なんでこんな事に。
観客席の歓声を何処か遠くに聞きながら、ナイスネイチャは頭の中でその言葉を繰り返していた。
打倒トウカイテイオーを目指して始まったトレーナーとの二人三脚。菊花賞を当面の目標に定めたまではいい。
そこから何時の間にか模擬レースの実施を決め、あれよあれよという間に日程を組み、しかもそのレースには打倒する筈のトウカイテイオーまで参加する。何がなんだか分からないという意識のまま、何故かその当日を迎えていた。
『始まりました本日の模擬レース! 出走者はなんと三名、内二人はこれからクラシックレースに挑む新進気鋭のホープ! 若き挑戦者達が挑むのはなんと――』
実況の声がそんな思考に割り込む。新進気鋭のホープ? 挑戦者? 自分が? 何かの冗談ではないのか。いやそもそもこのレース自体がおかしい。何をしていれば自分が模擬レースに、しかも圧倒的主役も主役みたいな二人と。
「距離は二千二百。菊花賞を目標にした時、前哨戦になる京都新聞杯の距離だ。模擬ではあるが、ここで距離感も掴んでおこう。君ならきっと……ネイチャ? 聞いてるか?」
「えっ、あはい、大丈夫です」
「そうか。…なら今日の出走者についての説明だ。しっかり聞いてくれ」
「う、うん…」
トレーナーは戸惑うようなナイスネイチャの返答に少し不思議そうに首を傾げるが、気にしないでいいと考えたのか続ける。
ふと視線が逸らされる。追った先に居るのは、長く伸びる流星のウマ娘。彼女は自身のトレーナーに頭を撫でられながら、自信満々に胸を張っている。
「まずはトウカイテイオー。この距離は彼女にとっても得意距離だが、ホープフルステークス明けで無理は出来ないだろう。まさか参加してくるとは思わなかったが…、もし今回のレースで負けたとしても、この経験は間違いなく活きる」
「……ん、分かってますって」
少し申し訳なさそうな所に、仕方ないと笑みを返す。同じ相手を選ぶとはと思っていなかった以上早い者勝ちだったとしても無碍には出来ない。
観客席に向かって飛び跳ねながらブンブンと手を振るトウカイテイオーの可愛らしさに思わず苦笑。入れ込んでいるようにも見えるが、彼女にとってこのレースも負けるつもりが初めから無いらしい事の表れでもあるようだ。
「次にスタートワン。トレーナーはああ言っていたが、彼女もこの距離は間違いなく走れるだろう。幾ら本格化が終わっているとしても、油断は出来ない」
「ま、ですよねぇ。ダービー二着が走れないわけないよね…」
「ああ。その上彼女にはアレがある」
「……領域」
頷きの返答。再び変わる視線の先に居るスタートワンは、トレーナーを相手に何かを話していた。先日の相談では終始不機嫌そうに寄せられていた眉が、少し緩んでいる。時折二人の顔に浮かぶ笑みに気負った様子は見られない。穏やかでさえあった。
あの時は見て分かる程に不機嫌だったトレーナーよりも、一見すると対話が出来る彼女の方がナイスネイチャからすれば余程恐怖の対象だった。
「なんていうか、強者…って感じがしますね」
「それは、当然だろうな。あのシンボリルドルフのクラシックを皆勤した、しかも彼女本人から直々に『ライバル』と断言されているウマ娘だ」
「弱いわけが無い…か。ホント、なんでアタシとレースする気になったんでしょうね……」
トレセン学園生徒会現会長であり最上位の実力者。『当代最強』『絶対無敗』『永遠の皇帝』……海を越えた先でさえ恐れられる異名の数々と、トゥインクル・シリーズに刻まれた幾つもの戦績。同じ成績を残す者が現れるのは今後数十年ないだろうと言われる程の生ける伝説。
そんなシンボリルドルフが誰よりも先に名を挙げ、そして『ライバル』と呼ぶウマ娘。
同じ三冠ウマ娘のミスターシービー。
彼女に並ぶ記録を打ち立てたカツラギエース。
その強さに彼女さえ敬意を見せるマルゼンスキー。
ハッピーミーク、シリウスシンボリ、リトルココン、ビターグラッセ、エトセトラエトセトラ……。彼女の前後に名を揚げたウマ娘達は、その成績を一人上げるだけでも長くなる程の輝かしいものだ。誰もが聞けば顔を思い浮かべられるし、勝利したレースを諳んじることが出来る。誰もがシンボリルドルフと繰り広げた激戦を知っている。
一人として圧倒的なまでの栄光の影に入らない。強靭で、豪胆。並外れた実力と精神を持つ、正に一騎当千の強者達。
彼女達もまた、この学園に在籍する生ける伝説。けれど唯一、その中で一人だけ皇帝が特別視するウマ娘。これからその人物と、ナイスネイチャは戦わなければならない。
勝てる気がしないというよりも。このレースを受け入れてくれた理由が分からない。トウカイテイオーがレースを望み、それに応えたのならまだ分かる。生徒会長のお気に入り、本年度クラシック戦線の大本命。スタートワンとしても目を付けない理由が無い。
しかし、最初にレースの申請をしたのは此方であり、便乗する形とはいえトウカイテイオー陣営は後発だった。最終的な許可がトレーナーだったとしても、そのトレーナーの目に自分が適ったという事実。ナイスネイチャにはそれが今も受け入れられなかった。
「自分よりも強い相手と比較するのは仕方ない事でしょう。ですがそれを自分を卑下する理由にしてはいけませんよ」
「ッ! ……す、スタートワン先輩」
「ふふ。失礼しました。少し話す声が聞こえたもので」
相手の居ない疑問に返す声。何時の間にか、ナイスネイチャの直ぐ近くに立っているスタートワン。彼女が何処を見ているのか少しの間分からなかったが、それが自分を見つめている事に気付いた。つい先日も見た筈の灰色の瞳は変わらず焦点が分かりにくく、けれどまるで視界の全てを認識しているかのように正面を見据えていた。
鋭い眼差し故の射貫くような視線から逃れようと目を巡らせ、後方に立つ彼女のトレーナーへ行き、観客席へ進み。戻って前の赤いジャージを見て、そこにある――。
「……っ、それ…。」
「? ……ああ、そうですね。こうして見せるのはG1以外では珍しいかも知れません。こんなものでもレースでは意外と役に立つんですよ。まあ、ちょっとしたビックリ箱みたいなものです」
そう言い首元に手を当てる。その手にさえ、目が吸い込まれる。息を飲んだのは自分だったのか、それとも共に居るトレーナーだったのか。
はっきり見える部分は手と首のみ。その大半に本来あった筈の皮膚が見えない。赤黒く、切り刻まれて、突っ張った皮が歪な膨らみを生む部分もある。
痛そうではない。間違いなく痛かった事が分かる。
「火事、でしたよね」
「…知っているんですね」
「ちょっとだけ、レース映像とか、トレーナーさんから聞きました」
「あら、それは何とも。よく調べ上げましたね」
口の端、張り付けたような笑みが浮かぶ。余りに無味乾燥した声音。彼女にとってそれは数え切れないほど繰り返された反応なのだろう。不機嫌な眉と笑みというちぐはぐな組み合わせの所為か、それは神妙な顔にも、嫌そうな顔にも見える。
耳と尾が一度揺れる。向きは前、つまり此方。
「それよりも、これからレースです。そんなに身体を丸めては筋肉に余計な負荷がかかってしまいます」
「え、あ…と」
「背は伸ばす、肩は広げて、首はもう少し後ろに。リラックスには身体を丸めるよりも伸ばす方が良いんですよ」
するりと回り込んだスタートワンが背中から身体を押す。緊張しすぎたか冷や汗か、背が冷える。見る見るうちに真っ直ぐ芝に立つナイスネイチャが出来上がった。
しっかり立ったところでナイスネイチャは改めて気付いた。同じ高さにあった筈のスタートワンの目が、今は僅かに下にある。
「うん、よし。重賞ウマ娘に相応しい自信のある立ち姿です」
「あ、ありがとうございます…?」
「少しは緊張も解れましたか?」
「…はい、ちょっとだけ」
「ふふ。今日は胸を借りるつもりで、思い切り来てくださいね」
そう言って手を向けられる。握手を求められたと言うことだ。
感謝と期待に応えようと力強く声を出す。
「こっちこそ! よろしくお願いしま――」
スタートワンの目に影が差したように見えた瞬間。握った手に伝わる痛みと冷気。
「つめたッ!?」
「どうしたネイチャ?!」
思わず張り上げた声にトレーナーが驚き、スタートワンの薄い笑みが少し深くなる。
慌てて手を確認。触れていたのは一瞬。数秒とない筈。しかし手は握ったその形に合わせて白い跡が残っており、その部分を中心として氷に指を突っ込んだのではないかと言う程に悴んでいた。
「……、っ?」
「おっと…。これはすみません」
震える指先を凝視していると、スタートワンが驚いたように片眉を上げている。眉間の皺が取れたその顔は、先程までの大人びた表情が嘘のように子供らしい。
「思ったより張り切ってしまっているみたいです。我ながら、最新現役世代とのレースに興奮しているようで…。少し恥ずかしいですね」
「…新人相手に遊ぶなバカモン」
「いたっ」
口許に手を当て困ったように笑っていたスタートワンの頭にすとんと手刀が落とされる。後ろに立つ彼女のトレーナーによるものだ。
片手で軽く頭を抑える彼女に、仏頂面のトレーナーがふんと鼻を鳴らす。
「もう、何をするんですか」
「何時まで話し込んでんだ。しかも脅してんじゃねえよ」
「誰が脅しですか。言ったでしょう、レース前の緊張を解していただけです」
「嘘言え。冷えてんじゃねえよ」
「分かってます。ちゃんと暖めま――っと?」
「ちょっとー! 何二人でいちゃいちゃしながらネイチャとおしゃべりしてるのさー!」
後ろからの衝撃にスタートワンが少しつんのめる。背中からひょっこりと顔を出したトウカイテイオーがゆるく耳を絞って頬を膨らませていた。
「トウカイテイオーさんもナイスネイチャさんに挨拶ですか?」
「そうだよ! ネイチャ、今日はよろしくね!」
「う、うん。よろしく…?」
「…で、なんで二人揃ってボクの事ほったらかしなのさ? 今日のレースはボクも出るのに!」
どうやら自分が会話の輪に居ない事が不満だったらしい。レースの申請をした際も似たような反応をしていたのをナイスネイチャは思い出す。スタートワンも同じ事を思い出したようで、苦笑いしつつも後ろから抱き着いて顔を覗かせるトウカイテイオーを撫でる。
「ほったらかしたわけではありませんよ。順を考えた時、まずレースの主催に声を掛けるのは当然でしょう?」
「そうなの? どうみてもふつーにお喋りしてたよね?」
「お喋りも挨拶の一環ですよ」
「えー…?」
最初は手をどけようとしていたものの、嬉しそうな様子にトウカイテイオーも撫でられるままになる。
そのまま少しして、スタートワンはふむと一つ頷いた。
「丁度いいですし、私と少し話しましょうか。そろそろゲートインの時間にもなりますし」
「えちょ、あ、ネイチャ、また後でね手あっつ! 何これカイロでも持ってるの!?」
手を引かれながら騒がしく去っていく二人。その後ろを各々のトレーナーが威圧したりされたりしながら歩いていく。
その姿をナイスネイチャとトレーナーは眺めていた。苦笑しながら軽く手を振っていたトレーナーが、直ぐに鋭い目で出走者を眺める。
「スタートワンとトウカイテイオー…。やはり強いな。既に心構えが完成している上に、身体の動きも鈍くない。どちらも今日に向けてしっかりと調整しきっている」
「………」
「気を付けていこうネイチャ……ネイチャ?」
聞こえていないわけでない。しかしに返答をしないまま、ナイスネイチャはじっと己の手を見つめていた。
「トレーナーさん」
「な、なんだ?」
「テイオー、今あついって言ってたよね?」
「あつい? ……そういえば、そう言っていたような」
先の握手。スタートワンの手は氷に直で触ったかのような冷たさをしていた。その衝撃は記憶に新しい。
しかし今、トウカイテイオーの口から発せられた言葉は「あつい」だった。「つめたい」ではなく。ほんの数十秒間の間に持つ感覚としては、まったく別の反応。後の発言からしても、言い間違いなどでは決してない。しかも寸前まで彼女はトウカイテイオーの頭に触れていた。にも拘わらず反応したのは手を握った直後。
余りにも奇妙で、不可解。理解が及ばないという不気味さ。背筋を這うような寒気に、ぶるりと身体が震える。
これから自分が戦う相手の話を、少し思い出す。
スタートワン。
ミスターシービーの様に鮮烈で。
カツラギエースの様に不屈で。
マルゼンスキーの様に圧倒的な。
シンボリルドルフ以上に「次」を拒みたくなるウマ娘。
『さあこれよりゲートイン。準備を終えたスタートワンから順にゲートへ進みます』
『今回の距離は三冠路線のどの距離にも相当しませんが、現時点でどれだけの可能性を示せるかの挑戦とも言えます』
『有力候補はやはりスタートワン、続けてホープフルステークス覇者トウカイテイオー。ナイスネイチャは二人と比べると成績面でやや遅れを取っている形です』
『こればかりは名前がどれだけ売れているかもありますので仕方ないでしょう。本番での活躍に期待です』
実況の声に合わせ三人がゲートの中で並ぶ。最内のトウカイテイオー、大外のナイスネイチャ。スタートワンはその間に立っている。
走り出すまでの僅かな間。深呼吸で息を整えるナイスネイチャは、その真ん中から声が聞こえたのに直ぐ気付いた。
「本日のレース。お二人には実入りの多いものとなって欲しいと思います」
「ふふん。それならボクがしっかり勝ってみせるからね!」
「あ、あはは…。お手柔らかに…」
それぞれの返答。それを聞いたスタートワンがくすくすと笑う。
短い会話を終え、気を引き締め直そうとしたところで、再び声が、
「ええ、本当に。せめて――」
声が、何故耳元から聞こえるのだろう。
「何も出来ず這い蹲らないよう、気を付けてくださいね?」
『EXECUTE→Don't Stop RUN』
「え?」
目の前に立つのは、燃え盛る炎を纏った髑髏。熱が顔を煽り、肌が焼けるような痛みを感じる。
その手に握られたものがゆっくりと持ち上がり、目の前で銃口が鈍い光で照らされる。
実はこの話、もっと早くに解禁する予定でした。
なんならしまい込み過ぎて「もっと後でもいいかな…」とも思っていました。
出し場所を失ったので今あげてます