無意識なものだろう。ソファに座る二人と、扉前に立つ一人の視線が突き刺さる。少しだけ自分の視線が下を向いている事に気付く。
「大なり小なり肺が固くなってるのはあるだろう。だが一番問題なのは一旦走り出すと気道が圧迫され続け、休息を挟まない限り呼吸が難しくなる事。どれだけ優れた心肺機能を持ってようが、酸素が供給出来なければそれは無いのと同じだ」
「…本来なら、スタートワンさんは学園の生徒として今ここに居る事も困難だったはずなんです。ましてや公式のレースに出走して、あまつさえ勝利するなんてことも」
改めて言葉にされることで、私の状況がどれほど絶望的なのかを示されているようだ。
アスリートにとっての怪我は、それそのものが命取りと言ってもいい。
たった一度の怪我が選手生命を絶ってしまう事もあれば、完治してもイップスという形で尾を引くこともある。アニメ版両シーズンでも怪我に悩まされるシーンは多く、グラスワンダーやツルマルツヨシのように満足に走ることが出来ないというキャラクターはよりその印象を強めてもいる。
彼女達のように自身の能力に身体が釣り合わないという、競走馬に多くある不調とはまた違うけれど。
私の身体もまた、同様に走る能力に難を抱えている。
「ここに来てしまった以上、走るな、とまでは言いません。ですが、せめて距離をもっと短いものに変更する、或いはもっと負担の無いよう徹底して管理をするべきだと私は思っています。これ以上無理をして、二度と走れなくなるよりも。…もっと堅実に、走り続けられる道を選ぶべきです」
これが、彼女が私達を呼び出した理由らしい。徹底した管理…彼女自身の掲げる信条に、少しでも沿うようにしてほしい、という事だろう。
満足に走る事が出来ないままレースに臨んでいる。それはもう変えようのないことだ。それでも気を奮い立たせ、顔を上げた。
「ですが、私は今ここに居て、樫本理事長代理の前に座っています。それは私の身体がどんなものであろうと、入学するに不足するほどのものではないと判断がされたから。ですよね?」
「それは…」
「面談としてここに呼び出されたあの日も、私は同じことを、同じように話しました。そして学園はそれを受け入れた。そこに間違いはありませんよね?」
「……」
今度は樫本代理が言葉に詰まる。口を開いては閉じ、視線が此方を向いては直ぐ逸れる。何か言いたいことはあるが、それを言語化できないでいる、そんな迷いが伺えた。
初めて樫本代理と対面したのは、学園への試験が一通り終わり少し経った頃。
彼女は私の経歴を確認したうえで、本当に入学するのか問うてきた。そして私は今日のように応え、入学を許可された。
当時は学園からの呼び出しや想定していない人の登場など混乱と困惑ばかりが思考を占めて真面に考えていられなかったが、今落ち着いた中でなら、何故樫本代理が私を呼び出したのか分かる。
それはつまり、彼女とのファーストコンタクトの時点で、私は入学出来るだけの基礎能力を持っていたという事になる。面接採用なんて設定も考えられていたハルウララのようなパターンである可能性もあるが、そうだとしても今ここに居る以上、試験を通ったという事実は変わらない。
これを前に、私は代理が何を考えているのか少しだけ推理する事が出来る。
彼女は、私がレースの何処かで倒れるのではないかと考えているのだ。私が勝利の為無理をして、そして何かの拍子に限界を迎え倒れる。それを危惧している。
アオハル杯の通り、彼女はウマ娘の怪我、それによる引退を最も警戒し、恐れている。自身の担当したウマ娘と同じ道を辿る者を一人でも減らしたい。トレーナーからURA職員になったのも、その気持ちが暴走し管理徹底主義に走ったのも、純粋にレースへ臨むウマ娘が不幸になる姿を望まないから。
だからこそ、彼女には私の存在がひどく目についてしまうのだろう。入学時点で殆ど満身創痍、その上自分に鞭打ってトレーニングをしていて、挙句走り終えれば倒れこむ。入学当初に個人ごとの情報を提示して、この中で誰が最初に引退するか賭けをさせたら、大半は真っ先に私を選ぶくらいには最悪レベルの下馬評が下されても仕方がないと自分でも思っている。
だが結果はどうだ。私は勝利を重ね、次のレースに向け練習を続けている。怪我もしておらず、検査が必要とトレーナーに判断もされていない。
「樫本理事長代理。私は倒れこそしますが、健康そのもので怪我はしていません。これでも頑丈さには自信があるんです。そしてトレーナーさんも私の身体を考慮に入れてメニューを組んでくれている。例えハードメニューに切り替えても、この人はそこを崩さないでくれるでしょう。そうでしょうトレーナーさん?」
「……まあ、な」
「それに、もともと距離を走ることは得意なんです。リハビリで完全に戻らなかったというのなら、トレーニングの中で戻していけばいい。多少強行軍にはなりますが、そのくらいどの子だって行っているもの。私だけが不安視されるようなものではありません」
どのウマ娘にだって、潜在的に故障の危険性は存在している。無茶をした結果倒れる者もいれば、何の脈絡もないまま突然崩れ落ちる者もいる。彼女達と比べれば、はじめから危険が目に見えている私は注意もしやすい。
そして私の傷は外的要因によるものが全てで、無茶による内部からの傷は無い。入学以前も、入学してからも生活に支障を来す何某は一度も起こしたことはないのだ。体調管理にも気を使っているので、今生では風邪一つ引いたこともない。頑丈さに自信があるというのは、本気で言っていることだ。
距離と呼吸の問題だって難しいものじゃない。最初から2000メートルは完走できるのだから、単純なスタミナ強化だけでなく、呼吸の仕方や走り方など、細かなところを改善していけば限界距離は伸びて、いや、戻っていく。うまくいけば、菊花賞どころか
心配しなくてもいい。言外に込められた意味が分からないほど、樫本代理は察しが悪い人ではないはずだ。
「…しかし」
とはいっても、簡単に心情が変えられるわけもなく。代理はついに不安そうな表情を表に出してしまった。膝の上に乗せられた指先は、スーツの布地を巻き込みながら白くなっている。これで涙も見せず耐えられているのは、体裁を保たなければというぎりぎりの理性だけは残っている証拠か。
……本当に、怪我がトラウマになってるんだな。支えあい、共にレースを駆け抜けていた相棒が目の前で倒れる瞬間は、そのくらい彼女の人生に深い傷を残すものになっている。例え他人の担当するウマ娘でも、同じものを見たくないという心からの願いがあるのだろう。
……ならば、私も彼女を不安にさせないよう、言葉を選ばないと。
ソファから立ち上がり、キタサンブラックの癖のように胸に拳を打ち付ける。
「でしたら、私は今ここに、私の名をもって約束しましょう。これから先、このスタートワンの
「…………。」
胸に当てた手を、今度は彼女の前へ指し伸ばす。
「樫本理事長代理、私が約束を破ることなく守り続ける様子を、見ていてもらえますか?」
私の手を見つめるその顔は、今もまだ暗い。確実に守れるとも言えないただの口約束を、はいそうですかと受け入れる事なんて出来るわけがない。
だが、そこで隣から小さく笑い声が聞こえる。そしてぐいと彼が立ち上がった。腕を組み、見下ろす彼の目は冷たい。
「スタートワン、トレーナーに何の話もなく勝手に行動するのはいただけねえとは思わねえか?」
「……一応、私の指針なのでトレーナーさんには関係がない事です。不必要な負担をかけるのは好きじゃないので」
「んなこと言ったら約束なんて取付自体が負担だろうが」
「それはまあ、そうですが…」
「だったらお前がするべき事、分かるだろ?」
「……わかりました。約束は取りやめます…」
「違ぇだろうが」
「あいたっ」
すとんと手刀が頭に落ちてくる。力こそ入っていないものの声が出てしまったのは、彼の行動に驚かされた意味が強い。てっきり止められると思ったのだけど。
「いいか。お前がレースに臨むに当たってどういう選択をしようが構わねえ。だが、それを担当である俺に何も話さず通そうってのはダメだよな?」
「……っ」
「お前の目的はシンボリルドルフを越える。そこに今回怪我をせず生涯走りきるのを追加したい。なら、少なくともトゥインクル・シリーズの間はそのバックアップを俺がする事になるな? …じゃあ、お前がする事は何だ?」
「……わかりました。」
数拍の後、私は一度手を下ろし、彼の方へ向き直った。
彼の言葉を、そのまま受け取るのなら。
「私は樫本代理の為、そして己自身の為に、一度の故障もなく走り続けたいです。トレーナーさん。私は貴方に、それを支えて欲しい」
「……」
「無茶を言っているとはわかっています。それでも、私の願いを聞いて欲しい。……二つの目標達成のため、トレーナーさんのお力を貸してください。……いいでしょうか?」
少し上にある彼の目を、じっと見つめる。真っ黒な彼の目も同じように私を見つめ返していて、その中に私の顔が薄らと映る。
トレーナーは少しの間無言でこちらを見ていたが、不意ににやりと笑った。
「わかった。確約は出来ねえが、やるだけはやってやる。上手くいくかはお前次第だ。それでいいな?」
「……ありがとうございます」
無責任で、それでいて責任を完全には放棄していない彼らしい言葉。相変わらず大雑把ながら、今はその言葉に感謝する。
樫本代理の方へ目を向けると、先と比べればその表情は和らいでいるものの、いまだ影が差している。ここからはまた私の番だ。
「私は出来る限りのことをします。したうえで、自分の言葉の証明をし続けます。どうでしょうか。それでも……それでも、駄目でしょうか」
「……」
改めて伸ばした手を見て。彼女は小さく息を吐く。
そしてやはり困ったように苦々しく笑いながら、私の手を取った。
「……わかりました。此方からこれ以上言っても、おそらくあなたは聞き入れないでしょう。ならば私に出来る事は、その活躍を見続ける事です」
「ありがとうございます。必ずや、ご期待に添える結果をお見せしましょう」
「……そこまで気負って守ってもらうべきものではありませんので、せめて、私が心配しているという事だけを覚えていてください。それだけで十分ですから」
そう言われると、より気合が入るというものだ。
理事長室を後にし、廊下を進む中。隣を歩くトレーナーが頭に手を乗せてくる。
「なんですか、いきなり」
「めんどくせえ約束しちまったな。どうすんだ? これからやる事が余計煩雑になったぞ?」
それは…。うん、ただでさえレースに臨むに当たってやる事は多いというのに、そこにまた難易度の高い約束を取りつけてしまったので、余計状況は困難なものになっている。
しかし、仕方がないだろう。私がああ言いでもしないと、彼女は口ではともかく、心では絶対に納得なんてしなかった。もしあれで意地になって私がレースに出るのを止めるようになったり、更には私を少しでも強引に押し込めようとして管理徹底主義にでも走られたりしたら堪ったものではない。それの与える影響は私一人では抑え込めないし、そんな騒動に手を回していられる程の余裕も無い。
「でも、止めはしなかったですよね。それに手伝ってもくれるとも」
「再三言ってるが、苦労すんのはお前だからな。自分から苦行に入ろうとするその根性は見惚れるもんがある」
「欠片も見惚れてない発言どうも。もし約束を守れなかったら貴方の指導不足としてマスコミにある事ない事リークしてやりますから」
「ガチの社会的制裁はよせ。話が変わってくるだろ」
すっと声に真剣さが戻った。対岸の火事のつもりでにやついているからだ。
「ったく…」と頭を掻きながら、彼は溜息を一つ。
「んじゃ、そうならねえように」
「?」
「忘れてねえよな、やらないといけない事」
……? なにか必要なことってあったか?
「お前体操服でG1出走する気か?」
「……あっ」