『本当にいいのか?』
『いいんです。担当契約をした以上、遅くなる方が困ります』
きいと音を立てて開く扉。彼は私を扉の奥へ行くよう促す。
礼をして中へ入ると、後ろで鍵の閉まる音がする。気にせず玄関から進んでいくと、リビングが見えてきた。ソファに作業机と、その上に置かれたパソコンや資料、本棚の専門書。締め切られたカーテンの隙間から差す夕陽が薄暗く部屋の中を照らしている。
ある程度の生活感はあるものの、部屋の様子にはどことなく使い古されたような印象を感じない。インテリアを含め精々入居してから数年程度、といった様子だ。
『本当に新人なんですね』
『前にも言ったろ。ま、とにかくそこに座れ』
とりあえずソファの手前、普段使いのテーブルに合わせて座る。彼は部屋の照明を点けると台所に行き、そこで炭酸の抜けるような音を立ててから暫くしてコップを二つ持って歩いてきた。
『ほれ』
『どうも。どっちがお茶ですか?』
『両方炭酸』
『せめて口あたりの良いものにしませんか?』
私が炭酸の苦手なタイプだったらどうするんだ。
『苦手じゃないだろ?』
『まあ、飲めますけど』
『じゃあ問題ねえだろ』
私の指摘を意にも介さず、トレーナーは作業机に座って自分のコップを煽る。この人結構融通が利かないなあ。てかこれ、甘味料の無いほんとの炭酸水だ。通りでにおいがしないと。
彼が新人トレーナーだという情報は自分で言ってくれていたけれど、流石に早まったかな。もっとコミュニケーションの取りやすい人にするべきだったろうか。…いや、どうせ誰を選んでもこの話はする必要があるんだ。このくらいの方が距離も測りやすいと思った方がいい。
仕方なく炭酸を飲み、コップを机に置く。数拍会話が途切れ、改めて視線が合わさる。
『さて。面倒な遠回しは無しでいこうか。態々俺の部屋で話す事にしてまで隠している事ってのは、なんだ?』
……うん、もう少し言葉を包めるようにはなってほしいかな。
『……私について調べてあるという事なので、大体は端折りましょう。私が多少無理をしていて、今もしているというのは分かっていますよね?』
『ああ、まさか学園に来る前なんて子供の頃に、火事からもっと小さいのを助け出したっつー話を見るとは思わなかった』
『仕方ないでしょう、自分の知り合いが逃げ出せなくなっているのを知って見捨てる気にはなれません』
『……知り合いだったのか』
『以前住んでいた所のご近所……と言っても、地理的には五分ほど離れた場所だったんですけどね。ちょっとした縁で付き合いが生まれて、共働きのご両親の代わりに面倒を見る事もあったんです。精々、保育園から少しだけ早く引き取る程度でしたけど』
見た目より大人びて見えるというのもあったのだろう、私もこの世界に来て以来かなり深い友好のある相手となったこともあり、喜んで手を貸していた。
家族は特別裕福とまではいわないが子供達だけを家に置いていても安心出来る程度には経済的にも安定していて、私だってあの瞬間、火事になったと聞いて嘘だとすら思ったものだ。
『で、助けちまった、と』
『……私に出来たのは自分の知り合いを火の無い場所に送る事だけ。全員を助ける事までは出来ませんでした』
『……結構な大火事だったらしいな』
『隣り合う建物にも燃え移りましたからね。一方は民家という事でいち早く気付いて逃げ出してくれましたし、もう一方は老朽化で取り壊し予定になっていたアパートだったのが救いです』
『あれだけの大事だってのに、お前のメディアの露出が少ないのもそれか?』
『人に言って誇れるような、立派なものじゃありません。それにあんな体験、何度も思い出させるものでもないでしょう』
あの子達の家族にも極力私の話をしないように頼んでいたし、私自身もそうした取材などに遭わないよう徹底して避けるようにしていた。最初の一ヶ月と、そこから年を跨いで時折カメラやマイクを持った人が自宅の周囲に居る時はあったが、最終的に一度だけ受けた取材でこれ以上この件には触れないで欲しいと話して以降は静かなものだ。
子供の頃の経験として、あれは刺激が強すぎる。不必要に思い出させるようなことはしない方がいいだろう。
『……あの日も、何時ものように姉妹の両親が返ってくる時間まで面倒を見ていて、それから帰路に就きました。帰宅して少しした頃、姉妹の両親から連絡が来ました。「大丈夫?」と』
『……』
『最初はどういう意味か分かりませんでしたが、あまりに簡潔な、まるで切羽詰まったようなメッセージに嫌な予感がして、返信も送らずに家を飛び出しました。そして見たのが、炎を吹き出す、少し前まで自分が居たマンションでした。後で聞いた話では、丁度防火扉などの機能点検を行っていたタイミングで起こってしまったそうです。我ながら、なんとも運の無い話ですよね』
子供達家族の近所付き合いが私だけでなく、マンションの住人にまで及んでいたことが、私へ連絡が早まる要因になっていた。いち早く避難した彼らが姉妹の両親に連絡を送り、そして心配した二人が私へとメッセージを送ったのである。前世より人と人の関わりが未だ根強く残っているこの世界だからこその偶然だった。
そして、あの光景は何度思い出しても慣れない。自分があの建物の中に居たのだという驚き、助かったんだという安堵。
そして、子供たちはまだあそこにいるのだという事実への焦燥。
『比較的火の発見が早かったおかげで、消防への連絡は早かったみたいです。しかし私がマンションへ着く方がまだ速く、そしてその短い時間でも、火災は深刻さを増していました。……救助を待っていたら、子供達は助からない。そう思ってからの行動は、自分でも無謀だったと少し反省しています』
『…本当に、無茶したもんだ』
『でも、出来た。出来てしまったんです。私はその無茶を押し通して、子供達を助ける事に成功しました』
だから、私は今こうしてここに居る。
『あれから既に数年が経過しました。傷の治療と鈍った身体を戻すリハビリ、それからレースの為の特訓。入学にあたって、出来る限りの事はしてきました。得意の走りがどうなったかも調べ直し、より勝率の高い策も練り尽くしました』
相手の動揺を誘いながら、終盤に入る手前から急激に追い上げていく追い込み走法。最終直線に入る前に捲り始める少し特殊な、同時に通常の追い込みにも近しい策だが、他と比べゲートに対応しやすく出も上手い私からすればあまり噛み合わない。
それでも、この歪な身体を限りなく活用するには、私じゃあこの方法くらいしか思いつかなかった。
語りかけながら制服の襟を緩め、リボンを外す。それから服の裾に手をかけ、思い切り持ち上げ放る。春もそろそろ終わる頃といえ、インナー越しに僅かな寒さが伝わってきた。首の包帯も緩めて解いていく。
『おい、何してんだ』
『いいから、見ていてください』
『説明だけすりゃ――』
インナーにも更に手をかけ、また持ち上げる。今度こそ素肌が外に出たことで、寒さが一段強くなる。
そのまま手袋と左耳のカバーを取り、一緒くたに床へ脱ぎ捨てると、私の上半身は下着だけとなる。トレーナーの方へ視線を向けると、彼は目を見開いたまま硬直している。
『……どうでしょうか。担当契約した事を後悔しましたか?』
『……お前』
驚きを隠せないその顔が、私と目を合わせる。
『……思ったよりでけえなぁ』
『もっと感想があるでしょう!?』
慌てて胸を隠して彼に背を向ける。首より下に視線がいくようにしたのは私だけど、凝視の方向が最悪過ぎる!
『サイズデータを見た時はそんなにあるかと思ったが、着痩せしてたのか』
『いやまっ、そうですけど! 違うでしょう!? もっと言うべきことっ!』
『耳含めて事前に聞かされてたからぶっちゃけ分かるしな。それより見た目以上のモン見せられた驚きの方が勝るわ』
『こ、このすけべ! 変態! むっつり! 最低ですっ!』
『あのな……俺は話をしてくれりゃあそれでよかったんだ。デリケートな内容だからって寮にも上がるのも許した。脱ぎ始めたのはお前だぞ』
『それは…そうですがっ…!』
『自分の行動も顧みず人を罵るとは、余程清廉潔白と見える』
『ぐっ、んんん……!』
確かに静止を聞かなかったのは私だけどぉ……! なんでこの人は言葉の割にほぼ無感情なんだ! 私だけ無駄に気にしてるみたいじゃないか!
ああもう、あっちのペースに振り回されてたら進まない。彼はもうこういう人間なんだと思って接さないと……。
恥ずかしいが背けていた身体を戻し、もう一度トレーナーの方へ身体を曝け出す。
『あなたが見るべきなのは私の胸じゃなくて、もっと他の場所です。ほら、ちゃんと見えますよね』
『……ああ、そうだな』
無理やり軌道修正すると、視線が露骨なまでに私から避けられる。一歩踏み出すと、その目は更に大きく逸れた。
『その身体、それまでと比べてどのくらい動く』
『練習と、選抜レースの感覚を元にすれば、という推測ありきですが。昔出せた全力と比べて七割未満。正直、半分出せている確信もありません』
『……わかんねえのか』
『あれから成長期も重なったせいでどこまで伸びたのか分からないというのもあります。ただ……、喉に問題がある事は知っていますよね』
『ああ』
『全力を出せば呼吸は直ぐ出来なくなる。余力を残そうとしても喉を保たせられない。どう調整すればいいのかがつかめないまま、中途半端なんです、色々と』
身体的なものは殆ど元に近いと言っていい。多少の誤差はあれど、限りなくそれまでの全力と同じものが出せる。
だがあの日。私は燃え盛るマンションに飛び込み子供達を運び出して直ぐ、倒壊を始めた建物の瓦礫に巻き込まれた。咄嗟に子供達を守る事は出来たものの、無防備になった私は気絶、極めて僅かな時間で覚醒出来たといえ、燃え盛る炎で熱された空気を吸ってしまった。
ウマ娘の身体は人間と比較し、総じて秀でている。単純な身体能力だけにとどまらず、基本的には回復力も高い。普通なら一呼吸もすれば気道が塞がり窒息するような火傷を、ぎりぎり息が通るところで持ちこたえることが出来たのも、無茶な脱出を可能とし、学園に入学出来るだけの状態に戻す事が出来たのもそのおかげだ。
けれど、一度戻す事が出来たからと言って、必ずしもそれが完全に元のものと同じとは限らない。限界の位置は分かるが、そこまで戻せるのか、そして伸ばせるのかが分からない。
股関節炎によって競争能力を狂わされてしまったナリタブライアンと同様に、私も万全と言える走りを見せられなくなった。
『一番身体が伸びた時期に、殆ど動けなかった。そのせいで尚の事成長は阻害された筈です。私は走れこそしますが、出せただろう百パーセントの力で走る事は出来ません。トレーナーさん。あなたには、それを限りなく元の状態にまで戻し、その上でより高い能力に伸ばしてもらいたいのです』
『それが俺を選んだ理由だったな』
『出来るだけの事をすると言ってくれましたからね。此方も、嘘偽りなく全てを見せなければならないと思いました』
『……そうか』
気難しそうに頬杖を突きながら、一向にこちらへ視線を向けないトレーナー。
『……今一度聞きますが。私はシンボリルドルフさんに勝てると思いますか?』
『無理だな』
『…即答ですか』
『その身体がもう少し健全な状態なら、また考えも違った。書類越しに情報を見ただけなら、砂粒程でも可能性があるんじゃないかとも思っていた』
作業机に置いていたコップに手を伸ばし、彼は残っていた分を思い切り傾ける。上を向いた顔が戻った時、先のくだらない話をしていた時と打って変わって、その表情には焦りにも似た苦々しさがあった。もしかすると、あれは茶化さなればいけないと思うくらい深刻に感じた故の発言だったのだろうか。
『重なった不利条件がお釣りを付けてのっかってやがる。今のお前じゃ、仮にシンボリルドルフを越えられたとしても、その後身体を保たせられる保証が無え』
『なら、引退覚悟で勝利だけを選べば』
『スタートワン』
私の言葉を遮る聞いたことの無い低い声に、身体が震える。じっと目を見合わせてきたトレーナーは、今までで一番無表情だった。
『言って良い事と悪い事があるな?』
『……すみません。軽率でした』
彼は謝罪を聞いて、深い息を吐きながら再度視線を外す。
『……お前一人で戦おうとすれば、間違いなく負け続けて終わる。それは覆しようが無い』
『…………』
『だから、それをどうにかすんのが俺の役目だ。例え不可能だと分かってようが、手を貸すならその手を抜くつもりは無い』
静かに立ち上がった彼は、足元に散らばる服を拾い上げ私に手渡す。今度こそ、私と目を合わせたまま。
『例えひよっこだろうが、俺も一端のトレーナーだ。契約を決めちまった以上、後にゃ引かねえ。もう腹は決めてある。お前はどうだ?』
制服を受け取り、笑みを張り付けた。
『勿論』
「…ん、スタ………ン。スター…ワン」
「ん、う…。」
「おいスタートワン。起きろ」
「……ん、あれ…?」
トレーナーの呼び声に目を開き、ぼんやりとした視界で周囲を確認する。
ええと、今は何時、ここは何処…新幹線? あれ、違うな……。
「ったく、電車で長い事揺られてるからって、アスリートが飯食ってすぐ寝るな。太るぞ」
「しつれいな、ことを……ふぁ…」
言い返そうとして欠伸が漏れる。なんか、少し前も似たようなことが……ああ、そうだ、わざわざ電車に乗って移動してきたんだったっけ。
「もう、ついたんですか…?」
「着いたからさっさと動け。乗り過ごす気か」
「わかりました、分かりましたから、せっつかないでください…。あれ?」
「ん? なんだ」
「……あなた、髪伸びました?」
「まだ寝ぼけてんのかてめーさっさと起きろ!」
トレーナーに叱られてしまった。
おかしいな、なんだかさっきまでの記憶よりも違和感があるような気がするんだけど……。
ホームを歩いていた時はまだ眠気が抜けなかったが、駅を出る頃には頭も冴えてきた。
思わず周囲を伺う。商業ビルや飲食店が立ち並ぶさまは、首都圏内のベッドタウンらしさがあった。
「懐かしいか」
「今年の初めは住んでいた場所ですよ? 大して変化もありません」
「そうか。ならとっとと行くぞ」
「はいはい」
駅のバス停からバスに乗車し、また少しの間移動。店舗の数が減り、住宅が増え始めた頃に下車して、そこから歩いていく。
「よく道が分かりますね」
「事前にストリートビューで確認してあるからな」
そんな話をしている内に、目的地が見えてくる。一人暮らし向けではなく、家族で生活出来るマンションの一つ。
近くまで来たとき、エントランスへの入り口に二つの小さな人影を見つけた。私達が彼方を認識したのと同時に、彼方も私達に気付く。
「なあ、あれ……」
「みたいです」
こちらが分かっている事を示すため軽く手を挙げると、その影は嬉しそうに飛び跳ねたあと、揃って駆け寄ってくる。
「お久しぶりですね、お二人と」
「「ほし姉ーっ!!」」
「んぐぇっ……!」
鳩尾と腹ッ!
「久しぶり久しぶりひさしぶりぃーっ!」
「ほし姉がやっと戻ってきたーっ!」
「あ、あの、ふたりとも…、おりて、もらって…」
地面に投げ出された身体に、二人のウマ娘が乗っかかる。まだトレセン学園へ入学するにも数年かかる程小さな二人だが、盛大に転がされた上にそのまま乗られると、流石にちょっと辛い。
腹の痛みを何とか我慢しつつ声をかけるも聞いていない。と、そこで太陽の光を遮るものが来る。
トレーナーは二人の襟首を掴むと、そのまま持ち上げてしまう。相手が小さいと言えそれぞれ片手で持ち上げるとはかなりの筋力だ。
「おうこら。おめーら人の担当が怪我したらどう落とし前つけるんだ?」
「わっ、おじさんだれ?」
「おじっ…俺はまだ二十代だ!」
「あっ、聞いたことある声だ! ほし姉のトレーナーさんって人!」
「ほんとだ!」
「話聞けっつの……。ったく、スタートワン、さっさと起きろ」
「あ、はい」
彼が二人をどかしてくれたことで何とか起き上がる。まだ痛みはあるが、そのうち消えるだろう。
軽く腹を摩りながら、トレーナーが今もぶら下げたままの二人を見る。黒鹿毛と青鹿毛のウマ娘。年齢としてはアニメ二期の頃のキタサンブラックとサトノダイヤモンドくらいで、よく見ると一方が少しだけ大人びて見え、姉妹だと分かるくらいには容姿がよく似ている。因みに、黒鹿毛の方が姉で、青鹿毛の方が妹だ。
持ち上げられたままにも拘らず、二人は私を見てにこにこと笑っている。それにつられて、私も笑みを返した。
「少し遅れましたが……。お久しぶりです、二人とも」
「「おかえりっ!」」