現実逃避の中、脳裏を過るあの日の記憶。
四人での併走の後問われたことに答える為、トレーナー寮の彼の部屋を借りて行われた二回目の話し合い。
『トレーナーさんは、領域について聞いたことがありますか』
『……G1に出走出来るような、極めて一部のウマ娘だけが使えるっつーあれか。まさかとは思うが、お前も』
『使えます……。多分ですが』
『多分?』
『領域と呼称するしか他に説明出来る方法が無いんです。これは、何処でだって、誰にだって牙を剥いてしまう。…使おうと思えば、今あなたにだって使えてしまうから』
『……なんだそりゃ』
『常日頃から意識していないと、枷を外して勝手に暴れ出す。そういうものなんです、私の持っている領域は』
『EXECUTE→Don't Stop RUN』の性能は、おそらくこれまでの、そしてこれからのウマ娘が持つ領域の中で最低最悪だ。
トレーナーに説明した時の一言目は「正気で手に入れられるモンじゃねえな」である。酷い言い方だが、何一つとして反論は出来なかった。
これが行う事は踏み込む力を強くするわけでも、速度を上げるわけでも、一呼吸を入れられるようになるわけでもない。
「~~~~!!?」
「いや、っ!?」
私の後ろを走っていた二人が物凄い速度を出しながら上がっていったのを皮切りに、あっという間にほぼ全員がどんどんと前に上がっていく。レースはまだ中盤、彼女達がそのまま速度を維持し続ければ、終盤に差し掛かるころには走ることすらままならなくなる。
最後方の私から先頭までは軽く20バ身以上あり、そのペースは傍目から見ても明らかなまでに失策と分かるものとなっている。
そう、まるで全員が“強制的に掛からされたかのように”、急激にレースがハイペースへと変わっていく。
より正確に言うのなら、まるで“私を中心とする何かから逃げ出そうとするかのように”、ハイペースを作っている。
これが『
噴き出した炎の髑髏に狙われた者は、行動を強烈に制限され、その上でパフォーマンスを大きく落とされる。距離が長ければ長い程、致命的な敗北の要因となるほどに。
彼女達が走るための覚悟として手に入れた、自分を鼓舞する為の領域とは違い。これはその覚悟を削ぎ、邪魔し、私と同じ場所まで引き摺り落とす為だけの力。
調整や使いどころを間違えたり、逆に最悪のタイミングで使えば、彼女達は走る事にも集中できず、時にはその未来を奪われる怪我もしかねないほどに強烈な感情を送り込む。
彼女達への敵意でもってしか使う事の出来ない、最低な力だ。
「っ、はあっ…!」
足に喝を入れ、少しずつ前へ進み始める。私を中心とした恐怖の世界に周りの子は足を乱さず走る事に精一杯で、一人速度を上げ続ける私を止める事も出来ない。
使うことそのものが悪意と言ってもいいこの力。
だが、それでも私はこれを使う事を躊躇いはしない。
それぞれがそれぞれの渇望、誰かの想いを背負って武器にして走るというのなら。私は私の想い、受け取った願いを背に、この武器を取って戦う。眼前に迫った死の炎すらも、この手に掴み取って。
なにより。
領域を受けたというのに、出走者は誰一人足を緩める様子が無い。接触しかけるアクシデントや斜行紛いの移動もあったが、ぎりぎりで踏ん張っていた。場合によってはレースも忘れ四方に散らばって逃げてもおかしくないはずなのに。
これでも多少本気で恐怖を捩じり込んだのだが、それを耐え、勝利の為走り続けている。
彼女達の心は、とても、とても強い。私よりもずっと、ずっと。
そんな彼女達を前に、一切本気を見せずに勝つ方が失礼だ。
卑怯者と罵られようが、なんだってしてでも、彼女達に――勝つ!
完全にペースが崩れた集団を前に、少しずつ前進を続ける。例えここから立て直す事に成功しても、彼女達が最終直線に辿り着くころには、私はゴール板を駆け抜けているだろう。
距離にもよるが、破格と言ってもいい性能のこの力。
ただ、かといって決して万能という事ではない、調整が上手くいかなければレースから意識を飛ばすだけの恐怖を送る事は出来ないし、
それに――
「っ、はは…! なんと凄まじいっ! これが君の全力か、スタートワンッ!?」
出走者全員に打ち込まれた恐怖。十六人はものの見事に調子を狂わされているというのに。
たった一人、やや前方で私と同じように周囲から遅れながらも、しかし欠片ほどもパフォーマンスが落ちていないウマ娘が、その歩みを強めながら私に向け声を張り上げる。
この中で誰よりも効果があってほしかったただ一人。シンボリルドルフだけは、口許に笑みを浮かべながら嬉々として走っていた。その笑い声に、抑え込んでいる恐怖が滲みだす。身体の芯が凍り付いて身震いが止まらない。
私が与えた恐怖は防ぐ事の出来ないものだ。物理的な現象ではなく、そして精神に直接作用する。生物である限り、耐える事なんて出来るはずが無い悍ましい世界。
それを耐えるどころか、何事もなく走り続け、あまつさえ私に話しかける余裕まである?
冗談じゃない。間違いなく、私とじゃあ比較にならない程に。
彼女は、化け物だ。
レースも既に後半戦、先頭が最終コーナーに差し掛かるまでほんの少し。ハイペースだったはずの速度はいつの間にか落ちていき、私達二人を置いていった集団が少しずつ後退してくる。一方私達だけは、その足を速め彼女達の最後尾に追いついた。そして順番に、一人ずつ追い抜いていく。
「勇往、邁進」
「ッ!」
一人、二人、三人、四人。乗り越えていくほどに、私達は速度を上げる。自力で上位へ食い込んでいくしかない私に対し、彼女は、
「道は、自ら―――」
“荘厳なる王の間、たった一つ置かれた玉座は、ただ一人にのみ許された特別な地位の証。
そこへ辿り着くための赤き道を、深緑の衣装を身に纏う少女が歩く。その身に負う重圧と責任を、覚悟と使命の名の下に、軽やかに、高らかに。
『汝、皇帝の神威を見よ』
掲げた七つの称号と共に、彼女は振り返る。己が宿命を乗り越えん為、紫電の光を瞳に宿し、鳴り響く轟雷を打ち払い、輝く鹿毛の髪を靡かせながら。”
「切り、拓くッ――!!」
爆発するような音を足元から響かせ、コーナーを回る僅かな時間に全員を追い抜いたシンボリルドルフは、そのまま私を突き放して疾走する。これから待つ坂を気にする素振りすら見せぬ、破滅的なまでの加速と共に。
追随するも、その差は瞬く間に開いていく。坂の入り口に踏み出した彼女は、まるでそこが平坦な道と変わらないかのように異常な速さで駆け上がる。彼女が半分を乗り越えた頃、ようやく私は坂を上り始めた。
既に距離は10バ身以上。幾ら鍛えたと言え、呼吸はかなり厳しい。足も震えている。
それでも、この距離を一センチでも縮められるなら。
「はぁああああああああああ!!」
「っ! そうか、まだ諦めないかッ!」
雄叫びのような声を上げ、猛追。美しいその鹿毛に迫るため、最後の最期の気力を振り絞る。
彼女とはもう二度と走れないかもしれない。今がたった一度のチャンスかもしれない。今だ、今だけなんだ。今だけに、全てを出し切れ。
例えここで喉が潰れようとも、
肺が裂けようともっ、
腕が千切れようともッ!
足が砕けようともッ!!
圧勝など、させて、たまるかぁああああああああ!
「シンボリ、ル、ド、ル、フゥウウウウウウウウウ!!」
『滅茶苦茶なレース展開もついに最終直線! 圧倒的リードで走り込んできたのはシンボリルドルフ! なんという速さ!? 坂が坂の意味を成していない!! これは最早誰も追いつか――いやっ、一人だけ、一人だけ彼女以上の速度で追い上げている!? スタートワンだ! スタートワンが開いた距離を異常なペースで縮めていく! じ、十バ身の差がっ、八…六…四、さ、三バ身にまで追い付いた!? …しかし! だがしかしッ! 詰められる猶予は、もう無いッ! シンボリルドルフ、今ゴォーーーーーーールッ!』