トレセン学園に入学して早二週間。一人暮らしという特異さも相まってか、自己紹介などで自然と話しかけてくる相手も増え、食事を一緒にすることもある。なかなか学園生活はうまくいっているところだ。レースに出るための練習も始まり、トレーナーの居ない私達新入生は教官の手ほどきの下、自主練習をしながら模擬レースや選抜レースまでの間に牙を研ぎ始めたという状態である。
さて、自主練習といっても、新入生である以上出来る事は決して多くない。いくつかの備品の貸し出し、許可をもらってトレーニングルーム、トラックを走る事くらい。あとは学園の外での走り込みといったものくらいだろう。私も学友のいない間は自主練習を行っており、少しでも能力を高めておこうと身体を苛め抜いている。
今日の私は放課後、学園の外での走り込みだ。一人暮らしという事もあり、外に出る機会の多い分こうしてランニングすることが今のところ多い。
「はっ、はっ、はっ……」
一定のペースで常に呼吸を続けつつ、ウマ娘専用レーンから外れないように、そして速度は落とさず。説明するのは簡単だが、これが結構難しい。走れば走るほど体力は消耗するし、当然息も荒くなる。足もふらつくのでレーンから外れそうになることもあれば、速度が落ちてそのまま足が止まる事も多い。火照った身体を一旦冷やすための時間も必要だ。
トップスピードを維持しながら、場合によって三分前後走り続けなければいけないレースでは、この体力づくりは非常に重要なものだ。仮令スプリンターといえども最低限のスタミナづくりは必須事項になる。
しばらく走り続けた後、火照る身体を冷ますため近くの公園で休憩。速度を落とした後は、水分補給をしてベンチに座って息を整える。
「ふうーっ、すうー…っ、ふうーっ……」
落ち着かせていると、やはり呼吸の乱れ方が気になる。一応学園に入学するまでの間も練習は怠らず続けてきたが、学校の先生への質問やトレーニング教本などで調べた程度の知識しかない分、これで本当に問題が無いのか不安になってくる。こうした不安もトレーナーが居れば無くなるのだろうが、その時が来るのはまだまだ先だ。
そうしてぼんやりと公園を眺めていると、新しく中へ入ってくる人物が一人。
「ふうっ…。ん、君は」
「! シンボリルドルフ、さん」
入学初日に会話をして以来の相手にして、おそらく最大の目標になるであろう人物が此方へ歩いてくる。学年こそ同じだったものの、どうやらクラスは別だったようで会う機会はあれから無かった。
彼女は近くに置いてある自動販売機でスポーツドリンクを購入すると、私の隣に歩いてきて座る。
「奇遇だねスタートワン。今日は外での走り込みかい?」
「そうです。といっても、大体外を走っているのですが。シンボリルドルフさんも同じようですね」
「外の地理を確認がてらだよ。有備無患、学園で生活する以上、外の事もある程度知っておかないとだめだと思ったのでね」
流石次代の生徒会長。行き当たりばったりな予定で外を走っている私と違い、同時並行に練習を行っているとは。
感心していると、彼女は手に持つボトルを此方に傾けてきた。
「君も飲むかい?」
「…大丈夫です。先ほど補給したので」
「そうか。いや、すまないな」
「こちらも、お心遣い感謝します」
少し残念そうなシンボリルドルフ。親切を断るのはこちらもあまりいい気がしない。微妙な空気になってしまう前に、此方から話題を振ろう。
「学園の生活はどうですか? かれこれ一週間経ちますが」
「む。そうだな…。まだ不慣れな部分も多いが、そこはこれから慣れていけばいい。やはりここは素晴らしい。自分の能力がどんどんと伸びているのを、この短期間で感じられる場所だよ」
「日本最高峰のウマ娘育成機関ですからね。私もどこまで自分を伸ばせるか、どきどきしています」
「ふふ、そうか。もう少しすれば選抜レースも始まる。メイクデビューの時期までにトレーナーが見つかればいいな」
そうか、この世界だとアニメ版のトレーナーは出ていないから、それぞれチームに加入するなり、専属のトレーナーを持つなりが必要なんだ。複数のウマ娘を一人のトレーナーが担当することはあっても、二人三脚でレースを目指すことも珍しいものじゃない。となると、私もシンボリルドルフもレースに出る以上それぞれが専属の相棒を持つことになる可能性があるという事。
「スカウトが始まれば、シンボリルドルフさんは引く手あまたでしょうね」
「ふふ、どうかな。結果が出せず誰も来ないかもしれない」
「新入生代表にまで選ばれたあなた相手にそれは無い気がしますけれど」
アプリの個別ストーリーだと、その強さから自分が教えられる事は無いとトレーナーたちが敬遠した結果スカウトが少数になる事はあったが、彼女が弱すぎてスカウトされないなんてことは天地がひっくり返っても無いと断言できる。
一方の私はどうだろうか。自分がウマ娘だと分かって以降トレーニングは極力欠かしてこなかったので、身体能力にはそこそこの自信がある。だが今のところ誰かと走ったのなど遊びの中のかけっこ程度で、流石に二度目の生にこの体では本気を出そうという気にもなれず、今度の模擬、或いは選抜レースが初めて本気で競い合う時になるだろう。そこで初めて私自身の強さというものがわかる。
「勝負は時の運。勝つか負けるか、それはその時になるまで分からないよ」
……「その馬には絶対がある」とまで言わしめた相手に言われると、なんだか強烈な皮肉を言われたような気がしてくる。まあ、現在の彼女はまだメイクデビューすらしていない新人だ。私が勝手に卑屈な考えをしているだけとも言えるので、気にするべきではない。
そんな話をしている内に呼吸も落ち着いてきて、ベンチから立ち上がる。
「おや、もう行くのかい?」
「体力も戻って来ましたので。ではシンボリルドルフさん、また学園で」
「ああ、また」
そうして公園を一人後にする。暫く道を走ってから、ふと足を止め、軽く公園の方へ振り向いた。思い返すのは、彼女と話した事。
……私がトレーナーになるのではなく、私がトレーナーに指導を受ける。恐らくは、その人と一緒に最初の三年を駆け抜けるのだろう。チームでのトレーニングとなるかマンツーマンとなるかは別として、この部分は揺らがない。
「トレーナー、か…」
言葉にしてみても、なかなか実感が涌かない。そもそも自分がウマ娘であるという事自体いまだに実感の伴わない部分が多いものであるし、それ以上に、自分が日本中から集まった一流のアスリート達と鎬を削るのだという事にもしっくりしないものがある。
あとはやはり……少しばかり、アプリ版の印象があるからだろうか。あの世界では、ウマ娘とその担当トレーナーの恋愛は珍しいものではないように見えるよう描かれていた。例えばミホノブルボンの父が元トレーナーという話はアプリ内で語られていたし、ナイスネイチャの育成がギャルゲーだなんだ、メジロアルダンの育成ストーリーはどっちも覚悟が決まりすぎているだと散々言われていたのも印象深い。
ウマ娘側がトレーナーを意識しているように見えるものもあれば、トレーナー側がウマ娘にアプローチしているようなものもあった。画面を通してその様子を見るのは楽しいものだったが、いざその立場に私が回るのかと思うと……うん、無理じゃないだろうか。
なにせ通算数十年の蓄積に、元男性としての感性。挙句ここはトレセン学園だ。色恋に現を抜かせるのは重賞を制覇しG1で他のウマ娘と正面から競える者でなければ厳しいだろう。
自分が愛想のいい人物でないのは百も承知だ。容姿はそこそこ自信もあるが見目麗しい者の多いトレセン学園では普通くらいだし、年頃の女の子らしい趣味や好みも無い。愛想を尽かされる事はあっても、好意を持たれる事となるとそうはいかないだろう。思考がネガティブになるくらいには、私はこの学園で浮いているのだと自覚している。
「大丈夫か…、うん。考えないようにしておこう」
これ以上後ろ暗い気持ちになる前に、無理やり気分を切り替えて走り出す。私の担当となるトレーナーには、いろいろと苦労をかけるかもしれないな。それ以前に、チームに加入する可能性も捨てきれない。今私が気にすることではないのだ。
暫くふらふらとした思考のまま走り続けた後、学園に戻り共用のシャワールームに入る。自宅に戻ってシャワーを浴びる方が帰る時間の短縮になってメリットは多いのだが、水道代や光熱費が浮くのでこっちをよく使っている。
冷水で身体を冷やし、それからゆっくりと水温を上げ、お湯で十分温まってからシャワーを終える。タオルで体を拭いてからシャワールームを出て、身体が乾いてしまう前に…、っと?
「わ、ったっ、たっ」
「おっと、危ない危ない。…ごめんね、大丈夫?」
軽く押し戻されるようにして後退。勢いでふらついたものの、ぶつかった相手が私の手を掴んでくれたこともあり、しりもちをつくことなくバランスを立て直す。どうやら利用者が来たようで、出会い頭になったらしい。
正面を見るとそこは首元。視線を上にあげると、軽く眉を下げながら此方に手を伸ばすウマ娘。濃く艶のある焦げ茶色の髪。鹿毛…いや、黒鹿毛だろうか。そして頭に乗った白いシルクハットと、そこについた「CB」というバッジ。間違いない、日本史上三番目の三冠馬。その現身たる彼女は、
「大丈夫、です。手助けありがとうございます。えっと…」
「ああ、アタシはミスターシービー。ちょっとシャワーを浴びに来たんだけど…出会い頭しちゃったね」
「みたいですね。此方も不注意でした、えっと、私はスタートワンと言います」
「そっかそっか。もしかして、キミ新入生? あんまり見ない顔だけど」
「あ、と、はい。ミスターシービーさん…は、新入生、というより先輩みたいですね」
「おっ、分かっちゃう?」
手を握られたまま、ミスターシービーと軽く会話をする。
昨年はトレセン学園への入試に色々と準備をしていたので、情報収集の手を緩めていた。レースに出たところは見ていないが、彼女も既にこの学園の生徒だったらしい。シンボリルドルフが同学年である以上同期、あるいは先輩と思しき彼女も在学しているだろうとは思っていたが、まさかこんなタイミングで会おうとは。
彼女は軽くシャワールームを確認してから、再度その視線を此方へ動かす。
「まだ模擬レースも先だってのに自主トレ? ずいぶん熱心だね」
「私以外にも自主練習に励む人は少なくないですから。それに、入学してまだ少しだからと現を抜かす人なんてこの学園じゃ少数派ですよ」
「あはは、そっか。アタシはちょっと楽したいなとか思ってたから、その言葉は耳が痛いかな」
「あ、いえ、あなたに向けたものではないですし、付け焼刃みたいなものですので」
「ふうん、付け焼刃かあ。アタシも手は抜きたかったけど、模擬レース勝てる様に頑張って練習してたんだけどなあ」
「え、あー…っと。」
「……ふっ、っあははは! ごめんごめん。冗談だよ」
手が離れ、ぽんぽんと優しく頭を叩かれる。おちょくられているのはわかっていたが、口の回る彼女に見事に手籠めにされていた。頭に置かれた手を払いながら、軽く睨め付ける。彼女より身長が小さいせいだろう、手が伸びるのは仕方ないが、そのまま頭の上に置かないでほしい。
「新入生相手にこんな事してたら、いつか怒られますよ」
「大丈夫大丈夫、君にしかしてないから」
「どこが大丈夫なんですか」
そう言い、ウインクして笑いかけてくるミスターシービーに少し呆れる。顔立ちの良い彼女のするそれは、並みの女性どころか男性ですらときめかせてしまうだろう。流石実装前から女たらしの適正が囁かれていたウマ娘、自然な動作が此方をどきりとさせてくる。
しかし私はウマ娘。通算二桁後半も視野に入る年齢を生きてきた元男の経験じゃあ、その程度揺らがない。
「取り敢えず、私はここで。シャワールームは今人が居ないので、独り占め出来ますよ」
「ん、そう? ありがと。じゃあ、また今度ね! ……あ、それと」
「はい?」
「その耳、多分だけど、見られると困るものでしょ? 早めに隠した方がいいよ!」
一瞬、思考が止まる。
ひらひらと手を振りながら奥へと消えていくその後ろ姿を眺めてから左耳に手を当て、小さく嘆息した。
「しまった……」
カバーを忘れていた。ここなら自然乾燥でいいだろうとずぼらな事をしたせいか。
周囲に誰も居ない事を確認して、素早く耳を布で覆う。彼女以外に見られていないのが不幸中の幸いか。
……そういえば、彼女は周囲の確認をして、その上私の頭に手を置いていた。もしかして、誰かが来た時直ぐ耳を隠すためだったのだろうか。
「……何か、言うべきだったかな」
これから会う度ミスターシービーに気を使わせたり、からかわれたりするのかもと思うと何とも言えない気持ちになる。今度会ったら、礼を言うべきだな。