底冷えするような寒さが全身を包んでいる。
ゴール板を超えた瞬間、膝が崩れ落ちた。後続の邪魔にならぬよう無理矢理足を動かすが、がくがくと震える足は、ほんの少し先に行くだけで止まった。
そのまま倒れ込む前に、芝に手をついて這い蹲るのを止める。
「ひゅーっ……ぜっ…、ひゅーっ…………」
うなだれる頭を持ち上げ、目を巡らせる。吐く息が白く消えていく。
ぐちゃぐちゃに歪む視界は、それでも確かにはっきりと写す。
完全な敗北。シンボリルドルフの番号と、その下に並ぶ私の番号。距離はぴったり一バ身。
三着の子は後方七バ身。そこからクビ差、二バ身と続く。
負けた理由はあまりに単純。あまりにシンプル。
才能が足りなかった。能力が上回らなかった。領域の使い方が間違っていた。
実力で、負けた。
ホープフルステークスのそれよりも遥かに、圧倒的に。それでいて、それ以上の理由が無いくらいに。
私はただ、彼女の予想よりも、予想通りに弱かった。
競走馬シンボリルドルフの逸話の中でも、その強さを表すものとして知られた日本ダービーの走り。
ゴールの位置、相手の力量に合わせ、必要最低限の力で勝利する。高い知能とその動きを可能とする能力の高さ。二つがあって初めて可能とする勝ち方。
二つ指を掲げ観客を喜ばせたシンボリルドルフが、此方へゆっくりとした足取りで近付いてくる。
「……ありがとう、スタートワン」
未だ身体を起こせない私に、差し伸べられる手。
額に浮かぶ汗や僅かに上下する肩には、確かに疲労の跡が見える。
しかし、それでも回復も早い。未だ起き上がれない私に対し、彼女は既に動き回れるだけの状態にいる。
死に物狂いの全力は、彼女をほんの少し疲れさせただけだった。
日本で初めて生まれた無敗の三冠馬。同じ称号を得た二代目が生まれるまでの約二十年、誰にも届かぬ記録を作った者。
その現身であり、彼女程のウマ娘なら。間違いなくこのレースを勝つ事くらい分かっていた。
その二冠目が、どのように勝っていったのかも、分かっていた。
「ぜっ……、ぜっ……っ、」
自分の能力の少し上。丁寧に、それでいて確実に。相手の精神を削ぎ落す。
こんな、
こんな事をされたら。
「……ふふっ」
「? どうしたん――だっ!?」
少しだけ身体を起こし、シンボリルドルフの手を掴む。そしてそのまま大きく後ろへ倒れ込んで、彼女と共に芝へ倒れ込んだ。のしかかる重みで息苦しくなるが、今はそれが心地いい。
「す、スタートワン?」
「………………、……。」
「――――――!」
私の顔のすぐ横に手をつき、身体を起こしたシンボリルドルフに笑いかける。
荒れた呼吸は未だ声を出す力を出し得ない。けれど、私を見るその顔は、笑みの理由を理解した事が分かった。
私の力を認めたフリをして、その上を簡単に超えていくなんてこと。
あんな、屈辱的な負け方で。
あんな遊ばれた接戦で、「無理だ」と言ってやるものか。
「……君は」
絶対。絶対許さない。
このまま終わってやるものか。
絶対に、越えてやる。
絞り出す。無理矢理にでも、痛みに呻きながらでも。
「たのっ、しみに。待っで、いて、ください…ね」
彼女は大きく目を開き、そして顔を歪める。
かろうじて、それが笑みだと認識できるぎりぎりの形。張り付けた歪みが、周りに見えなかった事を少し幸運に想う。
いつもとは違う。けれど昔から彼女と付き合いがある人はきっと見たことがある顔。
シリウスシンボリは、この顔を知っているからこそ執着したのだろう。
「私も」
「……は、い」
もう手加減はしてくれない。
なら、どれだけ焚きつけたって関係ない。
「私も、楽しみにしているよ……!」
「……、おだの、しみ、に」
「お疲れ」
「お疲れ様」
「……お疲れ様です」
壁を伝いながら他の子達と一緒に地下通路へ戻る最中、声を掛けられる。
視線を向けた先に立つ三人。皐月賞のあの子達だ。
触れる壁に背をつけ、振り向く。喉が少し痛むが、先と比べればまだ声は普通に出せる。
「お疲れ様、です。皆さん、とても良い、走りでした」
「よく言うわ。私からすると貴女が一番凄まじい走りだったわよ」
「本当にきつかったよ。散々邪魔してきてさ」
「ええ。それを超えて、くれることは、知っていました」
「……よく言うわ」
こちらからすると彼女達の領域が強化されていた事の方が驚きだった。出し惜しみするつもりははじめから無かったが、レース中にその考えをより強める事になるとまでは思っていなかった程だ。
前走を通じて、彼女達に何か大きな心の成長があったことは間違いない。事実、三人揃って私とシンボリルドルフの後を追い掲示板に入っている程だ。明らかに身体だけでなく、領域の力の後押しが働いている。
正直に言えば、最終直線に予定通りの体力を残せたことは幸運以上の何物でもない。何かが違えば、私はシンボリルドルフの全力を見る事も無く殿負けをしていた可能性もあるだろう。
そのくらい、彼女達の見せた力は予想を大きく超えていた。
「次は、菊花賞。楽しみに、しています」
シンボリルドルフの事を除けば、十分楽しみな相手ばかりだ。
「それは、まあ……。ところで」
「…なんです?」
「……だ、大丈夫? ちょっとずつ、ずり落ちてる」
「ええ、問題、ありません。…ちょっと、休みは、必要、ですが」
「それは本当に大丈夫なの?」
話している間にも身体がゆっくりと壁に凭れ掛かり、そして座り込む。人目の付かない場所まで移動するだけでも一苦労だった事もあり、会話の間にも立てるだけの元気がもっていかれたらしい。
「私は、暫く、休みます。皆さん、また、後の、ライブで」
「ま、まあ貴女が言うならいいけれど」
「う、うん、じゃあまた後で」
「…また、後で」
「ええ」
そうして三人が去り、通路に残るのは私一人。いつの間にか皆通路を通っていったようだった。無音が身体を冷やすかのようで、寒さを感じる。
対して表から聞こえるのは、どこまでもどこまでも響いてくるのは、歓声。
それを受け止める事が出来るのはただ一人。少し前まで行われていた、今日のメインレースを勝ったただ一人。
その一人は、私ではない。
私は、負けたのだ。
本気ではあったのだろう。
全力も出してくれたのだろう。
その上で、私は遊ばれていた。
遊んでいたという自覚は、彼女には無いだろう。
自分が出せる力を出し切って勝ったと思っているのだろう。
だからこれは、私の思い込みだ。
正当な権利を行使した彼女への、八つ当たりのような思考なのだ。
でなければ、
でなければ。
「……スタートワン」
「……トレーナーさん」
微かに聞こえた足音が、何時の間にか私のすぐ近くに来ていた。
視線を動かす気も起きぬまま、彼に言葉を続ける。
「すみません、負けちゃい、ました」
「…………」
「強かった、です。すごく。私が考えた、何十倍も」
「…………」
「流石、ですよね。こんなの、勝てない、ですよ」
彼は何も言わない。何も答えてくれない。
己を掻き抱いた。冷えた汗が氷の様に肌を刺す。
「菊花賞、出ますよ」
「……スタートワン」
「勝つんです。私は、あの人に。勝つんです」
「スタートワン」
「一年、頑張ったんです。ダービー、走れたんです。いけます。このままなら」
「スタートワン、もういい」
止められた。
なのになぜ、私はまだ口を開くのだろう。
「今年じゃなくて、良いです。でも、勝つんです。走るんです」
「スタートワン」
「行くんです。菊花賞。走るんです、あの人と――走って、勝たなきゃ」
「……スタートワン」
「勝たなきゃ。かたなきゃいけないんです」
ぽたぽたと聞こえるのはなんだろうか。
頬が冷たいのはなんだろうか。
「…………。」
「勝たなきゃ、勝たなきゃ。この一年。無駄になんて、させません。ぜったい、ぜったい勝ちます。だから」
彼が腰を落とす。その顔が見られるというところで、白いものに視界が覆われた。タオルだった。
「まずは休め。話はそれからだ」
「…………」
「検査まだだろ。落ち着くまでは俺が居る、いいな」
「…………はい」
聞いたことが無い、優しくて落ち着くトレーナーの声。
頬が冷たくて熱くて、そしていやにタオルの感触が悪い。
この虚しさはなんだろう。
この苦しさはなんだろう。
私は何故泣いているのだろう。
私はおかしくなってしまったのだろうか。
ああ、これからライブなんだ。
頑張らないと。元気が無いと、皆不安に思ってしまう。
改めて歌う事の出来た『Winning The Soul』は、思うままに歌う事が出来たと思う。
観客席に居た皆や家族の姿は見えなかったが、前走と比べれば楽しんでくれた筈だ。
控室へ戻り、レース場を後にする準備を整えている時。スマートフォンの震えが誰かの連絡を伝える。
画面をスライドして電話に出る。姉妹の母だった。
「こんばんは、お母さん」
『……ええ、お疲れ様』
「ライブ、見てくださいましたか?」
『そう、ね。よく踊れてたわ』
「ありがとうございます」
『ねえ、スターちゃん』
「なんでしょう」
『今度の夏、こっちに来ない? 二人もまた来るの、楽しみにしてるのよ』
「……すみません、菊花賞に向けて、特訓したいので」
『……そう。分かったわ。………ねえ』
「はい」
『…………トレーナーさんの言う事、しっかり聞きなさいよ』
「……気を付けます」
今月中に目指せ10万UA! あと感想倍と評価人数倍!(残り一日半)