「……ふう」
思わず息を吐きながら、枷を締め直す。ここまでの回数開く事になったのはこの世界に来てすぐの頃以来だ。トレーナーからも禁止を言われていたのだが、我慢が出来なかった。
身体の動きを軽く確認してみるが、動きに阻害されるような感覚はない。動くこと自体に問題はないようだ。
身体の感覚自体はもう何もわからない。辛うじて身体を動かす感覚があるくらいで、まるでロボットにでもなったかのようだ。
これは下手にバレると冗談抜きに合宿を途中退場させられてしまうかもしれない。トレーナーには少し調子が悪いと伝えて誤魔化すしかないか。
軽く周囲を見回して時間を把握する。
「…午前……、いや、もう昼前くらいかな…」
日差しが明る過ぎてはっきりわからない。午後の猛暑感…あ、だめだ、温度は全くわからない。
とにかく、ここから移動して合宿所に戻るしかないか。
「……寒い」
使いすぎるなとあれだけ言われていたのに、散々領域を開いてしまった。一応は身を守るためだったと言え、やり過ぎた感は否めない。
なんだか、ちょっとした護身アイテムのような扱いだなあ。使い方次第って事にしたいけれど、これでレース寿命をどれだけ縮めることになったか……。
…………。トレーナーに、本当に言いにくくなったなあ……。
そんな事を考えながら帰りの道を進んでいると、久方ぶりの海岸線が視界の先に映る。五分と歩いていない場所に見えたそれに、改めてあの空間が何かしらの歪みの中にあったものだという事を実感した。
木々の影が無くなり顔に差す直射で目が眩む。思わず上げた手の指に日の熱が突き刺さり、その痛みに少し眉に力が入る。
手袋を取ってみると、中は霜で真っ白に。その内側で紫色になっていた。氷のように硬くなった指先は既に震える事もなくなっており、あとは黒く染まるのを待っている状態だ。氷漬けのような見た目に反し思う通りに動くので、芯まで固まってぱきりと……という事は無いだろう。
太陽がかなり傾いている。空の具合からして、昼はおろか午後もかなり進んでいるようだ。神隠し? に合っていた時間分が経過したのだとすれば、最短で5時間前後は彷徨っていたと思われる。これが長期間の行方不明だったりすると不味いのだけど……遠くを見てみると今日の練習か走ったり遠泳したりという様子は見えるので、合宿期間中ではあるようだ。
本来なら今日は調整の日だから、もし誰も気付いていないのなら、こっそりと戻ってトレーナーに事情を説明するくらいだろうか。
「……あ、こっちに来た」
向こうからジャージ姿の数人が走ってくる。走り込みだ。
先の怪異は私が対処したので、同じ目には遭わない筈だが……。もし何かあったら、私も再びここに来なければ。
「…………?」
なぜか、すれ違いざまにこちらを凝視された。そんなに変だっただろうか。必要だったと言え、少し多めに領域を開いたのは失敗だったか?
……スマホが手元に無いので確認も出来ない。まずは合宿所に戻った方がいいか。
「……寒い……」
思わず漏れる。雪山にでも入っているのかと思う程に身体が凍り付いている感じだ。未明の頃と比べれば既に猛暑にすら届く気温をしている筈だというのに、日光以外でその熱気をうまく感じられない。
……いよいよ身体の方も不味いのではないだろうか。そんな事を考える。
幸いにもあのすれ違い以降人と面と向かう事は無かった。相部屋にも皆はおらず、気付かれないで部屋まで戻る。
スマホを起動すると、時間は昼を過ぎたころ。朝食どころか昼食の時間としても遅いくらいだ。単純に考えて半日近くは神隠しに遭っていた計算になる。連絡を確認していると、彼からのメッセージと連絡が複数来ていた。電話の履歴も数件入っており、明らかにこちらの様子を確認しようとしていたのが分かる。
……この後の事を想像すると溜息が出そうだ。
「……会わないわけには行かないしなあ……」
大目玉は避けられないだろう。事情を説明するにも私自身どう言ったものか困っているが――うわ、このタイミングで着信が来た。
正直出たくないが……仕方ない。出るか……。
「はい、トーレーナーさ」
『お前いま何処に居るッ!!!』
「~~……っ…!!」
み、みみみ、みみがきーんと…………! どうやってそんな声を……。
『聞こえるかスタートワン!』
「……聞こえています。というか、声が大き過ぎですよ……」
『お前どこ行ってたんだ! 連絡はどうした!』
「……朝の走り込みで時間がかかっただけです。今戻ってきました。そちらは今どこに?」
『……部屋だな?』
「? 相部屋には戻りましたが……。切られた……」
なんなんだほんとに……。そっちこそ返事はどうした。
仕方ないから一度部屋を出ようかと考えるが、それをするにも彼の居場所が分からない。発言からするとこっちに来るみたいだけど、だとしてもせめて一言入れてはくれないものか……朝の私は被害者だぞ、一応。
「……とりあえず、分かりやすいように部屋は出ておこうかな…」
直ぐ気付けるよう部屋を出るべく、手をかけた扉の方が自分から開き出す。何かと思えば、扉の向こうから見えてくる顔。
「あ、カツラギエースさん」
練習終わりだろうか、そう思ってもう一度声をかけようと――
「――ッ、居たぞぉおお!!」
「!?」
な、なんで!? なんでいきなり絶叫したの?!
突然張り上げられた声に目を白黒させていると、ものの十秒で人がどんどんと集まってくる。
よく見ると今回の相部屋の皆だった。
「やっと見つけた!探したんだぞ!」
「ここね! 良かった!」
「でかしたエース!」
「スワちゃん、ほんとにスワちゃんだよね!?」
クラスメイトに肩を掴まれながら、皆の慌てたような顔を見ている内に頭が回り出す。
……もしかしなくても、トレーナーと一緒に居た? 時間経過はそこまで大きくはなかったはずだけど……。
と、そこでさらに一人。
つい数十分まで話をしていた(厳密には別人なのだが)シンボリルドルフ。息を切らせた彼女が皆を掻き分け、クラスメイトに代わり私の両肩を掴む。
「スタートワン! 戻ってきたのか!」
「……念のため聞いておきますが、シンボリルドルフさん」
「何を……。何を聞きたいんだ?」
「何時頃戻りました?」
「……一時間程前だよ。君の事を聞いたのはこちらに戻る前だけどね」
「午後から戻るのでは」
「クラシック級、且つ菊花賞目標ということで特例的に早く戻れたんだ。普段は私から残っているんだけどね」
……本物。と見ていいだろう。ここで領域を開くのは危険行為だし、一度時間を置いておきたい。
「……おおよそは分かりました。取り敢えず、トレーナーさんの所へ行きたいので……一度、離れてもらえると助かるのですが。通れないですし」
「いやでも、身体は大丈夫なのか?」
「見た通り大丈夫ですよ。ぴんぴんしているでしょう?」
「何も大丈夫じゃないよ!?」
「え?」
「……スタートワンちゃん、今の状態、鏡で見てない?」
「……まあ、見る前に電話に出ましたし」
どちらかというと、確認する暇が無い。
「何にせよ、皆さんに動いてもらわない事にはその確認も出来ませんから。囲まれてるんですよ今」
「……それもそうか」
「とにかく、スタートワンのトレーナーの居る所までは一緒に行った方が良いか」
「……練習はどうしたんですか」
「合宿仲間が居ないのに練習はできねーだろ」
「行方不明で捜索願出そうか話も出てたよ」
「スワちゃんの事だから、一回待ってみようとは話してたんだけど……」
……事前の連絡不足……というには、突拍子もない事態だったからなあ……。
大事にならなかったのなら此方としては助かる一方だが、かといってこの状況を手放しでは喜べない。ついでに言えば、ここで手を見られるのも不味い事は確実だ。トレーナーに見られる分にはいいとしても……、
「スタートワン」
「はい?」
不意に呼び止められ、反射的に返してしまった。
私を見つめるミスターシービーの、見覚えのあるその目。車椅子を使って歩いた夜道が重なる。
「手。見せて」
「…………見せても、震えてはいませんよ」
「スタートワン」
身体に霜は張っていない。
皆の視線だけが、張り詰めて凍えている。
「……わかりました。確認を」
短い時間でいいのなら。そのつもりで両手をポケットから出しミスターシービーに向ける。手袋を剥いだ彼女が、一瞬だけびくりと身体を跳ねさせる。
「…………これ隠そうとしたの?また」
「今ここで、どうやって解決すると?」
「解決出来るかどうかじゃないよね。スタートワンの身体は氷みたいに冷たかったけど、氷で出来てなかったはずだよ」
揉みこむように、けれどゆっくり体温を伝える様に。握られた私の手は、かじかむばかりで今も感覚を伝えてはくれない。
「い、や…えっ……!?」
「これはダメでしょ隠しちゃ!」
「なんで今教えなかったんだ!?」
……そう言われても、どうにかなるものでもないし……。
「……見せて治るのならもう見せています。無理だから次の行動を優先したんです」
「そうじゃなくて!」
「……ああもう、問答してる暇ねーって! いいから戻るぞ!」
「…確かに、そっちが優先かも」
「そうだね、行こう」
カツラギエースに諭された皆がそこで私と言い合う姿勢を解く、最悪このまま膠着させて無理矢理移動するところだったから助かる。
道を進みながら、余った思考を回す。
ここでの噂話などは聞いていなかったから、あれが前々からあったものなのか、それとも私に引き寄せられたものなのかは分からない。しかし、今回狙われたのが私でなかったなら、今以上に不味い事になっていた可能性は否定出来ないだろう。
今後似たような事が無ければいいのだが……時間的な猶予は合宿中余るほどある。皆が行きそうなところは一通り回ってみた方が良いかもしれない。
不意に隣へ歩いてきたシンボリルドルフが口を開いた。
「……スタートワン」
「なんでしょう?」
「……この数時間、君は…何をしていたんだ?」
「なに、と言われますと。迷っていたといいますか」
「それだけではないだろう?」
「それだけ、と言われましても」
「……この数時間で、君は何を見た?」
…………随分穿った表現をしてきたな。何か確信めいたものでもあるのだろうか。
「この合宿所に何か悪い噂でもありましたか?」
「……そういうわけではないが……。君のトレーナーから、話は聞いたよ」
「…………。何を、でしょうか」
「この合宿の目的と、何が起こっていたかをだ」
「……………………はあ……」
思わずため息が出る。日帰りとはいえ失踪は失踪だ、少しでも情報を得るために事情を話すのは仕方ない。
……とはいえ、判断が早過ぎる。流石にこのタイミングで知られたくは無かったな……。
「見たと言えるほどの事はありませんでしたよ。こちらとしては、本当に迷っていたら昼を過ぎていた、という感じです」
「……嘘ではないんだな?」
「言ってどうするんですか。私から分かるのはこれだけです。こちらとしては、皆さんの状況がどうなっていたかという事の方が気になるくらいですよ」
これは事実として思っている事だ。私自身不可抗力だと言いたいが、噴水前でのあれに追加して行方不明というのは中々に不味い状況と言っていい。精神状態を疑われたり、あるいはレースへの出走が制限されたりする可能性もあるだろう。戻ってきたからと、そこではいおしまいには出来ないほどに時間が経過してしまっている。流石に無いだろうが、姉妹の家族にまで連絡が行っていたら、こちらとしても困る程だ。
……あとちょっとで警察沙汰になったかもと考えると、胃が痛くなる思いだ。ニュースで取り挙げられてたりすると本当に困った事になりかねない。ぎりぎり踏みとどまれた、でいいのだろうか。
皆に連れられて(……連行されて?)向かった先は、合宿所の医務室。部屋の扉を開けると、中には散々お世話になっている保険医の先生と、トレーナーが居た。
こちらに気付いた二人が視線を向け、トレーナーががたんと立ち上がる。表情は……うん。
かなり、怒ってる。
「お待たせしました。遅れてすみません」
「…………」
「……言い訳はしません。とにかく、今日の予定は」
「…………」
困ったな……これは下手に刺激出来ない。
距離を保って無言のままこちらを見つめる彼に、改めて頭を下げる。
「……すみませんでした、連絡もせず居なくなり。スマホをもっていかなかったのは私のミスです」
「…………」
「今日のトレーニングについては保留としていただければ。明日が休息日の筈なので、そちらに回していただけると助かります」
「…………」
「……あの、トレーナーさん?」
微動だにしない。瞬きさえほとんどない。空気の悪さはさっき以上だ。皆もどうしたものかと顔を見合わせている。
「……す、スワちゃん?」
「……わかってます」
クラスメイトに唆されつつ、彼の近くまで寄る。こちらを見下ろすトレーナーに、三度声をかけた。
「トレーナーさん?」
「…。スタートワン」
ようやく返答が……いや、これ返答かな……?
まあいい、反応はあった。
「なんでしょう」
「なんかいだ」
「…………」
…………いま、なんと?
「どういう意味で」
「とぼけなくていい。何回使った」
「…………保健の先生まで居るんですよ?」
「あとでいい。言え」
……本気のようだ。断るには、彼の目があまりに語っている。
何故そうなっていると。
「……具体数までは。確か十回程」
「時間は」
「合計で十秒にも満たない筈です。極力、瞬間の発動を意識しました」
「どれだけ潜った」
「……これまで以上は行っていません。そこまでいっていたらここまで戻って来れないでしょう?」
安堵を思わせる吐息が彼から漏れた。ここまでの説明は安堵が出るラインだったようだ。
「…………何に会った」
「……おそらくは神隠しのようなものに。原因に対処はしましたが、他の生徒が巻き込まれる可能性はあるでしょう。海岸線上の先にある森に入るのは今後控えた方が良いと考えられます」
そこで周囲が僅かにざわつく。ざわつくというか、半分混乱だ。
「スタートワンあんたマジでなんでそれ言わないんだよ!?」
「さっき言っておいてよそういうの!あそこ夜走ってるんだけど!?」
「わ、私あの森で……あの森で、トレーナー君と一緒にお散歩もしたのに……」
「わわ、マルゼンスキーさん!?」
保健の先生も流石に放置はできないと思ったのだろう、部屋を飛び出して行ってしまった。……これは大事になりそうだな……。
周囲の暴れ具合を傍観者気分で眺めていると、トレーナーが呟いた。
「あの森に入るのは今後禁止だ。俺からも事情は話しておく」
「絶好の練習場所なんですけどね……。一応同じことが起こる可能性は無いと思うんですが」
「一回目がある時点でだめに決まってんだろ。お前に…………」
「……?」
急に言葉が止まった。どうしたのかと思い顔を見ると……それより早く、彼に手を取られ、そのまま手袋を脱がされた。
「トレーナーさん?」
返答は無い。ただじっと、私の両手を包むように握る。
じっと私の手を見つめながら、温める様にして握る。
「……お前が、なんで……」
「……なんでも何も、あそこに入り浸っていたのは私ですし」
「…………。スタートワン。今後朝の走り込みは必ず俺も付く。絶対に一人で行動するな」
「それはあなたへの負担でしょう。するわけには」
「お前を一人でいかせたのは俺にも責任がある。合宿期間だろうが、自主練習の確認はトレーナーの義務だ」
「……今日のこれが、あなたの負うべき負担だったと?」
「当たり前だ。お前が」
そこで、言葉が止まる。
凍った鼻が微かに感じ取った血の臭い。間近に居たことで分かる、唇の端の僅かな腫れ。
「
――――いつか言われたあの言葉。あの子から言われた言葉。
『どう考えても貴女一筋よ貴女のトレーナー。契約満了したらそのまま引退かチームのサブトレーナーにでもするんじゃないかしら』
先の表情が。険しく細められたその目が、今は憔悴しきった顔として認識される。
彼とのこれからが、彼の未来を狭めてしまうのではないか。青く染まったその指で、今も私の手を握る。その事実が、予感を確信へと変えていく。
……私の存在が、彼の中で大きくなり過ぎている。その大きさが、彼を苦しめ始めているのではないか。
彼から伝わる温かさが、身体の凍えをより際立たせる。
最近筆がなかなか進まないので次回ちょっと遅れるかもです