「わ、わ、ミスターシービーさんだ…!」
「ん、君は……この間のレースに出てた子だね」
「わ、私の事知ってるんですか?」
「スタートワンの模擬レースにも出てたでしょ? ルドルフも居たのに入着してたし」
「あ、ありがとうございます!」
「会うのは初めてでした?」
「見た事はあるけど、ここまで近くは初めてだよ…! 無敗の二冠、菊花賞確実の今年のクラシックの顔! こ、こんな目の前に……!」
ああ、感極まってる。確かにすごいといえばすごいけど、それを言えば隣には競走馬としても種牡馬としても歴代最高クラスが座っているのだけど。
「そっちは…ハッピーミークだっけ。君の走りもすごいね、芝もダートもなんてかっこいい事出来るなんて」
「…それほどでも」
「あはは、今度一緒に走ろうよ、君と走るのは楽しそうだ」
「トレーナーが、オッケーしてくれたら」
「うん、わかった!」
……この二人、自由なところが噛み合うのかな。
色々な突っ込みを喉の奥に押し込んでいると、ミスターシービーが私の方を見てにこりと笑う。
「やあスタートワン。聞いたよ、ホープフルステークスに出走予定なんだって?」
「こんにちはミスターシービーさん。その話、一応まだ出てない情報のはずなんですけど」
「君のトレーナーに聞いたら教えてくれたよ」
「あの人は……。他の人に言わないようにしてくださいね」
「分かってるわかってる」
ちゃんとURAから発表するまでは言いふらさないようにしてほしいのだけど……。私も三人に教えているし、今回は目をつむっておくほうがいいかな。
ついでに私の話はここで止めておこう、変に続けると彼女に絡まれる。
「それで、ミスターシービーさんは何をしにここへ? マルゼンスキーさんに用事があるようですが」
「ああ、そうそう。マルゼンスキー、今度の毎日王冠の話なんだけど」
「……え、シービーちゃん、本気なの?」
「本気だよ?」
笑みを崩さぬままそう返す彼女に、マルゼンスキーが目を瞬かせる。
毎日王冠と言えば、秋のG1戦線直前の重賞だけれど。そういえば、マルゼンスキーが次走に選ぶとして表明していたレースでもあった気がする。
「毎日王冠がどうしたんですか?」
「あー……。その、ね?」
「今度それにマルゼンスキーが出るから、アタシも出ようと思っててさ」
「……えっ。え? …本気ですか?」
「だから、本気だよ?」
流石に一瞬思考が止まった。いや、え、ミスターシービーがマイルを走る? しかもマルゼンスキーと対決を狙って? ……正気なのか?
クラスメイトとハッピーミークも驚きで止まっているが、マルゼンスキーの驚きも弱くない。事前に聞かされていたような発言はしていたが、おそらく彼女にとっても寝耳に水の話なのだろう。
「私が言うのも妙ですが、マルゼンスキーさん相手にマイルは分が悪すぎでは? 今年のヴィクトリアマイル勝者ですよ? しかも予定では菊花賞に向かうはずでしたよね?」
流石に十数年こちらの世界で生活をしていると曖昧な部分も増えてきているが、競走馬ミスターシービーは出走したマイルレースに勝っていたはずだ。適正の有無を聞かれれば、あるといえるだろう。
しかし相手はグレード制導入前といえ朝日杯の勝利者。しかも道中足を緩めたにも関わらず7馬身をつけて勝つなんて支離滅裂なレース展開を、同じマイルで起こしたこともある馬の現身だ。申し訳ないが、いくら彼女といえど適正がある程度で勝てるとは到底思えない。
「そうなんだけどさー。ほんとは冬にしようって話にもしてたんだけど…我慢出来なくて」
「いや我慢できなくてじゃなくて」
あっけらかんとした彼女に多分何を言っても無駄だろうと思わされる。自由気ままな性格という事はわかっていても、無敗の三冠を目前に控えたこのタイミングでこの決断とは。ここまで奔放だとは思わなかった。
それでも流石に、たとえ形だけになろうとも止めなければいけない。
「毎日王冠に出走すれば、翌月の菊花賞は十分な休息を取らぬままで挑むことになります。そんな状態で勝つ事は難しいのでないですか?」
「うっ…、そこをつっつかれると困るなあ。そりゃさ、アタシも出来るなら万全の状態で走りたいよ?」
「なら猶更」
「でもさ。今じゃないとだめなんだ」
「…今じゃないと?」
「今のマルゼンスキーが一番強くて一番弱いんだもん。今のアタシがどこまで通用するのか、試したくなるじゃん」
「一番強くて、一番弱い……なるほど」
思わずため息交じりの笑いが漏れる。要するに、私と同じ事をしたいわけだ。私にとってのシンボリルドルフが、彼女にとってのマルゼンスキーか。
これは困った、私からじゃ止めにくい。
私の納得を拍子抜けに感じたのか、ミスターシービーがきょとんと目を丸くする。
「あれ、意外と聞き分けが良い」
「私が言っても聞かない事が分かりましたからね。その代わりに、一言だけ」
「?」
「ちゃんと身体の調子には気を付けてくださいね。どちらにも負けるなんて事にならないように」
「…………! 当然!」
競走馬ミスターシービーはその華やかな勝利の陰で常に蹄の弱さに悩まされた。確か、その最期も蹄の傷の悪化だったはずだ。
ウマ娘としてでは、彼女と同じ事に悩まされてきたトーセンジョーダンも爪という形でアプリでも弱点として描かれていた。
この世界の基準は基本的にアプリのものといえ、それは現実にあった流れから完全に断ち切られている訳じゃない。トレーナーが居れば心配も薄いが、忘れていていいというものでもないだろう。
彼女の活躍がこんなところで途切れるなんて面白くない。私の刺した釘で、少しでも気を付けてくれれば良いのだけど。
満面の笑みという安心すればいいのか不安になればいいのか分からなくなる彼女の返事に一先ず話を終える。けれどそれは私だけのものであり、まだ納得の出来ていないクラスメイトが代わって問いかける。
「でも、それでマイルにする必要は無いんじゃないですか? オールカマーとかなら、ミスターシービーさんも出走出来ますよね……?」
「ま、そうなんだけどね。トレーナーに言ったら、時期とかいろいろ考えてここが限界って」
挑戦者という立場になる以上、マルゼンスキーの邪魔をしない程度に、且つ菊花賞で最低限勝てるだけのパフォーマンスを残せる日程と距離を…という事だろう。元の世界でのレース日程から色々とずれながらも、ある程度日が空いているからこそ出来るローテーション。彼女のトレーナーの苦心が伺い知れる。
「でも、ミスターシービーさんは無敗の二冠ウマ娘ですよ? 次の菊花賞を勝てば、無敗の三冠ウマ娘じゃないですか」
「それが?」
「それが、って。すごい事じゃないですか!」
「…うん、確かに三冠はすごい事だよ。トゥインクル・シリーズが始まってから立った二人しか達成していない快挙。もしそれが、その二人すら出来なかった無敗のまま取れるんなら、もっとすごい事だと、アタシでも思う。でもさ」
そこでクラスメイトに笑いかけながら、あっけらかんと彼女は言う。
「無敗の三冠なんていつかは誰かが取るもの。百年後には三冠ウマ娘なんて称号はステータスの一つ以上の価値を持たなくなる。だったら、わざわざアタシが取る必要もないでしょ?」
幸運だったのは、今日の中庭に食事の為着ている子が数えるほどしかおらず、その誰もがここでの会話を全て聞くことは難しいほどの距離に居たことだろう。
とんでもない発言に、その場の全員が絶句する。クラスメイトに至っては、理解が脳に達していないようすだった。
「ちやほやされるために走る気なんてないよ。だってそんなの、面白くない」
―――いや、少しだけ訂正しよう。私だけは、彼女の言葉に少しだけ頷きそうになるのを堪えなければいけなかった。
彼女が。いや、競走馬ミスターシービーがかのシンザン以来20年の時間を越えて三冠を達成したその翌年、シンボリルドルフは同じ称号を『無敗』という大き過ぎる価値を付け加えて達成した。
以降、『ウマ娘プリティーダービー』のアプリが配信を開始するまでの約40年の間には四頭、その内の二頭は同じ無敗の、それも親子での制覇を成し遂げている。大まかに10年に一度のペースで増え続けているという事だ。
トリプルティアラ、つまり牝馬三冠も同様にシンボリルドルフの二年後のメジロラモーヌから始まり、当時現役続行中にも関わらずウマ娘として実装が決定した史上初の無敗牝馬三冠、デアリングタクトまでの間に六頭が誕生している。
つまり、レースというものが日本から消えない限り、この称号は永遠に増え続けるのだ。今は共に一桁で終わっているが、これが百年、二百年と続けば当然その総数は嫌でも変わる。増え続けた数が、いつの間にか同じ称号同士にも関わらず『あの三冠相手には勝てない』『あの成果は三冠として釣り合わない』などと比較されていく。
そしてそのいつかの瞬間、『無敗の三冠』は“唯一絶対の称号”から“少し特別な称号”と呼ばれるようになる。
価値が落ちたわけじゃない。揺らいだわけでもない。
少しずつ、私達の認識がずれていくだけの話。
そして彼女にとってのレースは、それが自分のキャリアを守るなんていう事の為に制限させられるものでありたくないという事。それが堪えがたいからこそ出てきた言葉なのだ。
「ミスターシービーさん。その言葉、少し訂正していただく事は出来ますか?」
だが、それは口に出来るような事じゃないし、するものでもない。何故なら『ウマ娘』が始まるまでの間に生まれた三冠馬はたった七頭。アプリの開始直前に達成した三頭目の無敗コントレイルを入れても八頭にしかならない。
彼らの刻んだ伝説の裏では、百年にも迫る時間と、その一秒一秒に夢を見て、走り、そして散っていった涙の跡が、無数に残されている。
全てを踏み越える事が出来たのは、その無数の中からたった八頭“しか”いない。
その“特別”を自らかなぐり捨てる事が出来る立場に居て、そして今、それを行おうとしているという事を。彼女は知りながら、その上で既に一度敗北し、その資格を既に失ったクラスメイトに言っている。
それは最早皮肉ではなく罵倒にすらなりかけた発言。非常に、酷な一言だ。
圧倒的な実力とその天衣無縫の在り方。彼女の魅力が、今はこの状況を大きく流し始めている。
自分でも少し低い声が出た事に頭を悩ませながら、隣に座るハッピーミークに無言でスケッチブックを渡し立ち上がる。身長が圧倒的に足りないので私は見上げる側だが、ミスターシービーはぐっと背を反らし、気圧されたように顎を引いて目を丸くする。足を下げる前にこちらから一歩踏み込み、彼女の視線の真下に顔を持ってくる。
「す、スタートワン? どしたの急に…」
「ミスターシービーさん」
「う、うん」
「先は一言だけと言いましたが、更に加えます。あなたが自由に走り、自由に戦う事。それは良い事です。それがあなたの求める在り方なのだから。なのでその結果例え毎日王冠に勝とうが負けようが私にはどうでもいいです」
「ど、どうでもって」
「ちゃんと聞きなさい」
「はいっ」
ぴんと背を伸ばした彼女を、その下からじっと見つめる。
「ですが、皐月賞、そして日本ダービーを勝ち進んだ者としての矜持というものがあなたには既に存在しています。勝者としての立ち居振る舞い、頂点としての発言力。それを否応なく持ってしまっている。三冠を取ろうが取れまいが、この結果はもう揺らがないものです」
「……はい」
「なればこそ、あなたは今一度己の発言に気を付けなければなりません。先の言葉が軽はずみだったのか、それともそうあってほしいと思ったからこそなのか、私からはわかりませんでした。そして分からなかったという事は、あなたの思う事がうまく伝わっていない可能性があるという事」
「……」
「故に私は今の言葉をこう受け取る事にしました『無敗の三冠なんて無価値なもの、既にその資格の無いあなたが気にしても仕方ないよね』と」
ミスターシービーが驚きに目を丸くする。私も無理矢理を効かせた荒っぽい解釈を言った自覚はしているが、ここで言葉を止めてはいけない。
「い、いや。アタシもそこまでは…」
「言っていない事は百も承知です。ミスターシービーさんはそんな悪意のある事を言う人ではないですから。ですが、あなたの言葉はそう受け取れてしまうものなのです。何故ならあの子とあなたは今日が初対面で互いをよく知らず、そしてそう信じさせてしまうだけのネームバリューがあなたにはあるから」
「っ……」
「たった一度しかないチャンスを二度も、それも無敗というより困難なものを背負ったまま乗り越えている。そのあなたが『無敗の三冠に価値は無い』という発言をすれば。……当然信じるんですよ。だってあなたは成し遂げかけているのですから」
ミスターシービーが口を閉じる。自分の言動がどういうものだったのか、改めて考え直し始めてくれたようだ。
「ミスターシービーさん、あなたは素晴らし過ぎる。その強さも、その心意気も。ですが私達は、そこまではっきりと割り切る事も出来ませんし、割り切った後も引きずらずにいられる強さも無いんです。先の言葉にその子よりも、私が反応してしまうくらい」
“過”“不足”無く伝えるという難題は、言葉を言葉として使い続ける限り永遠について回る難題だ。
自分が思っている事の100パーセントを伝えたと思っていても、実際はその半分も伝わっていないなんてことは日常茶飯事。それを笑いのたねに落とし込むことも出来れば、人類史に残る事件を引き起こす事もある。言われた側より聞いていた側の方が怒り出すなんていうこの状況も、またそれを証明しているだろう。
彼女のシナリオでも、自分のレース人生における自分の評価は重視していないという事は繰り返し強調されていた。彼女の強さは『だからこそ』の強さであり、それがミスターシービーとしての在り方なのだから、私もああだこうだ難癖をつけるつもりはない。
ないが、今の発言にはその考え方にも少し限度はあるんじゃないかと思わされるものがあった。
なにより。それは自分の未来の為、三冠という栄誉の為研鑽するシンボリルドルフにも多少なりぶつかってしまう言葉だ。対比的な描かれ方をする事もある二人だからこそ、今の内に釘を刺しておかないと下手な言葉をかけられシンボリルドルフの意気が削がれるだけでなく、私にも余波が来る可能性もある。
ちらとクラスメイトに視線を移すと、幾許か冷静さを取り戻したらしく私達二人交互に見やっている。私の視線に気付いて、どことなく不安そうな顔になったのを受け、安心させようと微笑を作った。
おかしな事を始めてしまって申し訳ない。直ぐに終わるから、もう少し待って欲しい。
向かい合うミスターシービーの間に距離を作り、そこへ二本指を立てた手を滑り込ませる。次は極力声を落ち付かせ、宥めるように柔らかく。
「こうして私が指摘したことで、完全な齟齬の訂正とまでは言わずとも齟齬があるという事の認識は出来ました。であるならばミスターシービーさん。私があなたにしてほしい事は二つ」
「……何をすればいいの?」
「一つは彼女に対する発言の訂正。とは言っても、あなた自身の考えている事を、より正確に彼女へ伝えるというのが内容です。なかったことにするのではなく、ちゃんと伝えて、理解してもらう事を念頭に置いてください。そしてもう一つは」
そこで指を一本にし、そのままミスターシービーを指さす。
「毎日王冠の結果如何に関わらず、必ず菊花賞を勝利する事。無敗の三冠に意味はないとまで言ったんです。ならばそれを言うに相応しいだけの実力がある事は証明してください」
「……わかった。言っちゃった以上、アタシも本気出すよ」
目を合わせるミスターシービーは、いつになく真剣な表情をしている。今の彼女なら、秋の戦いに手を抜くような真似はしないだろう。
「なら、よし。これ以上私から言う事はありません。その代わりに、ちゃんとお話しをお願いしますね」
「……ん。そうだね」
軽く促すと、ミスターシービーは私から視線を外しベンチの方を見る。クラスメイトの方へ目を向けると、三人と同じように目が合う。その間に白い帽子が横切っていき、代わってマルゼンスキーとハッピーミークがベンチから立ち上がり、彼女達の邪魔をしないよう此方へ寄ってくる。
私の肩を叩いたマルゼンスキーが、開口一番に「凄い啖呵だったわね!」と言ってきた。
「あんなにアツイ事言うなんて、お姉さんちょっとびっくりしちゃった!」
「……出しゃばり過ぎた発言なので、あまり思い出させないで欲しいのですが……」
「ちょっと、無理かも」
隣のハッピーミークも、無表情の割に耳の動きが忙しない。どうやら興奮しているらしい。
思っていたよりも二人の反応が良いのは安心出来ること…なのだけど。
うあー…、これは大分まずい事をした。今年入学したばかり、オープンクラスにも入ったばかりの新米が、G1勝者で三冠確実という相手に啖呵を切ったなんて情報がどこかに漏れでもしたら、下手するとメディアでぶっ叩かれかねない。
「念のために言っておきますが、今回の事、周りには言わないでくださいね?」
「あら、ダメなの?」
「からかわないでください。自分でもやり過ぎたと思ってるんですから…」
「そうかしら? 私はかっこよかったと思うわ」
「悪くなかった、とおもう」
「……そういってもらえるのは有難いです。ただ、それとこれはまた別ですから」
未来の彼女を少しだけ知っているといっても、この世界は元の通りには動いていない。秋の二戦を落とす可能性を考慮して、つい言ってしまった。
ただ、それ以上に。
「結局、面白くない事にならないようにしたいっていう私の為ですからね。変に持ち上げられるのも、逆に非難されたくもないんですよ」
バタフライエフェクトが云々なんて話は私とマルゼンスキーという前例がある時点で既に破綻している。なので、絶対に本来の歴史通りに進んで欲しいとは思っていない。
だが、それでも彼女達が本来手に入れるべきだった称号だけは、そのまま彼女達のものになってほしいとも思う。それが一番相応しい形のはずなのだから。
……次の年、つまり来年。
自由でありたいミスターシービーとは違い、三冠の重みを理解したうえで、それを通過点にし、そして本気で無敗の三冠を狙う者がクラシックに名乗りを上げる。
彼女を前に私がどうなるか。わかりきった未来にそれでも挑むしかないのは、少し心苦しい。
「でもスタートワンちゃん」
「はい」
「あれだけの言葉だもの、それはぜんぶあなたにも返ってきちゃうこと、忘れてないでしょう?」
「……ええ。私の勝負はここからです。G1を必ずや…とは断言出来ませんが、それを目指す者として相応の心構えを見せなければなりません」
「そう、ね……無理はしちゃダメよ? 私みたいに、ほどほどに息を抜いていかないと。ね?」
いつもよりずっと、ずっとずっと柔らかくて、そして優しい声音。マルゼンスキーはいつもと同じようにおちゃめなウインクをするが、その顔に隠し切れない心配があった。
無理をするように思われたのだろうか。まあ確かに、色々と思う事が多い出来事は立て続けに起こっている。
だがそれは要点だけにまとめれば『無理せず適度に愛想を振りまきながらそれなりの結果を出して引退する』という事になる。そのくらいなら、G1はともかく重賞を一度でも取ることが出来れば十分ともいえるだろう。元の世界と違って、この世界なら余計な事を意識して走る必要も無いのだから。
「……スタートワン」
「…なんですか?」
「…わたしも、がんばる。だから、一緒に、頑張ろう」
両手を胸元に持ってきて、きゅっと握ったハッピーミークの表情は先と変わっていない。けれど、その瞳には彼女からは見たことのない輝きが、一人のアスリートとしての闘志があった。
「……ええ。頑張りましょう」
そこでミスターシービーとクラスメイトの話し合いが終わったらしく、二人がベンチから立ち上がるのが見えた。晴れやかとまでは言わないが、その顔を見て私も笑う事が出来た。
放課後。勝負服のデザインについてと、やはり一言でも言っておかねばならないと思いトレーナー室に足を運ぶ。
扉を開いた先、カーテンが閉め切られやや薄暗い部屋の中。机に置かれたノートパソコンを見つめる彼が、ちらりと視線だけをこちらに動かす。
「トレーナーさん。ミスターシービー…、さん、に…」
「…………」
「……何があったんですか」
小言を途中で止め、彼の顔を伺う。画面の光に照らされたトレーナーの顔は、真剣を通り越し深刻さを深めている。
彼は顎を支える手を離し、僅かに指先だけを動かして私を呼んだ。にやついた余裕そうな笑みが、今は無い。
まさかと思い、殆ど一足飛びに彼の隣へ立つ。見えるのはパソコンの開かれたブラウザと、その画面いっぱいに写る写真。
一方的にライバルと定めた彼女が、次走方針を語ったとするネットニュース。G1を狙いたいと語る彼女が選んだ、そのレースの名前は。
「悪い。初戦が早くなる」