「はっ……っくしゅ!」
「夏風邪か」
「違う…と思うんですけど……っくし!」
くしゃみがここまで連続で出るのは我ながら珍しい。健康はとにかく気を付けてきたから、懐かしくもあるし……あ、また鼻がむずむず……、
「ぁ、っくしょい!」
「やっぱ風邪引いてんじゃねえのか? やめろよ飯作ってる時に」
「マスクはつけてますから…熱感もありませんし。…嫌ならあなたの分の料理は抜いておきましょうか?」
「……後で体温測れよ」
「了解です」
そこは食べたいのね。
合宿に向けた外出からまた少し経って、トレーナーの自宅に泊まる日。普段なら練習の後二人でどちらかの家に行くところなのだが、今日は練習も控えめにして早々に彼の家へ引っ込んでいた。
というのも、最近いやに身体が冷えるとは思っていたが、ここ数日その冷えが少し激しくなってきていた。夏日の日差しを受けているというのに、気付くと羽織るものを探しているような状態だ。
冷えやすい方とはいえ、ここまででも無かったと思うのだが……。
千切りにしたキャベツをザルに移し、味付けして冷蔵庫に入れていた豚肉を取り出す。今日は生姜焼きと山芋のとろろスープ。夏バテや喉の調子を整えるようにとトレーナーに言い渡された。彼の方針である以上従うし、体調管理の一環だというのは分かるのだが、ちょっと冷える以外何の変化も無いので気にし過ぎだとも思う。
「追加で何か欲しいものありますか?」
「ちょっとしたつまみとかねェか? 豆腐とか納豆くらいあれば丁度いい」
「豆腐はあったと思いますが……残りは一丁だったかと」
「ならいい」
「残しておくのも気になりますし、冷奴にでもしておきましょうか。生姜は使っていますから、一味でもかけます?」
「……ラー油も旨いぞ」
「はいはい、出しておきますね」
取り敢えずネギと鰹節を出しておこう。正直料理の腕に関しては私よりトレーナーの方が上だが、なんだかんだ私の料理に良しを言ってくれるのは嬉しい限りだ。
タッパーの豚肉を温めたフライパンに並べる。肉の焼ける音と共に香ばしい匂いが漂い始めると、お腹も空腹を訴えてきた。
加減を見つつ盛り付けをどうしようかと考えていると、ノートにペンを走らせながら最近のレース映像を見ていたトレーナーが不意に声を掛けてくる。
「そういえばよ」
「はい?」
「前々から思ってたが、お前炎は特に怖くないんだな」
「何がです……ああ、そういう」
人によっては自分の命の危機を想起させるものは強い拒否を覚えるだろう。PTSDというものもあるし、私の場合でも忌避感を覚えてもおかしくはない。実際、姉妹は火事から暫くの間はキッチン周りや映像の火などにも反応する事があった。怖い経験が簡単に消えるものでは無いというのは私自身がよく知っている。少しの間は身体が無意識に震える事はあったくらいだし。
「幾ら怖いと言っても、日常的に見て使うものですからね。結局は何処かで慣れます」
とはいえだ。記憶は基本一過性。一度はどれだけ恐怖を覚えようとも、どこかでそれが危険を齎すものでないと理解すれば記憶のぼやけと共にある程度恐怖は薄れていく。蘇る事もあるだろうが、当然それにさえもやがて慣れ、使いこなす者もあらわれる。武器として、あるいは道具として。
過去の感情を強制的に蘇らせる私の領域とは違い、二度目の経験が無い時の恐怖は、必ずしも同じ状態で残り続けるものではない。
ダービーで私の脅かしを耐え始める子が居たのも、私の調整と同じように押し付けられた感情より“繰り返される”という事そのものにある種馴れてしまう事によって乗り越えたのだろう。
「そういうモンか」
「そういうもんです。さて、テーブルは片付いていますか?」
「あー、待ってろ、ちょっとどける」
「お願いしますよー」
生返事気味でフライパンの蓋を開き、焼け具合を確認する。
ふむふむ……。うん、もう少し火を通せば完成だ。後は生姜焼きの盛り付けを……
「……っ、」
空気の乱れも無い中、身体がびくりと震える。ぞわりと背に寒気が走った。くしゃみは出なかったが、指先がなんとなく冷たい。換気扇こそ回っているが、その程度で冷える事はまずない筈。
流しの蛇口を捻り、お湯になるまで少し待ってから手を当てる。……暖かい、どころか、熱い。熱湯に指を浸しているようだ。
「ほんとに風邪引いたかな…」
さっきまでも水に手は当てていたが、それにしても冷えが早過ぎる。手をお湯から離した数秒で指が悴んだような感覚を覚えるくらいだ。
体調不良と言えば基本は発熱だが、その逆と言うのも変な話だな。
軽く指を動かして調子を確認。……うん、ちょっとぎこちないが動かなくもない。もう少しで作り終わるし、ちょっと我慢しよう。
フライパンをもって皿に移、あ、またくしゃみ…、
「……っしゅん! あつっ!」
くしゃみしながらでも大丈夫だろうと横着したからか、ぶれた手が持ち手を掴むのに失敗し鉄の部分に突っ込んだ。指先に一瞬で熱が伝わり思わず呻く。熱いっていうか痛い…! 指が冷えてるから余計痛い……!
火傷した所を冷やそうと再度流しの蛇口を捻り……痛ったい!?
「お、お湯だった……!」
ついさっき温めたものなので直ぐに冷えるわけも無く。指先を更に痛めながらも、冷蔵庫から氷を取り出して冷やす。ただでさえ手が余計に凍えるのはしんどいが、火傷を放置するのもちょっと気になる。
うう……、普通にずきずきする。というか、幾ら完成間近といえ横着しすぎた。合宿に影響は無いだろうが、それはそれとしてちょっとした支障はありそうだな……。
「…まあ、作り終えるまではやっとこう」
「やめんかバカモン」
「いてっ」
すとんと頭に衝撃が走り、私を押しのけるようにトレーナーがキッチンに割って入ってくる。いつの間にか後ろまで移動してきていたようだ。
「どうしたんですかいきなり」
「どうしたもこうしたも、怪我したなら報告ぐらいしろ。しかもそのまま作り続けるな」
「指先だけですし、あと少しですから」
「その傷からどんな影響があるか分からん。あっちで待ってろ。ついでに体温も測っとけ」
「……分かりました」
有無を言わさぬ空気に余計な事を言う前に口を噤む。私の失敗の尻拭いをさせている以上、無理を言って怒らせるのも忍びない。
キッチンを離れて彼の座っていた辺りに移動。体温計が仕舞われている棚の一つを開いて取り出しながら、まだ片付けなどは必要かと確認をしていると。そこに置かれたビデオプレーヤーが。特にその画面に映ったものが目につく。
それはほんの数週間ほど前の経験で、画角こそ違うが、映像としても一度見た事のあるもの。
彼の方をちらりと見てみると、料理の最終段階をこなす事に集中していて此方の様子はまだ気づいていない。
こそりと画面下の操作盤から再生ボタンを押すと、静止していた画面が動き出す。実況や観客の声がちらつく中、ウマ娘達がゴールを目指し走り出した。
前回はクラスメイトとの話もあり私自身の動きに意識が割かれていたが、こうして改めて見直すと全体の俯瞰が出来る分、色々なものが目に入る。
例えば全体の動き。走っている間も思っていたが、はやり前残りの傾向がみられる。最終的な着順も概ね途中までの流れとそこまで変わっていない。
得に皐月賞からのあの三人の走り。領域の展開が始まった中盤から、この三人は他の子達以上に走りが安定していてキレもある。きっと次のレースでも彼女達は好走を見せる事だろう。
周囲を威圧する私の走りも、少し冷静になってから見るとそれなりの情報が読み取れる。序盤から使わざるを得なかった事を考慮しても、前半に対して明らかなほどに後半の走りが不安定だ。ふらつきや息切れを誤魔化しながら走っている事が見ているだけで分かる。幾ら鍛錬し続けたといえ、中距離も後半という長さは負担が隠せないらしい。終盤にもなると走りも崩れに崩れ、これで何故先頭まで加速出来ているのか甚だ疑問が湧いてくる。私の姿が競走馬であったのなら足はがちゃがちゃと乱れ、口からは泡を吹いていた所だろう。
そして最も恐ろしいのは。それでも先頭へと抜け出た私の後ろをぴったりと追走するシンボリルドルフ。
最終直線で集団の中を縫うように出てきた彼女は、まるで突然その場に現れたかのように突出。私のほんの少し後ろまで迫ったかと思えば、加速する私に離される……かのように緩やかに後退する。
そして次の瞬間、引き絞られた弓から放たれた矢は決着までの僅かな猶予さえ持て余して先頭へ飛んでいく。2.5メートルの間を作ると共に僅かに減速。死に物狂いの走りを続ける私の前進に合わせる様に、その間を減らす事も、増やす事も無くゴール板を駆け抜けた。走破後の涼し気な表情も、このレースが全て想定内に終わったという事を表しているだろう。
途中まで力を出す必要は無い、最後の最後でほんの少し前に行きさえすればそれでいい。類稀な強さと賢さを謳われた日本の競走馬のエピソードには、こういった表現が度々現れる。必要な時に必要なだけ。ほんの少し、最低限の力で最大限の相手を越えればいい。たったそれだけの悪夢の作り方。
これまで私と走ったレースではそうした面を見せる事は無かった。私以外と走ったメイクデビューやサウジアラビアロイヤルカップなどでも比較的距離を離していたのは彼女のレース映像から確認している。
しかし、今回初めて私に
本気を出した結果が本気を出さない事なんて、なんて矛盾した走り方。
でも、事実は事実。その本気に私は負けたのだ。ならば矛盾していようが何だろうが、敗者にそれを咎める言葉は言えない。
…………言えないのだ。
もう一度動画を巻き戻し、再度ダービーの映像を流す。最終直線、私が突出し、そしてシンボリルドルフが勝つ。
再び巻き戻して、三度レースが始まる。流れも結果も既に決まっている。変化はしない、勝者は変わらない。
それでもゴールの瞬間を何度も切り取ってしまうのは。変わって欲しいと、心の何処かで思っているからだろう。
……勝つことが出来たなら。このレースに勝利できたなら。
私はダービーウマ娘だった。トレーナーはダービーウマ娘のトレーナーだった。
それだけじゃあない。シンボリルドルフとのこれまでの三戦。その全てを勝つ事が出来ていれば、私も彼も無敗の二冠という称号を手に入れていた。
勝負の世界に「たられば」は厳禁。競技の場においては当たり前の考え方。
映画『新時代の扉』でも語られたし、理解もしている。戦う相手が不利過ぎる事も分かっていたし、その上で今を選んだ。
なのに、画面のゴール直前。私だけが先頭を進むその瞬間に、勝てるかもしれないという思いが何度も過る。G1を、勝利を、この手に掴めたのかもしれないと思ってしまう。
シンボリルドルフが加速し私を追い抜くまでの、ほんの僅かな時間で映像を止める。確定している未来が見えるまでの、私が先頭に立ったその一瞬が、止まる。明確に表れない未来に、私は今、確かに囚われている。
ぱたんと閉じられた画面で、トレーナーが隣に来ている事に気付いた。
視線を上げると、料理の盛られた皿がテーブルに幾つも並び、最後の一つを彼が手にしながら私を見つめている。
「体温計も確認せずに悠長に動画閲覧とは暇そうだな」
「……すみません。机がもう片付いていたので」
「皿も運ばずに熱中する程か」
「それはすみませんでした。まだ運ぶものはありますか?」
「……もう無ェよ」
……本当に熱中し過ぎていたようだ。出来る事が無いのでせめてテーブルの座る位置を変え、彼の座る場所を作る。
隣に腰掛ける様子を見てからマスクを外し、取り敢えず体温計を確認してみる。既に結果が出てからかなり時間が経っているようで、画面は消えていた。
仕方ないので再度測り直そうとしたところで。
「スタートワン」
「なんでしょう」
返事を返すものの、彼は皿をテーブルに置いて、それから此方へ目を向けたまま言葉を続けない。なんだろうとは思ったが、神妙な表情に此方も言葉に困る。
体温計を手に取ったまま、暫く見つめ合う。トレーナーは一瞬だけ視線を切った後、直ぐに目を合わせ口が開く。
「スタートワン。正直に言えば、言いたい事は違うが」
「はい」
「今回は止めておく。今年の終わりくらいに改めて聞く。だから一つだけお前の口から聞かせろ。はいかいいえで良い」
「……なにを、でしょう」
小さな呼吸音が耳を貫く。
「菊花賞の次。どこに行くか」
「……ええ」
「俺が決める。いいな」
「……ええ、構いません」
こればかりは私にも拒否は出来ない。ここまで連れてきてもらった以上、次のレースを選ぶのは彼が持つ当然の権利だ。
彼が走らせたいレースは何なのだろう。私の適正を考えれば前々から言っていたマイル重賞辺りだと思うが……。そんな事を考えても仕方ないか。
私に出来るのは、そこまでどうにか身体を持っていくことだけだ。
トレーナーは納得したように小さく頷き、それから手の平を私の額に当て、じっと見つめてくる。
「……熱は出てねえが冷てえな。ちゃんと測れ」
「……分かりました。食事は先に食べてしまってください」
「早く測れ」
体温計を再度つけ直し結果が出るのを待つ。
箸も持たずに此方を見つめる視線が妙に気になったが、身動ぎせぬように我慢する。
ぴぴぴと電子音が響き、体温計を引き抜く。のそりと腰を上げ私の手元を覗き込むトレーナー。
私も同じように確認して――――
「……壊れてねえよな」
「貴方の私物ですよね」
「もう一回測れ」
そうするつもりだったので一も二も無く再測定。
少ししてまた電子音が鳴り、取り出す。
「…故障か」
「…にしては、普通に測定結果は出ているんですよね」
「こんな数字出るのか」
「必要性は無いはずですが……それ以前の問題では」
「お前、今冬眠状態とかじゃないよな」
「……私自身、冗談であって欲しい所です」
二人で何度見直しても、表示された数字は変わらない。
――――10.0℃
年末年始寒波ヤバイらしいとか
さむいのやだー!