精力的にしごき倒すというか、今ある力の全てを、一度の練習で空っぽにしてしまうよう丁寧にすりつぶされている状態は、正直ちょっと辛い。
「スタートワン!」
「…っ、わかって、ますっ!」
足の動きが鈍くなっているのを叱責され、息つく間もなく速度を上げる。今日は一人でトレーニングしていると言え、トレーナーは一切の手を抜かない。寧ろ、一人の時の方が厳しいだろう。
息が持たずその場に止まると、また怒鳴るように名前を呼ばれる。喉と肺の痛みは相当な段階にきているが、ここまで来るともう意地の張り合いだ。ただでさえ練習出来る時間の限られたこの体で、どこまで限界を伸ばせるのか。
無理くり予定をこなした反動で崩れ落ちた膝を支えようと手を出すも、倒れこむように四つん這いになったまま動けない。動き出すには、今一度息を入れる時間が必要になっていた。
こちらまで歩いてきたトレーナーが、すぐ真横に立つ。
「動けるな」
「…もちっ…、ろん……です」
「よし。次はスパートの練習に入る。俺が立つ場所をゴールにして、最終コーナーを回るように走れ」
「……りょう、かい…」
掠れた返事で応え、揺れる視界を強引に戻しながら、彼の指す方向へ向け小走り。近くで練習をしていたクラスメイトの引き笑いと心配の中間のような顔に、無理やり貼り付けた笑みを返した。
さて、最終コーナーから全力疾走だ……。
「二十分休憩にする。そのあとは軽い確認を挟んで、短距離を連続で走るぞ」
「……ぁ、い……」
「タオルと飲みモン持ってくる。追加でいるモンはあるか?」
「…………」
「わかった」
なんとか首を振って大丈夫だと伝えると、トレーナーは近くに置いていた練習用具の元へ歩いていく。他の人の邪魔にならないよう端の方へ移動すると、今度こそ崩れ落ちて横になった。
呼吸するどころか時間も経ってないのに筋肉痛になっているようなだるさと痛みが全身にのしかかる。口の中はもう血の味でいっぱいだ。二十分の間にある程度状態を万全に近付けないといけないのだけど、そんな事を言っていられないほど疲れている。
既に冬の寒さも本格的になったというのに、汗がだらだらと止まらない。
少しでも頭に酸素を送る為目を閉じて情報を遮断していると、足音が近づいてくる。一人ではない、何人かだ。
「スワちゃん、大丈夫…?」
「というか、生きてる?」
「……まだ、生きてます、よ…」
「あ、良かった」
声で分かった。(先日の子とは違う子だけれど)クラスメイトのようだ。何とか応答して、そのまま会話しやすいように起き上が……ろうとしたものの、そのままでいいよと食い気味に止められてしまった。死にかけの顔でもしていたのだろうか。
「皆さんは…、練習、いいんですか?」
「え、あー…。練習中だけど…」
「流石に、ちょっと心配だし」
「まあ、ちょっと、厳しくは、ありますけど…」
「厳しいって言うか、スパルタだよね」
「スワちゃんのトレーナー、どんだけ滅茶苦茶なメニュー組んでんの?」
「私が、たのんだ、事です…。私が、ギブアップ、して…、どうするん、ですか」
多分真顔で言っているのだなと分かるくらい声音が落ちていたクラスメイトに、自分でも否定出来ない同意の気持ちを隠しながらそう返した。正直スパルタだとは私も思っているが、頼んだのは私の方なので文句は言えない。
このハードな内容を頼んだのはほかでもない私だ。年末のホープフルステークスでのぶつかり合いが決定したことで、予定の変更をせざるを得なくなった。
世間や周囲の様子から見て私の出走は確定と言ってよく、シンボリルドルフの方も同様の扱い。私達二人は、共に今回の優勝候補として名を挙げられている。
そう、共に勝利の不安視が無いのだ。彼我の差が圧倒的であるにも関わらず。
今年度入学した生徒の中でも、私は上位に入る。そこは間違いない。しかしシンボリルドルフはその私を指先で転がせる強さを持っている。なんだったら、学園最上位のウマ娘とだって十分に競り合える。今の私程度の力じゃ、G1を勝つことは出来ても、彼女を越える事など夢のまた夢。
今回の対決に当たっての前評判は、私の才能を証明するだけでなく、これまでの努力では彼女に絶対に勝てないという事実を浮き彫りにした。足りないのだ。まったく足りていない。
だからこそ緊急会議を開き、もっと過酷なトレーニングをしてくれとトレーナーに打診した。勝負服もある程度のデザイン案とコンセプトを彼に渡して、あとは丸投げしている。
ここで手を抜いては駄目なのだ。シンボリルドルフに追い付くためには、シンボリルドルフ以上の練習が必要だ。ホープフルステークスまではもう二か月もない。出走条件を満たし、且つ勝利を確実にするには負けなど許されない。当然、彼女以外の子を相手取れなければ本末転倒だ。
身体が壊れるぎりぎりまでやらなければ、2000の壁を超えるなど不可能。短距離のほうが適正のあるはずの競走馬ミホノブルボンがダービーを勝ったのは他の馬が根を上げるトレーニングを続けたから。長い距離のほうが走れた私だって、同じことをすれば元の距離まで戻れておかしくない。
「あんた、またそうやって無茶して」
「あはは…、もうそういうものだって思うしかないんじゃない?」
「…お二人、とも、お久しぶり…、です…」
クラスメイトとは違う声に挨拶を返す。合同トレーニング初回時に一緒に走った先輩二人が、私に声をかけに来たらしい。
あの日以降仲が良くなったのか最近はよく二人でも併走をしているようで、そのまま私とも走ってくれればいいのに、専らシンボリルドルフと併せてばかりで私の方へは合同トレーニングの時くらいしか走ってくれない。まあ、それでも多少は砕けた口調になってくれているあたり、打ち解けようとはしてくれているみたいなのだけど。
「せ、先輩、こんにちは!」
「ん、こんにちは!」
「アンタたちもこの子と併走? 大変だね」
「あ、いえ、私達は心配で見に来ただけで……」
「ああ、そういう」
「ま、そうだよね。やめた方が良いよスタートワンと走んのは、疲れるから」
「どういう、意味ですか……」
「そのままに決まってんでしょ」
人の事を面倒な相手みたいに言うのは……いや、あの日の事を考えれば面倒か。だからと言って黙って言わせておくのも嫌だけど。
「そこまで、言う、なら…、走りますよ、勝って、みせます、から」
「だから遠慮しとくっての」
「……むう」
「まあまあ。今度アタシもルドルフと走るし、その時でいーでしょ?」
「…ま、そん時くらいならね」
「いい、でしょう。必ず、先着、して見せますから」
「あんたに負ける気、ないからね」
そんな話をしていると、トレーナーが近づいてくるのが聞こえた。今度の足音は一つだし、水の入った容器の音もするので確実だ。
「スタートワン、持って来たぞ」
「すみません…よ、っと」
目を開き、腹に力を込め起き上がる。息の上りも治まって来たので、彼の手からドリンクボトルとタオルを受け取る。あー、どっちも冷たくて気持ちいい。時間がかかってるなと思ったら、タオルを軽く濡らしていたようだ。他より蒸し暑い恰好をしているから念の為水にあててくれたんだろう。ありがたく首に回して熱を冷ます。
「スワちゃんのトレーナーさん。あんまりスワちゃんのこといじめちゃだめだよ?」
「ぶっ倒れるまではやってねえから安心しろ。つーかいじめるって言い方すんな、人聞きの悪い」
「確かに、スタートワンは体力無いけどさ。あんまり走らせすぎて倒れても意味無いんじゃない?」
「その体力を伸ばすためにやってんだ。怪我はさせねえよ、俺が見てる限りはな」
そう説明されるも、彼女達の顔はそこまで納得しているように見えない。一昨日はウッドチップ、昨日は坂路、今日はスパートという風に一日の中で長い時間のある場所には練習をつぎ込んでいる。それも一番適性があるだろう短距離用のものではなく、明らかに中距離以上のトレーニングを。
トレーナーのように詳しく調べたうえ観察眼も秀でた人以外には、私の適正は短距離からマイルだと思われている。今はミホノブルボンという例がないので、彼のトレーニングはどちらかというと冷ややかな目で見られている節があるからこそのクラスメイトの言葉なのだ。
どのスポーツでもそうであるように、適性を伸ばすという事は、そのくらいには危険視される事である。
とはいえ、彼女のシナリオのような流れと違い初めからクラシック路線を行くという事をそこそこの相手に話しているので空気感はそこまで悪いわけではない。最初から2000メートルで悪くない成果も出している分、いい顔はされないが応援はされる、といった感じだ。
レース後のインタビューなどでもクラシック路線に進むと明言しているので、既に無理矢理軌道修正する事は出来ない状態となっている、周囲からしても、私達としても。
「さて、そろそろ時間だ。練習できるな?」
「もちろんです」
「よし、行ってこい」
「はい。では皆さん、行ってきますね」
「頑張ってねー!」
「倒れないようにね?」
「気を付けます!」
休憩時間が近いので、タオルとボトルをトレーナーに返して小走りに移動した。
「よし、今日のメニューはこれで終わりだ」
「あ、り……がとう、ござい…、ました…」
息も絶え絶え、それでも振り絞って声を出す。トレーナーは項垂れた私の肩を持ち、何とか近くのベンチに座らせてくれた。時間は夕暮れも過ぎており、少し前に夕食の時間があったことも重なって殆どのウマ娘はこの場から居なくなっている。一人暮らしの少ない利点は、自分で食事を用意するのである程度時間の融通が利くところだろう。その分献立を細かくする必要もあるし、夜更かししたらトレーナーにこってり絞られるので注意は必要だが。
「暫くちゃんと休め」
「すみ、ません……」
「なんやかんやで、体力は少ないわけじゃないんだよな」
「息、持たない、だけ、なので…。中身、変わる…とか、じゃ、無いです……。流石に、ちょっと、落ちては、います、けど……」
「この調子なら、ホープフルまでの調整はいけそうだ」
「ほんと…っ、です…?」
「ああ。俺が言うのもなんだが、こんな気が狂ったような内容を短期間でも継続出来ている分伸びはかなりいい」
そういってもらえると助かる。成長しているのはある程度自覚出来るが、主観でしかないので客観的な意見は誰のものであれありがたい。
しかし、流石に…。体力が尽きた状態はきつい。スタミナ云々を抜きにしても、中々ハードなトレーニングだ。
「い、っつ…」
足に走る痛みに思わず呻く。筋肉痛の痛みだが、授業があろうがなかろうが走り回っているせいで休息日を入れても痛みが持続しつつある。
「どこが痛む」
「やっぱり、あし、ですね。ちょっと筋肉痛、かも」
「トレーナー室に行くか?」
「…そうですね。お願いして、いいですか?」
使用した道具を片づけてから、トレーナー室へ戻る。呼吸も落ち着いてきた中ソファに腰を下ろすと、彼がその手前の床に胡坐を掻く。
「見せろ」
「ちょっと待ってください。それに、動き回ったばかりでケアもしてないですし」
「んなモン気にしねえよ」
「私が気にするんです。いいから少しの間待ってください。準備が出来たら呼びますので」
「んなことしてる暇が」
「待ってください。いいですね」
「……わーったよ」
性別の違いか、彼は異性への気遣い、とりわけデリケートな事に対してはやや頓着が薄い。自分の身だしなみは結構清潔に保っているのに、そういう所はなんというか、女心がわかっていないという奴だ。アプリのトレーナー達があまりに察しが良過ぎるだけでもあるのだが。
私も元は男だったのでこの程度の事で怒ったりはしないものの、彼の感覚を少しは鍛えてあげるべきなのかもしれない。私以降の担当に同じことをして怒らせたりしたら、私にまで変な飛び火をしかねないし。
強引に距離を取らせ(念のため後ろも向かせておいた)、上履きと靴下を脱いで簡単に汗を拭き制汗剤でにおいを消す。準備が出来てから彼を呼ぶと、すぐさま彼は捲られたジャージの裾、何時もは服の下に隠れた下半身のインナー越しに私の足を触る。
「そろそろマットの用意でも検討するか」
「ソファだとやりにくいですよね。やっぱり、床に寝ますよ?」
「バカ言え。だったらソファに転がってろ」
私の提案を即座に切り捨てたトレーナーは、そのまま私の足をゆっくりと揉みこんでいく。親指で皮膚を強く押しながら、次に手の平全体を使って固くなった足を解す。その力はかなりのもので、我慢しないと足を動かして無理やり中止させてしまいそうになる。
ただ痛いのではなく、筋肉痛からくる痛みであるからこそ、声を漏らす程度で済んでいるとも言えるが。
トレセン学園に所属するトレーナー全員がウマ娘を鍛える以外の技術を持っているわけではないようだが、一般に、大抵は何か別の資格を一つ持っておくようにしている人が多いらしい。
私のトレーナーもその例に漏れず、いくつかの資格を持っている。こうして私の足をマッサージしているのもその一つで、トレセン学園に就くにあたって必要になるだろうと用意したのだという。道具があれば鍼や灸もすぐ出来ると豪語出来る程度にはその技術は高いようだ。笹針じゃないあたり、この世界の笹針もどちらかというと胡散臭い扱いなのだろうか。
マルゼンスキーのトレーナーは絵が上手いそうだし、こっちはまるでトウカイテイオーが菊花賞を出られるようにするためマッサージで解決した彼女のトレーナーのようだ。誰も彼も多彩が過ぎるというものだが、おかげでこうして多少の無茶が出来るのだからありが――っ。
「っ…!」
「痛いか」
「大丈夫で…ったっ!」
電流の走るような感覚に思わず声が止まる。トレーナーが一瞬手を止めるが、大丈夫と言う意味で頷くと、マッサージを再開した。
そのあとも何度か悲鳴になりかけた声を漏らしながら、彼のマッサージを受け入れ続ける。やんわりと足が熱を持ち始めたころ、ふと、手が止まった。
「……かなり疲労が溜まってるな。明日から暫く休息にする」
「ですが」
「ダメだ、休め。ここ最近はハードメニューばかりで、休息を入れても十全に回復出来てない。まだ身体が出来上がって無いから猶更だ」
「しかし、休んでいる暇なんて――っ、いっ…!?」
そう言おうとした瞬間、彼の揉みこみが強くなり反射的に身体が跳ねた。抗議の意味で睨むも、トレーナーも鋭い目で此方を睨めつける。
「焦ったところで何もならん。ホープフルにシンボリルドルフが出るのは予定外だったが想定内の事だ。本命は皐月賞だろう」
「そのための事前準備です。この結果如何、では間に合いません。今伸ばせる限界まで伸ばさなければならない」
「だからこそ休むこともメニューの一環だ。最適な体作りには最適な休息も必要だ。……それ以前に、お前はそう簡単に無茶出来る身体じゃないだろ」
「……だからこそ、無茶しないと勝てない相手なんです。少しでも、追い付かないと」
メニューを変えたおかげで、成果は少しずつ出ている。走れる距離も伸びつつあり、その分シンボリルドルフ達との併走でもこれまで以上の距離ついていくことが可能になってきた。今なら2000メートルのレースでも少しなら距離を詰められるだろう。
しかし相手は皇帝。それも、私の知る流れに沿った未来を進む相手ではない。
秋の始まり、マルゼンスキーとミスターシービーは毎日王冠で大接戦を繰り広げた。その後マルゼンスキーは秋シニア三冠の一角ジャパンカップこそ負けたもののクビ差の二着という好走を見せ、何より毎日王冠でミスターシービーに初めて土をつけた。
そのミスターシービーは日本ダービーまでは無敗のまま駒を進め、無事に三冠を達成。次走に掲げる有馬記念はマルゼンスキーとの再戦であり、果たしてどうなるかと注目が集まっている。
嘗て同じ名を持っていた存在に『似ている』だけで『同じ』では無い。ハッピーミークも空いているマイルからティアラ路線を狙うつもりらしく、レースへの出走を止め練習に力を籠め始めている。本来いなかったウマ娘が二人も存在するというのに、必ず知っている通りになるから安心、なんて日和見も出来ない。
下手をすれば、毎年のように無敗の三冠が現れてもおかしくない世界。それがここなのだ。同じ土俵に立つには、私に休んでいる暇なんて無い。
「……はあー……」
見つめ返してから数秒。彼は困ったように眉を顰め、頭を掻きながら深く溜め息を吐いた。そして人差し指を立て、それを私に向ける。
「出かけるぞ」
「……は、で、出かける?」
「来週の土曜、時間はあとで送る。それまでの一週間トレーニング禁止、当日もジャージ厳禁制服厳禁、必ず私服で来い」
「え、え? 出かけるって、何を」
「予定は決まった、返事!」
「っ、は、はい!」
有無を言わさぬ声に思わず返事を返してしまった。それを受け彼は満足そうに頷いた後、会話はこれで終わりだとマッサージを再開した。訂正をしたところで、聞くことは無いだろう。
ら、来週に、お出かけって……。何をするつもりなんだろう。
というか、私服厳守って。何を着て行けば……?