「はぁっ、はあっ…っ、う、っ…ぁ……!」
「大丈夫か」
「はい…、トレーナー、さん、もっと、強く…!」
「無理するな。ここで休憩にするぞ」
「です、が」
「ここで潰れたら元も子も無ェ。いいから休んで呼吸を整えろ。汗も拭け」
「……了解、です…。」
トレーナーが私から身体を離し、そのまま立ち上がってキッチンへ向かう。酷く乱れた鼓動の煩さに耳を逸らし、だらだらと流れる冷や汗を置いておいたタオルで拭きながら、彼が飲み物を持ってきたのを受け取る。
濡れてべたついた服を着替えたいが、新しくしたところで数時間後には同じ状態になる上、今はそれを出来るだけの元気が無い。制服じゃないだけましと思って我慢を選んだ。
「ん……。すみません、ありがとう、ございます」
「今日はあと二回までだ。それ以上はお前が保たん」
「……直ぐに、ダービー、です。時間、無いです」
「だからだ。自分がやってる事がどれだけ負荷の強いモンか分かってんだろ」
「……。」
返事を返せない私に、トレーナーは自分の分のドリンクを煽った後、私の前に座り直して手を取ってくる。彼に包まれた手の中のコップに起こっている波紋は、彼が原因ではなく、これを飲み干せないでいる側にある。
「領域ってだけで身体にかかる負担は並のレースと桁違いだ。その上お前のヤツは負荷に上乗せがある。短期間に発動を繰り返して出走不可能のダメージを受けたら終わりだぞ」
「…………」
「簡単に出来るモンじゃねえっつったのはお前だろ。今最悪なのは余力を残さずレースに臨む事。時間がかかろうが少しでもその厄介者を武器に昇華してえんだったら、俺の言う通りにしろ」
「………。分かりました」
真正面から諭され、彼の言葉を受け入れる。悔しいが、恐怖に当てられ続けて言い返すだけの気力も無ければ、反論出来るだけの材料も無かった。
ホープフルステークスでの戦いではシンボリルドルフに完全に無効化されてしまった『
皐月賞までは単純に深度を上げるだけで対応するつもりだったが、三女神との接触以降元のものよりも悪化している事を受け、深度の再調整が必要となった。
今日のトレーニングは以前彼と話した際に提案した、戦いの中で少しでもその威力を引き上げるための深度上昇のための行為だ。
更に言えば、今後の事を考え
方法は簡単で、ひたすら枷を緩め何度も恐怖に心を浸す。身体が恐怖に馴染んだところで、そこから更に緩め、深く潜っていく。一人暮らししていた頃にも取っていた方法と同じだが、これ以上に適切で最適な方法は無く。結果私は、何時間もひたすら震えを抑え込む事に全神経を費やしている。
「お前の家に来てまでやる事じゃねえんだがな」
「一番、安心出来るところ、ですから。それ、以前に、まだ、謹慎、期間、ですから」
「……俺の家じゃ無理か?」
「多分、大丈夫、です。でも、あまり、意味は、無いと」
理事長に事情を説明すれば了承してくれるだろうが、手間がかかるし私自身もあまり乗り気になれない。
「……しゃあねえな」
「すみません。もう少し、我慢を」
面倒そうに頭を掻く彼に頭を下げる。この世界はゲームとは違って、領域の
再調整というだけでなく、精度を高めるには、結局自分自身と向き合っていくしかないのだ。
「で、どうだ? 少しは成果があるか?」
「…………あまり」
「だろうな。領域なんて俺達トレーナーでも真面に干渉出来ん。一人でああだこうだするしかねえ」
「それでも、やらなければ」
彼女に一歩でも、コンマ一秒でも近づくためなら。
この苦痛程度、耐えなければならない。
「それより、続き、お願いします」
「…無理して潰れんなよ」
「頑張ります」
コップを飲み干し机に置いて続きを促すと、トレーナーは私の前に座り、そして両手を広げる。
身体を倒しその胸にもたれかかると、彼の腕が私を包み込んだ。僅かな緊張と、彼に抱かれている安堵が混ざり合う。
「…いきます」
「ああ」
枷を緩めると、封じていた領域が漏れ始める。内から外へ、周囲を暗闇に変えようと這い出したそれを寸でのところで押し返し、体内と体外の境目で維持。そこから極めて少量ずつ、蛇口から数十秒かけて一滴の水を零すように外側へ出していく。
それと同時に、内に溜まる恐怖の速度だけを上げていく。溢れてしまうほどのペースで溜まり続けるそれを無理矢理に抑え続ける。
これの調整は私の感覚的なものが大きい。自分の内側と外側の状態から、なんとなくレースに転用出来る範囲を探し出して使わなければならない以上、そこを見つけ出すまでにかかる時間は、実際に使用する何倍もの長さになる。
「……。……ふうっ、ふうっ、ふうっ…っ! は、あ…!」
全身が震え、汗が滝のように流れる。トレーナーに与えてしまう恐怖を少しでも抑えるために、口を噛み全力で心を守る。痛みさえ錯覚する程に心臓がどくどくと脈を打つ。血の臭いが口の中で滲み、それがより震えを深める。
「怖く、ない、ですか…」
「問題無い。続けられるか」
「…ごめんなさい、もう少し、我慢を……!」
私の領域は、単純に外へ恐怖を撒き散らせばいいものでは無い。威力が大きければ大きい程周りに与える被害は悪化し、それは規模の広がりと共に私を破滅させる反動を戻す。
本来はレースで用いる事など出来ないようなものを強引にでも利用出来るようにしたのに、尚シンボリルドルフには通用しなかった。となると、それを有用な段階まで引き上げるには、私自身がこの恐怖を操る術を鍛えあげるしかない。
全ては、彼女と全身全霊で戦うため。たったそれだけ。
「はっ、はっ、はっ……! うっ、ぐ…。はあっ……!」
たったそれだけの願いを叶えるための我慢を、恐怖はあっという間に蝕んでいく。必死に作り上げた心の壁を破壊し尽くして、溢れた涙が彼の服に染みを作る。
前提として、私が耐えられる範囲よりも上の段階に踏み込んでいるからこその状態だというのは分かっている。それを加味して尚、私の震えは悪化の一途を辿る。
ああ、本当に……っ! こんなもの、私にどう扱えっていうんだ。一日中使い続けて、ささくれだった神経は痺れが走るくらいずたずたになっている。理性が動き続ける限り、この恐怖は終わらなくて、それが何よりも恐ろしい。
私は何時まで、何処までこれから逃げなければならないんだ? なんのためにこんな事をしているんだ? こんな苦痛に耐え続けたところで、私が勝てるなんて保障は存在しない。こんなところで死に物狂いになって、それで望み通りの結果なんて、得られはしないのに。
必ず捕まると分かっているものから無駄に逃げるくらいなら――――いっそ
「スタートワン」
「っ」
彼の声が、耳の間近で低く響く。沈んでいた私の意識を、ゆっくりと押し上げてくれる。
「焦るな、息を整えろ。ゆっくり吸って、ゆっくり吐け。出来ないならとにかく思い切りしがみつけ」
持ち上げた顔。照明の光が乱反射する視界の中で。それでも彼の瞳だけは、私を見ていた。
胸に顔を埋め、大きく息を吸い、吐く。
「……すう……はあ……、すう……」
「そうだ。自分一人でなんとかするつもりになるな。俺はここに居るだろ」
「……はい」
「今必死に歯ァ食いしばってんのは、自分が勝ちてえっつってやってる事だろ。嫌になったら止めればいい。何をしようがお前の勝手だ」
「……」
「止めたいか?」
優しい声の問いかけ。私を抱きしめる彼の腕は、密着している私でも辛うじて気付ける程に、ほんの僅かに震えている。
漏れ出る領域に当てられて、けれどそれを気付かせないように隠してくれている。
私の所為で。
私の為に。
色々な表現は出来るが、結局は。
トレーナーは今、私を勝たせる手伝いを、全力でしてくれている。
「……がんばり、ます」
「おう。気合入れろ」
「…、はい……!」
恐怖に馴れは存在しない。恐ろしいという経験そのものは、何度味わおうとも常に新しい感情として発生する。
だが、耐える行為に馴れは存在している。生み出される感情とそれを受け止める経験を何度も繰り返せば、やがては次に来るものを受け止める準備を整えるようになる。
「ふうーっ、ふうーっ…、ふうーっ……」
息の乱れは酷く、震えは止まらない。汗は今も滝のように流れ出ている。それに反して思考ははっきりしていて、呼吸を整える事も意識出来る。
「どうだ」
「……少し、落ち着き、ました……」
「良し。今日はここまでにする。抑え込め」
「はい…」
彼の言葉に合わせ、領域の枷をゆっくりと締める。細心の注意を払いながら、外へ漏れるものが無いよう徹底して。
数分かけ、封を閉じ切る。これなら普段通りの生活ならまず出てくる事は無い。
「……は…ぁ…、」
息を吐くと、身体がトレーナーへともたれかかる。慌てて彼の胸に手を当て起き上がろうとするも、力を入れる途端に抜けてしまい、彼を押そうとしているだけだった。
「っと。疲れたか?」
「ちょっと、だけ……。すみ、ません、今、どきます……」
「いい。まず身体を落ち着かせろ。無理に動くな」
「……すみません」
「構わん」
数時間も断続的に緊張状態を維持していたからか、一度脱力すると身体の動きが鈍くなる。三女神と接触したあの日と同じで、起き上がるには時間が必要になるだろう。
……だが、苦労しただけの甲斐はあった筈だ。これを繰り返せば多少領域の精度を深める事が出来る。負担は大きいが、それでも何もしないよりはずっと有意義だ。
彼に抱きしめられながら、繰り返し深呼吸して状態を整えていく。
「すう…、すう…」
「後で風呂に入って来い。その間に飯作っといてやる」
「はい…」
「一応聞いておくが、上手く整えられたか?」
「……多少、なら」
「ダービーに間に合うか」
「……合わせ、ます」
クラシック二冠目の猶予は短い。私もシンボリルドルフも二週間真面に練習が出来なかった分、使える時間は少しでも効率的に活かさなければならない。
身体の向上では互いに大きな成果は見込めない。となれば、此方に出来るのは
「無理だけはするなよ」
「…明日も、とれー、にんぐ……あります、から。シンボリ、ルドルフ、さん、達と、プール、れんしゅう……」
「……そうだな。後でマッサージしてやる。今日の疲れは今日で取り切れよ」
「……おいしい、ごはん、おねがい、です」
「へいへい」
頭を優しく数度叩かれる。資格含め、一応料理の経験はあるらしいので下手なものは作らないと思うのだけど。
「で、そろそろ動けるか?」
「待って、ください……ん…、もう、少し……」
「いや、いい。無理すんな」
「…重い、でしょう」
「軽過ぎる。食事と運動のバランスが取れていない証拠だ。食事量が増やせない以上、少量でも栄養の取れるモンを食うように意識しろ。今後は摂るモン書いといてやる」
「きびしい、ですね」
「最悪サプリを使う事も考慮しとけ。今のお前に必要なのは全身に渡る筋肉と脂肪だ。…素養は悪くねえんだから、もっと食え」
そういって何故か視線を逸らすトレーナー。何故そんなことをと考え、察する。
「……すけべ」
「当ててんのはお前だろうが」
「むっつり」
「薄着のお前が悪い」
「ええかっこ、しい」
「誰がだ」
なるほど、私の為に無理をするのは、私の前でカッコいい所を見せるためか。
大人としての矜持なのか男としての甲斐性なのかは分からないけど、自覚はあったんだな。
……仕方ない人だなあ。
少しだけ背を反らし、彼との密着度を上げる。じろりと睨まれた。
「おい」
「あなたも、男の、人、ですからね。」
「ふざけるな。遊んでんじゃねえ」
「分かって、いますよ。青葉賞、出られなかった、代わり、です」
本来の予定では、皐月賞を敗北した場合、必ずトライアルレースである青葉賞に行く予定だった。二つ目の重賞を狙いつつ、ダービーの優先出走権を勝ち取る。弥生賞の賞金を考慮すれば走る必要の無いレースだが、ここまで来たらいっそのこと三冠のトライアルレース制覇でもしようかというつもりで考えていたのだ。
しかし、それも二週間の強制入院によって立ち消えた。私に出来るトレーナーの栄誉への貢献は、また今度の機会になったという事だ。
色々と苦労させている分、このくらいの得をさせるのも担当としての甲斐性だろう。
どうだ。シンボリルドルフに認められた豊満な曲線の触り心地は?
「ふふ、役得、ですか?」
「莫迦が」
「い、った……!」
一応は私なりの感謝を示したつもりなのだけど、思い切りデコピンを額に打ち込まれる。普通に痛い。
じろりと睨むと、彼も同じように私を睨んでいる。
「自分を安売りする女に育てた覚えは無ェ」
「育てた、のは、レースに、ついて、でしょう」
「変わんねえよ。これはお前がしていい事じゃねえ」
「……少なく、とも、私は、したいと、思ったん、ですよ」
「だったら尚の事安売りすんな」
……本気で怒られた。
何とも言えない、もやついた気持ちに言葉が止まったところで、身体をどかされその場で転がされる。立ち上がった彼がそのまま厨房へ隠れた。料理が始まったらしい音が聞こえだして、暫くこのまま放置される事も分かる。
転がされた体勢のまま、ぼーっと厨房を見つめる。まだ残る額の痛みに、少しだけ眉の皺が深くなった感じがした。
……私は別に、安いわけではないんだけど。
騒いだお詫び
詳しくは活動報告でこそこそ話してます。