音楽大学に入学しつつ、そんなものは歯牙にもかけないほどの実力が、彼女にはある。
本当に、一度でも同じ学校にいたことが信じられないくらい。
でも、それも数年もしないうちに終わった。
唐突だった。
それはもう、衝撃的なことだったらしい。僕の耳に入るくらい。
「あの時はね、別に嫌になったわけじゃないんだ。けど、別に私がそこにいる意味がわからなくなった。君にもあるだろう? そういう経験。今までの人生って、なんだったんだろうって思う瞬間がさ。ひとしきり笑ったあと、髪を洗っているとき、寝る寸前のほんの数分間。思考に空白が生まれたとき、いっきになだれこんでくるんだ」
風になびく髪を抑えて、「今の音、チューニングズレてるな」と彼女は呟いた。
人間誰しもが、いつも人生の最高潮にいるわけじゃない。少しでも陰りが見えた瞬間、今までの人生とこれからの人生を見直して、絶望するときがある。
あの時の僕に彼女は必要なかったけど、彼女には僕が必要だった。
「そういうわけで、吹奏楽を聞くと思い出すんだ。昔のことをね」
まぁもう気にしてないけどさ。なんていうけど、これも嘘だ。彼女もわかってる。
「君も、時折思うだろう? もっとちゃんと音楽をやっていれば、って」
その通りだ。
僕には彼女みたいな才能はないけど、音楽以外に普通の人より突出したものもない。
持っている武器を磨かず腐らせていることに対する後悔がないわけない。
どっちつかず以上に、無駄なことはないよ。それは重々承知している。
「はは、お互い様だよね。私たちは欠けてる者同士さ。だいぶタイプが違うけどね」
ぎゅっと、互いに手を握りなおす。
随分と長い間立っていたみたいだ。いつの間にか吹奏楽の喧騒は消え去り、吹奏楽の音色が聞こえてきていた。
あぁ、今年の課題曲のマーチはあんな感じなんだ。なんか、いつもと変わんないな。
「むむ、いかにも部活の音楽って感じの音がするな」
それ、結構な暴言な気がするけど……。
でも、異論はない。あれは僕の知ってる嫌いな音楽だ。今、あの日に戻れたら、と言われたら、多分僕は吹奏楽部になんかはなから入らない選択をする。
もうあんなのはたくさんだ、二度と経験したくない。
でも、多分今の僕と同じくらいの時に、後悔することになるんだろうな。
「君は、いまだに未練たらたらなんだろう? いくじなしめ」
思わず笑ってしまう。こいつ、オブラートに包むということを知らないな。
「大丈夫だよ今の君には私がいるから。どれだけ辛くとも、それを打ち明けられる人間がいる。昔の私に君が必要だったように、今の君には私が必要だ。残念なことに、私と君と、音楽とは一蓮托生らしい。諦めてくれ」
繋いでいる手は、確かに音楽をやっている者の手で、それでいて頼りなく、でもたくましい手。
過去はいくら妄想しても変えられないし、どうせ未来もろくなことにならない。
なら、せめて明日後悔しない程度にはしないといけないな。そう思った。
どうせ、明日には忘れてるけど。